34-13953

商品番号 34-13953

通販レコード→英ゴールド・スタンプ・ドッグ ブラック・エンジェル盤

お耳ざわりですか ― ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ、ヴィクトリア・デ・ロス・アンへレス、エリーザベト・シュヴァルツコップ、クリスタ・ルートヴィッヒ、テレサ・ベルガンサ、パブロ・カザルス、ジャクリーヌ・デュ=プレ等々、偉大な歌手のピアノ伴奏演奏は勿論こと、様々な器楽奏者、多くの偉大な音楽家と共演した。ジェラルド・ムーアの演奏は、フィッシャー=ディースカウ歌うシューベルトの歌曲「魔王」の連打音に魂を鷲掴みにされて以来、今に至るまで、私に深い感銘を与え続けてくれる。フィッシャー=ディースカウともなると世界中のピアニストから共演を望まれたこともあってか、シューベルトの連作歌曲集「冬の旅」だけでも生涯で7回もレコーディングしている。コンサートも含めると数えきれないほどの演奏回数になるだろう。しかしムーアも伴奏の名人。あらゆるソリストから彼の伴奏でと切望されていただけあって、同じフィッシャー=ディースカウの演奏でも他のピアニストとは違う。フィッシャー=ディースカウのアプローチに寄り添うよう、表現のピアニストが多い中、このムーアは誘導する。歌手を先導するであるとかは、経験の若い歌手ではあることながら、主導的立場に立とうとするのではなく、いたるところで大歌手フィッシャー=ディースカウを、鼓舞に、励まし、支えている。シューベルトのピアノ・パートが雄弁なのだ。フィッシャー=ディースカウも歌曲の世界を創出しやすかっただろう。これこそ伴奏芸術の極み。伴奏ピアニストの視点から書いた、彼の著書「お耳ざわりですか ― ある伴奏者の回想著:ジェラルド・ムーア」も面白い。ムーアは、「やさしいシューベルト歌曲など一曲も知らない」と言っているが、〝初見で弾ける〟ようなシューベルトの「さすらい人の夜の歌」の前奏和音だけで9通りも変化を試みている。まずは、すべてをピアニッシモで、それぞれの和音に一様で柔らかなアクセントをつけて弾いてみる。次に、フレーズに、ほんの少しだけクレッシェンド、ディミヌエンドをつけて、表情を膨らめて、治める。これはやりすぎると、つり合いがとれなくなっていく。始めからやり直し、ペダルの使い方が悪く、和音が濁る。いろいろ試してみる。四度目、右手の一番高い音を弾く指に、慎重にアクセントをかけて弾いてみる。これでは、一番高い音だけ歌いすぎる。過ぎたるは及ばざるがごとし。また、やり直し。内声のすべてと、バスのオクターブを、はっきり聴きとれるように弾く。ただし、決して柔らかすぎてはならない。そして、一番高い音を微妙に漂わせて、誇張しているのを聴衆に気づかれないように弾く。これこそ、この曲を真に芸術的演奏たるものにする秘訣。現代のピアニストならば、過去の数多くの録音や、ネット配信で最新の演奏スタイルを学習するのだろう。本盤は、伴奏、特に歌曲の伴奏の権威、ムーアならではの綺羅星たちとの共演を1枚にまとめたトリビュート盤。スター歌手との共演はもちろん素晴らしいが、なかでもデュ=プレとのフォーレの《エレジー》も聴きもの。ムーア70歳を記念して録音された哀愁あふれる名演です。
関連記事とスポンサーリンク
  • 第二次世界大戦も終わりに近づいた1945年1月26日、ジャクリーヌ(ジャクリーン)・デュ=プレは、音楽好きの父デレクと、ピアノや声楽などの素養があった母アイリスの次女としてイギリスのオックスフォードに生まれます。「デュ=プレ」というフランス人のような姓は、先祖が英国海峡フランス沖にあるジャージー島の出身者だったためとのこと。
  • ジャクリーヌは、4歳の時にラジオから流れるチェロの音に関心を持ったことがきっかけで、母親のアイリスから4分の3サイズのチェロを与えられ、5歳になると母の薦めもあって、ロンドン・チェロ・スクールで姉のヒラリーとともに本格的にチェロのレッスンを受けることとなります。このスクールの総長はチェリスト出身の名指揮者ジョン・バルビローリで、彼はすぐにジャクリーヌの才能を見抜いたといいます。
  • 10歳になると、ギルドホール音楽学校に通い始めます。この年の始めには、後年まで「マイ・チェロ・ダディー(私のチェロのお父さん)」と呼んで敬愛したイギリスのチェリスト、ウィリアムス・プリースと初めて出会っており、彼女を気に入ったプリースは7年間に渡って彼女を教えることとなります。
  • 11歳でチェロ援助基金に合格した彼女は、12歳のときにBBC主催のコンサートで演奏。15歳のときには、ギルドホール音楽学校の金メダルを獲得し、クィーンズ賞も受賞、さらにスイスではカザルスのマスタークラスにも参加して腕を磨きます。
  • 翌1961年3月1日、16歳のときにロンドンのウィグモアホールで、プロとしての正式なデビュー・コンサートをおこない高い評価を獲得。直後にBBCでヘンデルのソナタ、ファリャのスペイン民謡組曲を録音しています。
  • 年末から翌1962年にかけてはBBCでバッハ無伴奏チェロ組曲第1番、第2番を演奏し、2月には母アイリスの伴奏でサン=サーンス:アレグロ・アパッショナート、グラナドス:ゴイェスカス間奏曲、メンデルスゾーン:無言歌二長調などを演奏して映像を収録(EMI)。また、3月21日には、ロンドンのロイヤル・フェスティバルホールでルドルフ・シュヴァルツ指揮BBC交響楽団の演奏会でエルガーのチェロ協奏曲を演奏し、大きな成功を収めることとなります。
  • その成功により、同じ年の夏にロンドンでおこなわれた「プロムス」にも出演して同曲を演奏、国民的なコンサートでの見事な演奏により、一躍人気を集めることとなったのです。なお、同じ夏にはEMIでブルッフのコル・ニドライ、パラディス:シチリエンヌ、シューマン:幻想小曲集、メンデルスゾーン:無言歌ニ長調、ファリャ:ホタ、バッハ:トッカータ、アダージョとフーガよりアダージョ、サン=サーンス:白鳥をセッション録音しており、9月には、ブラームス:チェロ・ソナタ第2番をアーネスト・ラッシュのピアノでライヴ録音しています。
  • 彼女はしかし、まだ自分の演奏に満足しておらず、この年の秋、フランスの名チェリスト、ポール・トゥルトゥリエに師事するため、パリに6ヶ月間留学することとなります。
  • 1963年には、ジェラルド・ムーアとのパラディス:シチリエンヌ、シューマン:幻想小曲集のほか、恩師ウィリアム・プリースとのクープラン:コンセール第13番が録音されています。この年、サージェントの指揮でエルガーのチェロ協奏曲を演奏しており、かつてはその録音がリリースされていました。
  • 1964年には、後援者のイスメナ・ホーランドから、ストラディヴァリウスの銘器ダヴィドフを贈られ、以後、生涯に渡ってこの楽器と付き合うこととなるのですが、デュプレの演奏が激しいこともあって、ダヴィドフはたびたび修理に出されていたようです。
  • 1965年1月、ジャクリーヌは、初の協奏曲レコーディングとなったディリアスのチェロ協奏曲をサージェント指揮ロイヤル・フィルとおこない、4月にはゆかりの深いバルビローリと初の共演を果たします。曲はもちろんエルガーです。
  • 翌月にはドラティ率いるBBC響のアメリカ・ツアーに同行し、カーネギーホールで華々しいデビューを飾っています。曲はやはりエルガーでした。8月にはバルビローリ指揮ロンドン交響楽団とエルガー:チェロ協奏曲のレコーディングをおこない、12月にはLPレコードが発売されるなど、13歳から親しんだエルガーの名曲が、彼女のトレードマークとして、世界で広く知れ渡ることとなりました。
  • この12月にはスティーヴン・ビショップとベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番と第5番をレコーディングしています。
  • 翌1966年2月には、彼女はさらなる研鑽を積むべく4ヶ月間ロシアに留学してムスティスラフ・ロストロポーヴィチに師事します。
  • 同年12月には、招待されたフー・ツォン家のクリスマス・パーティで、ダニエル・バレンボイムと出会い、彼女の提案によってブラームスのソナタ第2番へ長調が演奏されます。
  • 翌月(1967年1月)、バルビローリ指揮BBC交響楽団のロシア東欧ツアーに同行、1月3日、プラハ芸術家の家でエルガー:チェロ協奏曲を演奏してライヴ録音(TESTAMENT)、4日後には、モスクワ音楽院大ホールでも同じくエルガーで賞賛を受けます。
  • 同年4月5日、バレンボイム指揮イギリス室内管弦楽団と初の共演でハイドンを演奏、ほどなく婚約が発表され、2ヵ月後には結婚式が挙げられます。なお、婚約直後にはバレンボイムとハイドンのチェロ協奏曲第1番とボッケリーニのチェロ協奏曲第9番のレコーディングがおこなわれ、さらにエルガーのチェロ協奏曲をバレンボイム指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団と映像収録しています(OPUS ARTE)。11月にはチェリビダッケ指揮スウェーデン放送響のコンサートでドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏してライヴ録音(TELDEC)、12月にはバルビローリとハイドンのチェロ協奏曲第2番のレコーディングがおこなわれています。
  • 1968年4月は、エードリアン・ボールトと『ドン・キホーテ』のレコーディングをおこない、バレンボイムとはブラームスのチェロ・ソナタ第1番と第2番、シューマンのチェロ協奏曲を録音、5月になるとシューマンの仕上げに続いてブラームスのチェロ・ソナタ第1番と第2番を再度録音、6月には、バレンボイムとブルッフ:コル・ニドライを録音し、9月にバルビローリとモンのチェロ協奏曲、バレンボイムとサン=サーンスのチェロ協奏曲第1番を録音しています。
  • この年の8月には、彼女が前年に訪れたプラハにソ連軍が侵攻、難民化したチェコ人を応援すべく、ロイヤル・アルバート・ホールでドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏するとバレンボイムと共に発表したところ、コンサート直前に脅迫を受け、警察の保護を受けることになるものの、なんとか演奏を終えています。
  • 1969年は4月にジェラルド・ムーアとフォーレ:エレジーをレコーディングしているほか、8月にはクリストファー・ヌーペン監督のためにシューベルト『ます』の全曲演奏を含むドキュメンタリーを映像収録(OPUS ARTE)。12月から翌年1月にかけて、ズーカーマン、バレンボイムとベートーヴェンのピアノ三重奏曲全集をレコーディングしています。
  •  1970年1月、ドゥ・ペイエ、バレンボイムとベートーヴェン:クラリネット三重奏曲を録音。8月、エディンバラ・フェスティヴァルでベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集をバレンボイムとライヴ録音(EMI)。渡米し、11月にバレンボイム指揮シカゴ交響楽団とドヴォルザークのチェロ協奏曲をレコーディング。フィラデルフィアでのコンサートでは、エルガーのチェロ協奏曲をバレンボイム指揮で演奏し、ライヴ録音(SONY)。
  • 1971年1月、バレンボイム指揮フィラデルフィア管弦楽団のコンサートでサン=サーンスのチェロ協奏曲第1番をとりあげライヴ録音(TELDEC)。英国に帰ってから、指先の感覚が鈍くなるなどの体調不良を訴え、病院で診察を受けた結果、心因性のものと診断され、秋から1シーズンの演奏をすべてキャンセルします。しかし、12月にはかなり良くなり、キャンセルしたベートーヴェンのチェロ・ソナタの代わりに、ショパンとフランクのチェロ・ソナタをバレンボイムとセッション録音します。このときの演奏は、5ヶ月間もチェロに触れていなかったことが信じられないほどの名演奏でしたが、これが彼女の最後のスタジオ録音となりました。
  • 1972年7月、エルサレムで、ラジオ放送のためにバレンボイム、ズッカーマンとチャイコフスキーのピアノ三重奏曲『ある偉大な芸術家の思い出』を演奏しライヴ録音(EMI)。
  • 1973年1月、バレンボイム指揮クリーヴランド管弦楽団のコンサートでラロのチェロ協奏曲を演奏しライヴ録音(EMI)。同年2月、メータ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とエルガーのチェロ協奏曲を演奏し、さらにニューヨークではリサイタルも開きますが、症状は徐々に進行しており、バーンスタインとの共演はキャンセル、4月に来日した際にはすでに演奏不可能となり、予定されていたコンサートはすべて中止となってしまいました。
  • 同年10月には中枢神経が冒され、難病「多発性硬化症」と診断されます。しかし、ジャクリーヌ本人や家族は、この病気の進行が遅いものであることを祈って日々を過ごしていたのですが、1975年、ニューヨークのロックフェラー研究所がくだした診断は、「多発性硬化症がさらに悪化している」というもので、これにより、ジャクリーヌはチェリストとして事実上の引退を決断することとなり、後進の指導にたずさわる道を選びます。
  • この年、ジャクリーヌは音楽での社会貢献を称えられて大英帝国勲位(OBE)を授与され、一方、夫のバレンボイムはパリ管弦楽団の音楽監督に就任。パリを本拠地とするようになります。
  • 1978年、プロコフィエフの『ピーターと狼』のナレーターとして、「ジャクリーヌ・デュ・プレ基金」設立の記念コンサートに参加。
  • 1979年、エリザベス皇太后から音楽博士の名誉学位を授与されます。同年、母校のギルドホール音楽学校でBBCのために4回シリーズのマスタークラスも実施。
  • 1987年10月19日、病状悪化によりロンドンの自宅で死去。享年42歳でした。
  • 1988年1月26日、生きていれば43回目の誕生日だった日に、その輝かしい生涯に感謝するコンサートが開かれ、デイム・ジャネット・ベイカーが歌い、ズービン・メータがスピーチをし、夫だったバレンボイムがイギリス室内管弦楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第27番を弾き振りで演奏しました。
  • 1989年、ガーデニング好きには有名なハークネス社が、彼女の名を冠した「ジャクリーヌ・デュ・プレ」というバラを発表。晩年、視力が衰えたジャクリーヌが、その香りの美しさから好んだという白く清楚で儚げなバラで、現在でも高い人気があります。

Gerald Moore ‎– A Tribute To Gerald Moore

    1. Malaguena
    2. Panxolina
    Soprano – Victoria De Los Angeles
  1. Siciliano (From Canata No. 29) Composed By – J.S. Bach Oboe – Leon Goossens
    1. Hochzeitlich Lied, Op. 37 No. 6
    2. Weisser Jasmin, Op. 31 No. 3
    Baritone – Dietrich Fischer-Dieskau Composed By – Richard Strauss
  2. Theme And Variations, Op. 33 Clarinet – Gervase de Peyer Composed By – Weber
    1. Frühlingsmorgen
    2. Scheiden Und Meiden
    Composed By – Mahler Mezzo-soprano – Janet Baker
Side-B
  1. Elegie, Op. 24 Cello – Jacqueline Du Pré Composed By – Faure
  2. Traume (No. 5 Of Wesendonk Lieder) Composed By – Wagner Soprano – Elisabeth Schwarzkopf
    1. Habanera Composed By – Debussy
    2. La Fille Aux Cheveux De Lin Composed By – Ravel Violin – Yehudi Menuhin
    1. Don Juan's Serenade, Op. 38 No. 1 Composed By – Tchaikovsky
    2. At The Ball, Op. 38 No. 3 Composed By – Tchaikovsky Tenor – Nicolai Gedda
  3. Slavonic Dance In G Minor, Op. 46 No. 8 Accompanied By – Gerald Moore Composed By – Dvořák Piano – Daniel Barenboim
偉大なチェロ奏者カザルスが、初顔合わせの練習で選んだのは、ベートーヴェン後期のソナタニ長調作品102の第2楽章であった。遅いテンポの第2楽章は、音符を弾くだけなら、とても簡単。最初の20小節は、素人でもすぐに読めるような楽譜である。しかし、ゆったり弾くフレーズの中に、繊細な強弱・抑揚をつけなければならないし、伴奏が強すぎたり弱すぎたら、調和がとれず台なしになってしまう。共演者として、うまく溶け合うか試されているわけだ。私は、神経を研ぎ澄まし、指先に精神を集中させて、鍵盤に向かった … 20数小節進んだところで、カザルスは、突然弾くのを止めてしまった。彼は楽器を静かに横に置き、私を真正面から見つめて言った。「私は、とても満足です。」 ― ジェラルド・ムーア「お耳ざわりですか」書中。パブロ・カザルスとの初練習をムーアが回想している。両者に見えている世界が同じだというのだろう。リハーサルが簡単に済むときは、そうした時。ともに両者一流の演奏者でもあるし、本番をとことん楽しみたい。
  • Record Karte
  • 開きジャケット、解説書付き
  • GB EMI  SAN255 ジェラルド・ムーア 室内楽曲集
  • GB EMI  SAN255 ジェラルド・ムーア 室内楽曲集
  • GB EMI  SAN255 ジェラルド・ムーア 室内楽曲集
  • GB EMI  SAN255 ジェラルド・ムーア 室内楽曲集
  • GB EMI  SAN255 ジェラルド・ムーア 室内楽曲集
フェアエウェル・コンサート
フィッシャー=ディースカウ(ディートリヒ)
EMIミュージックジャパン
2009-09-16

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。