34-17943

商品番号 34-17943

通販レコード→英ブラック金文字盤

22.2ch音響を、一台のテレビでできる8K放送を説明できますか? ― 英PYEは大資本レーベルである英EMIや蘭PHILIPSと違って、どちらかといえば独立系レーベルに近いような存在でした。傘下には本場のR&Bの普及に貢献したPYE INTERNATIONALレーベルなどがあります。元々はテレビやラジオの製造メーカーだったが、1953年にNixaレーベルを買収し事業参入、PYE Nixaに。マーキュリーやウェストミンスター等との共同製作で、1956年からステレオ録音を開始し、ステレオLPの開発も独自に行い、1958年4月にV/L ― 縦横2方向の振動で左右の信号を記録する方式を発表しますが、直後に45/45方式が標準規格として採用されると、いち早く取り入れ、メジャー・レーベルに先駆けて1958年6月にヨーロッパ初のステレオLPを発売しました。ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団のベートーヴェン『交響曲1番&8番』(CSCL-70001)が、EMIに移行する前のPYE社でのレコードです。1959年からPYEを名乗る。EMI、Decca、英Philipsとともに英国4大レーベルで括られるが、大資本の他3社に比べると比較的小規模なレーベルだった。レーベル統括だけでなくPYEとしてThe KinksやDonovanらのレコードをリリース。また、コレクターに人気のプログレッシヴ・レーベルDawnを1969年に設立している。Golden Guineaは1960年代前半の廉価盤レーベルのようで、MARBLE ARCHの前身と想像される。他に初期のA&Mレコードなど、Pye Internationalのレーベルで発売されていた時期がある。ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」が大ヒットしたとき、イタリアのDURIUMレコードの発売元もイギリスではPYEでした。しかし、ステレオ装置が直ぐに普及しなかった事や、メジャー・レーベルとの競合、そして、1959年に入ると、ATV(アルファ・テレビ)に吸収され、本社の引っ越しやスタッフの入れ替えが行われる等、大きな変更があった為、最初のCSCL70000シリーズの発売は、あまり順調には行かず、確か50枚程で終了したといいます。ジャケット裏写真でご覧頂けるように、最初は何らステレオである事を強調していない、ごく簡素な体裁ですが、恐らくメジャー・レーベルのステレオLP発売が出揃った1958年秋以降は、何か目立った表示が必要になり、スタッフの多くが前に在籍していたEMIに倣って、独自のデザインでステレオのメタル・シールを作ったのかも知れません。国内盤は、日本ウェストミンスターから発売。ステレオ最初期のレコードらしさで、「ステレオ録音」についての説明が面白い。ステレオってそういう仕組みだったのか、と説明が理解できたか、納得した印象だったか。最近テレビで話題の〈昭和生まれ〉〈平成生まれ〉の認知はいかばかりか。この画期的さは今で言えば新4K8K衛星放送の、22.2chのサラウンド音声をどう理解できるように説明できるか、だろうか。
今までのレコードは音が一か所からしか出てこないために音の立体感はありませんでした。ところがステレオ[立体]レコードは、演奏を左右におかれたマイクロフォンで録音してそれを一本の音溝の外側に右の、内側に左の音をカッティングしてあります。立体用ピックアップで別々に取りだされた音は私達の左右二つの耳によって合成されて方向感を生じるわけです。したがって、立体演奏器で再生しますと、素晴らしい立体音を楽しむことができます。
晩年のブラームスが作品に込めた多くの要素が、聴き手にやや難しさを感じさせるだけではなく、実際の演奏でもアンサンブルの正確さに必死になる余り、力任せに演奏してしまって、音楽的な面白さを表現しきれないことがよくある。技法的にも優れ枯淡の味を滲ませた《二重協奏曲》は晩年の名作として知られています。これは作曲の年にトゥーンに到着してから、すぐに友人の音楽研究家フェルディナント・ポールが死去した知らせを受けて大いにブラームスが落胆したことと、また外科医で友人のビルロートが肺炎で危篤になり幸いにも一命は取り留めたが、ブラームスに人生の無情を感じさせたことなどと関係がありそうです。クララ・シューマンは、この曲をブラームスとヨアヒムの「和解の協奏曲」と評したことがあったが、この和解は実はヨアヒムと、その夫人のことも指していた。《二重協奏曲》は元来、第5番の交響曲として設計されたものだったが、当時ブラームスが年来の親友だった大ヴァイオリニストのヨアヒムと不和になっていて、その相互に硬化した感情を、この際ヨアヒムに意見を求めながら書いて軟化させようと考えたことが大きな原因だった。そしてチェロのパートについては、ヨアヒム弦楽四重奏団のメンバーである優れたチェロ奏者のハウスマンに何回となく意見を求めた。ブラームスはヨアヒムとの不和の原因がヨアヒム夫人のことにあったため、ここでヴァイオリンを優れた歌手である夫人に例え、チェロをヨアヒムに見立てて ― 2人のソリストは時に寄り添い、時に激しくぶつかり合い、と実際の夫婦の縮図 ― 両者が仲良く進んでゆくように設計した。ブラームスはこの曲に「夫婦」の意味を込めて書いたとも言われています。このヨアヒムの役回りをアルフレード・カンポーリが、本盤で演奏する。
イタリアの青い空、地中海の碧い色。陽気さ、明るい、そういう音色、そして一抹の陰り … 哀愁。懐かしさと郷愁も感じる、そんなヴァイオリンの音色に惚れた ― 類まれな技巧を駆使して豊かな情感が表現されるが、その情感にはあくまで上品で繊細な響きの持ち主、アルフレード・カンポーリのヴァイオリンは官能的なまでに甘美でありながら、ぴんと張りつめるような緊張感を保って伸びやかに歌っている。イタリア人という彼の中のラテン的な明るさとストラディヴァリスの豊穣な音色が相まって、 ゆっくりとした時間の流れに身を委ねることが出来ます。独特の歌心溢れる甘美な音色は聴く者を虜にせずにはいられません。その凄さが、これみよがしになっていないのが心憎い。歌うようなヴァイオリンの音色という形容は、これこそ肉声の歌声を聴いているようなカンポーリの録音にこそ言える至福の一枚。そしてまた、楽譜に書かれた音符から読み取った共感に忠実に、楽器が放つ音に色彩や音量の変化を綿密に施していくカンポーリの音楽性は、トルソーの少女像が甘美な官能的なものに変化していく様な艶めかしさも感じられて脱帽もの。1906生まれのヴァイオリニスト、カンポーリは主にサロン音楽のヴァイオリニストとして活躍していましたが、1950年前後からはデッカに様々なクラシック音楽を録音するようになりました。名前からして純粋なイタリア人と思えるが、活躍の場は女王陛下の国英国。バッハもモーツァルトもベートーヴェンもイタリアのやり方を見習い、その手法で自分の音楽を書きましたが、カンポーリは祖国イタリアを、異国の地の英国デッカの力を借り、国際スタンダードにした立役者と云ったところか。
ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms,1833〜1897)は、交響曲を4曲残している。その最後の第4番の交響曲は、1885年に書き上げられた。それ以後もブラームスは旺盛な創作力を失ったわけではなくて、交響曲も機会があれば作曲したいという意欲を持っていた。そして実際に、新しい交響曲についてある程度の構想を立てていたようである。というのも、この二重協奏曲は元来、第5番の交響曲として設計されたものだったし、その後の1890年に完成された弦楽五重奏曲第2番(作品111)も、はじめは交響曲にするつもりで計画されたからである。ブラームスは、この二重協奏曲を1887年夏にスイスのベルンに近いトゥーンで着想し、そこでの避暑の間に完成した。ブラームスは、このトゥーンが気に入り、その前後の夏も、そこに滞在している。前年の1886年夏にはチェロ・ソナタ(作品99)、ヴァイオリン・ソナタ(作品100)、ピアノ三重奏曲(作品101)といった弦を生かした室内楽的な作品を、そこで書いた。これはベルンに友人で詩人のヴィトマンが滞在していて週末にはブラームスは、そこを訪れて新作を披露したり室内楽を楽しんだりしたので、ヴィトマン家での演奏に向くものとして作曲されたからでもあった。それと同時にアルプスの雄大な景色に囲まれたトゥーンはブラームスに弦を用いた、たっぷりと歌う曲を書かせる気になったのかもしれないし、1885年の第4交響曲の完成で気分転換をさせることになったのかもしれない。そして翌1887年になって、たまたま交響曲への意欲を燃やしたのだろう。ところが現実では、これは交響曲とはならず二重協奏曲の形になったのである。交響曲になる筈のものがヴァイオリンとチェロのための協奏曲に変更されたのは、当時ブラームスが年来の親友だった大ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(Joachim József, 1831〜1907)と不和になっていて、その相互に硬化した感情を、この際ヨアヒムに意見を求めながら書いて軟化させようと考えたことが大きな原因だった。ヨアヒムは歌手である夫人とブラームスが友情以上の関係にあるのではないかと誤解したばかりでなく、夫人の演奏活動も制限してしまった。そこでブラームスが夫人に慰めの手紙を書いたところ、この手紙を見たヨアヒムがますます嫉妬の情を募らせたのである。これが1880年頃である。それでもヨアヒムはブラームスの音楽には相変わらず好意的だったのでブラームスとしては、なおさら重い心を抱かざるを得なかった。こうしてブラームスは以前のヴァイオリン協奏曲の時のように、独奏ヴァイオリンの扱い方についてヨアヒムから色々と有益な忠告を受けることにした。
そしてチェロのパートについては、ヨアヒム弦楽四重奏団のメンバーである優れたチェロ奏者のロベルト・ハウスマンに何回となく意見を求めた。ヨハネス・ブラームスはヨーゼフ・ヨアヒムとの不和の原因がヨアヒム夫人のことにあったため、ここでヴァイオリンを優れた歌手である夫人に例え、チェロをヨアヒムに見立てて両者が仲良く進んでゆくように設計したもののようである。2人の共通の友人であるクララ・シューマンは、これをブラームスとヨアヒムの「和解の協奏曲」と評したことがあったが、この和解は実はヨアヒムと、その夫人のことも指していたのであろう。この曲の公開の初演は1887年夏にケルンで、ヨアヒムとハウスマンを独奏者、ブラームスを指揮者として行われた。そして、この曲の結果ブラームスとヨアヒムの関係は、かなりよりを戻した。然しヨアヒムは夫人をめぐる嫉妬をまたも募らせ、結局夫人の側から離婚の裁判が起こされ1882年に、この夫婦の間の離婚は成立した。このように交響曲の計画は二重協奏曲に変更したのだが、これについてはブラームスとしては前年の室内楽曲で満たしきれなかったものを、ここでやはりヴァイオリンとチェロを用いて音楽化してみるということで大きな抵抗は感じなかったのでもあろう。曲はアルプスの堂々とした風光に囲まれた土地で作曲されたためもあって、質実で威厳に富む。ブラームスは作曲した時の環境を、その作品に反映することが少なくなかったのである。その管弦楽はブラームスの30年間の管弦楽法の研究の成果を十分に示すかのように、極めて独自の渋くて重厚な音色を持つ。ここでは当時の風潮のフランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーをはじめとする大編成の色彩的な管弦楽に対立するかのようで、小さな編成が採られている。
全体的には、ヨハネス・ブラームス晩年の枯淡な思想や人生の悲哀感が込められていることも否定出来ない。これは作曲の年にスイスのベルンに近いトゥーンに到着してから、すぐに友人のハイドン研究家カール・フェルディナント・ポール(Carl Ferdinand Pohl, 1819〜1887)が死去した知らせを受けて大いにブラームスが落胆したことと、また外科医で友人のクリスティアン・アルベルト・テオドール・ビルロート(Christian Albert Theodor Billroth, 1829〜1894)が肺炎で危篤になり幸いにも一命は取り留めたが、ブラームスに人生の無情を感じさせたことなどと関係がありそうである。そうしたこともあり本来は明るい華麗な演奏効果を出して良さそうな曲種であるのに、この曲は長調ではなくてイ短調という暗い調性で書かれるようになったのである。曲はもちろん2つの独奏楽器と管弦楽が掛け合う曲であるが、バロック時代の合奏協奏曲に倣っているわけではなく原則的には、よくある独奏協奏曲の根本原理に基礎をおいて展開する。バロック時代の音楽に造詣を持っていたブラームスの作品だけあって、そこにバロック時代の音楽様式の復活といった面も当然になる。モーツァルトの時代に誕生した交響曲と協奏曲の中間に位置する、いわゆる協奏交響曲からの影響、それ以外にもフルートとハープのための協奏曲、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための協奏曲の影響といったものも無視できないだろう。クララ・シューマン(Clara Josephine Wieck-Schumann, 1819〜1896)は日記に、この作品を聴いて書いた文章があった。「私にはチェロとヴァイオリンを独奏楽器として共に活かしまとめあげるのは必ずしもいいことには思えない。そしてまた楽器には光彩が乏しい協奏曲で、私には将来性を持つとは信じられない。これはヨーゼフ・ヨアヒムとブラームスが長い疎遠のあとで、またお互いに話をするようになった極めて興味のある曲だろうが、ある意味で和解の曲以上とみなすほどには、この曲には新鮮な温和な音楽でしか無い。」クララ・シューマンはピアニストとして曲を評価した意見を表明する結果になったが、本当にこの曲に将来性が乏しかったかどうかは結論しないが結果としては現在でも演奏される機会が少なく、数ある楽器の中で最も旋律的な音楽表現に富むヴァイオリンとチェロとを対等に扱い、さらにこの2つの楽器に高度の技巧を要求しているところから、この協奏曲は呼吸の合った高度な技術を持った2人の独奏者を迎えなければ曲本来の価値を発揮しないのである。素晴らしい友人かつ音楽家を失いたくなかったブラームスは、完成していたら交響曲第5番もしくはチェロ協奏曲となるはずだったアイデアを転用し、ヨアヒムとの仲直りをするための協奏曲を作曲した。この曲が二人の独奏者揃って素晴らしく演奏された時の感動は得難いものである。完成した協奏曲はもちろん、ヨアヒムとハウスマンのソロ、ブラームスの指揮により1887年10月18日にドイツのケルンで初演された。なお、この曲は管弦楽を用いたブラームスの最後の作品となった。故に、オーケストラ・パートが交響曲ばりの立派なものである。しかも、ヴァイオリンとチェロという珍しい組み合わせの協奏曲はその後もあまり生まれておらず、この曲の存在は現代においても光り輝いている。
ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli, 1899年12月2日〜1970年7月29日)は第二次世界大戦に従軍。「サー・ジョン」(Sir John)の愛称で知られる。1943年にハレ管弦楽団の音楽監督に就任するが、バルビローリが戦地から戻ると、オーケストラの楽団員は戦死したり、傷を負っていて演奏会どころではなかった。どれほどのオーケストラだったといえども指揮者だけでは何もならない。まずはオーケストラの立て直しからがバルビローリの仕事だった。しかし健全な男性奏者は集まりそうにない。空襲で荒廃した街に音楽を響かせるために、女性奏者を募ったり、バルビローリはオーケストラの再興に尽力しました。演奏会以外の時間はそういうことに費やし、一日は24時間じゃないとも頑張った指揮者でした。「一日16時間の仕事」、「一日1食も珍しくない」といった勤勉ぶりで、技量やアンサンブルは超一流とはいかないがバルビローリ自らが採用したメンバーを含む心あたたまるサウンドは、感興の豊かさ初々しさは段違い。戦後間もない演奏で、演奏者の技量はまだまだながら音楽で復興を応援する気概に魅了される。
〝良質なワインのように、年を経るにつれて芳醇な味わいを醸し出した指揮者〟と評されるいうに、ジョン・バルビローリは多くの名指揮者を生み出したイギリスの最高の名匠である。生まれたのも没したのもロンドンだったが、祖父も父もイタリアのヴァイオリニストで、バルビローリが生まれた時、〝ジョヴァンニ・バッティスタ〟とイタリア風の名前が付けられたという。ロンドンの王立音楽院でチェロを学び、1916年にクイーンズ・ホール・オーケストラの最年少の楽員となり、翌年チェリストとして初のリサイタルも開いたが、19歳頃に指揮者に転身、ロンドンでオペラやコンサートを振りながら修練を積んで、1933年にスコティッシュ管弦楽団(現スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)の首席指揮者に就任した。1936年にニューヨーク・フィルハーモニックにデビュー。翌年に首席指揮者に就任したが、前任者がアルトゥーロ・トスカニーニであったためか楽員と肌合いが合わず、1943年に辞任してイギリスに戻った。同年マンチェスターのハレ管弦楽団に懇望されて首席指揮者となり、同オーケストラを飛躍的に成長させて名声を博し、1949年に〝サー〟に叙され、楽団からは終身指揮者の栄誉を贈られた(後の桂冠指揮者)。1968年に勇退後も同オーケストラとは親密な関係が続いた。この間の1961〜1968年にはヒューストン交響楽団の音楽監督も兼任して、アメリカでも絶大な信望を得た。バルビローリは典型的な大器晩成型で、40歳代終わり頃から魅力的な演奏を聴かせた。極めてヒューマンな人柄と、リハーサルのたびごとに「その音符を愛してください、愛がそこから湧き出るように」と楽員に呼びかけたという音楽への奉仕者の姿は、聴衆と楽員の双方から敬愛を浴びた。その第一の理由はイギリス近代の作曲家たちの作品に、しみじみとした味わいの名演を聴かせたことで、残された多くの名盤ではハレ管とのディーリアス『管弦楽曲集」(1968〜1970年)がまっさきに挙げられる。これも十八番にした北欧音楽では、やはりハレ管弦楽団とのシベリウスの交響曲全集(1966〜1970年)が代表作だが、絶対に聞き逃せないのがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのマーラーの交響曲第9番(1964年)。前年にベルリン・フィルに客演した際、感激した楽員の提案によって録音されたというエピソードで有名な、このマーラーにこそバルビローリの人と芸術の精華が結実しているとも言える。
  • Record Karte
  • 1959年録音。1964年リリース。
  • GB PYE  GSGL14009 カンポリ&ナヴァラ ブラームス・…
  • GB PYE  GSGL14009 カンポリ&ナヴァラ ブラームス・…
Brahms/Schubert
Schubert
Dutton Labs UK
2001-06-12