34-14869

商品番号 34-14869

通販レコード→英ホワイト・アンド・ブラック・スタンプ・ドッグ盤

エルガーの傑作の森 ― エルガーのもっともポピュラーな作品である行進曲『威風堂々』第1番は、1901年に作曲されました。その中間部の有名な旋律は、時のイギリス国王エドワード7世のために書かれた『戴冠式頌歌』(1901年)でも再び用いられ、今日『希望と栄光の国』として愛唱され、イギリス第2の国歌とまで称されています。王室などから依頼されて作曲したり、ロンドンへ出ていって指揮をしたりする機会が増えた、この頃がエルガーにとって最も忙しい時期であった。エルガー全盛期の「傑作の森」と呼べる時代の到来。これ以降、オラトリオ『使徒たち』(1903年)、オラトリオ『神の国』(1906年)、交響曲第1番(1908年)、ヴァイオリン協奏曲(1910年)、交響曲第2番(1911年)、交響的習作『フォールスタッフ』(1913年)、チェロ協奏曲(1919年)等々、近代音楽史上の傑作を矢継ぎ早に発表、1904年(47歳)にはナイトに叙されるなど、エルガーはイギリスを代表する作曲家として自他共に認める存在となります。しかし得た名誉に比べて、見た目ほど収入があったわけではなく、「プラス・グィン」という大きな家を維持するには無理があったようだ。この頃エルガーの趣味の一つが日曜化学であった。自宅の一室を「箱舟」と名付けた実験室に改造し、娘のキャリスとともに研究に明け暮れた。誤って爆発事故を起こしたこともあったが、いくつか特許を取るなどの発明にも成功している。《エニグマ変奏曲》や《威風堂々》といった管弦楽作品で成功を収め、それらの作品を通してより一層磨かれた作曲技術を再び声楽作品に向けていた1903年に夫妻で訪れたイタリアのアラッシオの風景に触発されて、エルガーは雄大な序曲《南国にて(In the South = Alassio, op. 50)》を1904年に作曲。これはエルガーの作曲技巧が余すところなく発揮された作品で、リヒャルト・シュトラウスの交響詩やワーグナーの楽劇の影響が見られる。曲中エルガーがアラッシオで耳にしたという民謡のメロディが引用されるが、実はエルガーの創作主題。夫婦水入らずの旅行は、まだ下町の音楽教師として将来を夢見ていた苦労時代に、「愛のあいさつ」を作曲した頃を懐かしんだのだろうか。この〝民謡〟、あまりにも美しいので独立した1曲として出版されている。それが《カント・ポポラーレ(Canto Popolare)》である。のみならず、更にこれにシェリーの詩をつけて《月光の中で(In Moonlight)》という1曲の歌曲として編曲されている。
近代イギリスを代表する作曲家、サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(Sir Edward William Elgar)は、1857年6月2日、イギリス中西部ウスター近郊のブロードヒースで生まれました。経済的に恵まれなかったため正規の音楽教育を受けることができず、ほとんど独学で勉強したそうですが、ピアノ調律師で楽器商を営んでいた父親のウィリアムは、生業のかたわら聖ジョージ・ローマ・カトリック教会のオルガニストを務めていたそうですから、やはりその血の中には音楽家の資質が備わっていたということなのでしょう。ヴァイオリン教師、ピアノ教師として収入を得るようになると、若きエルガーはロンドンへ足しげく通ってはさまざまな音楽に接し、シューマン、ワーグナーの作品にはとりわけ強く影響を受けたとされています。1900年に完成した、オラトリオ『ゲロンティアスの夢』をリヒャルト・シュトラウスが絶賛したことで、その名声はヨーロッパ中に広まります。しかし1920年に夫人と死別してからは創作意欲を失い、指揮者、演奏家としての活躍に重心を移します。この当時マイクロフォンによる電気吹き込みの技術が新しく開発され、エルガーは自身の代表作を次々とレコーディング、有名なEMIのアビー・ロード・スタジオで初録音をおこなったのはエルガーでした。1914年から1924年までの最初の録音プロジェクトと1926年から始まったフレッド・ガイスバーグのプロデュースによるEMIのプロジェクトという、2つのエルガーの自作自演集は、作曲者が人生最後に成し遂げた大仕事である。特にEMIのプロジェクトはその作業は作曲家が病床に伏してからも進められた。最後にはエルガーがベッドに寝たままマイクロフォンを通じスタジオへ指示を送りながら作業が行われている。これらの録音は、そんな状況を克明に伝える貴重なドキュメントとしての存在価値がある。1929年にエルガーは5つの組曲から成るピアノの即興を録音している。その演奏は1970年代まで全く陽の目を見ることがなかった。即興録音だったので楽譜は出版されないままだったが、デイヴイッド・オウエン・ノリスはこの録音を頼りに楽譜を起こし、度々この曲を彼のリサイタルで取り上げ続けてきた。また、エルガーの自作自演録音を手掛かりとして、楽譜起こしされた例としてはエルガーの自筆楽譜が存在しなかったものもある。1927年へレフオードで開催されたスリー・クワイヤーズ・フェスティヴァルの開幕のために作曲された「シビック・ファンファーレ」は、1949年頃まで使用されていたのだが、その後紛失され演奏できなくなっていた。エルガーが指揮した初演の模様は、EMIがライヴ録音してもいたが、この音源も一時行方不明となってしまったが、1970年代になって再発見され同音楽祭での開幕の曲として復活を果たしたという経緯がある。「名作曲家イコール名演奏家」ではないが、ことエルガーに至っては彼自身が熱心にレコード録音として後進の指揮者に目的を遺した。
英国を代表する指揮者の一人であったサー・エードリアン・ボールトは、1920年、忘れかけられていた〝交響曲第2番の甦演〟から作曲者であるエルガー本人から全幅の信頼を委ねられる事となり、以来〝エルガー演奏〟の第一人者として広く活躍、数多くの名演を残しました。この時エルガーはボールトにこう言って労をねぎらった。「素晴らしい音楽の連続だった。君に任せておけば、私の将来の評価も安泰だ」。実際、ボールトの演奏は、スコアに書かれた以上のことはほとんど何もしていない。ボールトは言っている。「作品が素晴らしいので、特に私が何もしなくともオーケストラに任せておけば大丈夫」。これはエルガーの多くの作品に言えることなのだが、エルガーの曲というのは、如何に優れたテクニックでも描き切れない「心」の部分がある。作曲家と演奏家の、心のある資質が同化した瞬間に、エルガー作品の名演奏が生まれるのだと思う。確かに技巧的な要素も求められてはいるのだが、それ以上に求められているものがあるのだ。それに応えられるかどうかで決まってしまう。実際、ボールトの指揮によるエルガー作品のほとんどが作曲者自作自演のものと演奏のテンポの点でも最も近い。多様なエルガー作品が聴かれる時代となった今こそ必聴の演奏。ボールトは、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経て、ライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶかたわら、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエドワード・エルガー、グスターヴ・ホルスト、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。戦後はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトはヨハン・ゼバスティアン・バッハからハヴァーガール・ブライアンまで、幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽と、ニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。前者では、エルガーの交響曲第2番の復活初演やヴォーン=ウィリアムズの「ロンドン交響曲」改訂版の初演など、作曲者から盤石の信頼を置かれていたボールトならではの業績は数多く残されています。ボールトはエルガーから序曲「南国にて」について直接トレーニングを受けているだけのこともあり、他の追随を許さぬ名演奏を録音で聴くことができる。絶対的な自信に充ち溢れた本盤、隠れた名盤です。
サー・エイドリアン・ボールトというと、長命だったこともあってか晩年の老成した演奏のイメージが強いのですが、1950年代までの彼は、ときにかなりアグレッシヴな演奏も行うという、爆演も辞さぬ積極的な芸風の持ち主であったことはマニアにはよく知られています。エルガーやホルスト等も得意としたイギリス音楽のスペシャリストとされるボールトによるヴォーン=ウィリアムズは、サー・ジョン・バルビローリ指揮のものと並んで決定版と言えるものです。長寿の作曲家と長寿の指揮者の組み合わせでもあり、極めて〝イングリッシュ〟な両者の取り合わせでもある。つまり、一歩間違えれば時代錯誤も甚だしいアナクロに陥るものが、まさに芸術の域に昇華されているわけで、極めてイギリス的な際どさがスリリング。ボールトは「私は常に指揮をとるということは、船の船長になるようなものだと思ってきた。私には石油のドラムカンといっしょにころげまわる理由はまったくない」と言った。ボールトはウェストミンスター・スクール在籍中のディナー・パーティでエルガーと出会い、自作の総譜を見せられつつ解説を受けた。オックスフォード大学で音楽の学位を得たのち、ライプツィヒ音楽院でマックス・レーガーに作曲をハンス・ジットに指揮を学びますが、この地でボールトが最も感銘を受けたのは、アルトゥール・ニキシュによるリハーサルやコンサートの数々だったといいます。ボールトは20歳代初めの若い頃、ライプツィヒで偉大な指揮者ニキシュに私淑したが、晩年に至るまで讃仰の気持ちは変わることがなかった。ニキシュは私などよりももっと簡素だった。今日、若い世代の指揮者たちには余りにも跳び回る傾向がある。もっとも、彼らはそうすることを期待されているのかもしれないがね。また最近の傾向としては、総体的な建築的構成を犠牲にしてディテール(細部)をほじくることが著しく目立っていると思う。とは、ボールトの現代批判であるが反面、聴き手はボールトに一種の安全弁のようなものを見出していたようである。少なくともイギリス人はそうであった。ボールトが英国音楽だけでなく独墺系音楽も得意としていたのは、そうした事情が背景にあるとも思われ、これまでにも両分野での人気には絶大なものがありました。
英国の巨匠サー・エイドリアン・ボールト(Adrian Boult, 1889~1983)は、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経てライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶ傍らゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエルガー、ホルスト、ヴォーン=ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。中でもボールトの代名詞ともいうべき作品がホルストの組曲「惑星」です。1945年のBBC響とのSP録音(EMI)を皮切りに、ボールトは生涯に「惑星」を5回録音も録音しています。1918年9月ロンドンのクイーズ・ホールにおける作品の非公開の全曲演奏(私的初演)が行われた際にホルストからの依頼で指揮をとったのがボールトであり、その成功によって《惑星》に初めて輝きをもたらし、作曲者の感謝を受けたエイドリアン・ボールトにという献辞の書き込まれた印刷譜を作曲者から送られています。戦後はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトはJ.S.バッハからハヴァーガール・ブライアンまで幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽とニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。イギリス人にいわせると軍服ならぬエンビの退役将軍、あるいはパブリック・スクールの老校長を想わせるというが、姿勢の正しさと無駄のないキビキビしたジェスチュアは、まさしく老将軍といった面影をそなえている。ボールトは柔和な表情のうちに威厳を兼ね備えている。一見してイギリス人らしい風貌の持ち主である。ボールトはSPレコードが電気吹き込みになる以前の1920年代からイギリスの様々なレーベルに録音しているが、その中の大手である英 EMI がボールトを発見したのは、1966年、ボールト77歳のときだった。80歳の誕生日祝いのコンサートを振った折り、ボールトはふと、こんなことをもらした。「レコード会社は、ほぼ10年ほど前に私がまだ生きていたってことに突然気づいた。こんなに忙しいのは嬉しいことだが、私がもっと元気だった、それより10年前(60歳代)に起こったらねえ」。一口にいってボールトは極めて地味な指揮者だったから、人気者で名物男だったサー・トーマス・ビーチャムが、1961年に82歳で没し、公衆のアイドルだったサー・マルコム・サージェントが1967年に72歳で没し、芸術の夕映えに輝いていたサー・ジョン・バルビローリが1970年に70歳で没したのち、後釜にボールトが浮上していたというわけである。晩年の10年間、ボールトの録音に協力したクリストファー・ビショップの談によると、80歳代の高齢にもかかわらずボールトの耳は以前としてシャープであり、老眠鏡もかけずに、こまごまとした手書きスコアを読むことができ、健康な食欲に恵まれ録音スタジオのキャンティーン(簡易食堂)で楽員たちと同じ食事をうまそうに平らげていたそうである。
序曲《南国で》(アラッショ) 作品50、ヘンデル(エルガー編)序曲ニ短調、1970年録音。演奏会用序曲《コケイン~ロンドンの下町で》作品40、演奏会用序曲《フロワサール》作品19、1971年録音。
GB EMI ASD2822 エイドリアン・ボールト エルガー・序曲集
GB EMI ASD2822 エイドリアン・ボールト エルガー・序曲集