34-19476

商品番号 34-19476

通販レコード→英ブラウン金文字盤
「自分の録音を聴くとがっかりする。予想した通りの音にしか出会えぬからだ。何の新鮮さも、予想外のことも味わえぬつまらなさ …… 」 ― 1970年に万博でようやく来日が実現するまで、「幻のピアニスト」といわれていたソ連の大ピアニスト、スヴァトスラフ・リヒテルは1973年2度目の来日をし、今度は日程にもゆとりを持たせて、じっくりと至芸を味わせてくれた。チャイコフスキーのピアノ・ソナタは演奏時間30分、至難な技巧を要求する大作ですが、あまり人気がありません。しかしリヒテルの強靭な技巧と語り口の巧さで、いつの間にか引き込まれてしまいます。この作品の印象を変える演奏と申せましょう。リヒテルの最大の武器は明確なタッチで、鍵盤の底まで押し込んでいるかのような、強い打鍵がフォルテを明確に響かせるが決して重苦しくならない。また弱音の美しい響きは繊細な感情を生かしている。強い意思にもとづく解釈と豊かな表現力が結びついた演奏である。本盤はロシアの巨人リヒテルが1960年代に初めてヨーロッパに現れ、各地でセンセーションを巻き起こした頃のライヴ録音です。有名なソフィア・リサイタルより少し前のものですが、丁寧かつ精神的な深みを感じさせる演奏でリヒテルの凄さを改めて実感できます。シューマンのピアノ曲がもっている多様性は、リヒテル自身の芸の多様性を発揮する場としても打って付けなのであろう。1956年から1967年のかけてのリヒテルの演奏会のプログラムに一通り目を通す機会があったけれども、その間を通じてだいたい毎年むらなく取り上げている作曲家はシューマンとプロコフィエフぐらいのものであった。そして面白いことに1957〜58年のシーズンにはよくシューベルトとリストだけの曲目でリサイタルを開いていたのに、その後リストはともかくとしてシューベルトをあまり弾かなくなり、その代わりに、それまであまり取り上げなかったベートーヴェンを積極的に取り上げる年、バッハに集中的に打ち込んだ年、モーツァルトの年などが見られるようになっている。こうしてみるとシューマンとリヒテルの間には、作曲と演奏の違いはあるにしても性格的にも、また、芸術創造の過程などにおいても、いろいろ共通点がありそうな気がしてくる。リヒテルの曲目の組み方が「ベートーヴェンの年」になったり、「バッハの年」になったり、また、「モーツァルトの年」になる点はシューマンの作曲が「歌の年」になったり、「室内楽の年」になったり、また、ホルンを使った曲をたてつづけに書いた年があったりしたのを思い出すし、彼らの一つのことに熱中し出しすと他のことを忘れてしまいがちな性格の現れなのであろう。このレコードでリヒテルは、彼の個性の振り幅の両極の状態をさらけ出してみせる。
「20世紀のピアノの巨人」と称されるロシアの名ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル(1915.3.20~1987.8.1)。1950年に初めて東欧で公演も行うようになり、一部の録音や評価は西側諸国でも認識されていた。しかし、冷戦で対立していた西側諸国への演奏旅行はなかなか当局から許可が下りなかった。リヒテルは1941年に父親をソ連当局によって銃殺されており、母親は第二次世界大戦の末期にドイツに移住していた。このため、当局は西側への旅行を認めた場合に彼が亡命することを警戒していたともいわれる。そのため、西側諸国ではその評判が伝わるのみで実像を知ることができず、「幻のピアニスト」とも称されるようになった。ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待ってください」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てた。リヒテルのレパートリーはバッハから20世紀の同時代の音楽まで多岐にわたる、それぞれに個性的かつ巨大な演奏解釈を披露した文字通り「ピアノの巨人」的存在でした。そうした膨大なレパートリーを誇る一方で、独自の見識に基づいて作品を厳選していたことも特徴的で演奏する曲は限られている。例えばベートーヴェンのピアノソナタで言えば第14番や第21番のような人気曲を意図して演奏しなかったし、5曲の協奏曲の中では第1番と第3番のみをレパートリーにしていた。ショパンの練習曲やドビュッシーの前奏曲、ラフマニノフの前奏曲などでも一部の曲を演奏していない。これはグールドが完璧な曲を自分が演奏するものではないと録音しなかったことに近い動機ではないだろうか。そして録音嫌いとして知られていたにもかかわらず、ライブ録音によるものも含めると結果的には発売された録音の点数は他のどのピアニストよりも多いのではないかと思われるほど、多数の録音が残されている点でも破格の存在といえるでしょう。リヒテルが残した録音の中でも、おそらくソフィア・ライヴの「展覧会の絵」(PHILIPS)やバッハの「平均律クラヴィア曲集」全曲(RCA)と並んで最も有名な演奏が、ドイツ・グラモフォンのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番です。リヒテルのピアノ演奏は、西側にデビューして間もない時期の録音なので、技術的にも全盛期ながら、むらっけのあるピアニストの姿が良く反映していて迸る熱気が伝わってくる。ワルシャワでのドイツ・グラモフォンとの録音セッションでエンジニアを務めたハインツ・ヴィルトハーゲンは、この時使用したピアノについての証言を残している。スタッフが現地で調達したピアノはタッチにひどくむらのある粗悪な代物で、スタッフは当然リヒテルに拒否されるものと考えた。しかし彼は黙ってピアノの前に座るとキーの感触を一つ一つ確かめながら、むらなく聴こえるようになるまで練習し難のあるピアノを自在に操ったという。
本盤が登場する数年前までスヴィアトスラフ・リフテルの名前は鉄のカーテンの内側に深く閉ざされた伝説的存在として知られていた。1950年代の中頃から、西欧に対するソ連の目覚ましい芸術攻勢が、とくにこの国を代表する名演奏家たちの国外への相次ぐ演奏旅行によって切って落とされた。ヴァイオリンのオイストラフ親子、コーガン、ピアノのオボーリン、ギトリス、アシュケナージ、チェロのロストロポヴィッチ、さらにレニングラード・フィルハーモニックなどのオーケストラからボリショイ歌劇場の主要メンバーに至るまで、ソ連の楽団は質量ともに西欧諸国の驚異となった。これらの一流演奏家たちは、与えられた賛辞に対して、こう答えるものが多かった。“その言葉はリフテルを聴くまでとっておきなさい”。こうしたことが、リフテルの神秘性を一層濃くさせ、おそらく、彼こそソ連楽壇のとっておきの切り札と目されるようになったのである。1960年10月15日、ボストンでリフテルは初の西欧へのデビュー演奏会に登場する。リフテルにまつわる神秘のヴェールはついに取り払われたのである。リフテルはソ連楽壇の切り札というにはとどまらず、まさに世界楽壇の切り札であることをこの演奏会で実証した。1960年の西欧の音楽界における最もセンセイショナルなトピックとしてリフテルの西欧デビューがあげられたのは当然といえよう。以来、リフテルは毎年、欧米各国への演奏旅行を行い、名実ともに世界最高のピアニストとして讃えられている。リフテルは1956年はじめ、ソ連国外での演奏を行った。プラハ音楽祭への出場で〈現代のリスト〉と激賞され、中国まで足を伸ばしている。この時あたりから彼の名声が西欧にも伝わり始めた。だが、オボーリンやギレリスのように1950年代から西欧諸国に活躍しなかったので、いろいろな憶測を生んだり、レコードを通じて名声が伝説的になったりもした。1958年にオーマンディの率いるフィラデルフィア管弦楽団の訪ソ連演奏旅行の折、レニングラードでプロコフィエフの第5協奏曲を弾いて協演してアメリカの楽人を驚嘆せしめ、この年チャイコフスキー・コンクールに渡米したアメリカのピアニスト、クライバーンはリフテルの演奏を聴いて泣いて感動したという。このようなエピソードが積もり積もって、リフテルの名声は伝説的な神秘の色さえたたえていたのである。1960年のフィンランド訪問を皮切りとして、ようやく西側へも演奏旅行を行うようになり、すでにアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリアなどを訪問、行く先々で絶賛の嵐を巻き起こし、〈伝説が現実になった〉などといわれた。英グラモフォン誌上でロジャー・フィスクは次のように評した。《リフテルのシューマンは、他に比肩できるピアニストはいない。彼の驚嘆すべきヴィルトゥオシティと感情にあふれた詩的表現は、ともにシューマンの最良のピアノ曲において不可欠な要素であり、その見事な演奏は抵抗しがたい感銘に満ちている。》これは、シューマンのレコードでも特筆に値するという以上に、世紀のレコードというべきであろう。
痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。 ― ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』
スヴャトスラフ・リヒテルのピアノソロは隔絶した高みにいるので、その内面からくる音楽解釈の深さと卓越した技巧により常に私たちを魅了し続けており、現在でも多くの音楽ファンは楽曲の本質的な演奏をリヒテルに求めています。ロベルト・シューマン(1810〜1856)の作品と、その作曲年代を概観してみると、まず最初に気づくことは各ジャンルの作品が、ある一定の年に集中していることである。例えば彼の多くの歌曲は1840年に作曲されており、その年は「歌曲の年」とも呼ばれている。また1841年には「春」の名前で親しまれている交響曲第1番をはじめとする彼の管弦楽作品の代表的なものが集まっている。さらに彼の代表的な室内楽の作品は1842年に集中しており、その年は「室内楽の年」とも呼ばれている。もちろん例外もいくつかあるのだけれど。シューマンのこうした集中攻撃的な才能の爆発の仕方は彼の音楽全体の在り方を考えるうえで、極めて興味深いことであるといえよう。そのようなことと比較すると、彼の音楽の代表的分野であるピアノ作品は、ある一定の年に集中するということが、どちらかといえば少ない。彼の生涯を通して、ピアノ作品は殆どいつでも作曲されていたという傾向が強い。最晩年になると作品も少なくなってくるが、それは彼の病と無関係ではないのだろう。こうした事実は、シューマンのピアノという楽器に対する特別な愛着を端的に物語っているということが出来るだろう。ピアニストを目指して、指を痛めてしまうまで猛練習を繰り返した若き日から、シューマンにとってピアノという楽器は他の何にもまして身近なものとして、彼に寄り添っていたのだった。作曲家としてのシューマンの内実をピアノ以上に雄弁に語った楽器はなかったといっても、決して誇大な表現となることはないのである。
スヴャトスラフ・リヒテルはバックハウスやアラウの系統に属するピアニストだと思う。この3人に共通するのはピアニズムの冴えというか、タッチや音色のクールで胸のすくような美しさを聴かせるよりは、音楽そのものの厚味を最も大切にしていることであろう。従って彼等はモーツァルトやショパンやラヴェル、ドビュッシーなどはあまり得意にしていない。スケールの大きい、交響的な作品にこそ真価を発揮するのである。リヒテルの演奏で特筆すべきは壮大さを生かすべき弱音の繊細さが際立っている点で、精神の深味や詩情、ひっそりとした寂しさの表出が独壇場だ。さて、ここまでのリヒテルの略歴を書いておこう。スヴァトスラフ・リヒテルは1915年3月20日、ウクライナのジトミールに生まれた。父はポーランド生まれのドイツ人でウィーン音楽院に学んだが法に触れる決闘をしたため、ウクライナに逃れてオルガンとピアノを教えた。母は父の教え子である。しかしリヒテルは殆ど独学で音楽を勉強し、オデッサ歌劇場の伴奏ピアニスト、練習指揮者に採用された。リヒテルの志望は指揮者になることだった。特に読譜力に優れ、交響曲や管弦楽曲の総譜を見ながらピアノで弾く能力に抜群なものを見せ、1933年から37年までオデッサ歌劇場とバレエ劇場のリハーサル・ピアニストを務めていた。この時リヒテルが人差し指と小指の間で楽々とオクターヴの鍵盤を押さえている奏法を見てすっかり驚いた人たちが、むしろピアニストになるべきだとすすめた。1934年、19歳の時オール・ショパン・プログラムで初の公開演奏を行ったが、これが大成功で本格的なピアニストになることを決意、1937年モスクワ音楽院に入学、ゲンリフ・ネイガウス教授に師事した。ネイガウスはリヒテルの才能に驚きプロコフィエフを紹介、その結果1940年リヒテルはプロコフィエフの「ピアノ・ソナタ第6番」を初演することになったが、これが彼のモスクワ・デビューとなり大センセーションを巻き起こした。そして1945年には全ソヴィエト音楽コンクールで優勝、47年に音楽院を卒業したが、この時リヒテルはすでに32歳になっていた。以上のような経歴からも本盤録音時のリヒテルの特質を充分に伺うことができよう。リヒテルがソ連国外で演奏したのは1950年のことで、それ以後東側の共産圏には時折登場するようになりましたが、西側に一部の録音や評判が伝えられるのみでその実態がなかなか把握されず「幻のピアニスト」とされていました。1950年にはスターリン賞 ― 現在の国家賞第1等を受賞、1960年初めてアメリカを訪問して以来、世界各国にその姿を見せることになったのである。更に、これらの録音が西側で広く発売されるにつれて、リヒテルは「現代最高の巨匠ピアニスト」と位置づけられるようになって、その名声は頂点に達したのでした。その頃はリフテルと表記されていたリヒテルのピアノには外面的な華やかさも、これ見よがしのハッタリもないが雄大なダイナミックと体中の感情を込め切ったような盛り上がり、ほのかに漂う詩情は言葉に尽くせない。ここには情感に溢れていない部分は一箇所もない、と断言し得るのである。20歳過ぎてから本格的なピアノの勉強をはじめて、これほど大成をした名手は稀といって良いであろう。そこに、リヒテルがはかり知れぬ天分と音楽性の持ち主であることを物語っているといえよう。
1週間以上もあなたに手紙を書いていませんでしたね。でも私はあなたの夢を見て、これまで経験したことのないほどの愛をもってあなたのことを想っています。ピアノの前に座っては、いっぺんに作曲しつつは文章を書き、笑いながら泣く毎日です。あなたにはこれらが全部、私の Op.20 のグランド・フモレスケの中に美しく書き表されているのがわかることでしょう。曲はもう楽譜屋の手の中にあります。
結婚一年前、1839年3月11日に書かれたシューマンのクララへの手紙より私はこの世で起きるあらゆることから影響を受けて(……)その気持ちを表現したいと思っていたところ、音楽の中で表すという方法を見つけたのです。そのため私の楽曲は時に理解しがたいですが、それは音楽が色々な興味と結び付けられているからなのです。シューマンの最も内省的な面の現れとして《フモレスケ》作品20の第2部に見られる「Innere Stimme=内なる声」を挙げたいと思います。三段譜表の中段に「内なる声Innere Stimme」と書かれた旋律の存在である。上段は右手で、下段は左手で奏されるが、中段の旋律は演奏されない。中段に書かれた「内なる声」である音符は実際には演奏されず、ただ心の中で静かに歌われるべき旋律を意味しています。現実的な音響とは関係ないこうした書法や、モットーとしての詩の提示はシューマン独自の詩的世界の現れであり、シューマン以外ではほとんど考えられないことだと思います。コラール風の旋律にも強弱変化をつけると、音価を引き伸ばされた「内なる声」は、歌うように、音を伸ばしたり大きくしたり減衰したりできる「声」として聞こえてくるのである。その一方で、シューマンはこの「一つの静かな音」とはクララであると彼女への手紙の中で書いています。シューマンにとっての「一つの静かな音」が自分自身の心の声なのか、クララのことを指しているのか断定することはもちろんできません。しかしロマン派の時代とは比較にならないくらい生活のおけるあらゆる点で進歩を遂げ、ほとんどの情報や物をすぐに手にできることができる私たちにとって、世界がますます雑多な音に満ち溢れ、どこかで静かに鳴っているはずの一つの音に耳をすますことが難しくなっていることは間違いないでしょう。
ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。ロベルト16才の年にその父親が亡くなり安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で名ピアニストだったクララ・ヴィーク(シューマン)と恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってJ.S.バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。
1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がシューマンの精神に好影響をあたえたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。しかし、1853年11月には楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことでブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。このブラームスの出現は晩年のシューマンにとって音楽の未来を託すべき希望であったとされていますが、一方では妻クララとの不倫疑惑に悩まされるという相反する感情を生じてしまい、この希望と絶望が、シューマンの精神に決定的なダメージを与えたとされています。1854年に入ると病は著しく悪化、2月27日、ついにライン川に投身自殺を図ります。一命をとりとめたものの、その後はボン・エンデ二ッヒの精神病院に収容され回復しないまま、1856年7月29日にこの世を去りました。精神病院で常に口にし、また最後となった言葉は「私は知っている。(Ich weis)」であったと言われています。作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至るまで務めます。これに先立つ1831年、同い年のフレデリック・ショパンの才能をいち早く見出した「作品2」と題された評論の中の「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉はあまりにも有名。その他にも、メンデルスゾーンを擁護し、バッハ全集の出版を呼びかけ、若き日のブラームスを発掘したのも、エクトール・ベルリオーズをドイツに紹介したのもシューマンでした。特に、フランツ・シューベルトの埋もれていた「天国的に長い」ハ長調交響曲『グレート』を発見したことは、音楽史上の大成果と言えるでしょう。
ソナタ ト長調 op.37:1954年12月6日モスクワ、ユモレスク 変ロ長調 op.20:1955年6月20日モスクワでのライヴ録音。
GB PALA PMA1044 スヴャトスラフ・リヒテル シューマン…
GB PALA PMA1044 スヴャトスラフ・リヒテル シューマン…