GB  EMI  SAN126-7 ジョン・プリッチャード モンテヴェルディ・ポッペーアの戴冠

商品番号 34-17339

通販レコード→英ホワイト・エンジェル ゴールド黒文字盤[オリジナル]

韓流ドラマ「トンイ」と共通する、史上最悪女が野望を貫徹した顛末。 ― 歌劇「ポッペーアの戴冠」は歴史上の人物が登場する、ルネサンス音楽を脱皮してバロック音楽を幕開けた歴史もの初のオペラ作品。1642年にヴェネツィアで初演された。フォルトゥーナとヴィルトゥが幸運、美徳のどちらが偉大か争っているところに〝愛の神・アモーレ〟が割って入り、「自分より偉大な神はいない、私が少し動くと世の中が変わるのだ」というプロローグにルネサンスの余韻が残る時代が生んだ天才の大傑作。ポッペーアというのは古代ローマ史マニアでないとご存知無いでしょうが、ローマの武将オットーネの妻ポッペーアは皇帝ネローネをその色気で虜にし、皇后オッターヴィアを追い落として玉座への野心を抱いている。古代ローマ帝国の皇帝ネローネが周囲の反対者を排除して、寵愛するポッペーアを皇后とする物語。紀元54年、皇帝クラウディウスは妻アグリッピーナの野望の犠牲となり死亡。養子ネロ=劇中ではネローネがわずか16歳で皇帝となる。後に「国家の敵」と断罪される、ローマ帝国史上最も悪名高き皇帝の誕生だった。若く利発なネロを当初は庶民のみならず元老院さえも歓迎するが、失政を重ねたネロは自滅への道を歩む。ローマの武将オットーネが戦地から家に帰ってくると、皇帝ネローネの兵が家を警護している。そこで妻の浮気に気付く。一方、皇后オッターヴィアも夫の浮気に悩まされている。哲学者セネカは彼女を慰め、恋に溺れる皇帝ネローネに自重を促すが、ポッペーアにとっては邪魔なセネカを消すためにある事ない事を吹きこまれていた皇帝ネローネから逆に死を命じられて果てる。皇后の座が危うくなった皇后オッターヴィアは、不貞を理由にオットーネを唆してポッペーア暗殺を命じる。女官ドゥルジッラから服を借りて変装したオットーネは昼寝中のポッペーアに剣を振り上げるが〝愛の神・アモーレ〟にその手を遮られる。遂に企てが明らかになり、オットーネは国外追放、オッターヴィアは皇后の位を剥奪、離縁され、小舟で流されて追放される。遂にポッペーアは皇后として戴冠する。このポッペーアと共に愛の勝利を歌うのが、皇帝ネローネ=ネロ。その身勝手さだけでなく寛大なところも描く様はステレオタイプな〝暴君ネロ〟像からは随分離れたところにあり、もっと小さい役にも多面性を持たせた人物描写は極めて「現代的」です。現存する筆写者不明のナポリ稿、ヴェネツィア稿の2種類の手稿本には歌と低音部しか書かれていない。そのためこの作品は、演奏者によって楽器・演奏が様々に異なっている。
このジョン・プリッチャードの演奏は、作品の真正のイメージに、おそらく最も近い演奏だと思う。グラインドボーン音楽祭の威力を誇るレコードだ。日本での知名度はあまり高くないプリッチャードですが、戦後に登場した世代ではイギリスで最も愛されていた指揮者だというのも頷ける。同じイギリスの名指揮者サー・ジョン・バルビローリの優しく弦楽器が歌う抒情的なカンタービレ精神が、必ずしも〝イギリス〟を代表するものではないということを思い知らされる。サー・エイドリアン・ボールトの演奏でさえも、これほどにどっしりとした押し出しのよい歩みは聴かせてくれなかった。プリッチャードの〈構え〉の大きな音楽の手ごたえが感じられる。歌劇「ウリッセの帰還」より進歩したアリアや重唱が、流れから浮いてしまうことなく朗詠される様式は、後世のオペラ・セリアで比肩しうるのはロッシーニの歌劇「セミラーミデ」ぐらい。カウンターテナーもコントラルトも擁する声の陣容では、それさえ圧倒します。プリッチャードの容赦のない厳しさと確固とした造形感によって鳴りわたる巨大さの気配からは、ルネサンス後期に育ちつつ、感情をより活き活きと描いてバロック期への転換を体現し、不協和音も取り入れて心理表現を掘り下げ、言葉が生む情感を多彩な音作りで描写したモンテヴェルディの最後のオペラ「ポッペーアの戴冠」が、まぎれもなく偉大な作曲家の作品であることが確信できる。マグダ・ラースローは、ヘルマン・シェルヘンの指揮でウェストミンスター・レーベルに録音したモーツァルトのレクイエム、ベートーヴェンの交響曲第9番《合唱》、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》で共演している。ハンガリー出身のソプラノ歌手というぐらいの認識しか持ち合わせていませんが、《レクイエム》は生涯愛聴盤としていくことを30年前に決定したもの。
クレモナに生まれ、マントヴァやヴェネツィアで活躍したクラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Giovanni Antonio Monteverdi, 1567.5.15〜1643.11.29)はバッハやモーツァルトと並び称される大作曲家。オペラ黎明期の17世紀前半に傑作を3つも遺した。オペラの最初期の作品の一つである『オルフェオ』を作曲したが、この作品は20・21世紀にも頻繁に演奏される最初期のオペラ作品となっている。モンテヴェルディは少なくとも18曲のオペラを作曲した。そのうち、明確な旋律線をもち、聞き取りやすい歌詞、そしてしっかりとした器楽の伴奏を伴う《オルフェオ L'Orfeo, 1697》の画期的な点は、おそらく作曲家が各声部への楽器指定をした最初の作品であると考えられており、《ウリッセの帰還 Il ritorno d'Ulisse in patria, 1641》、《ポッペーアの戴冠 L'incoronazione di Poppea, 1642》、そして、2作目のオペラのアリア《アリアンナの嘆き Lamento d'Arianna, 1608》は聴き逃せない。生前より高い人気を誇り、後世からは音楽の様式に変革をもたらした改革者と見做されている。ヨハン・ゼバスティアン・バッハより1世紀ほど前に生まれたモンテヴェルディの作品はパレストリーナらによるルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期にあると位置づけられており、長命もあいまって、ヴェネツィア音楽のもっとも華やかな時代の一つを作り上げた。イタリアのマントヴァにあるヴィンチェンツィオ1世・ゴンザーガの宮廷において、歌手やヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として活動を始め、1602年から宮廷楽長を務める。その頃より、本格的にイタリア発祥の歌曲形式の一つ、多声歌曲 ― マドリガーレの作曲に着手し、従来の作曲技法の在り方に後々大きな影響を与える全9巻の『マドリガーレ曲集』を発表。1605年に出版した《マドリガーレ曲集第5巻(Quinto Libro)》の中で、ルネサンス的な従来の音楽を「第1作法(Prima pratica)」と呼び、自分も含めた新様式の音楽を「第2作法(Seconda pratica)」と呼んで、2つの「作法」の区別を行った。また、作曲技法の新しい潮流に沿って創作されたオペラも生涯にわたり作曲し、《オルフェオ》や《ポッペアの戴冠》などが代表作に挙げられる。1613年モンテヴェルディが46歳の時には、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長に就任。以来同地に没するまで30年に渡ってヴェネツィアで積極的な音楽活動を展開しました。モンテヴェルディの大きな功績は16世紀末に誕生したオペラを大きく築き上げたこと、そして同時にバロック音楽の基礎となる作曲技法を創り出したことが挙げられます。
ジョン・プリッチャード(Sir John Michael Pritchard CBE)は、1921年2月5日生まれのイギリスの指揮者。幼少時から、ロンドン交響楽団のヴァイオリニストだった父親から音楽の手ほどきを受け、イタリアに留学して指揮法、ヴィオラ、ピアノ等を習得した。1947年にフリッツ・ブッシュの後を継いでグラインドボーン歌劇場の常任指揮者となって、その後1949年にブッシュの代役としてモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を指揮してデビューを飾り注目を浴び、以降コヴェント・ガーデン王立歌劇場にもしばしば登場していた。続いて1951年と1952年のシーズンにウィーン国立歌劇場で指揮をしたほか、1953年にはピッツバーグ交響楽団を指揮してアメリカ・デビューも果たしている。そして1957年から1963年までは、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を歴任。やがて1964年からグラインドボーン音楽祭の音楽顧問を務め、1969年から1978年まで音楽監督の任にあった。さらに1962年から1967年まではロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者も兼任し、このオーケストラをグラインドボーン音楽祭に度々出演させている。1970年万博の年には、来日直前急逝したサー・ジョン・バルビローリに代わって急遽来日、東京でニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮した。グラインドボーンの音楽監督から1978年からはケルン歌劇場の首席指揮者に転身し、1981年からブリュッセルのベルギー王立歌劇場(モネ劇場)の音楽監督も務め、オペラ指揮者として国際的な名声を確立した。その後1981年からBBC交響楽団の音楽監督になり、プロムスのシェフも兼ねて夏の名物プロムスでも活躍した。1986年からはサンフランシスコ歌劇場の音楽監督も兼任したが、1989年にサンフランシスコで急逝した。ヴィットリオ・グイやベルナルト・ハイティンクというマエストロたちに並ぶと際立った個性はないが、常に安定感のある流麗な演奏を保持して信頼度は高く、後年待望のサーに叙され、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのモーツァルトの「イドメネオ」録音により真のマエストロへの道を踏み出した直後にガンのため亡くなった。1989年のプロムス・ラスト・ナイトに、既にガンのため勇退を表明していたサー・ジョンが特別出演し椅子に座ったまま1曲だけ振ったあとで聴衆に引退のメッセージを伝えると満員の聴衆から温かい万雷の拍手が贈られました。この数ヶ月後の12月5日、奇しくもモーツァルトの命日に亡くなっています。
エルガー:序曲「南国にて」
BBC交響楽団 プリッチャード(サー・ジョン)
日本クラウン
1995-12-16

1964年初版、2枚組。
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