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ウィーンの香り・若きパドゥラ=スコダが鬼才シェルヘン指揮のもと、名門ウィーン国立歌劇場管との魅力の顔合せ。 ― と謳い文句ではあったが ― 憶測を含みますが ― ウィーン国立歌劇場管弦楽団の名称は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体であるスターツ・オーパーのオーケストラを指しているのではなく、同じウィーンでもフォルクス・オーパーのメンバーを中心に録音のために編成したようです。パウル・パドゥラ=スコダのレパートリーは大変広いが、中で最も素晴しいのはやはりモーツァルト、シューベルト、ベートーヴェンなどウィーン古典派音楽、及びシューマン、ショパン、ドビュッシーなどロマン派音楽である。戦後、音楽の都ウィーンで3人の若く優秀なピアニストが揃って巣立った。それがフリードリッヒ・グルダ、イエルク・デムス、そしてバドゥラ=スコダで、以後誰がつけたか「ウィーン三羽烏」と称するようになった。なかでは一番精力的、モーツァルトの校訂など学術的な活動もこなすバドゥラ=スコダ。3人の中でも最も多く日本で演奏会を持ったのはバドゥラ=スコダで、リサイタルも津々浦々まで出向き、NHK交響楽団や東京都交響楽団とも何度も共演してファンを喜ばせている。1927年にウィーンで生まれ。ウィーン音楽学校に入学した2年後、オーストリア音楽コンクールで優勝し、エドウィン・フィッシャーに師事。フィッシャーの死後、ウィーンやザルツブルク、エディンバラ、シエナでマスタークラスの伝統を続けていった。1949年、ウィルヘルム・フルトヴェングラーとヘルベルト・フォン・カラヤンが、バドゥラ=スコダの並外れた才能に注目し、ザルツブルク・フェスティバルで衝撃的なデビューを果たす。続いてニューヨーク、東京のリサイタルでもセンセーションを起こした。また、演奏活動に加えて、指揮、作曲、執筆活動にも携わるほか、膨大な量の自筆譜や初版のマイクロフィルム、歴史的な様々な鍵盤楽器のコレクションも行う。今日でも彼は、自分の貴重な時間と情熱を若い音楽家の育成に捧げ、熱心にアドヴァイスをしている。〝生きたヒストリカル〟。録音数は膨大で、200点以上に達するが、ウィーン古典派、とりわけモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの専門家である。彼のLPレコードは何年もの間、ピアニストとして発売枚数第1位を保持した。ウィーンの伝統を知る男。御年91歳。一時期は引退もささやかれ、日本ではさよならツアーと銘打って公演がされたこともありました。本人も弱気になり、もうそろそろ引退しようか、そういう思いだった時期もあるそうです。しかしながら、古くからの知人であるワンおばちゃんがバドゥラ=スコダを励ました結果、再び老巨匠のやる気はチャージされ、老いてなおますます盛ん。すでに膨大な録音を残しているにもかかわらず、現在もレコーディングを続け、最近では、アストレー・レーベルからドビュッシーとブラームスをレリースし、3度目のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲も録音している。また、モーツァルトの協奏曲の全曲録音も進行中である。そんな彼の録音全体を追うとレコード媒体の歴史を語ることもできそうに思える。盟友デームスが亡くなり、同じく高齢のピアニスト、メナヘム・プレスラーも体調に不安をかかえ今年の夏までの公演すべてをキャンセルしたのに対し、バドゥラ=スコダは元気いっぱい。元気があふれる男は、今年も来日する。
シェルヘンは、スイスの指揮者だが、シュトックハウゼンやクセナキスらの作品を積極的に紹介し、現代音楽の受容に大きな働きをした。「奇人変人とんでも指揮者」というレッテルを貼られたシェルヘンだが、いまだこうしてカタログに生き延びているのを見るにつけ、わけも無く頼もしくなる。時はノイエザッハリッヒカイトの波が音楽の分野にも波及して、19世紀的美意識から新しい客観の表現に遷移する時代になされた一つの方向指示の現われだったのではないか。SPからLPという完成された音響媒体で広く世間に行き渡るようになった新時代である。やがてLPがステレオに移行する1950年代後半から、シェルヘンは楽譜依存の表現様式を棄てたと思われる。このころ彼は、誰がやっても大同小異の演奏行為に決別した。音楽のフォーマルな装いを脱ぎ捨て、自身のコーディネイトでその時代に生きる装いを創り上げようとしたとしか思えない。ベートーヴェンでは、過去数百年の演奏からスコア上に堆積された、慣習を一掃しようとした。その根底にあった「間違い」と言われ続けてきたメトロノーム記号を全面的に信頼し実践したことや、場合によってはデフォルメも辞さなかった作品解釈の面白さでも知られています。これほどまでに「露わな」音楽は聴いたことがない、デモーニッシュさ、弾力性が感じられる、疾風怒濤の表現主義を極めた凄演として異彩を放っている。ヘヴィ・メタルの精神で奏でたベートーヴェンと言ったらいいだろうか。猛烈なスピードと過激なデュナーミクが持ち味のシェルヘンの魅力が満載盤。同じように感情をぶつける演奏をするトスカニーニのベートーヴェンを快演と表現すれば、シェルヘンのそれは、まさに怪演と表現すべきものである。米ウェストミンスターがどういう理由で彼に白羽の矢を射たかは知る由もないが、ただ、ウェストミンスターで用意したオーケストラの多くは、話半分にシェルヘンの演奏に付き合っていた風なものもあり、名門のウィーン国立歌劇場管弦楽団が客演と言う立場ではあったにせよ、彼を迎え入れて相当量の録音を残したと言うのも推しも押されぬ客観的事実として捉えられる。モノラル時代の好演奏として今でも評価に耐えうる立派な記録として価値をとどめているが、即物主義的な演奏様式をとった正攻法のベートーヴェンであった。表現主義の熱い洗礼を受けたドイツの指揮者、ヘルマン・シェルヘン(1891〜1966)は、20世紀音楽の旗手として演奏、作曲、著述だけでなく、音楽雑誌『メロス』の創刊、電子スタジオを設立して現代音楽の推進にも活躍していましたが、活動の主軸はバッハやハイドン、ベートーヴェンといった古典作品の演奏に独自の主張を盛り込んだことでも知られており、そのキャパシティは実に広大なものだった。〈哲学が終わる時、音楽が始まる〉とヘルマン・ヘッセはいっているが、この名句は、音楽に対する伝統的なドイツ人の態度を見事にいい現している。偉大な哲学者=音楽家の最後の巨匠であるシェルヘンは、1891年6月21日、ベルリンに生まれた。幼少の頃からヴァイオリンとヴィオラを学び、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のヴィオラ奏者として、アルトゥール・ニキシュ、カール・ムック、リヒャルト・シュトラウス等の偉大な指揮者の下で演奏した。20歳のとき指揮棒をとり、1920年ベルリンに新音楽協会を設立、現代音楽の紹介に奮闘した。1924年、ベルクのオペラ《ヴォツェック》の上演がまだ不可能であった頃、シェルヘンは初めてその組曲を演奏して、オペラ初演のきっかけを作った。一方では、シェルヘンはバッハ、ヘンデル及びベートーヴェンの権威者としての地位を固めていった。やがて、ナチスの擡頭につれ、ドイツでは1933年に現代音楽は公式に禁止され、ユダヤ人音楽家の排斥が始まった。シェルヘンは純粋なアーリア人であり、ユダヤ人排斥を利用し得る立場にあったにもかかわらず、ナチに抵抗し、リハーサルの際も、楽団員に対して、ナチの公式の挨拶だった〈ハイル・ヒトラー!〉を絶対口にしなかったという。ナチと相容れぬシェルヘンは遂にドイツを去り、スイスに居を構え、フランス、ベルギー、ハンガリーなど、芸術の自由に恵まれている諸国で活躍した。
シェルヘンの芸術は数多くのレコード録音と共に全世界に知られるようになったが、巨匠のアメリカ・デビューは、彼が73歳を迎えた1964年にようやく実現を見たのである。彼は1964年11月2日、フィラデルフィア管弦楽団の定期を振り、翌日ニューヨークでも同じ曲目を演奏した。曲目は、ハイドンの《交響曲第49番》とマーラーの巨大な《交響曲第5番》の2曲だった。続いて、シェルヘンはニューヨークのフィルハーモニック・ホールで、彼のために特別に編成されたオーケストラを指揮して、《ヘルマン・シェルヘンのポートレート》と銘打たれた7回の連続演奏会を行った。オール・バッハ・プログラムから始まった連続公演はウィーンの12音楽派で終わりを告げ、シェルヘンの偉大にしてユニークな音楽哲学はアメリカの楽界に深遠な反響を呼び覚ました。多忙な指揮活動と研究の傍ら、シェルヘンは暇を惜しんで読書と著作に勤しんでいる。名著《指揮者必携》(1929年)はすでに指揮法の古典として知られ、《音楽の本質》(1946年)は巨匠の音楽哲学の一端を示す好著である。指揮について、シェルヘンは1964年11月、ニューヨークでの談話でこう語っている。『指揮者は楽曲解釈に際して徒に個人的な感情の赴くままに指揮してはならない。指揮者は作品という音楽の建築物の中に隠されている内的な手がかりを探さなければならない。純粋に器楽的な構成と同様に一つの楽曲の全体のあり方(Gestalt)に波長を合わさなくてはならない。』シェルヘンは後年スイスのグラヴェサーノという山村に居を構えている。そこはルガーノ湖より高いアルプスの谷間にある寒村である。住居の傍らに電子音楽装置を持つラボラトリーを持ち、シェルヘンは新しい音響の可能性について研究を進めていた。1936年以来、チューリッヒ放送管弦楽団の指揮者を務めていた頃、シェルヘンはチューリッヒ工科大学で電子工学を学ぶため若い大学生と席を並べた。その時、高等数学の指導役を務めた同大学の若い卒業生がシェルヘン夫人となり、5人の子供たちと共に暮らした。1954年9月録音。まず驚くのが、腹に響く重低音。モノーラル録音の完成期を実感する。ステレオ録音へ移行する時期は画期的な録音実験が実践されていた。その録音技術のアイデアだけではなく、シェルヘンの音符を直接音にするというよりは、曲の構造を俯瞰して、各楽章を明確に描きわけ、また、曲の構造を解析して聴かせる、情緒に溺れない毅然としたフレージングが効果をあげている。シェルヘンは戦後のヨーロッパで積極的な活動を展開していたアメリカのウェストミンスター・レーベルのメイン・アーティストとして膨大なアルバムをセッション録音で制作していますが、それら個性的な演奏の数々はまさに宝の山。
1949年にニューヨークで創設され、短期間に綺羅星のごとく名録音の数々を残したウエストミンスター・レーベル。創設の中心メンバーであったジェイムズ・グレイソンがイギリス人で、もともとロンドンのウエストミンスターのそばに住んでいたので、「ウエストミンスター」と命名されました。戦後のオーストリアで実施された通貨改革で、通貨のシリングが約53%切り下げとなったことをチャンスと捉え、ウィーンでのレコーディングを大量に行っていった。創設当初の中心的なアーティストは、ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団、ウィーン・フィルハーモニー木管グループで、1952年からはこれにバリリ四重奏団が加わりました。彼らはみなウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など、ウィーンで活躍していた演奏家たちでした。1950年にデッカに次ぐ英国レーベル会社として設立された ― 独自録音が英国の風情を感じさせるレーベルでコレクターの根強い支持を得ている ― PYE・NIXAとの共同でヨーロッパ録音も多く、ウェストミンスターは佳盤の宝庫。EMIから加わった、デレク・ムーアは秀でた才能を発揮して、カッティングルームに多くのイノヴェーションを引起こし、このレーベルの再生音の水準を引き上げている。ワルター・バリリが参加したベートーヴェンの七重奏曲やミンドゥル・カッツのピアノ録音、サー・エイドリアン・ボールトのスッペなど好音質盤が連なる。ソリスト達が妙技を披露している、埋もれてしまうには惜しい演奏のレコードばかりです。
  • Record Karte
  • 1952年録音。
  • GB NIXA WLP5209 スコダ・シェルヘン・ウィーン国立歌劇…
  • GB NIXA WLP5209 スコダ・シェルヘン・ウィーン国立歌劇…