34-22161

商品番号 34-22161

通販レコード→英ラージ・ドッグ・セミサークル黒文字盤[オリジナル]

必ず聴くべきエルガーの作品 ―  自らの死に際して神へ魂を委ねようとするゲロンティアス、彼を神の国へと送り出す司祭、死後の世界においてゲロンティアスの魂を導く天使、ゲロンティアスを迷わせる悪魔たち、神のもとでゲロンティアスの魂を招き入れる苦悩の天使、などが登場して、その物語を「音楽神秘劇」のようにして聴かせるエルガーの才能は、必ずや聴き手に深い感動を与えることだろう。しかし、エルガーが心酔してテキストに選んだジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿(カトリック教会においては教皇・法王に仕える最高顧問)による長編詩による、宗教的な題材、しかも「死と魂の審判」という命題を軸にした精神的にも深みのある内容ゆえ、気軽に聴ける作品ではないかもしれない。物語の主人公であるゲロンティアスは聖書に登場する人物ではなく、テキストも聖書によるものではない。ゲロンティアスは自らが直面した「死」について考え、畏れ、死を受け入れた後は慈愛に溢れた天使に導かれて、主のもとへ少しずつ歩みを進めていく。ワーグナーの舞台神聖祝典劇《パルジファル》にも似た崇高な雰囲気を作り上げていく。敬虔なカトリック教徒であったエルガーの最高傑作と言われるオラトリオ「ゲロンティアスの夢」。サー・ジョン・バルビローリとハレ管弦楽団による1964年録音の決定盤。聴き手は、悩めるゲロンティアスの姿を通じて「死と死後の世界」を疑似体験し、その過程において魂は浄化されながら次のステージへと向かうのである。エルガーが通称「エニグマ(謎)変奏曲」を発表し、イギリス国内においても国際的にも注目を集めたのが1899年のこと。その時点で彼は42歳であり、遅咲きの才能として脚光を浴びた。1900年10月にイギリスのバーミンガムで初演された《ゲロンティアスの夢》は、エルガーの名声を確実なものにした重要な一作である。初演はけっして大成功とは言えなかったがエルガーは手応えを感じたのか、1903年にはイエス・キリストと弟子たち、マグダラのマリアなどが登場する「使徒たち」、1906年にはその続編ともいえる「神の国」を発表。その後には、最後の審判をモティーフとしたオラトリオも構想していたが、これは形にならなかった。が、エルガー版の《ニーベルングの指環》というのはおかしいだろうか。それはさておき、イギリス本国においては「必ず聴くべきエルガーの作品」の筆頭に挙げられ、名だたる指揮者やオーケストラ、さらにはアマチュア合唱団も取り組むほど親しまれている。この大作が初演された1900年は、マーラーが交響曲第4番を書き上げ、ドビュッシーはオペラ《ペレアスとメリザンド》の完成を急いでいた頃。前年にはリヒャルト・シュトラウスにとって最後の交響詩となった「英雄の生涯」が初演され、シェーンベルクが耽美的な「浄められた夜」を作曲している。本盤を機会に、エルガーをイギリス音楽という枠に収めず、広く音楽史の中で再評価するのも一興だろう。
エルガーの「ゲロンティアスの夢」は、1900年10月3日にバーミンガムで初演された。作曲に至ったのは、19世紀に工業で栄えたこの中部の都市には3年おきに開催される国内最大級の合唱祭、バーミンガム音楽祭からの委嘱であった。同音楽祭は、それまでにもメンデルスゾーンのオラトリオ「エリヤ」(1846年)やドヴォルザークの「レクイエム」(1891年)などを委嘱してきた業績があり、成功すれば注目を浴びる予感があった。「ゲロンティアスの夢」はそうした19世紀のヨーロッパの合唱曲の伝統の流れを確実に汲んでおり、だからこそ初期の受容においてドイツでも高い評価を受けたのであろう。名作の初演によくあることでもあるが、楽譜の制作が遅れたり、合唱指揮者が数ヵ月前に亡くなったりの不運が重なり、練習不足のまま公演を迎えてしまった。これが首都ロンドンでも、彼の故郷ウスターでもあったならば、最小限度にとどまったかもしれないが、エルガーの音楽に深い理解を示していたハンス・リヒターの指揮をもってしても残念な出来で、エルガーは落胆した。しかしながら客席にはこの曲のポテンシャルを見抜いた人物がいるもので、ドイツのニーダーライン音楽祭の指揮者ユリウス・ブーツはその一人であった。彼はこの曲に感銘を受け、自ら歌詞のドイツ語訳を行ない、翌年さっそくデュッセルドルフでドイツ初演を成功させた。さらに1902年にも再演、その公演を聴いたリヒャルト・シュトラウスが曲を賞賛した次第で、このことはエルガーを大いに喜ばせた。同年には故郷ウスターでも取り上げられ、さらに1903年にはロンドン初演がウェストミンスター大聖堂でエルガー自身の指揮で行われ、その後は各地の合唱団が次々と取り上げるようになっていった。英国内では今日でも頻繁に演奏され続けている。
近代イギリスを代表する作曲家、サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(Sir Edward William Elgar)は、1857年6月2日、イギリス中西部ウスター近郊のブロードヒースで生まれました。経済的に恵まれなかったため正規の音楽教育を受けることができず、ほとんど独学で勉強したそうですが、ピアノ調律師で楽器商を営んでいた父親のウィリアムは、生業のかたわら聖ジョージ・ローマ・カトリック教会のオルガニストを務めていたそうですから、やはりその血の中には音楽家の資質が備わっていたということなのでしょう。ヴァイオリン教師、ピアノ教師として収入を得るようになると、若きエルガーはロンドンへ足しげく通ってはさまざまな音楽に接し、シューマン、ワーグナーの作品にはとりわけ強く影響を受けたとされています。1900年に完成した、オラトリオ『ゲロンティアスの夢』をリヒャルト・シュトラウスが絶賛したことで、その名声はヨーロッパ中に広まります。しかし1920年に夫人と死別してからは創作意欲を失い、指揮者、演奏家としての活躍に重心を移します。この当時マイクロフォンによる電気吹き込みの技術が新しく開発され、エルガーは自身の代表作を次々とレコーディング、有名なEMIのアビー・ロード・スタジオで初録音をおこなったのはエルガーでした。1914年から1924年までの最初の録音プロジェクトと1926年から始まったフレッド・ガイスバーグのプロデュースによるEMIのプロジェクトという、2つのエルガーの自作自演集は、作曲者が人生最後に成し遂げた大仕事である。特にEMIのプロジェクトはその作業は作曲家が病床に伏してからも進められた。最後にはエルガーがベッドに寝たままマイクロフォンを通じスタジオへ指示を送りながら作業が行われている。これらの録音は、そんな状況を克明に伝える貴重なドキュメントとしての存在価値がある。1929年にエルガーは5つの組曲から成るピアノの即興を録音している。その演奏は1970年代まで全く陽の目を見ることがなかった。即興録音だったので楽譜は出版されないままだったが、デイヴイッド・オウエン・ノリスはこの録音を頼りに楽譜を起こし、度々この曲を彼のリサイタルで取り上げ続けてきた。また、エルガーの自作自演録音を手掛かりとして、楽譜起こしされた例としてはエルガーの自筆楽譜が存在しなかったものもある。1927年へレフオードで開催されたスリー・クワイヤーズ・フェスティヴァルの開幕のために作曲された「シビック・ファンファーレ」は、1949年頃まで使用されていたのだが、その後紛失され演奏できなくなっていた。エルガーが指揮した初演の模様は、EMIがライヴ録音してもいたが、この音源も一時行方不明となってしまったが、1970年代になって再発見され同音楽祭での開幕の曲として復活を果たしたという経緯がある。「名作曲家イコール名演奏家」ではないが、ことエルガーに至っては彼自身が熱心にレコード録音として後進の指揮者に目的を遺した。
ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli, 1899年12月2日〜1970年7月29日)は第二次世界大戦に従軍。「サー・ジョン」(Sir John)の愛称で知られる。1943年にハレ管弦楽団の音楽監督に就任するが、バルビローリが戦地から戻ると、オーケストラの楽団員は戦死したり、傷を負っていて演奏会どころではなかった。どれほどのオーケストラだったといえども指揮者だけでは何もならない。まずはオーケストラの立て直しからがバルビローリの仕事だった。しかし健全な男性奏者は集まりそうにない。空襲で荒廃した街に音楽を響かせるために、女性奏者を募ったり、バルビローリはオーケストラの再興に尽力しました。演奏会以外の時間はそういうことに費やし、一日は24時間じゃないとも頑張った指揮者でした。「一日16時間の仕事」、「一日1食も珍しくない」といった勤勉ぶりで、技量やアンサンブルは超一流とはいかないがバルビローリ自らが採用したメンバーを含む心あたたまるサウンドは、感興の豊かさ初々しさは段違い。戦後間もない演奏で、演奏者の技量はまだまだながら音楽で復興を応援する気概に魅了される。
〝良質なワインのように、年を経るにつれて芳醇な味わいを醸し出した指揮者〟と評されるいうに、ジョン・バルビローリは多くの名指揮者を生み出したイギリスの最高の名匠である。生まれたのも没したのもロンドンだったが、祖父も父もイタリアのヴァイオリニストで、バルビローリが生まれた時、〝ジョヴァンニ・バッティスタ〟とイタリア風の名前が付けられたという。ロンドンの王立音楽院でチェロを学び、1916年にクイーンズ・ホール・オーケストラの最年少の楽員となり、翌年チェリストとして初のリサイタルも開いたが、19歳頃に指揮者に転身、ロンドンでオペラやコンサートを振りながら修練を積んで、1933年にスコティッシュ管弦楽団(現スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)の首席指揮者に就任した。1936年にニューヨーク・フィルハーモニックにデビュー。翌年に首席指揮者に就任したが、前任者がアルトゥーロ・トスカニーニであったためか楽員と肌合いが合わず、1943年に辞任してイギリスに戻った。同年マンチェスターのハレ管弦楽団に懇望されて首席指揮者となり、同オーケストラを飛躍的に成長させて名声を博し、1949年に〝サー〟に叙され、楽団からは終身指揮者の栄誉を贈られた(後の桂冠指揮者)。1968年に勇退後も同オーケストラとは親密な関係が続いた。この間の1961〜1968年にはヒューストン交響楽団の音楽監督も兼任して、アメリカでも絶大な信望を得た。バルビローリは典型的な大器晩成型で、40歳代終わり頃から魅力的な演奏を聴かせた。極めてヒューマンな人柄と、リハーサルのたびごとに「その音符を愛してください、愛がそこから湧き出るように」と楽員に呼びかけたという音楽への奉仕者の姿は、聴衆と楽員の双方から敬愛を浴びた。その第一の理由はイギリス近代の作曲家たちの作品に、しみじみとした味わいの名演を聴かせたことで、残された多くの名盤ではハレ管とのディーリアス『管弦楽曲集」(1968〜1970年)がまっさきに挙げられる。これも十八番にした北欧音楽では、やはりハレ管弦楽団とのシベリウスの交響曲全集(1966〜1970年)が代表作だが、絶対に聞き逃せないのがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのマーラーの交響曲第9番(1964年)。前年にベルリン・フィルに客演した際、感激した楽員の提案によって録音されたというエピソードで有名な、このマーラーにこそバルビローリの人と芸術の精華が結実しているとも言える。
Elgar: Dream of Gerontius
J. Barbirolli
Warner Classics
2007-08-24

ジャネット・ベイカー、リチャード・ルイス、キム・ボルイ、ハレ合唱団、シェフィールド・フィルハーモニー合唱団、アンブロジアン・シンガーズ、ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団。1964年、ステレオ録音。2枚組。
GB EMI ASD648-9 バルビローリ エルガー・ゲロンティア…
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