34-5185

商品番号 34-5185

通販レコード→英ダーク・レッド銀文字盤

好音質盤と知られる〝ボールトのスッペ〟 ― ジャック・オッフェンバックのオペレッタに触れ、ウィーンで初めてオペレッタを手掛けた。このことからスッペは「ウィンナ・オペレッタの父」と呼ばれることもある。スッペのオペレッタのうち、《ボッカチオ》と「ドンナ・フアニータ」の2曲がニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも上演されたが、レパートリーに定着することはできなかった。しかしヨーロッパでは一定の頻度で上演が続いており、生涯イタリア・オペラとカルメンに徹し、ドイツ物はほとんど歌わなかった大歌手マリア・カラスのデビュー演目が、《ボッカチオ》であったことは忘れてはいけない。フランツ・フォン・スッペは、オーストリアの作曲家。本名はイタリア語風のフランチェスコ・エゼキエーレ・エルメネジルド・スッペ=デメッリと長い名前で、ウィーン在住中に氏名をドイツ語風に簡略化し、さらにイタリア語で騎士階級を示す〝Cavaliere〟に代えて〝von〟を用いるようになった。遠戚にガエターノ・ドニゼッティがいる。18世紀にダルマチア地方スプリトに移住したベルギー系貴族の生まれ。郷里のダルマチアとの縁を守り続け、フヴァル島で起こった事件に基づいているオペラ『水夫の帰国』がある。指揮活動を引退してからもオペラの作曲を続けたが、宗教音楽に傾向している。スッペは30曲のオペレッタのほか、バレエ音楽など多数の舞台音楽を作曲した。それらの大部分が忘却に追いやられている中で、《軽騎兵》や《詩人と農夫》の序曲は起伏を大きくとって豪快にオーケストラを鳴らす傾向があり、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ゲオルク・ショルティ、オトマール・スウィトナーといった重厚長大系のレパートリーを得意とする大指揮者が好んでスッペの序曲だけを集めてレコード録音している。英PYE・NIXAとひとくくりで呼ばれることが多いレーベルですが、1950年にDECCAに次ぐ英国レーベル会社として設立されたNIXA。その後テレビやラジオの販売会社であったPYEにより買収され、1956年にPYE・NIXAとなり、1959年にPYE RECORDSと名前を替え、最終的にPYEグループごとEMIに買収されることになります。買収により、録音技術陣にロバート・オージェとEMIからデレク・ムーアを迎える。後者は秀でた才能を発揮して、カッティングルームに多くのイノヴェーションを引起こし、このレーベルの再生音の水準を引き上げている。この頃のPYE盤はたしかに好音質盤が連なる。EMI、Decca、英Philipsとともに英国4大レーベルで括られるが、大資本の他3社に比べると比較的小規模なレーベルだった。でも、なんといっても、NIXAの独自録音はこのレーベルの最大の魅力でサー・エイドリアン・ボールト指揮によるレコードは今でも人気があります。なんとも英国の風情を感じさせるレーベルで、コレクターの根強い支持を得ています。本盤のフィルハーモニア・プロムナード管弦楽団の実態は、フィルハーモニア管弦楽団と大きな違いはないらしい。契約的な理由でこの名前が使われるようだ。特にロンドンでコンサートとして実演されるプロムナード・コンサートに出演の際の名称ではないかと思われる。〝ボールトのスッペ〟は好音質盤と知られる。この時期、ボールトは録音の最盛期を迎えていた。ミドルネイムにセドリックという名をいただく高貴な生まれであり、彼の口から発せられる英語は誰が聞いても上流階級の抑揚で流れる。ただ、音楽となると、べらんめえ。音楽となると人が変わってしまう。練習中に怒ると、ものすごい剣幕で怒鳴り散らして、すごかったらしい。第一級の演奏と言って間違いないものの、アカデミー筋からは軽くみられる傾向があることは事実。折り目正しく運んでいた音楽が、クライマックスでは芯からすさまじい力でドライヴする爆発がある。また、その逆の運び。野蛮な暴力的音楽から、其の直後にふわりとした響きなど出せる指揮者はそうはいないし、そこがボールトの面白さ。あ・うんで呼吸するオーケストラの反応。そして楽しい音楽は誰もが安心して耳を傾ける事が出来るだろう。

The Philharmonic Promenade Orchestra, Sir Adrian Boult ‎– Franz von Suppé, Ouvertures

Side-A
  1. 軽騎兵 Leichte Kavallerie, Light Cavalry
  2. 詩人と農夫 Dichter Und Bauer, Poet And Peasant
  3. ボッカチオ Boccaccio
Side-B
  1. ファティニッツァ Fatinitza
  2. ウィーンの朝・昼・晩 Ein Morgen, Ein Mittag, Ein Abend In Wien, Morning, Noon, And Night In Vienna
  3. 美しきガラテア Die schöne Galathée, The Beautiful Galathea
英国の巨匠サー・エードリアン・ボールト(Adrian Boult, 1889~1983)は「私は常に指揮をとるということは、船の船長になるようなものだと思ってきた。私には石油のドラムカンといっしょにころげまわる理由はまったくない」と言った。ボールトというと、長命だったこともあってか晩年の老成した演奏のイメージが強いのですが、1950年代までの彼は、ときにかなりアグレッシヴな演奏も行うという、爆演も辞さぬ積極的な芸風の持ち主であったことはマニアにはよく知られています。60歳代に録音されたDECCA盤は、パワフルなスタイルが印象的なものでしたが、70歳代の終わりから80歳代の始めにかけて録音されたこのEMIの録音では、DECCA盤とは対照的な切り口、泰然として動じない安定感が魅力的です。気張った部分や不要な感情移入を否定した、〝形〟としての立派さが、それぞれの作品に風格を与えているかのような雰囲気の良さが特徴的で、特に息長く張りのある大柄なフレージングは素晴らしく、風格ある雰囲気が見事に作品に適合した格調高い演奏となっています。ボールトはオックスフォード大学で音楽の学位を得たのち、ライプツィヒ音楽院でマックス・レーガーに作曲を学ぶ傍らハンス・ジットに指揮を学びますが、この地でボールトが最も感銘を受けたのは、アルトゥール・ニキシュによるリハーサルやコンサートの数々だったといいます。ボールトは20歳代初めの若い頃、ライプツィヒで偉大な指揮者ニキシュに私淑したが、晩年に至るまで讃仰の気持ちは変わることがなかった。「ニキシュは私などよりももっと簡素だった。今日、若い世代の指揮者たちには余りにも跳び回る傾向がある。もっとも、彼らはそうすることを期待されているのかもしれないがね。また最近の傾向としては、総体的な建築的構成を犠牲にしてディテール(細部)をほじくることが著しく目立っていると思う。」とは、ボールトの現代批判であるが反面、聴き手はボールトに一種の安全弁のようなものを見出していたようである。少なくともイギリス人はそうであった。ボールトが英国音楽だけでなく独墺系音楽も得意としていたのは、そうした事情が背景にあるとも思われ、これまでにも両分野での人気には絶大なものがありました。どれも堂々たる仕上がりのボールトらしい立派な演奏でリズムの弾力性の高さもボールトの多くの録音の中でも群を抜くもの。ここでもアンサンブルはかっちりと凝縮されており、極めて清潔なその響きにも酔いしれます。
英国の巨匠サー・エードリアン・ボールトは、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経てライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶ傍らゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエドワード・エルガー、グスターヴ・ホルスト、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。中でもボールトの代名詞ともいうべき作品がホルストの組曲「惑星」です。1945年のBBC響とのSP録音(EMI)を皮切りに、ボールトは生涯に「惑星」を5回録音も録音しています。1918年9月ロンドンのクイーズ・ホールにおける作品の非公開の全曲演奏(私的初演)が行われた際にホルストからの依頼で指揮をとったのがボールトであり、その成功によって「《惑星》に初めて輝きをもたらし、作曲者の感謝を受けたエイドリアン・ボールトに」という献辞の書き込まれた印刷譜を作曲者から送られています。戦後はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトはヨハン・ゼバスチャン・バッハからハヴァーガール・ブライアンまで幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽とニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。イギリス人にいわせると軍服ならぬエンビの退役将軍、あるいはパブリック・スクールの老校長を想わせるというが、姿勢の正しさと無駄のないキビキビしたジェスチュアは、まさしく老将軍といった面影をそなえている。ボールトは柔和な表情のうちに威厳を兼ね備えた、一見してイギリス人らしい風貌の持ち主である。ボールトはSPレコードが電気吹き込みになる以前の1920年代からイギリスの様々なレーベルに録音しているが、その中の大手である英EMIがボールトを発見したのは、1966年、ボールト77歳のときだった。80歳の誕生日祝いのコンサートを振った折り、ボールトはふと、こんなことをもらした。「レコード会社は、ほぼ10年ほど前に私がまだ生きていたってことに突然気づいた。こんなに忙しいのは嬉しいことだが、私がもっと元気だった、それより10年前(60歳代)に起こったらねえ」。一口にいってボールトは極めて地味な指揮者だったから、人気者で名物男だったサー・トーマス・ビーチャムが、1961年に82歳で没し、公衆のアイドルだったサー・マルコム・サージェントが1967年に72歳で没し、芸術の夕映えに輝いていたサー・ジョン・バルビローリが1970年に70歳で没したのち、ボールトが浮上していたというわけである。晩年の10年間、ボールトの録音に協力したクリストファー・ビショップの談によると、80歳代の高齢にも係わらずボールトの耳は以前としてシャープであり、老眠鏡もかけずに、こまごまとした手書きスコアを読むことができ、健康な食欲に恵まれ録音スタジオのキャンティーン(簡易食堂)で楽員たちと同じ食事をうまそうに平らげていたそうである。
  • Record Karte
  • 1956年初出、WESTMINSTER/PYE共同制作
  • GB NIXA NCL16012 ボール スッペ・序曲集
Overtures
Suppe
Capitol
1992-04-14