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音楽は、誰もが抱く、こういう人生を送りたいというような夢やあこがれを象徴しています。 ― 夕暮れは、昼から暗い夜に変わる転換点。夜になっていないが、そう長くは続かないとき。つまり時間の経過や年齢を想起させます。登場人物は、夢や信じていた可能性と、現実やあきらめのはざまで揺れていますが、それは現実の自分をあざむいていることでもあるわけです。舞台はイタリア。ハンガリー出身の若いチェロ奏者ティボールの前に、謎の〝チェロの大家〟エロイーズが現れ、自信過剰の彼のチェロ演奏を一言で粉砕、個人指導することになる。彼女の指導はたいそう的確で、ティボールは腕を上げていく。エロイーズは彼の前で決してチェロを弾かない。それどころか楽器を持っている様子もない。なぜなのか?やがてティポールに、ホテルで演奏する室内アンサンブルへの就職話が持ち上がる。芸術家としての上達を自覚していたティボールには、これを受け入れることに躊躇するのだが、エロイーズの「秘密」を知った彼は動揺する。晩年のブラームスが作品に込めた多くの要素が、聴き手にやや難しさを感じさせるだけではなく、実際の演奏でもアンサンブルの正確さに必死になる余り、力任せに演奏してしまって、音楽的な面白さを表現しきれないことがよくある。技法的にも優れ枯淡の味を滲ませた《二重協奏曲》は晩年の名作として知られています。これは作曲の年にトゥーンに到着してから、すぐに友人の音楽研究家フェルディナント・ポールが死去した知らせを受けて大いにブラームスが落胆したことと、また外科医で友人のビルロートが肺炎で危篤になり幸いにも一命は取り留めたが、ブラームスに人生の無情を感じさせたことなどと関係がありそうです。クララ・シューマンは、この曲をブラームスとヨアヒムの「和解の協奏曲」と評したことがあったが、この和解は実はヨアヒムと、その夫人のことも指していた。《二重協奏曲》は元来、第5番の交響曲として設計されたものだったが、当時ブラームスが年来の親友だった大ヴァイオリニストのヨアヒムと不和になっていて、その相互に硬化した感情を、この際ヨアヒムに意見を求めながら書いて軟化させようと考えたことが大きな原因だった。そしてチェロのパートについては、ヨアヒム弦楽四重奏団のメンバーである優れたチェロ奏者のハウスマンに何回となく意見を求めた。ブラームスはヨアヒムとの不和の原因がヨアヒム夫人のことにあったため、ここでヴァイオリンを優れた歌手である夫人に例え、チェロをヨアヒムに見立てて ― 2人のソリストは時に寄り添い、時に激しくぶつかり合い、と実際の夫婦の縮図 ― 両者が仲良く進んでゆくように設計した。ブラームスはこの曲に「夫婦」の意味を込めて書いたとも言われています。このヨアヒムの役回りを、本盤で演奏するのが、11歳でパブロ・カザルスに認められフランスに留学したアントニオ・ヤニグロ(1918〜1989)は、世界恐慌と戦争の影響から、近代都市ザグレブでキャリアを構築。世代的にピエール・フルニエとムスティスラフ・ロストロポーヴィチのちょうど間に位置するチェリストであるが、ヤニグロのチェリストとして演奏活動を行った時期が第二次世界大戦を間に挟んでいるために脚光を浴び難かった、ということもいえなくもないようであった。このイタリアが生んだ名チェリストには、ユーゴスラヴィア軍によるアメリカ軍機撃墜の影響とも考えられる〝謎のジュネーヴ国際コンクール2位判定〟という物語が隠れている。然し乍ら、この事件で西側キャリアをスタート、その後は資本主義と社会主義、北半球と南半球も縦横に行き来するなど世界規模で活躍することとなります。 ヴァンガードとウェストミンスター、RCAに残したレコードは、感情と形式が鬩ぎ合って絶妙にバランスされた名演と、彼のチェロの美しい音色が、コレクターの間で話題となりました。そして、フルニエと聞いたら、まず百パーセントのクラシック・ファンが思い浮かべるだろう有名なチェロ奏者のピエール・フルニエの陰に隠れがちな弟、ジャン・フルニエ(1911~2003)が相方を務める。フランス国内はもとより、広く世界中でソリストとして注目された。その自然な演奏法と柔軟性に富んだ豊かな音色は、知的な解釈と相まって極めて仕上げの美しい演奏を生みだしました。この曲にはほかに内容的・音質的に優れた名盤があるが、チェロのヤニグロともども、抒情的な美しさが楽しめる個所も多く、聴いて損はない。
シェルヘンは、スイスの指揮者だが、シュトックハウゼンやクセナキスらの作品を積極的に紹介し、現代音楽の受容に大きな働きをした。「奇人変人とんでも指揮者」というレッテルを貼られたシェルヘンだが、いまだこうしてカタログに生き延びているのを見るにつけ、わけも無く頼もしくなる。時はノイエザッハリッヒカイトの波が音楽の分野にも波及して、19世紀的美意識から新しい客観の表現に遷移する時代になされた一つの方向指示の現われだったのではないか。SPからLPという完成された音響媒体で広く世間に行き渡るようになった新時代である。やがてLPがステレオに移行する1950年代後半から、シェルヘンは楽譜依存の表現様式を棄てたと思われる。このころ彼は、誰がやっても大同小異の演奏行為に決別した。音楽のフォーマルな装いを脱ぎ捨て、自身のコーディネイトでその時代に生きる装いを創り上げようとしたとしか思えない。ベートーヴェンでは、過去数百年の演奏からスコア上に堆積された、慣習を一掃しようとした。その根底にあった「間違い」と言われ続けてきたメトロノーム記号を全面的に信頼し実践したことや、場合によってはデフォルメも辞さなかった作品解釈の面白さでも知られています。これほどまでに「露わな」音楽は聴いたことがない、デモーニッシュさ、弾力性が感じられる、疾風怒濤の表現主義を極めた凄演として異彩を放っている。ヘヴィ・メタルの精神で奏でたベートーヴェンと言ったらいいだろうか。猛烈なスピードと過激なデュナーミクが持ち味のシェルヘンの魅力が満載盤。同じように感情をぶつける演奏をするトスカニーニのベートーヴェンを快演と表現すれば、シェルヘンのそれは、まさに怪演と表現すべきものである。米ウェストミンスターがどういう理由で彼に白羽の矢を射たかは知る由もないが、ただ、ウェストミンスターで用意したオーケストラの多くは、話半分にシェルヘンの演奏に付き合っていた風なものもあり、名門のウィーン国立歌劇場管弦楽団が客演と言う立場ではあったにせよ、彼を迎え入れて相当量の録音を残したと言うのも推しも押されぬ客観的事実として捉えられる。モノラル時代の好演奏として今でも評価に耐えうる立派な記録として価値をとどめているが、即物主義的な演奏様式をとった正攻法のベートーヴェンであった。表現主義の熱い洗礼を受けたドイツの指揮者、ヘルマン・シェルヘン(1891〜1966)は、20世紀音楽の旗手として演奏、作曲、著述だけでなく、音楽雑誌『メロス』の創刊、電子スタジオを設立して現代音楽の推進にも活躍していましたが、活動の主軸はバッハやハイドン、ベートーヴェンといった古典作品の演奏に独自の主張を盛り込んだことでも知られており、そのキャパシティは実に広大なものだった。〈哲学が終わる時、音楽が始まる〉とヘルマン・ヘッセはいっているが、この名句は、音楽に対する伝統的なドイツ人の態度を見事にいい現している。偉大な哲学者=音楽家の最後の巨匠であるシェルヘンは、1891年6月21日、ベルリンに生まれた。幼少の頃からヴァイオリンとヴィオラを学び、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のヴィオラ奏者として、アルトゥール・ニキシュ、カール・ムック、リヒャルト・シュトラウス等の偉大な指揮者の下で演奏した。20歳のとき指揮棒をとり、1920年ベルリンに新音楽協会を設立、現代音楽の紹介に奮闘した。1924年、ベルクのオペラ《ヴォツェック》の上演がまだ不可能であった頃、シェルヘンは初めてその組曲を演奏して、オペラ初演のきっかけを作った。一方では、シェルヘンはバッハ、ヘンデル及びベートーヴェンの権威者としての地位を固めていった。やがて、ナチスの擡頭につれ、ドイツでは1933年に現代音楽は公式に禁止され、ユダヤ人音楽家の排斥が始まった。シェルヘンは純粋なアーリア人であり、ユダヤ人排斥を利用し得る立場にあったにもかかわらず、ナチに抵抗し、リハーサルの際も、楽団員に対して、ナチの公式の挨拶だった〈ハイル・ヒトラー!〉を絶対口にしなかったという。ナチと相容れぬシェルヘンは遂にドイツを去り、スイスに居を構え、フランス、ベルギー、ハンガリーなど、芸術の自由に恵まれている諸国で活躍した。
シェルヘンの芸術は数多くのレコード録音と共に全世界に知られるようになったが、巨匠のアメリカ・デビューは、彼が73歳を迎えた1964年にようやく実現を見たのである。彼は1964年11月2日、フィラデルフィア管弦楽団の定期を振り、翌日ニューヨークでも同じ曲目を演奏した。曲目は、ハイドンの《交響曲第49番》とマーラーの巨大な《交響曲第5番》の2曲だった。続いて、シェルヘンはニューヨークのフィルハーモニック・ホールで、彼のために特別に編成されたオーケストラを指揮して、《ヘルマン・シェルヘンのポートレート》と銘打たれた7回の連続演奏会を行った。オール・バッハ・プログラムから始まった連続公演はウィーンの12音楽派で終わりを告げ、シェルヘンの偉大にしてユニークな音楽哲学はアメリカの楽界に深遠な反響を呼び覚ました。多忙な指揮活動と研究の傍ら、シェルヘンは暇を惜しんで読書と著作に勤しんでいる。名著《指揮者必携》(1929年)はすでに指揮法の古典として知られ、《音楽の本質》(1946年)は巨匠の音楽哲学の一端を示す好著である。指揮について、シェルヘンは1964年11月、ニューヨークでの談話でこう語っている。『指揮者は楽曲解釈に際して徒に個人的な感情の赴くままに指揮してはならない。指揮者は作品という音楽の建築物の中に隠されている内的な手がかりを探さなければならない。純粋に器楽的な構成と同様に一つの楽曲の全体のあり方(Gestalt)に波長を合わさなくてはならない。』シェルヘンは後年スイスのグラヴェサーノという山村に居を構えている。そこはルガーノ湖より高いアルプスの谷間にある寒村である。住居の傍らに電子音楽装置を持つラボラトリーを持ち、シェルヘンは新しい音響の可能性について研究を進めていた。1936年以来、チューリッヒ放送管弦楽団の指揮者を務めていた頃、シェルヘンはチューリッヒ工科大学で電子工学を学ぶため若い大学生と席を並べた。その時、高等数学の指導役を務めた同大学の若い卒業生がシェルヘン夫人となり、5人の子供たちと共に暮らした。1954年9月録音。まず驚くのが、腹に響く重低音。モノーラル録音の完成期を実感する。ステレオ録音へ移行する時期は画期的な録音実験が実践されていた。その録音技術のアイデアだけではなく、シェルヘンの音符を直接音にするというよりは、曲の構造を俯瞰して、各楽章を明確に描きわけ、また、曲の構造を解析して聴かせる、情緒に溺れない毅然としたフレージングが効果をあげている。シェルヘンは戦後のヨーロッパで積極的な活動を展開していたアメリカのウェストミンスター・レーベルのメイン・アーティストとして膨大なアルバムをセッション録音で制作していますが、それら個性的な演奏の数々はまさに宝の山。
1949年にニューヨークで創設され、短期間に綺羅星のごとく名録音の数々を残したウエストミンスター・レーベル。創設の中心メンバーであったジェイムズ・グレイソンがイギリス人で、もともとロンドンのウエストミンスターのそばに住んでいたので、「ウエストミンスター」と命名されました。戦後のオーストリアで実施された通貨改革で、通貨のシリングが約53%切り下げとなったことをチャンスと捉え、ウィーンでのレコーディングを大量に行っていった。創設当初の中心的なアーティストは、ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団、ウィーン・フィルハーモニー木管グループで、1952年からはこれにバリリ四重奏団が加わりました。彼らはみなウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など、ウィーンで活躍していた演奏家たちでした。1950年にデッカに次ぐ英国レーベル会社として設立された ― 独自録音が英国の風情を感じさせるレーベルでコレクターの根強い支持を得ている ― PYE・NIXAとの共同でヨーロッパ録音も多く、ウェストミンスターは佳盤の宝庫。EMIから加わった、デレク・ムーアは秀でた才能を発揮して、カッティングルームに多くのイノヴェーションを引起こし、このレーベルの再生音の水準を引き上げている。ワルター・バリリが参加したベートーヴェンの七重奏曲やミンドゥル・カッツのピアノ録音、サー・エイドリアン・ボールトのスッペなど好音質盤が連なる。ソリスト達が妙技を披露している、埋もれてしまうには惜しい演奏のレコードばかりです。
  • Record Karte
  • 1951年10月、Westminster録音。
  • GB NIXA WLP5117 ジャン フルニエ・ヤニグロ・シェルヘ…
  • GB NIXA WLP5117 ジャン フルニエ・ヤニグロ・シェルヘ…