34-20536
商品番号 34-20536

通販レコード→英"WORLD STEREO" グリーン黒文字盤
匠の技― と呼ぶにふさわしい。ドヴォルザークの交響曲第8番と同時期の、セル最後の録音と言われているもの。セルは1970年に初来日し、帰国した直後に生涯を閉じました。そして、まさにその年に録音されたのがこの『ザ・グレート』です。ロマンティシズムと古典主義を絶妙に均衡させシューベルト作品の本質を突く名演。ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団が残したシューベルトの交響曲は本盤と「未完成」の2曲のみ。溢れんばかりのロマンティシズムやリリシズムを古典主義という厳格な枠組に盛り込もうとして葛藤するのがシューベルト作品の本質であり、セルの解釈はその二つの要素を絶妙なバランスで均衡させるところにある。一つ一つの音符が生き生きと躍動するかのような緻密なダイナミズム、格調の高さ、オーケストラの各パートの綾が見えるような透明感、独自のオーケストレーションの改訂など、ゆるぎない造形力と引き締まった表現力、確かな構成力がより強固に全曲を統一している。長年にわたって手塩にかけ、完全に『自分の楽器』となっていたクリーヴランド管弦楽団を隅々までコントロールした演奏は驚異的な精度を誇ります。端正に磨き上げられた演奏で、セルの意図を100%実現したクリーヴランド管弦楽団の驚異的な演奏に引き込まれる。オーケストラ演奏の極致とも言えるでしょう。セルの最大の業績はオハイオ州の地方都市クリーヴランドのオーケストラを、大都会のニューヨーク、ボストン、シカゴ、ロサンゼルス各オーケストラに比肩する、いや場合によっては凌駕する全米屈指の名門オーケストラに育て上げたことではないでしょう。その演奏スタイルは独裁者と揶揄されたセルの芸風を反映して、驚くべき透明さや精緻とバランスを持って演奏することであったという。セルはまたオーケストラのある特定のセクションが目立つことを嫌い、アンサンブル全体がスムーズかつ同質に統合されることを徹底したとも云う。こうしたセルの演奏からまず伝わってくるのは、あたりを払うような威厳であり作品の本質を奥底まで見つめようとする鋭い視線が窺える。 絶頂期のクリーヴランド管弦楽団の音色の美しさも特筆すべきもので、オーケストラ全体がまるでひとつの楽器のように聴こえます。ギッシリ詰まって密度が高い証左か。とにかく、セルの棒にかかると実に格調高く、またスケールの大きなものとなる。 さらに、旋律の歌わせ方などはセルがハンガリー出身であることも思い出させてくれます。西側の指揮者は真似できない何かが有ります。作曲家の意図に忠実な演奏効果のために、作曲家が残したスコアに大鉈を振るう如きオペを施す鬼軍曹。これぞセルの極意、セルのレコードを聞く醍醐味。普段の演奏とはかけ離れた厳格な演奏です。
本盤の交響曲第9番「グレート」は、セル&クリーヴランド管弦楽団による2度目のスタジオ録音に相当する。最初の録音は1957年のものであり、本演奏よりも13年前であることもあり全体の引き締まった堅固な造型が印象的な硬派の演奏であったと言える。セルは先輩格のライナーや、ほぼ同時期に活躍したオーマンディなどと同様に徹底したオーケストラトレーナーとして知られており、そうして鍛え抜いた全盛期のクリーヴランド管弦楽団は、「セルの楽器」とも称されるほどの鉄壁のアンサンブルを誇っていたところだ。あらゆる楽器セクションがあたかも一つの楽器のように聴こえるという驚異的なアンサンブルは聴き手に衝撃を与えるほどの精緻さを誇るという反面で、メカニックとも言うべき冷たさを感じさせることも否めない事実であったと言える。したがって、演奏としては名演の名に値する凄さを感じるものの感動的かというとややコメントに窮するという演奏が多いというのも、セル&クリーヴランド管弦楽団の演奏に共通する特色と言えなくもないところである。もっとも、セルも1960年代後半になるとクリーヴランド管弦楽団の各団員に自由を与え、より柔軟性に富んだ味わい深い演奏を行うようになってきたところだ。とりわけ、死の年である1970年代に録音されたドヴォルザークの交響曲第8番と本盤におさめられたシューベルトの交響曲第9番「グレート」には、そうした円熟のセルの味わい深い至芸を堪能することが可能な素晴らしい名演に仕上がっていると言えるだろう。本演奏においても、セル&クリーヴランド管弦楽団の「セルの楽器」とも称される鉄壁のアンサンブルは健在であるが、1957年の旧盤の演奏とは異なり、各フレーズの端々からは豊かな情感に満ち溢れた独特の味わい深さが滲み出していると言える。これは、人生の辛酸を舐め尽くしてきた老巨匠だけが描出することが可能な崇高な至芸と言えるところであり、同曲において時折聴くことが可能な寂寥感に満ちた旋律の数々の清澄な美しさはセルも最晩年に至って漸く到達した至高・至純の境地と言っても過言ではあるまい。シューベルトの交響曲第9番「グレート」の演奏は、どの指揮者にとっても難しいものと言えるが、セルによる本演奏は演奏全体の造型の堅固さ、鉄壁のアンサンブル、そして演奏全体に漲っている情感の籠った味わい深さを兼ね備えた同曲演奏の一つの理想像の具現化として、普遍的な価値を有する名演と評価してもいいのではないかとも考えられるところだ。
音楽CDが世の中に出たのが1982年。今から約35年前のこと。それ以降、みなさんご存知のとおり「レコードからCDへ」という流れが生まれました。ところで世界初のデジタル録音を成し遂げたのは、CD誕生の10年前となる1972年のこと。スメタナ四重奏団を招き、世界初のデジタル録音を日本で行ったモーツァルトの「弦楽四重奏曲第15番ニ短調 K.421」と「弦楽四重奏曲第17番変ロ長調 K.458《狩》」でした。このときの記念すべき演奏はレコードとして発売されましたが、CDとしての発売は十年以上待たされた。デジタル録音は一般化していきますが、1960年代後半から1970年代前半のステレオ録音最盛期のレコードが今でも評価の高い中心でしょう。トマス・エジソンが『フォノグラフ』を発明したのは1877年のこととされるが、それから百年のレコーディングを振り返ってみれば時間とともに消え去るはずの音楽が、これほどまで正確に記録されるようになったと驚かないわけにはゆかないであろう。それは演奏の方法や様式感にも計り知れない影響を及ぼしている。それ以前の名演奏家たちは伝説として語り伝えられているが、レコードの発明以来、この分野も科学の時代に入ったのである。こういう時代を考えないではジョージ・セル(George Szell)について正しく語ることは出来ない。はじめはピアニストとして活躍していたがリヒャルト・シュトラウスに認められて、指揮界に進出した。1946年からクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者になったが、それ以前にはドイツやチェコ、それにアメリカの多くの管弦楽団を指揮してもいた。セルの魅力と長所は、クリーヴランド管弦楽団を指揮した時に最高度に示される。セルは完全主義者といわれるだけにオーケストラとも作品とも少しの妥協を許さず、厳しいアンサンブルの中で歪んだところのない音楽をつくりあげてゆく。クリーヴランド管弦楽団の名声が世界に轟いたのも、このセルのおかげだったのである。シンフォニー・オーケストラの窮極的な機能を追求し、クリーヴランド管弦楽団という完全無欠なアンサンブルを造り出したことはセルの個人的な業績であるばかりでなく、すでに確固たる歴史的な達成として認められることである。それがレコードとしてもセルの死後ますます輝かしい光を放っている。その他の誰もが達し得ない程の高い完成度を、どうして否定できようか。現代の演奏は如何に主観主義的な表現を行おうとも科学的考察の対象になるのであって、音楽もまた神話や伝説の領域に留まるものではない。セルはこういう時代に与えられた指揮者の最高の使命を担って全うしたのである。セルの極めて厳格な耳と審美感覚はオーケストラという非常に人間的な集団から不透明な人間臭を排除し、純粋な音楽を抽出した。そのため完璧なアンサンブルを掌中にしようとする鬼ともなり、冷たいとか非人間的とかいわれたが、むしろ暖かみがあるのやら人間味があるのやらと称される演奏以上に高度な音楽的表現をすることが出来た。それこそレコードに聴く、信じられないような透明無垢のハーモニー、鮮やかな色彩を見せる絶妙なバランス、表情の豊かなアゴーギグを持つ生気溌剌としたリズム、各パートが常に音楽と一体となって呼吸していて決して乱れないアンサンブル、なのである。セルの指揮するクリーヴランド管弦楽団は凡そ全ての人間的な弱点や欠陥を克服して、この世に在らざるかのような彼岸の美に到達していたといって良い。
ジョージ・セルは1897年6月7日にブダペストで生まれたが3歳からヴィーンに移り住み、ヴィーンの音楽を身に受けて育った。11歳でピアニストとしてヴィーン交響楽団と共演、16歳で指揮者として同響を指揮し、17歳でベルリン・フィルを指揮して自作を発表した。1915年にはリヒャルト・シュトラウスに認められてベルリン国立歌劇場で練習指揮者を務める。事実、セルの様式感はヴィーンの伝統を受け継いでいる。このことはクリーヴランド管弦楽団の浮世離れした美感ゆえなかなか気づかれなかったようであるがハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの解釈にはヴィーンの流れをくむセルの揺るぎない様式感が打ち出されている。そうした古典様式の美学を踏まえて、セルはメンデルスゾーンやシューマンやブラームス、ワーグナーやブルックナーやマーラー、ドヴォルザークやチャイコフスキーなど、いわゆるロマン派の世界に乗り出していったのであり、そこにセルの神髄が見いだせる。1917年にシュトラスブルク市立歌劇場の指揮者としてスタート。1919年プラハ・ドイツ歌劇場、21年ダルムシュタット歌劇場、22年デュッセルドルフ市立歌劇場を経て、24年にはベルリン国立歌劇場の第1指揮者となった。29年にはプラハ・ドイツ歌劇場の音楽総監督に就任。一方で欧米のオーケストラにも活躍を始めた。1939年にオーストラリアに客演したが、その帰途、第2次世界大戦が勃発。そのままアメリカに留まる。アメリカでは最初、音楽院の教授を務め、トスカニーニの要請でNBC交響楽団に客演。42年にはメトロポリタン歌劇場に登場。46年にクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任し、この楽団を世界最高の水準に高めた。
第2次世界大戦後、アメリカでのみ可能な最高のメカニズムを実現して未曾有のザ・クリーヴランド・オーケストラが造り出されたが、それはヴィーンで培われたシンフォニズムに根差したものに他ならない。ヨーロッパでもザルツブルク音楽祭の常連として活躍。アムステルダム・コンセルトヘボウにも客演した。そして、クリーヴランド管弦楽団とともに1970年に来日し素晴らしい演奏を聴かせてくれたが、セルは日本の演奏旅行から帰った直後の6月から心臓病で入院し、7月30日にクリーヴランドで没した。極めて厳格なトレーニングをしたことで知られ、事実その演奏は極まりなく完璧で精緻であった。作品によっては冷たくさえ感じられたが、室内楽的な強固なアンサンブルの中に虚飾ない透徹した純粋な音楽があり、モーツァルトが高く評価された理由もそこにあろう。そういう演奏の透徹ぶりを目の当たりにして驚嘆した日本の聴衆にしてみれば何かが植え付けられたはずである。ヨハン・シュターミッツの指揮するマンハイム宮廷管弦楽団や、ハンス・フォン・ビューローの指揮するマイニンゲン管弦楽団は伝説の中に生きているけれども、ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団は科学的考察の下に絶対的美感を示しつつ生きながらえるであろう。レコードが、その証言となる。録音はかなり多いが、手兵クリーヴランド管弦楽団との晩年の録音に優れたものが多い。シューベルトの交響曲第9番、ドヴォルザークの交響曲第8番(最後の録音)は共に最晩年の録音(いずれも1970年EMI)、ブルックナーの交響曲第3番(1966年)、第8番(1969年)、マーラーの交響曲第6番(1967年)なども名演と言える。またプロコフィエフのキージェ中尉(1969年)、コダーイのハーリ・ヤーノシュ(1969年)は純音楽的に濃縮された快演であった。バルトークの管弦楽のための協奏曲(1965年)も精緻な演奏。オペラ録音は残さなかったが、ワーグナーの管弦楽曲集(1968年)も整然として緻密な演奏。他にドヴォルザークのスラヴ舞曲集(1962〜65年)、またカサドシュとのモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズ(一部コロンビア交響楽団、1959〜68年、以上COLUMBIA)も典雅な趣がある。またコンセルトヘボウとの録音でシベリウスの交響曲第2番(1964年、PHILIPS)も代表的な演奏であった。
1970年5月、にこやかな表情で大阪グランドホテルの一室に設けられた記者会見の席に着席したジョージ・セルが、その2か月後に不帰の人となろうとは、その席に立ち会った人たちは想像の出来ないことであった。その報が入った時、折しも日本万国博の催しも後半に突入、ニュー・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者として来日するはずだったジョン・バルビローリ卿の訃報と相前後しただけに驚きはひとしおだった。然し疑うべき無い活字に“セルのクリーヴランド管弦楽団が聴けてよかった”“何かセルは日本で、この世に残すべき最後の仕事をしたのではないか”とさえ思った。事実セルは日本公演から帰国後体調がすぐれず、ほとんど指揮台に立つことなく他界したのだから、まさに告別のコンサートが日本公演となったといっても言い過ぎではあるまい。フェスティバルホールの晴れの舞台が、まだカラヤンとベルリン・フィルのプログラムで飾られている時、セルは記者会見した。その服装も清楚でダークスーツに身を包み、紺色に白の水玉模様のネクタイがひどく印象的だったし、なかなかおしゃれな人だとも感じ取れた。勿論夫人同伴の、この日本旅行はセルにとってもかなり前から最も楽しみにしていた日程の一つだったのだろう。柔いだ視線と態度は、とてもその後のステージに見る厳しさとは無縁のものだった。その代表質問の中で最もはっきりしたことは「クリーヴランド管弦楽団は自分の楽器だ」といったことだ。クリーヴランド管弦楽団に就任してきた1946年当時、オーケストラのメンバーは88人だった。それを長い年月をかけて“うまく扱う個人的プレーヤーではどうにもならない”の信念を基本にしてメンバーを自分の好みに従うように入れ替えていき、器用とか、うまいというだけの理由では一人たりとも団員を採用せず、オーケストラの一員として如何にその機能を果たすかに基本を置いて人集めをしていった。24年間の蓄積が、いま完全な状態になったことをセルは満足気に“自分の楽器”と答えたのだと思う。トスカニーニにおけるNBC交響楽団、アンセルメにおけるスイス・ロマンド管弦楽団と同じ意味合いが、そこに込められていたと推察する。だから“古典かロマンか、どちらが好きか”の問いにも「両方共好き。というのもモーツァルトに適した楽器編成と、その編成の中からつくり出せる最大限に可能な音の響きがあって初めてモーツァルトの作品を再現できるのだと思う。それはベートーヴェンでも、ラヴェルでも、チャイコフスキーでも一緒だ」と話す。セルが長年手塩にかけたオーケストラの機能を効果的に駆使するために、それも絶対不可欠の条件だったのだろう。然し24年という4分の1世紀にも及ぶ長い期間をかけて粘り強く築き上げていくということは並大抵のことではない半面、クリーヴランド管弦楽団という土壌がいかにセルにプラスしていたかを改めて知らせてくれたと言って良い。おそらく他のもっと“アメリカ的”な都合で、これだけの時間をくれたかどうかは甚だ疑問だからである。ニューヨーク、シカゴに就任した指揮者の例を見ても、そのことは言えるだろう。そして「クリーヴランド管弦楽団の“音”の性格は、どんな作品にも対応し得る優れた反応力を示すことだ」と結んだ。
セルのオーケストラに対する姿勢について同席したアソシエート・コンダクターのルイス・レインやコンサート・マスターのダニエル・マジェスケが、こう語る。『一にも二にもリズムが最優先し、それに綺麗で正確なイントネーションを求め、さらに自然で誰が聞いても柔和なアンサンブルの緻密さを加えて自分なりに納得のいく音を完成していく』と。つまりセルの理念の実行舞台がクリーヴランド管弦楽団だったわけである。セルの心の中には多分、アメリカにおけるメカニックで澄み切った音色とヨーロッパの優雅にして膨らみのあるアンサンブルの機能をいかに合致させていくかということに一つの目標を置いていたと思う。だからアメリカ広しといえども、その欧州的体質が存分に膚で感じられるのはクリーヴランド管弦楽団の音質だけである。“運命”でも“未完成”でも“イタリア”でも実に膨よかな音を醸成するのである。レコードでは1960年代後半に発売されたLPの数々は全てこの点で完全に“欧州化されたクリーヴランド”を満たしていたのである。これはあくまでセルの理念の達成のための発展的過程を示したものといえるだろう。今日、オーケストラに、その土着性というか郷土性の強いのが体臭のように染み付いているのは東ドイツの一連のオーケストラぐらいのものだろう。ソ連の著名オーケストラにしても、お国ぶりを示すプログラムにさえ新しい国際意識が先立って出てくる。音楽教育の“国際的均一化”が、そうさせるのかもしれない。一昔前ならヴァイオリニストの奏法一つにしてもアウアー派とか、イザイ派などと整然と区別されたのだが、今やオーケストラに至るまで国際化の時代である。日本に到着し、記者会見を済ませたばかりのセルが5月14日にフェスティバルホールのボックス席でカラヤンの指揮を見聞した。たしかブラームスの〈交響曲第2番〉などのプログラムだった。然し、このカラヤンとベルリン・フィルからはセルが昔ヨーロッパに居た時のようなヨーロッパのカラーなり体質を汲み取ることは多分出来なかったと思う。なぜならフルトヴェングラー時代と違ってカラヤンになってベルリン・フィルは東西両ドイツにまたがる都市のように全く国際化してしまっているからである。それをいち早く〈カラヤンよりも先に〉アメリカで欧米双方の音楽の良さを組み合わせたオーケストラの音造りを目指したセルの先見性は素晴らしい着想だった。そして双方の優秀性を兼ね合わせたオーケストラを自分の手で、自分の目の黒いうちに完成させたのである。1970年5月15日夜、セル指揮クリーヴランド管弦楽団は日本での初めての“音”を発した。ウェーバー〈オベロン〉序曲、モーツァルト〈交響曲第40番ト短調〉、シベリウス〈交響曲第2番〉の3曲だった。
その時の印象は“近年のレコードでの名演が証明されるかどうか ― 最大の関心事だったがセルの見事な統率力が、それにほぼ満点の回答を与えた”“名人肌のオーケストラと違い、誠実なセルの性格を反映してか楽団員一人一人が原曲の意図に忠実に従い、音楽の純妙な燃焼に全力を尽くした”と当時のスクラップ帳に綴られている。つまりセルの言わんとすることは全てクリーヴランド管弦楽団の音に反映されているということである。指揮者とメンバーの結びつきが、こんなに大切な要素を持っていると、この時ほど思ったことはない。というのも、それ以後これほど指揮者の意図に完全に応じるオーケストラというのはムラヴィンスキーの振ったレニングラード・フィルハーモニー以外に見当たらないからである。しかもセルの他界後、クリーヴランド管弦楽団の事情はかなり不鮮明になっている。大きな一本の柱が倒れると、その再建が例えセルの路線を踏襲するにせよ全く新しい方向に進むにせよ至難の業に近いことは、はっきりしている。ロリン・マゼールが常任として定着し、一時代を創りだしたがセルと全て同じ方向だったかどうかといえば違う。セルの時代に精魂傾けて創りだした手作りの芸術作品というのが、そう簡単に次の時代に培養できないことは、その4分の1世紀の足跡が物語っているからである。それだけにセル=クリーヴランド管弦楽団は一つの20世紀の演奏史上における1ページを綴ったといっても過言ではあるまい。セルは1897年ハンガリーのブダペストに生まれ、ウィーンに渡って幼時モーツァルトの再来と評判になったものである。11歳でピアニスト、作曲家を目指し、17歳のときリヒャルト・シュトラウスのすすめで指揮者としてデビューしている。1929年にチェコのプラハ歌劇場の指揮者として迎えられたとき、チェロの巨匠パブロ・カザルスとドヴォルザークの「チェロ協奏曲」で共演したレコードは実にロマンチックで感情豊かな表現だった。その後年月を経って伝統のないクリーヴランド管弦楽団を育て上げ、名オーケストラとした時にはセルはネオ・ロマニストとして全く独自の世界を切り開いていたのである。クリーヴランドを終生の地と決めたとき、セルは名前をゲオルグから米国流のジョージに変えた。その心底にクリーヴランド管弦楽団に一生をかけるといった気持ちがあったことを知ると感動させられるだろう。そして誠実なセルは、その通りに全ての自分の役目を果たし終えたのである。敬服すべき一徹者と言って良いジョージ・セルの名前と芸術は20世紀の指揮者地図から絶対に欠かすことの出来ない存在であることを残された貴重なレコードを聞きながら改めて思い知らされたのである。
1970年5月クリーヴランド、セヴェランス・ホールでの録音。レコード芸術特選盤。
GB WRC ST627 セル シューベルト・交響曲9番「ザ・グレー…
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