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〝夕暮れに浮かぶ花〟 ― ブルーノ・ワルターの指揮によるキャスリーン・フェリアーの黄金のコンビによるマーラー。1946年、マーラーの「大地の歌」演奏会の為にコントラルト歌手を探していたワルターは、フェリアーと運命的な出会いをした。このコンビの出会いは、1947年に「亡き児をしのぶ歌」によって共演したことから始まります。清冽で暖かみを持ち伸びやかな彼女の歌声は、指揮者の気に入るところとなり、やがて、二人の共演は「亡き児をしのぶ歌」と本盤《大地の歌》の録音に結晶された。フェリアーは録音でもワルター指揮によるマーラーの「大地の歌」や「亡き児をしのぶ歌」の名唱は、今なお決定盤と称えられています。〝《大地の歌》の不滅の名盤〟としてすっかり評価が定まっている。これについてはLPレコードの時代から本当に数多くの文章が書かれてきたが、批判的な文章を見つけ出す方がむしろ、大変な気がする。フェリアーの声はコントラルト特有の深い豊かな共鳴の中に清冽で透明感ある気品が漂うもので、その馥郁たるコントラルトは不世出の声として歴史に刻まれています。ワルターも彼女の声の資質を高く評価し残された「大地の歌」の録音のうち3回、彼女をソロに起用しました。声は拡散であり、浸透であり、肉体の全領域、すなわち、皮膚を通過する。声は通過であり、境界、階級、名前の廃絶であるから …... 幻覚を生む特殊な力を持っている。したがって、音楽は視覚とはまったく別の効果を持っている。そもそも人間の耳そのものが〝trans-sexual (性域外)〟のものに「天使的な崇高」を見出す傾向が多いという特徴を持っている。別の言葉で言ってみると、小鳥のさえずりから天使の声への「生成変化」が起きているのだ。つまり、オペラの究極的な美学とは、実はこのような〝trans-sexual〟な声によって人間に常軌を逸した恍惚を与えることにあった。当時マリア・カラスとレナータ・テバルディは好敵手とされたが、彼女同士は仲良しだった。どちらが優れたソプラノか、ヒロインになりきっているだとかと対比されるが、それぞれの歌声が聴くものの身体に浸透し、オーガズムを引き起こす歌声がどちらかということだろう。大衆にとって、歌声の安定や演技の完璧さとは別な次元で、その声が恍惚とさせる歌手がいる。ところでソプラノがヒロインの声ならば、アルトは母声。フェリアー(Kathleen Ferrier)の声はその温かみと馥郁たる豊かさに満ちた、まさに〝母なる声〟でありました。コントラルトというのはアルトとほとんど同義とされますが、厳密に言えばコントラルトはアルトよりもう少し低い声域を指すようです。もっとも近年はアルトとメゾソプラノもあまり区別がされないようで、総体に低い声域の女声歌手が少なくなっているように思われます。わたしはメゾソプラノの名歌手と云えばクリスタ・ルートヴィヒがまず第一に思い浮かびますが、ルートヴィヒはリヒャルト・シュトラウスのオペラ「薔薇の騎士」のマルシャリンも歌った声域の広い歌手で、本来は声色はやや明る目であるのに少し低く暗めの声をコントロールできる器量だろう。コントラルトはドイツ人女声歌手が主なところから、更に狭義な特色のある低く暗めの声のことを言うのだろうと思います。少女と若い女性と、年老いてからの声というのでなしに若くても子供に話しかける時の母性のあらわれた声というものでしょうか。そういう意味では、これがコントラルトと言える女声歌手は意外と少ない、現代においては特に少ないようです。アイドルグループがチヤホヤされる御時勢だから暗めの声は好まれないのでしょうかね。正真正銘のコントラルト歌手と云えるのはフェリアーあるいはマリアン・アンダーソンといったところでしょう。マーラーの交響曲を一通り聴き進めていくうち、ワルターとフェリアーの「大地の歌」、「亡き児をしのぶ歌」は、ほとんどの人が必ず通る道である。「亡き子をしのぶ歌」の歌詞の内容は本来、愛児を亡くした父親の悲哀ですから、男声であるべきだという向きもありますが、フェリアーの歌唱技術は、そうした男声・女声の区別を超越した素晴らしさを持っていると、高く評価されています。フェリアーが当時有名な声楽教師であったバリトン歌手のロイ・ヘンダーソンについて学んだことも、清冽で暖かみを持ち伸びやかな彼女の歌声を発揮させた所以でしょう。卓越した指導者のもとにあったとはいえ、天賦の才能で、音楽と詩のひと次元高い合一を成就させてしまう歌手もいないではない。私はフェリアーがそうした人だったと思っている。
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最初から終わりまでほとんど変わりない遅いテンポで、しかも終曲を除いてはあまり劇的変化もないこの曲を、一貫した情緒で、じっとテンポを抑え、リズムを正確に歌うことは容易ではないし、また、漂うように起伏する表情が巧みに歌に出なかったら退屈になってしまうのであるが、キャスリーン・フェリアーはいささかも崩れず乱れず、良く表情を出して微妙な変化を与えているところ、非凡な歌手に違いない。昭和28年(1953年)のレコード芸術6月号で「亡き子を偲ぶ歌」推薦盤として初めて彼女のレコードを紹介している。シューマンの歌曲集「女の愛と生涯」に、私はフェリアーの優れた資質を見る。彼女を聴いて思うこと。楽器の音の美感は、多く人声を理想とする。低音が安定していて、深い味わいを出している。そしてフェリアーの声は、人の声の中でも、至高の美しさだった。フェリアーは1953年にわずか41歳の若さで亡くなりましたが、その馥郁たるコントラルトは不世出の声として歴史に刻まれています。フェリアーは録音でもブルーノ・ワルター指揮によるマーラーの「大地の歌」や「亡き子をしのぶ歌」の名唱は、今なお決定盤と称えられています。ワルターも彼女の声の資質を高く評価し残された「大地の歌」の録音のうち3回、彼女をソロに起用しました。フェリアーが当時有名な声楽教師であったバリトン歌手のロイ・ヘンダーソンについて学んだことも、清冽で暖かみを持ち伸びやかな彼女の歌声で、且つフェリアの歌唱技術は男声・女声の区別を超越した素晴らしさを持っていると、高く評価される所以でしょう。卓越した指導者のもとにあったとはいえ、天賦の才能で、音楽と詩のひと次元高い合一を成就させてしまう歌手もいないではない。私はフェリアーがそうした人だったと思っている。彼女の歌うヨハン・セバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」は伝説的名演として語り継がれているものです。この録音は英デッカの企画で1947年にセッションが始まったのですが、当時としてはあまりにも大曲であったためか、彼女の契約の関係で年内に録音が完了することはなく完成はその翌年まで持ち越されました。この入念な準備に裏打ちされた演奏、もちろん完成度の高さには目を見張るものがあります。フェリアーの声はコントラルト特有の深い豊かな共鳴の中に清冽で透明感ある気品が漂うもので、本盤もその特徴が如何なく出ている。数多い録音の中で、フェリアーのブラームスほど歌詞に秘められた悲しみ・憂いが粛々と表現されたものがあるでしょうか。シューマンで聴かせる喜び、悲しみもフェリアーの声にかかれば決して取り乱したものにはならず、余裕を持った趣で彩られたのでした。
声をエロティックなものとすることは、性的な差異としての役割とはほとんど関係がない。実際、もっともエロティックだと考えられる声、つまり聴く者がこれ以上ないほど魅了されてしまう声は、男性のものであろうと女性のものであろうと、性を超越していると言われるであろう声なのだ。つまり女性であれば低い声(キャスリーン・フェリアやマレーネ・ディートリッヒ)、男性であれば高い声(カストラートやテノール歌手)となる。 ― ミッシェル・ポワザ:「オペラ、あるいは天使の歌声」
不世出のコントラルト、キャスリーン・フェリアーは生え抜きの歌手ではなく、技術面では満点とは云えないが、心の奥底まで届く歌声の深さでは空前絶後である。誰がつけたあざ名か「〝普通の〟ディーヴァ」とは言い得て妙。1912年4月22日にイギリスのランカシャー州プレストン生まれの貧しい田舎娘は、14歳で学校を終えるとブラックバーンで電話交換手の職に就いて日々の生計を立てていた。23歳の時に金持ちのバンカー、バート・ウィルスンに見初められ、やがて好きだった音楽で身を立てようとコンクールに出る。地元のコンクールで受賞経験もあったことから自信はあった。ところが得意だったピアノではなく、余技のはずのコントラルトのボーカルでロンドンの聴衆のみならず全世界のクラシック愛好家から女神と崇められる ― 地母神と敬われるようになるのだから、運命とは皮肉なものだ。ブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラー、エイドリアン・ボールト、ジョン・バルビローリ、マルコム・サージェント、ヘルベルト・フォン・カラヤン、エドゥアルト・ファン・ベイヌム、ベンジャミン・ブリテンら錚々たる指揮者達が賛美を惜しまなかったその歌唱は実に素晴らしく、独特の美しい艶ののった声質で豊かなコントラルトの響きを獲得した声は常に見事な水準に達していました。聴く者の胸の奥に飛び込んでくる一度聴いたら二度と忘れられない、低く、柔らかく、優しい声に、すべての人のお母さんのように懐かしい声音であったことである。エリーザベト・シューマン、ロッテ・レーマンの後継として、ドイツ・リートの第一人者の位置に立ち、また美貌を兼ね備えたオペラのプリマとして活躍したエリーザベト・シュヴァルツコップはドイツ語の正確なディクションと抑えめがちな表現、そしてやや深みのある美しい声で、力業にはよらなくとも圧倒的な存在感を示しました。フェリアーはドイツ語のディクションには幾分問題が残るし、決してシュヴァルツコップのような音楽的教養と解釈力をうかがわせる存在ではないと思うが、もって生まれた声の美しさと音色表現の豊かさで聴き手をその世界に引きつけて離さない。これらの作品が求めた声質とは異なるのだが、深々とした祈りの様なフェリアーの歌唱は聴く者を包み込む。ブラームスが全て素晴らしく、「アルト・ラプソディ」や「四つの厳粛な歌」のたとえようもない深みもさることながら、イギリス民謡や小唄の類で聴かせる懐かしい遠い世界は、他の誰が聴かせてくれるだろうか。フェリアーの本当に優れたレパートリーはバロック音楽とイギリスの歌曲である。素朴であればあるほどフェリアーの声は犯し難い神聖さを帯びる。まるで、放課後の音楽室から歌声がきこえてきて、窓からのぞくと可憐なお嬢さんが歌の稽古をしている光景が思い浮かんでくる。フェリアーの歌を聴くと、そんな気持ちにさせられます。だから、大指揮者たちに愛され、早世したにもかかわらず今尚愛顧されるのだ。物悲しくも厳粛な歌声、高いレベルの音楽的才能。深く響く声を持つアルト歌手として、世界的名声を博したフェリアーは、1953年10月8日に乳癌のため41歳の若さでロンドン大学病院で没しています。英デッカのカリスマ・プロデューサー、ジョン・カルショーもその著で「単純さと正直さこそが本質であるこの歌に、キャスリーンは苦もなく生命を吹き込むことができたのだった」と大絶賛しています。歌のスタイルも感情に流されない清冽なもので、マーラーでもバロック音楽でも、作品の味わいが自然に滲み出るかのような気品ある歌唱には、様式を超えた特別な魅力が備わっています。遅咲きかつ短命の歌手であったフェリアー。彼女の歌が持つ繊細なドラマ性やフレーズ感を味わうには、歌曲こそが相応しいと思う。現代の耳には一聴、細かなビブラートが気に障るかも知れない。が、聴き進めるにつれ、その質感の良さに魅了されるだろう。
ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日〜1962年2月17日)はドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニックの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロンビア社(CBS)の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団でのベートーヴェン〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。コロンビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。
天は永遠に青みわたり、大地はゆるぎなく立って、春来れば花咲く。けれど人間はどれだけ生きられるというのだ。
ブルーノ・ワルターが〝比類ない名演〟を残したのが、深い絆で結ばれていたマーラーの音楽だった。実質的に9番目の交響曲でありながら、「交響曲は9曲書くと死ぬ」というジンクスを嫌って交響曲と名付けなかった《大地の歌》の初演(1911年)を指揮したのも、ワルターだった。マーラーが高く評価していたワルターは、マーラーの死の半年後にこの曲を初演しました。マーラーは1908年の夏に、熱に浮かされたように中国の詩集をテキストにしたこの作品の創作に没頭しました。自分の苦悩と不安の全てをこの作品の中に注ぎこみました。それが「大地の歌」なのです。「5番」、「6番」、「7番」、「8番」の交響曲を作曲してきた次の声楽付きの交響的作品、彼は「大地の歌」を最初は9番のつもりで書き始めて、あとでこの番号を消したのでした。つまりマーラーは、この「大地の歌」に交響曲としての番号をつけることを避けようとしました。なぜならベートーヴェンもブルックナーも10番目にたどりつけなかったことから、第9交響曲という観念にひどくおびえていたからです。偉大な交響曲作曲家は9番以上は書けないという迷信におびえて、この作品を交響曲と呼ぶ勇気がなかったのです。そう呼ばずにおくことで、彼は運命の神様を出し抜いたつもりでいたのです。その後、現在の第9交響曲にとりかかっていたときに、妻アルマに「これは本当は10番なんだ。『大地の歌』が本当の9番だからね。これで危険は去ったというわけだ!」と思わず言わずには居られませんでした。あぁ、運命の歯車は動き出します。結局、彼は9番の初演には生きて立ち会うことができず、10番はついに完成にも至りませんでした。神様は間近で、その告白を聞いていたのです。
ベートーヴェンやモーツァルト、ブラームス、ハイドン、シューベルトなどの曲と違って室内楽的に個々の楽器が奏でられ、しかし大原則が潜んでいることに気が付かされる頃、それらが必然性を持って連携していて広大な宇宙を作っていく印象的な緊張感のある出だし。予想もつかない飛躍、劇的変化があり、しかしそれもやはり内的連関があって必然性がある。それらを一つの統一体にするところがマーラーの天才のなせる業であり、それをその通りに再現してくれるワルターの素晴らしさ。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏での疾走する緊張感にも比類ない感動があるが、コロンビア交響楽団による演奏では激しく、ワルターが本来洞察していた姿を示してくれる。1938年録音のウィーン・フィルとの演奏は、この上ない素晴らしい演奏ですがワルター自身は、あの録音が異常な極限状態に置かれた場での演奏であったことから本当に自分が満足できるものではなかったことを何度か述べている。そして、このコロンビア交響楽団との演奏が自分の本来の演奏であることも述べている。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のインテンダントだったウォルフガング・シュトレーゼマンがカリフォルニアのワルター邸を訪問した際に、録音したばかりのマーラーの第9番とブルックナーの第9番のレコードを聴かせてくれ、「さながら目の前にオーケストラがあるように指揮をするのだった」と著書で述べている。これはワルターが完全に満足した演奏であることを証言している。本盤は録音状況がよく、かつ細部まで目届きされたマーラー解釈が濃縮されているコロンビア交響楽団との演奏である。多くの聴きてが初めて〝マーラーの第9番〟の本質に触れた記念碑的音盤だったに違いない。ワルターの没後、レナード・バーンスタイン(1965年)、オットー・クレンペラー(1967年)らの非常な名盤の登場によって一気に「交響曲第9番」の普及がすすむ原動力となっているのは確実だ。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の綺羅星の如く存在する名録音の中でも、最も突出した名演として知られるものの1つに、ブルーノ・ワルターが1960年5月29日に行った「マーラー生誕100周年記念祭公演」があります。記念祭が、まずカーネギー・ホールで行われ、ウィーンでもワルターが招かれ交響曲第4番をエリーザベト・シュヴァルツコップのソロで演奏している。マーラーの作品ではウィーン・フィルとの交響曲第9番(1938年録音)、キャスリーン・フェリアーが歌っている「大地の歌」(1952年録音)が昔から知られている2大名盤。それに、コロンビア交響楽団との交響曲第1番「巨人」(1961年録音)もワルターの意図をしっかりと汲んだ演奏になっている。レコーディングの仕事には戦前から積極的に取り組んでおり、1930年代のウィーン・フィルとの録音は絶品と評されている。芯からエネルギーに満ちた音楽でさえ、オーケストラの歌わせ方が実にしなやかで、繊細な響きはどこか妖しさをたたえている。温厚な男らしさでオーケストラを束ねたのはワルター唯一だ。クラシック音楽を聴きはじめた人の前に、モーツァルトやベートーヴェンの作品の指揮者としてワルターの名前を覚えることになる。そして、勧められる名盤とされるレコード、CDのライナーノーツやレビューに書かれている「温厚な人柄」「モラリスト」といった人物評により、大指揮者には稀な人格者のイメージを植え付けられる。しかし温厚とは女々しいことではない。アルトゥーロ・トスカニーニやヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並ぶ、戦前、戦中、戦後を通して活躍して音楽好きを魅了した3大指揮者だが、ワルターだけは激をオーケストラに飛ばすことはなかった。尤も、1930年代の名録音はワルターが60歳前後であり、戦後のコロンビア響と一連の録音を行ったときは80歳になっていた。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きく、そして芯の部分が柔軟であってのことだろう。しかし、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。ワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はヨーロッパのオーケストラにある熟成された深みのある響きを、アメリカのオーケストラを使って自分なりのやり方で練り上げた。アルトゥル・ニキシュ、グスタフ・マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらした使徒ワルターの功績はそれ以上にある。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。その響きは若木ではないが枯れ木でもない。今が聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りがここにある。強さだけでなく大きさを増していくような、この指揮者の求心力がオーケストラの響き隅々に行き渡っている。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺すために組織されたコロンビア響とのセッションに専心し、1962年2月17日に85歳で亡くなった。
  • Record Karte
  • キャスリーン・フェリアー(コントラルト)、ユリウス・パツァーク(テノール)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、指揮:ブルーノ・ワルター、1952年5月15,16日ウィーン録音。
  • JP LONDON LY11 フェリア&ワルター&a…
  • JP LONDON LY11 フェリア&ワルター&a…
マーラー:交響曲《大地の歌》
Universal Music LLC
2007-04-13

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