34-6567

商品番号 34-6567

通販レコード→英ダーク・マルーン銀文字盤(EMIヘイズ工場プレス)Olympian Series

「あれ、聞いたことがある」が、ここにはあります。 ― 昨年、ハンガリー出身の名指揮者アンタル・ドラティが没後30年を迎えました。米マーキュリーは、LPレコード時代に珍しい保守的な近現代音楽を楽しましてくれた懐かしいレーベル。本盤は、ヨハン・シュトラウス2世の作品を新たに編集したバレエ音楽《卒業記念舞踏会》と、オッフェンバックのバレエ《パリの喜び》も、ロザンタールによってバレエ音楽に組み上げなおされたものです。ドラティのイメージにはそぐわない感じのウィンナ・ワルツですが、生地ブダペストは1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国に属していたので、1906年生まれのドラティにとって、10歳代はじめまでは母国の音楽であったということにもなります。ドラティはブダペストのフランツ・リスト音楽院で作曲をコダーイとヴェイネルに、ピアノをバルトークに学び、1924年にハンガリー国立歌劇場にて指揮デビュー。その後、ドレスデンとミュンスターの歌劇場で働きましたが、ナチスの台頭によりドイツを去ります。1934年にバレエ・リュス・ド・モンテカルロの指揮者に加わると、指揮と作曲の両面で活躍。1940年2月にはヨハン・シュトラウス2世のワルツやポルカをアレンジしたバレエ《卒業記念舞踏会》をシドニーで初演しました。同団を退団後は、バレエ・シアターの指揮者に就任、1945年まで務めました。このように、ドラティはキャリアの初期をオペラ、バレエの指揮で名を馳せました。戦後はコンサート指揮者として活躍。ダラス交響楽団(1945〜48)、ミネアポリス交響楽団(1949〜60)、BBC交響楽団(1963〜66)、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団(1966〜70)、ワシントン・ナショナル交響楽団(1970〜77)、デトロイト交響楽団(1977〜81)、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(1975〜79)の首席指揮者・音楽監督を歴任し、同時に数多くのLPレコードを録音。第1次世界大戦終結に伴うオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊から、最後の皇帝の国外亡命、国内の政治勢力の対立・混乱の中から国家社会主義によるドルフス独裁政権を経、シューシュニッヒ政権下、ナチス・ドイツ軍による強引な併合が進められていた。1933年、法的に併合、オーストリア国家が無くなり、第2次世界大戦ではロシア軍と戦い、1940年以降は、ナチス・ドイツの支配下で、多くの犠牲者を出すことになる。ハンガリーは、オーストリア=ハンガリー帝国として長く親ユダヤ政策をとっていたこともあってか、ユダヤ系の優れた指揮者を数多く輩出しており、名前の問題はほかでも見受けられました。たとえばジェルジ・ショルティはゲオルグ・シュテルンに、イェヌー・オーマンディはユージン・ブラウという具合で、ドイツ名に変えることで世界各国で目立つようになってきた反ユダヤ主義勢力の攻撃を少しでもかわす狙いがあったようです。その100年前、オーストリアの外相・宰相に1814年に就いたメッテルニヒは、ウィーン会議を主催、1821年からはオーストリアの首相としてウィーン体制を動かし、つぎつぎと起こる自由主義・民族主義の運動を弾圧し、ギリシアの独立運動や中南米諸国の独立運動にも介入した。20歳になった、ショパンがウィーンにやってきた1830年代以降、ヨーロッパの各地で民衆が蜂起してウィーン体制の動揺が顕著になっていった。そのオーストリア帝国の崩壊に至る空気を感じながら奏でられた行進曲。ウィーンのニューイヤーコンサートで、毎年最後に演奏される『ラデツキー行進曲』は、〝オーストリアなるもの〟へのレクイエムでした。
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快活で豪快な気風に富む演奏で楽しませてくれるアンタル・ドラティ(Antal Doráti)は1906年4月9日、ハンガリーのブダペスト生まれの指揮者。1988年11月13日、スイスのベルンにて没。生地のフランツ・リスト音楽院でコダーイに師事した。ドラティが「コダーイの思い出」に書いているようにこの音楽院で38歳のコダーイは14歳のドラティをクラスの担当として4年間教えた。国民的作曲家であったコダーイと、少年ドラティの、多感な時期での畏敬と友情は生涯続いた。ドラティは作曲と指揮、チェロ、ピアノを勉強し、1924年に指揮デビュー。まず1924年から1933年までの9年間は、地元ブダペストのハンガリー国立歌劇場のコレペティトアからスタートしてドイツのミュンスター歌劇場の第1楽長までキャリア・アップ、ナチ政権樹立までの4年間をドイツのオペラ指揮者として過ごしています。ドラティの最初の名前は「アントン・ドイチュ」でしたが、オーストリア=ハンガリー帝国が第1次世界大戦の敗戦で消失し、短期間の紆余曲折を経て新たに「ハンガリー王国」が誕生すると、それまでの親ユダヤ的な政策方針が廃止、1920年にさっそく反ユダヤ法が整備され始めてさまざまな規制をおこなうようになったため、まず「アントン」を、母方の祖父の名でもあるハンガリー語の「アンタル」に変更しています。とはいえハンガリーの反ユダヤ法はドイツに較べればかなり緩やかなもので、たとえば音楽院のユダヤ系の学生数を、人口比に合わせた約6%に制限するという法律に対し、実際には約41%も在籍していたというほどで、ユダヤ教徒ではなかったドラティは、姓の変更までは行ないませんでした。しかし職場をドイツの公立歌劇場に移し、1933年にナチ政権が成立すると、姓の「ドイチュ」をハンガリー語の「ドラティ」に変更、以後は「アンタル・ドラティ」という名で過ごすこととなります。ブダペストやドレスデンの国立歌劇場の指揮者を務めていたが、1935年、ナチスに追われイギリスに渡る。1945年ダラス交響楽団、1949年ミネアポリス交響楽団などの常任指揮者を歴任。その後も欧米の主要なオーケストラに多数客演した。オーケストラを育成する手腕は最高といわれ、ダラス交響楽団、ミネアポリス交響楽団、ナショナル交響楽団、デトロイト交響楽団などを世界一流のオーケストラに育て上げたことは有名です。
屈指の〝オーケストラ・ビルダー〟として知られたアンタル・ドラティは、どんなオーケストラが相手でも、楽員の実力を着実に引き出し、アンサンブルを的確に仕上げる見事な手腕の持ち主でした。その後、ニューヨークのオペラ団体「ニュー・オペラ・カンパニー」の音楽監督に就任。臨機応変な能力の求められるバレエ団の指揮者・編曲者として成功した結果、英H.M.V.にさまざまなバレエ音楽をレコーディングできることとなり、その後、コンサート・オーケストラの音楽監督や客演指揮などに本格的に進出することとなります。このようなキャリアの流れは、実際の演奏時のトラブルへの対応力、財政面まで含む運営問題の解決力、レコード会社との交渉力などの向上にも結び付き、さらに数多くの客演や臨時編成アンサンブルとの付き合いによって育まれた強力な指導力によって、〝オーケストラ・ビルダー〟とも称えられる独自の個性を獲得することに繋がって行きます。そういう時期にあった、1937年から1967年にかけての録音では、ドラティが巨匠風スタイルに落ち着く前の、エネルギッシュで推進力に富む演奏を楽しむことができます。オーケストラの運営方法や助成金を巡るトラブルで、1954年にヨーゼフ・クリップスが首席指揮者を辞任した後、1961年にピエール・モントゥーが首席指揮者に就任するまでの6年間、ロンドン交響楽団の指揮は客演でまかなわれており、ドラティは1956、57、1959〜1965年に登場してマーキュリーへのレコーディングを指揮しており、クリップスのもとで良い状態になっていたロンドン響の精度をさらに向上させて、仕上げのかっちりとした演奏を聴かせていました。ドラティのDECCA録音といえば、ハイドンの交響曲全集があまりにも有名ですが、ハイドンからチャイコフスキーまで、広いレパートリーの中でもバレエ音楽が出色なのは「外盤A級セレクション」で知られる長岡鉄男氏が、「自然光で照明したような影があり、表情たっぷりゆったりとして、厚みと奥行きを感じさせる。いささかホコリは舞っているが、空気を感じさせる演奏だ。やや太めだが、馬力はあるほう。」と評価している。ドラティの作り出す音楽は、飾り気がなく無骨で筋肉質に引き締まった印象があり、特にそのリズム感は素晴らしく、聴くものを興奮させる力強さに溢れています。なかでもストラヴィンスキーの「春の祭典」は、20世紀最高の快演でしょう。ワルツや、オペレッタをバレエ音楽に仕立てた本盤は、すっきり心地よい演奏で、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との再録音よりも勢いがあるのが特徴ともなっている。
第一次世界大戦の終息とともに共和国としての独立を達成したポーランドにおいて、その独立から1939年のドイツ軍侵攻による独立喪失までのいわゆる戦間期は、ポーランド語文学の中から優れたユダヤ系作家が次々と登場し、そのすぐ隣りでイディッシュ語文学が世界的に見てももっとも勢いがあった時期です。ハンガリーは、ユダヤ系の優れた指揮者を数多く輩出しており、1933年にナチ政権が成立すると、世界各国で目立つようになってきた反ユダヤ主義勢力の攻撃を少しでもかわす狙いがあったようで、アンタル・ドラティの、祖国をあとにしたユダヤ系ハンガリー人指揮者たちは、ファースト・ネームを他国語仕様に変更する場合が多いのですが、ヤーノシュ・リヒターからハンス・リヒターへ、アルトゥール・ニキシュから、綴りにhを追加したアルトゥール・ニキシュへ、フリジェシュ・ライナーから、フリッツ(フレデリック)・ライナーへ、ジョージ・セルはジェルジをゲオルクに、ユージン・オーマンディは、イェヌーから、カーロイ・ガラグリは、フォンも追加したカール・フォン、ゲオルグ・ショルティは、ジョルジをジョージに変更した。ポーランド人作曲家では、よっぽどショパンの方が有名ですが、成人してからは父親の国であるフランスを中心に暮らしていたこともあって、通常、「フレデリック・フランソワ・ショパン」というフランス名で呼ばれ、祖国ポーランドでは「フリデリク・フランツィシェク・ショペン」と呼ばれています。日本でその名を知る人は殆どいませんが、ポーランド語の教科書の中においては、スタニスワフ・モニューシュコ(Stanisław Moniuszko)は、ポーランド・オペラの父と称される。ショパンも歌曲を作曲した、アダム・ミツキエヴィチらの詩による12冊の歌曲集も残した。大衆的な題材を用いて、愛国主義的な舞台作品を残し、同じような傾向のバレエ音楽も手がけた。ポーランドのロマン主義音楽界において、モニューシュコはショパン以上に意味を持つ作曲家であった。今日でも、全てのポーランド人はモニューシュコの音楽を教育の中で必ず通過しなければならないのである。カロル・シマノフスキは、「国際的なショパンとローカルなモニューシュコ」という比較を行い、モニューシュコのもつ安易な地域色を克服することが20世紀ポーランド楽壇の課題であると喝破した。
ポロネーズやマズルカを世界にまで知らしめたショパンの功績は偉大と言う他ない。ポロネーズやマズルカはポーランドの舞曲だというイメージが、もっぱらショパン=ポーランド人という連想に由来している。地域ごとに固有の舞踊に起源をもつリズムを用いた楽曲の譜例が、ルネサンス期には既に多く見られるから、おそらく16、17世紀頃には、他のヨーロッパ諸国と同様、ポーランドの農村においても存在していたと考えられている。「ポーランド式の行列ダンス」が最初に言及されるのは1733年のフランス語の文献で、「1709年にフリードリヒ1世の宮殿の舞踏会で踊られた」とある。17世紀から18世紀にかけての、バロックや古典派初期の作曲家の手になる器楽のために書かれた代表的なものとしては、ヨハン・ゼバスチャン・バッハの『フランス組曲第6番』(1723年頃)や『管弦楽組曲第2番』(1730年代末)の中に見られる〝ポロネーズ〟があげられる。ポーランド内外で、人々がポーランド発祥と考えたり、ポーランド風だと感じた舞踊や舞曲を一般に、「ポーランド風の」という意味を持つフランス語の形容詞でポロネーズ(Polonaise)と呼んたのがことの始まりで、ポーランドで一般的になっている舞踊が国外に広まった言葉ではなかった。さて、現在ポーランドの首都であるワルシャワを中心としたマゾフシェ地方の農村で、17世紀頃から主に踊られたり歌われたりした、民俗舞踊や婚礼歌が今日〝ポロネーズ〟と呼ばれている舞踊・舞曲の前身とされている。やがて土着の小士族階級で踊られるようになり、貴族、宮廷へ広まることとなった。18世紀当時、ヨーロッパ中の貴族社会の共通語はフランス語であったことから、小士族階級や貴族たちはこの舞踊をフランス語でポーランド舞踊(la Danse Polonaise)と日常的に呼称していたが、やがて舞踊に当たる語を省いたポロネーズという名称で通るようになった。こうしてポロネーズのヨーロッパ中への受容によって、フランス語名がヨーロッパ中の宮廷に知れわたることとなったのです。
ポロネーズが小士族階級や貴族の屋敷で踊られ始めた当初、そのバックで宮廷付きの楽団によって生演奏されたポロネーズは、もっぱら踊りのための実用音楽として大量に作曲された。そしてコンサートで聴かれるようになってきたポロネーズは、音楽だけでも独立した芸術音楽としての性格を持ち始める。18世紀末頃になると、舞踏を前提としない純粋に演奏会目的の器楽曲や歌曲が登場するようになる。ピアノ曲としては18世紀末のミハウ・クレオファス・オギンスキ(Michał Kleofas Ogiński, 1765〜1833)を筆頭に、ショパンやスタニスワフ・モニューシュコ(Stanisław Moniuszko, 1819〜1872)を経て、19世紀末のカロル・シマノフスキ(Karol Szymanowski, 1882〜1937)にまで至る系譜がある。19世紀のごく初期の段階からは管弦楽曲向けにも書かれ、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、リスト、ワーグナーなど後期古典派やロマン派を代表する各国の作曲家の多くが、優れた作品を多く残している。器楽曲ポロネーズは、1792年から1830年の間に世界各国の作曲家680名によって、3,439曲 ― このうちポーランド作曲家163名、1,004曲が作曲されている。さらに1831年から1981年では作曲家数567名、曲数1,508曲 ― このうちポーランド作曲家は約400名で1,100曲となっていることから芸術音楽としてのポロネーズの人気ぶりは容易に知ることができる。18世紀末以来100年以上にわたって地図上からポーランドの名が消えた時代、ポーランド人が何より望んだのは祖国の回復であった。それは、領土としてのポーランド国家の復活という意味だけでなく、小士族階級共和制による平和で豊かな文化を持つ理想郷の実現という意味が込められていた。小士族階級のみならずポーランド国民のシンボルともなっていった〝ポロネーズ〟はポーランド人にとって次第にある特殊な意味を持つようになってきた。11月蜂起後から現れてくる標題つきのポロネーズ(軍隊ポロネーズ、英雄ポロネーズ)も、多分に愛国的であった。ポロネーズを書くこと、歌うこと、演奏すること、これらが即ち、亡国のポーランド人にとって愛国的表明となったのである。ショパンは少年時代にワルシャワ周辺の農村で、民俗舞踊や民謡に直接触れた経験をもとにしてその後の作曲活動を行っている。18世紀末から19世紀前半にかけて、ポーランド分割の頃からポーランド各地の民謡や民俗文化の収集、出版が盛んに行われるようになった。その中にはマズルカ・リズムによる舞曲や民謡も多く見られ、世に知られるようになった。19世紀に入ると、マズルカ・リズムを持つ舞踊はポーランド以外のヨーロッパ諸国でも舞踏会で取り上げられるようになってきた。パリで1809年、フィレンツェでも1823年に舞踏会で踊られたという記録がある。
マズルカ・リズムがポーランド語を音楽表現するのに適していることを作曲家たちは肌で感じたに違いない。19世紀以降、ポーランドにおいてはマズルカ・リズムを持つ曲は、何より民謡的な雰囲気をにおわせる芸術的歌曲として多く用いられるようになった。代表的なのはモニューシュコであるが、ポーランド語の詩に対してマズルカ・リズムを用いて作曲することは最も自然な成り行きであった。ピアノ曲では、前ロマン主義からロマン主義前期にかけてのポーランドを代表する作曲家らがマズルカ・リズムの作品を書いているが、全世界的に広めたたのはショパンであった。ショパンの何より大きな特徴は、民謡の持つ大胆な和声法やリズム法を、自分の中で完全に消化し、自分自身が自由にそれらを用い、また新たに生み出しているところにある。又、ポーランド以外の作曲家は、器楽曲、管弦楽曲として作曲した。ヨハン・シュトラウス父子が〝ポルカ・マズルカ〟といういささかあやしげなジャンルを比較的早い時期(1830年代)に書き始めている。舞曲から芸術音楽へという同じ軌跡を辿った同時代の舞曲、ワルツも当初、ドイツ語圏で民衆に親しまれていた民俗舞踊であった。当初は卑俗だという理由で長いこと宮廷では禁じられていたのだが、やがて宮廷に取り入れられると爆発的な人気を博し、宮廷お抱えの作曲家らによってワルツが書かれるようになった。1814〜15年のウィーン会議について「会議は踊る」という皮肉があるが、ここで踊られたのがワルツであった。これを契機に全ヨーロッパに流行した。以降、ヨーゼフ・ランナー(1801〜1843年)とヨハン・シュトラウス父子(父 1804〜1849年、子 1825〜1899年)らの〝ワルツ合戦〟によって実用的舞曲であったワルツは芸術音楽へと発展をとげた。彼らの功績は、ただ単にウィーン風に調子を崩した3拍子のリズムを持つ舞曲を管弦楽演奏用に書いたというだけではなく、その前奏部分や楽曲の中に交響楽的和声を織り込んで、芸術音楽として鑑賞に耐えうるレベルにまで引き上げた、というところにある。〝音楽の都〟ウィーン。この町の中心に、「ピアノの詩人」ショパンが足繁く通った教会があります。この時、ショパンは夢破れ、失意の底にありました。ポーランド人である彼が、異国で受けた差別と偏見。演奏会を開くことも叶わず、発表の場さえ閉ざされていました。傷ついたショパンの魂を受け止めた場所、それが「聖シュテファン大聖堂」でした。クリスマスの夜、ショパンは思い出していました。
家族で囲んだ温かな食卓、故郷の雪景色。彼は自らの内に眠る祖国への愛を知ったのです。ショパンは誓います。祖国のため音楽に邁進しよう。ポーランドの名を世界に伝えるために。空想に耽りながら「スケルツォ第1番 ロ短調」を着想したと伝えられています。まもなくショパンは〝音楽の都〟を去り、シュトゥットガルトを経由して〝芸術の都〟パリへと向かいます。自らの新しい天地を求めて。ようやく9月末にパリへ到着し、1849年に亡くなるまでこの地に住みました。パリで作曲された「スケルツォ第1番 ロ短調」は、冒頭で強烈な不協和音を2つ叩き、激流のように荒れ狂うロ短調の主要部分を経て、中間部はロ短調の「同主調」であるロ長調に変わり、緩やかなテンポで情感溢れる崇高な雰囲気の旋律を奏でます。これはショパンが故国ポーランドで親しんだクリスマス・キャロル『眠れ、幼子イエスよ』に由来するといわれています。この中間部の穏やかな美しさは、ショパンが「クリスマス・イブの教会礼拝堂で着想した」背景を考えさせてくれます。故国のクリスマスの歌が終わらないうちに、最初の不協和音の打鍵が静けさを打ち破る ― スケルツォの主要部分が戻ってきて、再び嵐のように荒れ狂い、最後はめまぐるしい狂気のうちに曲を結びます。シュトゥットガルトの地で「ワルシャワ陥落」の知らせに接した時、彼は絶望のどん底に突き落とされ、沸き上がる激情を日記に綴りました。ショパンの「スケルツォ第1番 ロ短調」が1835年に出版された時、イギリスの楽譜出版社・ウェッセルが曲の雰囲気から『地獄の宴』という題名をつけようとしました。幼い頃からバッハの音楽を敬愛してきたショパンは、音楽は音楽そのものを通して語るべきものであり、それゆえに何らかの「標題をつける必要はない」という信念の持ち主でした。そのため、受け売りのよい「標題つき作品」で楽譜の売り上げを伸ばしたい出版社側に長期戦の対立を挑むことになります。
オーストリアの首相に1821年に就いたメッテルニヒは、ウィーン体制のもとで自由主義とナショナリズムの運動は抑圧されていたが、ショパンがウィーンにやってきた1830年代以降、ヨーロッパの各地で民衆が蜂起してウィーン体制の動揺が顕著になっていった。その最後の段階で1848年2月、激昂したパリの市民、労働者が蜂起した二月革命が起き、ルイ=フィリップを退位に追い込み、七月王政を倒し、共和政を宣言、ブルジョワ共和派を中心に急進派、労働者代表も参加した臨時政府が成立した。フランスに共和政を復活させた二月革命は、ただちにベルリンとウィーンに飛び火して三月革命を勃発させ、ヨーロッパ全土に及ぶ1848年革命の口火となった。その結果、ナポレオン没落後のヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制は崩壊した。1848年にショパンはパリでの最後の演奏会を開く。パリでは革命が進行中だった4月、ショパンはロンドンへと旅立ちいくつかのコンサートを行って大規模な会場で大きな喝采を受けた。ショパンは幼い頃から虚弱体質だったうえ、20歳代で結核を発病した。幼児期に妹が、1844年に父親がやはり結核で死亡しているから早い時期に家族から感染したのだろう。1838年から恋人で女流作家のジョルジュ・サンドとマリョルカ島で暮らすようになってからは、結核菌の影響がどうか心因性うつ病にかかり、1846年にサンドと別れた後、結核はいっそう悪化していた。エディンバラでは開業医のアダム・ウィシュツジニスキ(Adam Łyszczyński)医師の住むワリストン街路10にも滞在しつつ、そこで医師の治療を受けつつ演奏会を開いた。スコットランドの寒い午後、スターリング嬢の城の中でショパンは母や姉と共にいる空想に耽り、祖国の地で民謡を題材とした自作曲を演奏する自分の姿を眼前に思い浮かべていた。1848年11月16日、彼はロンドンのギルドホールの演奏段上で最後の公開演奏を行った。それはポーランドの避難民の慈善演奏会だったが、彼の最後の愛国的行動となった。11月の終わりにショパンはパリへ戻った、晩年のショパンはパリの高級住宅街に住み、不眠症に悩まされながら病気と闘っていた。ショパンは家族と共に居たいという思いを募らせた。1849年6月、姉のルドヴィカにパリへ出てきてもらう約束を取り付けた。もはや楽譜を書くこともできない状態だったが、彼の才能を惜しむ多くの人々の善意に支えられ、生活費にも治療費にも困らなければ孤独な境遇でもなかった。連日のように多くの慰問客が殺到し、しかも日がたつに連れ、増えていったのである。ショパンの病室は毎日のように見舞客でいっぱいになり、前室には心配そうな弟子や知人が常にいた。臨終の4日前には、見舞客があまりにも多いため、病床に近づくこともできないほどとなった。
親しい人々は毎日のように訪れて、長時間付き添っていてくれた。ショパンの死から葬儀の間までにパリでは彼にまつわる膨大な出版物が出回っており、その中のいくつかの創作が後に事実のように本に記載されていったようである。彼らは『歴史の証人になりたがっているようだ』。ショパンの最期を看取ることができなかった多くの人が、後になって〝ショパンの最後に居合わせた〟と主張するようになったと、タッド・シュルツは記している。実際にショパンの死の床に付き添ったのは、姉のルドヴィカ、マルツェリーナ・チャルトリスカ公爵夫人、ソランジェとオーギュスト・クレサンジェ夫妻、ショパンの弟子で友人のアドルフ・グートマン、友人のトーマス・アルブレヒト(Thomas Albrecht)、信頼を置いていたポーランドのカトリック教会司祭のアレクサンダー・イェウォヴィツキ(Aleksander Jełowicki)神父だった。1849年10月16日、死の前日になって、しだいに意識を失いはじめた。その晩は、故郷ポーランドのヤロヴィツキ神父の祈りと聖歌で更けていき、翌日の早朝、ショパンは突然小さな発作を起こした後、顔色が青ざめていった。それが彼の最期となった。パリのマドレーヌ寺院で行われることになっていた葬儀は、準備が非常に凝ったものとなったため、ほぼ2週間も遅れて10月30日に行われることになった。予定が遅れたため通常なら出席不可能であるような人びとが大勢ロンドン、ベルリン、ウィーンから集まることができた。葬儀では、モーツァルトの『レクイエム』が歌われることが、急遽決められた。これはショパンの遺言とも言われたが、グートマンはショパンがそのようなことを頼んだことはなく、報道の自由から生まれた夢物語であるとしている。『レクイエム』は大部分が女声合唱によって歌われるが、マドレーヌ寺院は合唱隊に女性歌手が入ることを許可していなかった。しかし、教会は女性歌手を黒いベルベットのカーテンの奥に置くこととして、好意的に協力した。また、ショパンの『前奏曲集』から第4番ホ短調と第6番ロ短調が演奏された。葬送の行進は町の中央のオペラ座の隣にある教会から始まり、ショパンが埋葬を希望していた街の東の端のペール・ラシェーズ墓地までの非常に長い距離にわたった。葬儀には3,000人近くが参列したが、その中にジョルジュ・サンドの姿はなかった。招待された参列者には多くのフランスの文学・貴族の名士らが名を連ねたが、音楽上の同胞たちは慎重に外された。葬列を先導したのはポーランドの大移民の長だった年老いたチャルトリスキ公であり、芸術家たち ― ウジェーヌ・ドラクロワやチェリストのオーギュスト・フランショーム、ピアニストのカミーユ・プレイエルらが交代で担いだ棺のすぐ後ろには、姉のルドヴィカがいた。
ヴィクトル・ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」で登場するバリケード戦はこのときのものだ。フランスの二月革命が波及してオーストリアでは、3月13日、首都ウィーンで民衆が蜂起し、三月革命が起こった。伝統的な王を中心とする絶対君主制を堅持しようとする王侯貴族たちに対して、一方では権力に虐げられた民衆が対立していた。が、ルイ14世の時の絶対王政と大きく異なるのは、民衆が自由・平等・博愛を謳った1789年のフランス革命、ナポレオンによる民衆解放戦争、そして1830年フランスで起きていた七月革命という一連の革新的変化をすでに体験していたことにある。革命の原動力になったのは、産業革命や植民地貿易などで力をつけた新興ブルジョワジーと中産階級、そして労働者である。抑圧されてきた民族のナショナリズムが一気に高揚した。街中を砲弾が飛び交い、到る所で白兵戦が展開され、バリケードが築かれては破壊される。家屋は焼かれ、死体は道端に累々と積み重なり腐臭を催す有様。まさに地獄絵図そのものだったがこれが当時のウィーンである。音楽家のシューマンは徴兵を避けて田舎に疎開し、革命派のワーグナーは捕らえられそうになりスイスに亡命している。オーストリアの超民族主義的コスモポリタニズムが揺らぎ、多民族を統治する君主国は分裂・瓦解の危機に立たされた。すでに3月3日にハンガリーの議会でコシュート・ラヨシュが自治を要求して演説をしていたが、ハンガリー民族運動だけでなくチェック人のベーメン民族運動、イタリア統一運動の現れとしてのミラノ蜂起などが相次ぎ、いずれもオーストリアからの独立を目指した民衆蜂起であった。革命の1848年、ハプスブルク支配からの民族独立の気運はハンガリーとチェコを中心に高まり、北イタリアは独立戦争を仕掛けた。熱烈なヨーゼフ主義の信奉者であったフランツ・グリルパルツァーは、反乱平定のためイタリアに向けて出陣するヨーゼフ・ラデツキー・フォン・ラデッツ(Joseph Radetzky von Radetz, 1766〜1858)将軍の武運長久を祈って、「麾下の陣営にこそオーストリアはある、ばらばらに砕け散るならわれわれは瓦礫にすぎない」と詠い、愛国詩人としてもてはやされた。北イタリアではラデツキー将軍の率いるオーストリア軍が、イタリア統一を目指すサルデーニャ王国軍を破って平定し、ハンガリーではハンガリー人に反発するクロアティア人を利用してコシュートらの新政府を崩壊に追いこんだ。チェコやポーランドでも「ヨーロッパの憲兵」といわれたロシア軍と共同して民族運動を抑えつけることに成功した。これを諸国民の春と言っている。これらの運動はオーストリアやロシアの軍隊の力で抑えつけられたが、18世紀後半から20世紀初めに実現するこれらの諸国の自立の出発点となった。
ウィーン三月革命では神聖ローマ皇帝は憲法の制定と自由主義の実現を約束した。しかし、6月に入りフランスで六月暴動が鎮圧されてブルジョワ政府が反動化したことを受け、皇帝政府は反撃に転じ、10月には憲法制定議会開催を反故にし、自由主義者に対する弾圧を開始、11月になると状況は反転し、体制側は再び勢力を盛り返して、軍を市内に投入、激しい市街戦を繰り広げる。そしてついに革命勢力を殲滅することになる。ウィーンでは2,000人近い犠牲者を出して革命運動は鎮圧された。このとき革命勢力側に加担していたヨハン・シュトラウス2世は事情聴取を受け音楽活動を一時停止させられる。新皇帝には18歳のフランツ=ヨーゼフ1世が即位、オーストリアは多民族を支配する絶対主義帝国として続くこととなった。ラデツキー将軍は、イタリア統一に向けオーストリアに宣戦布告したサルデーニャ国王カルロ・アルベルトの北イタリア独立の夢を打ち砕くことによって多民族国家の崩壊を防ぎ、救国の英雄となった。ラデツキー将軍は、若い頃ナポレオン戦争に従軍した経験を持つ有能な司令官であった。が、戦後熱心に主張した軍制改革が政府に容れられず、晩年に差しかかると皇帝の口添えで退役を何とか免れていられた。だが革命の嵐は彼に転機をもたらす。81歳という高齢ながら野戦司令官として再び彼は、サルデーニャ王国に対抗するため北イタリアに派遣された。最初は、政府からはなかなか軍資金なども援助されず劣勢だったが、後に勢力を盛りかえし、ノヴァラの戦いでサルデーニャ軍に大勝してヴェニス、ミラノを占領、オーストリアの圧倒的勝利のうちに戦争は終結した。将軍の栄誉を称えて同年ヨハン・シュトラウス父によって作曲されたのが《ラデツキー行進曲》である。5月に起きた革命によってウィーンから逃亡しアルプスのインスブルックに宮廷を移していたオーストリア皇帝は、ラデツキー将軍の北イタリアにおける勝利を手土産にウィーンに帰還を果たす事が出来たのだが、ラデツキー将軍の戦果を市民により効果的に知らしめ、人心を完全に掌握したいと思った。そこで大きな役割を果たしたのが音楽であった。委嘱を受けたのは当時の人気作曲家ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauss, 1804〜1849)。彼が戦勝祝賀会に合わせて作曲した《ラデツキー行進曲》は当初は市民の間では不評だったようだが次第には国民に広く周知され定番曲としての地位を不動のものにする事となる。その煌びやかな旋律は、市民たちに対イタリア戦争の戦果を示すことで、勝者の感覚を植えつけた。単にラデツキー将軍を讃えるだけのものではなかった。これはハプスブルク家、オーストリア=ハンガリー帝国の栄光を讃えた曲といえる。
戦後北イタリアの総督に任命されたラデツキー将軍は、占領地で武力で抵抗する者は容赦なく追放したが、それ以外は寛容な政策を行ったという。オーストリアの支配下に置かれるも、ヴェルディがイタリアの愛国的なオペラを書き続けながら迫害を受けなかったのはその例だ。〝リピッツァ(イタリア・トリエスト)産の白馬〟が優雅な歩みを見せ、ローマ・カトリック教会の祝福のように聖シュテファン教会の鐘が鳴り響く中、〝ハンガリーの近衛兵〟に守られて、〝聖都イェルサレムの王〟〝ドイツ民族の神聖ローマ帝国皇帝〟フランツ=ヨーゼフ1世がしなやかな足取りで大聖堂の中に入っていく。放浪のユダヤ人にとって、フランツ=ヨーゼフ1世治下の多民族国家ハプスブルク帝国は、反時代的な保守反動国家であると同時に、超民族主義的コスモポリタニズムの国でもあった。ある程度安らげるアズュールを提供してくれていたドナウ君主国が、民族ごとの独立国家建設を目指して激化するナショナリズムによって倒壊せられることは、イデオロギー以前の、生死に関わる問題でもあった。だがその後のオーストリアは坂を転げるように衰退していく。多民族融和の君主国を称えるはずの《ラデツキー行進曲》は時代錯誤の愛国行進曲と化し、嘗ての輝きを失っていく。オーストリア帝国の斜陽が「見える」かのようです。その時から、ハプスブルク家の双頭の鷲の頭上を、鷲の同族でありその仇敵である禿鷹たちが旋回していたのである。幸いにラデツキー将軍はそれを見ることなく亡くなったがオーストリアはその後のイタリア統一戦争、続く普墺戦争に連戦連敗する。これが、「赤十字」誕生のきっかけともなる歴史の転換点ともいえる。ラデツキー将軍に敗北したサルデーニャ国王カルロ・アルベルトは退位したが、サルデーニャ首相カヴール伯爵カミッロ・ベンソのもとにイタリアは勢力を回復する。今度は、フランスと同盟してソルフェリーノの戦でオーストリア軍を破り、フランスの脱落後は独力でほぼ半島全土を統一。ついにベネチアの奪回に成功した。その中でもオーストリア国民は《ラデツキー行進曲》を聴くことで強国という〝まやかし〟を信じ続けていられた。1859年イタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノの戦いに従軍していたスイス人実業家のアンリー・デュナンは、負傷者の救護活動にあたりました。そこで、敵味方を限らず、傷ついた兵士が放置され死んでいくのを目の当たりにして、衝撃を受け、戦場での負傷者の救援を敵味方を越えて行う必要を痛感した。「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士としてその尊い生命は救われなければならない」ジュネーブに戻ったデュナンは、この戦闘の模様を『ソルフェリーノの思い出』に著し、この中で国際的な救護団体の必要性について訴えました。著書はヨーロッパ各国に大きな反響を呼び、1864年にはジュネーブ条約が調印されて、国際赤十字組織が誕生しました。時代は下り、終ぞ1914年から1918年の第一次世界大戦の決定的敗北によって大帝国は解体、オーストリアは中央ヨーロッパの一小国に転落した。ここにもまた、ヨハン・シュトラウス1世が作曲したもうひとつの行進曲が関わってくるのです。
昔から鮮烈なサウンドで知られていたマーキュリー・レーベルは、音だけでなく、演奏の方も勢いの良いものが揃っているのが特徴。1945年にアーヴィン・グリーン、バール・アダムス、アーサー・タルマッジによって設立されたマーキュリー・レーベルは、モノラル後期に活動を開始し、ステレオ初期を中心とした20年ほどのあいだに数多くの素晴らしいディスクを世に送り出しました。ラファエル・クーベリックやアンタル・ドラティ、ポール・パレー、スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ、ヤーノシュ・シュタルケル、ヘンリク・シェリングといった有名アーティストたちも、ここでは誰もがシャープで活気に満ちた演奏をおこなっています。しかも、オーディオ好きの間でも有名なマーキュリーのサウンドは、ステレオ初期に制作されたものが大半ながら、どれも音響条件は申し分なく、細部まで捉えきった情報量の多さは、当時ずば抜けたものと評されていました。実際、通常の楽音だけでなく、バスドラの重低音や、カノン砲の射撃音、大量の鐘の音といった難物も高水準に再現するあたりは、このレーベルの実力を改めて確認させてくれるところです。「You are there」を謳い文句に、音が生まれるその場にいるような臨場感を再現するマーキュリー独自の録音方法によって収録された名盤の数々は、今聴いても実に新鮮ですし、戦後まもなくの活気に満ちた演奏スタイルを味わえる点で、その存在感には非常に大きなものがあります。
ヨハン・シュトラウスII・バレエ組曲「卒業記念舞踏会」(ドラティ編曲)、オッフェンバック・パリの喜び(マニュエル・ロザンタル編曲)April 20, 1957, Stereo録音。1958年初発。Mercury Living Presence ‎– SR90016, Olympian Series ‎– AMS16005.
GB MER AMS16005 ドラティ J.シュトラウス・卒業舞踏会
ウィンナ・ワルツ・パプリカ
フィルハーモニア・フンガリカ
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント
1995-11-05