34-21656

商品番号 34-21656

通販レコード→日「東芝音楽工業株式会社」製赤盤[オリジナル]

音楽を物語る ― 超一流芸術家の貴重な遺産、熱狂的な名演、迫力満点の名録音をランキングする時の屈指の決定盤。1967年、鳴り物入りで創設されたパリ管弦楽団でしたが、音楽監督シャルル・ミュンシュが翌1968年に死去してしまったため、両者の録音はわずかしか残っていない。しかしそのいずれもが名演であり、このラヴェル作品集でも、精緻な内にも力強く燃え上がるような高揚感を表出するミュンシュの魅力が満載。ミュンシュは音楽が持っているのストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。「ベルリオーズの幻想交響曲」と「ブラームスの第1交響曲」でのミュンシュがドライヴするパリ管の燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。ミュンシュによる解釈はダイナミックで鮮やか、そして他に類を見ないほどの柔軟性があり、これを聴けばフランス音楽のエスプリに浸る心地よさを存分に味わえる。初発は1969年発売。有名な「幻想交響曲」と並ぶミュンシュ最晩年の録音の1つ。ラヴェルの「ピアノ協奏曲」とオネゲルの「交響曲第2番」を組んだ1枚とともに、ミュンシュ最後の録音となったものです。ミュンシュが指揮していたパリ管はフランスの管弦楽史上でも最高レベルの水準を持っていました。ここに演奏されるラヴェルの作品がそれを如実に物語っています。ミュンシュによって引き出されたオーケストラの実力を堪能することができます。特に《ボレロ》は名演の誉れ高く、遅いテンポではじめ ― 作曲者・ラヴェルのイン・テンポの指示を守らずに、ソロが全部終わってトゥッティになる後半⅔過ぎあたりから、徐々にアチェレランドして、とことんの興奮に持って行きますが、ミュンシュがやりたいようにやっている自然さが別の魅力を現出させた、忘れ難い名演となっている。第一次世界大戦で苦悩した家族や、第2次世界大戦で従軍した楽団員も存命だったかもしれない。戦後にミュンシュは《ボレロ》を3回録音していて、最後のパリ管との録音がベストですが、ボストン交響楽団との録音はアメリカのオーケストラらしいパワフルな《ボレロ》を聴くことができる。そして、この3種類の録音に共通するのは管楽器の柔らかい音色です。最初の静かな場面でのフルートやクラリネットの柔らかい音色は実に魅力的ですし、盛り上がっていく最後の場面でも決して機械的に咆哮することはありません。ただ、この〝柔らかさ〟がという点では、最後のパリ管との録音が一つ頭が抜けていることは確かです。このような音色はフランスのオーケストラでないとなかなか出せるものではありません。語らずとも物語が伝わったのでしょう。指揮者の興奮を汲みとった、ソロのうまさも抜群です。音質は極めて鮮明、且つ華麗な音色。鮮度感も抜群で少しも古さを感じません。→コンディション、詳細を確認する
ミュンシュは、多少コスモポリタン的な傾きはあるが、全く現代的で、緊迫度が高く簡潔緻密だ。特に、ほど良く淡白な叙情性と人生の秋をしのばせる曲趣の調和が目立つ。尻上がりに油が乗ってくる。ワルターとは逆の手法で成功したものといえよう。盤鬼・西条卓夫
シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891〜1968)のキャリアはヴァイオリニストからスタートしていますが、若かりし頃、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任、その時の楽長がヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。毎日その巨匠の目の前に座って多くのことを習得したことから、知らずと例の拍子を暈す内容重視の指揮法はフルトヴェングラーの指揮姿から身につけたものと推察出来ます。ミュンシュは音楽が持っているのストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。ベルリオーズの「幻想交響曲」とブラームスの「第1交響曲」でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセバトワールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることから、歴としたドイツ人であるが故にブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。1929年にパリで指揮者としてデビュー、1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。そのフランス音楽の守護神のようなミュンシュが、アメリカのボストン交響楽団の音楽監督に迎えられた。1946年のアメリカ・デビューから3年後のことだ。1962年まで、その地位にあり、戦後のボストン交響楽団の黄金時代を築いたのは周知のとおりだ。ピエール・モントゥーは1919~1924年にボストン響の常任指揮者を務めたが、後任となったセルゲイ・クーセヴィツキーは在任中、モントゥーを客演に招こうとしなかった。モントゥーの伝記によれば、オーケストラ側から、退任後も翌シーズンから客演に呼びたいと言われていたが、全く実行されなかったとぼやいている。その約束が果たされたのは27年後の1951年、クーセヴィツキーの後を継いだミュンシュ時代になってからであった。ミュンシュはモントゥーと懇意で、ミュンシュが1962年に常任を離れるまで、モントゥーは頻繁に同響の指揮台に立った。戦後アメリカの旗印は〈自由の国〉だったが、ミュンシュが生涯にわたって、願って止まなかったのも、この〈自由〉。ミュンシュが指揮するラヴェルの「ボレロ」は、作曲者のイン・テンポの指示を守らずに、どんどんアチェレランドして行くことで有名だ。が、ミュンシュがやりたいようにやっている自然さが別の魅力を生んで、忘れ難い名演となっている。ミュンシュが自身の音楽を大きく花開かせたのは、この頃からだ。ミュンシュは戦前には、必ずしも強烈な個性や豊かな音楽を持った指揮者ではなかったと思うが、ミュンシュとボストン響との相性の良さは、戦後アメリカで重要なポストに就いた指揮者のなかでも、最良の成果を双方にもたらした。ミュンシュの代表盤の大半が、このオーケストラとのものとなっている。ミュンシュは常任指揮者に就くとともに、このオーケストラと専属契約関係にあったアメリカRCA社に録音を開始、主要作品を網羅したベルリオーズに始まり、ラヴェル、ドビュッシーなどのフランス音楽のほか、ドイツ音楽など多彩な内容のアルバムを数多く制作。それらの多くは、優れた音響を持つボストン・シンフォニー・ホ-ルで行われ、ほぼ全てを〝RCAリビング・ステレオ〟の礎を築いたリチャード・モーア、ルイス・レイトンのコンビが手がけた。
遥か昔から、アルザス地方はドイツとフランスが領有権を奪い合ってきました。ライン川中流の西岸で、その北のロレーヌ地方とともに、葡萄、小麦などの豊かな農作物、鉄・石炭の産地であり、フランスとドイツの1000年にわたる争奪戦が繰り広げられた。人種的にはドイツ系住民が多いが、文化的にはフランス文化の影響の強い地域といわれる。アルザス=ロレーヌはフランス革命・ナポレオン時代を通してフランス領として続き、ウィーン会議でもかろうじてフランスは領有を維持したが、普仏戦争に敗れ、1871年、両地方の大部分をドイツ帝国に割譲した。19世紀後半のフランスの作家アルフォンス=ドーデの「最後の授業」は、この普仏戦争でアルザス地方がドイツ領に編入されたときのことを題材にしている。明日からはドイツ語で授業をしなければならないという最後の日、フランス語の先生は子供たちにフランス語は世界で一番美し言葉だと教え、忘れないようにと説く。そして最後に黒板に大きく「フランス万歳!」と書く、という話で、かつては日本の教科書にもよく見られたが、実は、アルザス地方で話されていた言葉はフランス語ではなく、もともとドイツ語の方言であるアルザス語です。〝シャルル・ミュンシュ〟が生まれた1891年にはドイツ領で、〈ドイツ人〉として生まれ、ドイツ人として音楽教育を受けている。第二次世界大戦中アルザスの若者達はドイツ軍に強制編入されました。ドイツとしてはアルザス人はフランス語を話すので、激戦区だった東部戦線の最先端に送られ、戦後何年もシベリアに抑留されました。まるで捨て駒のような扱いでしたが、17、18歳の若者が参加したのは、ドイツ軍に加わらなかった場合は、非国民として家族も収容所へ送られたからです。第二次世界大戦終結し、アルザスはドイツから解放され再びフランスに戻ります。しかし、フランスの他の地域に比べて倍以上の犠牲を出したにも関わらず、占領されていた歴史の結果として約4万5千人のアルザス人が対独協力容疑で収容されました。建築物や食生活などに見るアルザスの独特な生活文化は、この地方の文化の二重性がもたらした貴重な財産であると同時に、歴史的困難をもたらした要因でもあったわけです。ミュンシュが熱心に取り上げるフランスの作曲家にオネゲルがいるが、戦争や人種対立などを憂い、危機意識をもって苦悩するオネゲルへの深い共感が底流にあるのもそのためだ。ミュンシュはラヴェルの「ボレロ」を4回スタジオ録音している。第1回目は1948年のパリ音楽院管弦楽団との録音。この演奏は、イン・テンポを守っている。むしろしばしば言い聞かせるように確認しながらの音楽の運びが興味深い。そしてどこかしら退屈そうだ。この演奏を聴いていると、その後のボストン交響楽団との演奏が、どれほど自由で開放的かに思いが至る。オネゲルの「交響曲第5番」は、1951年3月9日に、ミュンシュ指揮、ボストン響により初演され、そのまま録音が行われた。ミュンシュの繊細でいながら力強い前向きの演奏が、オネゲルの思いの深さと呼応した名演だ。『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでクライスラーが中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事」(福田達夫訳)の中で紹介していますが、今ここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする〝命懸けの豪胆さ〟が私たちの心をひしひしと打つのです。
ミュンシュが、その最晩年に持てるエネルギーの全てを注いだのがパリ管弦楽団(Orchestre de Paris)の創設と育成でした。1967年6月、フランス文化相アンドレ・マルローと文化省で音楽部門を担っていたマルセル・ランドスキのイニシアチブにより、139年の歴史を誇りながらも存亡の危機を迎えていた名門パリ音楽院管弦楽団(Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)の発展的解消が行われ、新たに国家の威信をかけて創設されたのがパリ管弦楽団で、その初代音楽監督に任命されたのが〝フランスの名指揮者〟としてのシャルル・ミュンシュでした。第2次世界大戦前にパリ音楽院管弦楽団の常任指揮者を務めていたミュンシュ以上にこの新たなオーケストラを率いるのにふさわしい指揮者はおらず、同年10月2日からの綿密なリハーサルを重ねてむかえた11月14日の第1回演奏会は、国内外に新しいフランスのオーケストラの誕生をアピールする大成功を収めたのでした。翌1968年11月、パリ管弦楽団の北米ツアーに同行中にリッチモンドで心臓発作のため急逝するまで、ミュンシュは30回ほどの共演を重ねながら、EMIにLP4枚分の録音を残しました。その中の1枚がこの〝ベルリオーズの幻想交響曲〟で、11月14日の第1回演奏会でも取り上げる作品となり、EMIはそれに先だって4日間のセッションを組み、巨匠の叱咤激励のもと覇気に燃える新生オーケストラの息吹を捉えたのです。仲間と音楽を作りたい。そう思ったのかどうか、若い時にオーケストラは組織し、自己流で指揮法を編み出した男の情熱の行き着いた終結点。パリの巨大キャバレーのようなサル・ワグラム・ホール。だだっ広いスペースを音楽で充満させられたのはミュンシュの熱意か。指揮者ミュンシュは、この交響曲でありながら標題音楽でもある〝幻想〟のもつストーリー性を小説家の様な視点で語りかけてくる。ロマンティックな曲想は、ベルリオーズの実体験にもとづいたストーリーあってのものだということを熱を持って表現する。ミュンシュがドライヴするパリ管の燃焼ぶりは、30年以上経った今でも色褪せることがない。
バスク系フランスの作曲家、モーリス・ラヴェルの《ボレロ》は大人気の名曲だから優れた演奏も多い。オーケストラの魔術師が創りだした音楽は、限られたフレーズが繰り返され、次々と楽器の数を増やしながら洪水のような大音響で終わる。名盤は特徴を異とする。それぞれの楽器の妙技を楽しめるもの、リアルに録音されているもの、精密な演奏からダイナミックな演奏まで聴き比べるのが面白い。スコアを読むと楽曲は〝ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ〟の7つの音で出来ていて、わずか数小節の組み合わせが15分から20分繰り返される。それだけの《ボレロ》が、これまでに魅惑的なのはなぜでしょう。〈一人の踊り子が、舞台で足慣らし。やがて、振りが大きくなってくると、まわりにいた客たちも、次第に踊りに目を向け、最後には一緒に踊り出す。〉ラヴェルの《ボレロ》はそんなストーリーを元に作曲された、バレエのための音楽です。初演の時は客席が雑然としている中、小太鼓の小さな音で始まった。今ではコンサート・ピースとして始まりが緊張感のなか、客席も集中している。初演の時のように雑踏の中で誰かがはじめた踊りが、周囲を巻き込むというのは映画の感動的なシーンを感じさせる。地下鉄に乗る人、降りてきた人が行き交う中で人混みに飲み込まれたカップルを、人々が抱え上げて手渡しして、二人が愛を打ち明ける。その場のみんなが祝福する。そういうシーンの映画がありましたが、ラヴェルの《ボレロ》を聴くと、それをイメージしてしまいます。シャルル・ミュンシュは、この《ボレロ》をとても遅いテンポで開始します。中程から次第に速めて高揚感を作り上げていく。理想的な演奏です。楽器の出入りは時に乱暴な響きを伴いますが、それが生き生きとした音楽を感じさせる。こういう録音をレコードとして残したことは、スタジオ録音では慎重に音楽を構築していたミュンシュにしては面白いところです。有名な「幻想交響曲」と並ぶミュンシュ最晩年の録音の1枚。《ボレロ》のほかは、《スペイン狂詩曲》、《ダフニスとクロエ第2組曲》。管楽器の豊かな色彩は、パリ管弦楽団の魅力が良く感じられます。録音は1968年。初発は1969年発売。追悼盤として。このレコーディングの一ヶ月後に、ミュンシュは急逝します。アメリカでの演奏旅行中のことでした。演奏会でのミュンシュは熱い音楽を聴かせて、観衆を熱狂させていました。パリ管は、ミュンシュのために組織されたと言って良いオーケストラだっただけに、他のオーケストラとのレコーディングとは違う音楽が次々と残されていれば、指揮者ミュンシュの音楽の受け取られ方は現在は変わっていたかもしれません。上品な滑らかさのあるラヴェルではありません。録音も特別に優秀と褒められる音ではない。録音では、ボストン交響楽団とのRCAリビングステレオ盤が鮮烈だ。それでも活き活きと躍動している音楽、生命感を魅せつけてくれる《ボレロ》の演奏は熱狂的、ミュンシュにとっても、この曲にとっても代表する演奏でしょう。
  • Record Karte
  • ボレロ、ダフニスとクロエ組曲No.2、亡き王女のためのパヴァーヌ、スペイン狂詩曲。1968年9月録音。
  • JP 東芝AA8455 ミンシュ・パリ管 ラヴェル 管弦楽曲集(輸入…
  • JP 東芝AA8455 ミンシュ・パリ管 ラヴェル 管弦楽曲集(輸入…
ボレロ(ラヴェル管弦楽名曲集)
ミュンシュ(シャルル)
ワーナーミュージック・ジャパン
2004-06-23