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万人向きのピアノ ― 明るく口当たりの良いタッチで、流麗に、わかりやすく料理している。 ―  このところエンジニアを絡めて名盤となった秘密を探っていますが、内田光子が「真に偉大なプロデューサー」と語ったエリック・スミス(1931〜2004)は、デッカとフィリップスで35年間にわたって活躍し、数々の名盤を世に送り出しました。名指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットを父に持つ彼は、またモーツァルト研究など音楽学者としての活動でも著名な存在でした。1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったと聞いているピアニスト、ウラディーミル・アシュケナージ。アシュケナージは圧倒的に広いレパートリーを持ち、細部まで丁寧に演奏していること、そしてその結果として、演奏の水準にほとんどムラがないことは特筆すべきことです。たとえば ― 幼い頃からピアノの名手として勇名を馳せていたモーツァルトは、その生涯に27曲以上のピアノ協奏曲を作曲しました。その中から ― 憂愁を帯びた悲劇性が際立つ《第20番ニ短調 K.466》のような陰影の濃い作品であっても、アシュケナージは持ち前の明るく口当たりの良いタッチで、流麗に、わかりやすく料理している。そして《第6番変ロ長調 K.238》も良い意味で万人向きのピアノである。実に細部まで美しく彫琢された、現代的なすこぶる明快な演奏です。磨きぬかれた輝かしい音色、ニュアンスに富んだ表現力、優れた音楽性、筋のよい安定したテクニックと、あらゆる面において現代のピアニストの水準を上を行く演奏を聴かせています。DECCAレーベルの入れ込みようは並々ならず。英デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。ハンス・シュミット=イッセルシュテットは、1900年ベルリン生まれで、1973年没。ドイツ・オーストリー圏で活躍しました。モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどの名曲を滋味豊かに演奏した名指揮者でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、北ドイツ放送交響楽団、ロンドン交響楽団などを振って録音した名盤が少なからず。シュミット=イッセルシュテットは録音活動はSP時代から活発で、独テレフンケンからポピュラー名曲と協奏曲を大量にリリースしている。戦後も録音活動は続けているが、あまり恵まれたものではなかったところ、名門英デッカ社から1958年、ヴィルヘルム・バックハウス独奏によるベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集をウィーン・フィルでやってみないかと誘いを受けたことと、1965年から同じベートーヴェンの交響曲全集を録音したことで、一躍、レコード愛好家に名前を知られることとなった。ウィーン・フィルがステレオ録音で完成させたベートーヴェンの交響曲全集は、他のレーベルを先駆けて行った偉業だった。このことはビジネス戦略にベートーヴェンの交響曲録音が重要だったことが判る。この抜擢については、子息エーリヒ・シュミット(英国読みはエリック・スミス)が英デッカのプロデューサーであった関係と噂され、また録音現場を実見した人は、オーケストラのほうは、ただ黙々と指揮と録音技師の指示に従う、といった態度に見えましたと語っていたという。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターやアルトゥーロ・トスカニーニほどのビッグネームでもなく、ヘルベルト・フォン・カラヤンほどハンサムな人気指揮者でもなかったので ― レコード会社と演奏家は専属契約だったので ― ウィーン・フィル以外にはセールス・ポイントが無いと判断したからでしょう。当時の日本練達のプロの評論家ですらシュミット=イッセルシュテットの特長を皆困っている当時この全集を買った初心者は,けっこう多かった。後に我が国でとりわけウィーン・フィルの人気が高まった理由の一つがこの全集にあったそれがシュミット=イッセルシュテットで聴くと余り圧迫感が無い。自然に聴けること、楽想の重なり合いのスリルが面白く、対話が美しい。リズムはあくまでスクェアですが柔軟かつ優雅。フォルテの全奏は豪快に鳴るが、咆哮しない。殊更な威圧や脅かしが全然無いのです。内声部が豊かに鳴り、ハーモニーが格別に美しい。基準が出来て、それまでウィーン・フィルを振ったフルトヴェングラーやワルターの個性がわかるようにある人は「男性的迫力に乏しい」と不満を述べ、別の人は「真に迫力がある」とほめている。ある人は「アカデミックでノーブルな演奏」と良い、別の人は「手慣れた職人芸だ」と褒めている。「何よりも先ず自分の歌を聞いてもらおう」というカリスマ的な動機が、シュミット=イッセルシュテットには全く欠けています。それより曲自体をあくまで優先させるのです。シュミット=イッセルシュテットの美学の根本には合奏・協奏の優位が常にあり、合わせる楽しみ、調和することの美しさを全てに優先して大切にしているように思います。どんな演奏効果よりも、いかに美しいシンフォニーとして実現するかに、常に努力をはらっているように思います。シュミット=イッセルシュテットがモーツァルティアンであることは、彼の特長を支えている大層重要なポイントです。1968年1月録音。いずれもアシュケナージ若き日の録音。名指揮者シュミット=イッセルシュテットとのモーツァルトは名盤として知られていました。当時のロンドン交響楽団は、技術はもちろん、表現力にもかなり高度なものがあり、また、英デッカの優秀な録音技術もあって、この作品本来の味わいを満喫することができます。DECCA録音チーム(エリック・スミス&ケネス・ウィルキンソン)の録音の良さが、この演奏を的確に捉えているという印象がありますし、この頃のロンドン交響楽団のレベルの高さも伺い知れる。ピアノとオーケストラが対等に凌ぎ合いながらの演奏は、音楽の素晴らしさを教えてくれます。
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ウラディーミル・アシュケナージは、エリザベート女王コンクールで優勝した後、1958年にアメリカへの演奏旅行を行い、西欧各国でも出演している。1965年春に初来日して演奏旅行を行なった。ステージに立った彼は、168センチ59キロという、日本人でも小柄の方で、ピアノの傍らに立っておじぎをする様子は、何か初々しく、詩人のような繊細な雰囲気が立ち込めていた。しかし、いったんピアノを弾き始めると、そのよく響くタッチと素晴らしい技巧で、小さなアシュケナージの姿が俄に大きくなってしまうような印象を与えられた。彼の演奏は、ヴィルトゥオーソ的なテクニックと、その風貌からも伺われる詩人的な感性の表出のバランスが絶妙を極めていた。音楽の心を全身に漲らせた類稀なピアニストの一人だったといえる。アシュケナージは圧倒的に広いレパートリーを持っており、そして、彼は大変な努力家で、1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったと聞いています。デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。バッハからロマン派、近代に及ぶこれらのレパートリーで目立つことは、アシュケナージは本当の意味での現代的なピアニズムを先天的に身に着けているということである。彼のメカニックは巧緻だが、その技巧に支えられた詩的表現は、フレージングとダイナミズムの幅広いニュアンスに独特のものを見せている。名手を数多く輩出したロシアのピアニストの伝統と西欧的なスタイルが、彼の中に見事なバランスを持って融合されているのである。彼を単に感受性に富んだピアノの詩人と見なすことは出来ない。アントン・ルービンシュタイン以来、セルゲイ・ラフマニノフ、ヨゼフ・ホフマン、ヨーゼフ・レヴィン、ウラディミール・ホロヴィッツ、スヴァトスラフ・リヒテル、エミール・ギレリスなどピアノ史上に不朽の名声を残した大演奏家を生んだロシアの伝統が、アシュケナージによって更に新しい面を見せてくれたといえよう。アメリカの評論家ハロルド・チャールズ・ショーンバーグは、ニューヨーク・タイムズで長年活躍した高名な音楽評論家。日本でも「ピアノ音楽の巨匠たち」をはじめ著書が翻訳されているが、当時次々と西欧に紹介されたソ連のピアニストの中で、アシュケナージを特に高く評価し、彼はギレリスの確実さと、リヒテルの想像力を併せ持った詩的ピアニストだといっていたところに、アシュケナージの音楽的な本質を巧みに要約した、ニューゲイト・キャレンダーの筆名で同紙上で覆面ミステリ批評家としても活動していた彼ならではの評言だといえよう。
ショパン国際ピアノコンクールで2位となり、エリーザベト王妃国際コンクールで優勝したウラディーミル・アシュケナージ(Vladimir Davidovich Ashkenazy)は、英EMIや露メロディアからレコードも発売されるなど音楽院在学中から国際的な名声を確立します。1965年には来日も果たし、さらに英デッカと専属契約を結んで着々とレコーディングを行うなど、活躍の場の国際化とともに政府の干渉や行動制限が増えたため、1974年にはソ連国籍を離脱してアイスランド国籍を取得しています。この時期のアシュケナージの勢いにはすごいものがありました。主にデッカ・レーベルに膨大な録音をしているアシュケナージは、モーツァルトのピアノ協奏曲全集、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、同ピアノ協奏曲全集はゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団と、ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との2種、ショパンのピアノ曲全集、シューマンのピアノ曲全集、ラフマニノフ、スクリャービン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなどのほか、アンサンブル・ピアニストとしてもヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、ピアノ・トリオ、リートの伴奏などにも参加し、驚異的とも言える非常に膨大なレパートリーを誇っている大ピアニストである。大作曲家のレアな楽曲はもちろんのこと、マイナーな作曲家の楽曲も数多くレコーディングしており、そうした音楽的な好奇心に加え、世界中のオーケストラの指揮台に登って個々の音楽家と無理なくコラボレーションしていく姿勢には定評がある。そこにはソリストとして、様々な ― キリル・コンドラシン、ハンス・シュミット=イッセルシュテット、ユージン・オーマンディ、イシュトヴァン・ケルテス、ゲオルグ・ショルティ、ロリン・マゼール、アンドレ・プレヴィンといった名指揮者たちや有力オーケストラと共演してきたアシュケナージならではの観察眼やノウハウが活かされているに違いない。弾き振りも期待された、NHK交響楽団とは1975年に初共演。2004〜2007年には音楽監督を務め、現在では桂冠指揮者として定期的に共演を重ねている。
ウラディーミル・アシュケナージは持ち前の明るく口当たりの良いタッチで、良い意味で万人向きのピアノである。打鍵の粒が揃った演奏で、実に細部まで美しく彫琢された、現代的なすこぶる明快な演奏で、メロディラインははっきり聴こえる。磨きぬかれた輝かしい音色、ニュアンスに富んだ表現力、優れた音楽性、筋のよい安定したテクニックと、あらゆる面において現代のピアニストの水準を上を行く演奏を聴かせています。なかでも木の香り漂う温かいベーゼンドルファーの重心の低い響きと、その自然なタッチのもとに歌うシューマンの世界は格別、他のピアニストではけっして得られない独特の世界。シューマン作品のロマンティックな持ち味が、アシュケナージの抒情に富む表現によって写し出されている様な演奏です。音楽の都ウィーンの気品あるピアノ。ベーゼンドルファーのインペリアルが使用されており、重厚な音色を堪能できます。ベーゼンドルファーのピアノはフランツ・リストの激しい演奏に耐え抜いたことで多くのピアニストや作曲家の支持を得、数々の歴史あるピアノブランドが衰退していく中、その人気を長らくスタインウェイと二分してきた。かつてベーゼンドルファーのピアノは1980年までショパン国際ピアノコンクールの公式ピアノの一つであった。ベーゼンドルファーのピアノを特に愛用したピアニストとしてはヴィルヘルム・バックハウスが有名。ジャズ界においては、オスカー・ピーターソンが「ベーゼン弾き」としてよく知られている。木の香り漂う温かい響きが特色のメーカー。オーストリア・ウィーンで製造。ロンドン、デッカレーベルはベーゼンドルファーと契約しているようで、ラドゥ・ルプー、ホルヘ・ボレット、アンドラーシュ・シフ、アリシア・デ・ラローチャ、パスカル・ロジェ、ジュリアス・カッチェンなどはシューベルトの『ピアノ・ソナタ全集』やハイドンの『ピアノ・ソナタ』などウィーン古典派の作品を中心にベーゼンドルファーを弾いている。一方、ルドルフ・ブッフビンダーやシュテファン・ヴラダー、ティル・フェルナーなどの新しい若い世代のウィーンのピアニストはスタインウェイを弾いていて、あえて伝統的なベーゼンドルファーの使用を避けているようだ。音色は至福の音色と呼ばれる。ピアノ全体を木箱として鳴らす設計で、ズーンと太く伸びやかに鳴り響く低音域が魅力。スタインウェイを金管楽器に例えるなら、こちらは木管楽器といった印象でしょうか。ナチュラルホルンが倍音を響かせて鳴り響くような音の豊かさ、魅力がある。弱点は大ホールで演奏する際のパワー不足。
圧倒的に広いレパートリーを持ち、細部まで丁寧に演奏していること、そしてその結果として演奏の水準にほとんどムラがないことは特筆すべきことです。素晴らしいテクニックの持ち主だが、それをひけらかすことなく難しい作品もいとも容易く弾きこなしてしまう。それがウラディーミル・アシュケナージだ。アシュケナージは大変な努力家で、1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったようだ。DECCAレーベルの入れ込みようは並々ならず。英デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。1937年7月6日にソ連のゴーリキーで生まれ、幼少からピアノに才能を発揮。ショパン国際ピアノコンクール、エリザベート王妃国際コンクール、そしてチャイコフスキー国際コンクールと、ピアノコンクールの3大難関コンクールで優勝、または上位入賞を果たした。1955年にショパン国際ピアノコンクールで2位となりますが、このときアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことは有名な話。ちなみに優勝したのは開催国ポーランドのアダム・ハラシェヴィチ。その後モスクワ音楽院に入学し、翌1956年、エリーザベト王妃国際コンクールで優勝、活躍の場を一気に世界に広げ、音楽院在学中から国際的な名声を確立し、英EMIや露メロディアからレコードも発売された。1960年にはモスクワ音楽院を卒業し、1962年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場してイギリスのジョン・オグドンと優勝を分け合います。アシュケナージがデッカと専属契約を結んで初めて録音をおこなったのは、チャイコフスキー国際コンクール優勝の翌年、1963年のことでした。1963年にはソ連を出てロンドンへ移住、まず3月に録音したのは亡命作曲家ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」で、指揮はソ連からの亡命指揮者であるアナトール・フィストゥラーリが受け持ち、活動の場の国際化とともに政府の干渉や行動制限が増えたため、ほどなく亡命することとなるアシュケナージがソロを弾くという亡命尽くしの録音でした。翌月には同じくロンドン交響楽団とチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を録音しています。ここでの指揮は当時破竹の勢いだったロシアの血をひく指揮者ロリン・マゼールが担当しています。この年の9月には、ツアーに来ていたキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルという祖国のチームとの共演でラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を録音しており、この年のうちにアシュケナージは3つのロシアの有名協奏曲をロシアつながりの指揮者との共演で録音したことになります。
翌年からはソロの録音も本格化し、以後半世紀に渡って数多くの録音を英デッカで行うこととなります。ピアノ音楽の殆んど全てに及ぶほど、彼の録音したピアノ曲のレパートリーは幅広い。着々とレコーディングを行う一方、世界各国でコンサートをおこない、1965年には初来日も果たすなど、この時期のアシュケナージの勢いには凄いものがありました。その後、1970年代に入るとピアニストとしての活動に並行して指揮活動も行うようになり、1974年にはソ連国籍を離脱してアイスランド国籍を取得してからは、オーケストラ・レコーディングにも着手するなど、その指揮活動は次第に本格的なものとなって行きます。クリーヴランド管弦楽団との鮮烈なリヒャルト・シュトラウスやプロコフィエフのバレエ音楽「シンデレラ」、コンセルトヘボウ管弦楽団との美しいラフマニノフなど、ウラディーミル・アシュケナージの指揮の腕前がピアノのときと同じく見事なものであることを示す傑作が数多くリリースされた。もちろん彼の演奏するロシア音楽の素晴らしさは特筆すべきものがある。ピアニストとして傑出したキャリアを誇るだけでなく、アーティストとして多彩な活動を積極的に展開し、現在はアイスランド交響楽団、シドニー交響楽団及びNHK交響楽団の桂冠指揮者、スイス・イタリアーナ管弦楽団の首席客演指揮者に就任。特に桂冠指揮者を務めるロンドンのフィルハーモニア管弦楽団との関係は深く、英国各地に加え世界中の無数のツアーで指揮台に立ち続けている。EUユース管弦楽団の音楽監督(2000〜2015)、シドニー交響楽団の首席指揮者兼アーティスティック・アドバイザー(2009〜2013)、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、そしてNHK交響楽団の音楽監督としても活躍。首席客演指揮者を務めたクリーヴランド管や首席指揮者兼音楽監督を務めたベルリン・ドイツ交響楽団とも深い繋がりを保ち続け、定期的に招かれている。
ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereophonic Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてFFSSが使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。クラシックの録音エンジニアの中で、ケネス・ウィルキンソンは一部のファンから神のように崇められている。ショルティはDECCAレーベルで、ゴードン・パリー、ケネス・ウィルキンソン、ジェームズ・ロックの3人に限って録音をしているほどだ。録音の成功はプロデューサーにかかっている。またズービン・メータの「展覧会の絵」の第1回の録音セッションに居合わせたレコード雑誌の編集長は、デッカのチームはホールの選択を誤った、と感じていた。指揮者のメータはそれまでの分を全部録り直すようだろうと予見していたが、プレイバックを聴いたら、その場で聞く音とは比較にならない〝素晴らしい〟出来に化けていたという。もちろんそれが商品として世に出ることになる。マイク・セッティングのマジック、デッカツリーの威力を示すエピソードですが、DECCAでは録音セッションの段取りから、原盤のカッティングまでの一連作業を同一エンジニアに課していた。指揮者や楽団員たちは実際にその空間に響いている音を基準に音楽を作っていくのだが、最終的にレコードを買う愛好家が耳にする音に至って、プロデューサーの意図するサウンドになるというわけだ。斯くの如く、演奏家よりレコードを作る匠たちが工夫を極めていた時代だった。
  • Record Karte
  • 1968年1月録音。
  • JP LONDON SLC6021 アシュケナージ・イッセルシュテッ…
  • JP LONDON SLC6021 アシュケナージ・イッセルシュテッ…

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