GB EMI ASD2582 ヘルベルト・フォン・カラヤン ベートーヴェン・三重協奏曲

商品番号 34-18754

通販レコード→英ホワイト・アンド・ブラック・スタンプ・ドッグ黒文字盤

高名な三人の独奏者もここでは楽団員です。 ― ロシアの3大巨匠、ダヴィッド・オイストラフ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、スヴャトスラフ・リヒテルとヘルベルト・フォン・カラヤン率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団という、大手レーベルでなければ、決して実現しない様なオールスターによる《ベートーヴェン・三重協奏曲》。ヴァイオリン協奏曲や、ピアノ協奏曲と比べて、ベートーヴェンといえども馴染みの薄い《トリプル協奏曲》を、当時の日本人の中には初めて手に取ったクラシック・ファンもあったかもしれませんね。「この三人のソロで、カラヤン指揮ベルリン・フィル」だから、いっちょ聴いてみよかい、って。今でも興味惹かれることは変わらないでしょう。当時の人気はものすごく。メーカーの営業マンの話しによれば毎日歌謡曲並みに売れていたとか。熊本のクラシック音楽専門の中古盤店の店主が定番にしている思い出話だが、それほど発売前から大きな話題になりました。日本盤は新世界レコードから、最初に発売。そのレコードの帯には「一体、誰がこの顔合わせを予想しえたか ― 偉大な4つの個性、白熱の競演が生んだ人類の遺産!」の見出しに、縁どりされた〝トリプル・コンチェルト〟とある手描き風書体が印象的。後に日本ビクター音楽産業、東芝EMIからの発売と移っていくのですが、大手レコード会社が販売権を争奪しあった様にも見えてしまう、その時期の大きな販促用のポスターが記憶に残るほどでした。後述する、その背景を解説しながら、蓄音器を楽しむ会が2,018年9月30日に熊本鶴屋百貨店で行う、蓄音器と高級オーディオで楽しむレコードコンサートで、この〝トリプル・コンチェルト〟を新世界レコード盤で鑑賞します。兎も角このメンバー以上による、この曲の録音は考えられなく、まさに空前絶後とはこのこと。まだまだレコードの売上としては若者中心のロックやジャズより、クラシック音楽のレコード購入者が確かな買い手だったのでしょう。カラヤン指揮ベルリン・フィルの録音は星の数くらい沢山あるが、ベルリン・フィルの実力を最高に引き出しているという点では当盤も最右翼でしょう。それは極めてスタイリッシュかつパワフルで録音も素晴らしく、オーディオ的観点からも胸のすく音の洪水。本録音はカラヤンの何時もの重厚感がたまらなくいいし、豪華絢爛なベルリン・フィルも健在。ベルリン・フィル伝統のアンサンブルは健在で他に得られない圧倒的なものです。 ー それほど気合が入っているのは、この時カラヤンと EMI それぞれの思惑が大きく存在しています。そして、このレコーディングにはリヒテルが再録音を主張していますが、長くなるので改めて書きます。 ー カラヤン好きにはオススメの1枚。 … 念を押しますが、ベートーヴェンの三重協奏曲の面白さがわかるようになってから聴きましょう。
この時期の英EMIとヘルベルト・フォン・カラヤンは非常に濃厚な仕事をしています。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と違い、毎晩オペラ座のオーケストラ・ピットで演奏する代わりに、ステージ上からオーケストラ曲を演奏するコンサート・オーケストラだ。この、日常オペラの伴奏をしないオーケストラはカラヤンとの録音を通してオーケストラ演奏に表情を獲得した。英EMIは過去60年にわたり450以上のオペラ録音を続けており、偉大なアーティストによる録音の継続の中で、現在もアンジェラ・ゲオルギュー、ナタリー・デセイ、ジョイス・ディドナート、ロベルト・アラーニャ、アントニオ・パッパーノなどによる新録音が加わっています。カラヤンは1960年にはウォルター・レッグとの縁切れにあわせ、EMIと疎遠になってしまいました。替わってドイツ・グラモフォンとロンドンDECCAの録音に関わるようになります。そして1970年はレコード界では大きな変革の年でもあります。オランダ・フィリップスがドイツ・グラモフォンの補助的な役割から主導的な役割に変化します。そこにはスター音楽家をドイツ・グラモフォンがかき集め過ぎ、録音演目調整がうまくいかなくなったことによりました。これの端的な例がマーラー録音です。若手の大物指揮者たちは皆マーラーが録音したいと唱えだし、歌手や合唱団、録音スタッフに及ぶまで人件費も含めて経費を考えたときドイツ・グラモフォンでは賄えません。その中でベルナルト・ハイティンク、コリン・ディビス、小澤征爾ら売れる指揮者に、積極的にフィリップスを主要な活動の場として与えました。そして、1970年代は映像のつながりとオペラの積極的録音があげられます。また、1970年代半ばからPCM録音(パルス・コード・モジュレーション)技術が実験され、1980年になるとそれが本格的にデジタル録音として登場しますが、1970年代はステレオ録音の総決算でもありました。終身カラヤンはドイツ・グラモフォンとベルリン・フィルとウィーン・フィルを指揮する専属契約をしていましたが、カラヤン自身も再びEMIを活動の場の1つとしました。そしてベルリン・フィルを引き連れてEMIと録音することも始めます。本盤は、そうして登場します。スビャトスラフ・リヒテルのピアノ、ダヴィッド・オイストラフのヴァイオリン、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチのチェロ、指揮がカラヤン、しかもオーケストラはベルリン・フィルと、夢のようなコンビネーションでは、これ以上の組み合わせは他に考えられるだろうか?
最も偉大なピアニストは誰か、と質問されればスヴァトスラフ・リヒテル(1915〜1987)は必ず上位に名を連ねる演奏家です。スタジオ録音としては、ザルツブルク郊外の残響豊かなクレスハイム宮殿で、珍しくベーゼンドルファーを使って録音された「バッハの平均律クラヴィア曲集」が筆頭に代表される。この演奏は、典雅でありかつ底知れぬ深みをたたえ、ピアノという楽器の持つ多彩な無限の可能性を開示し、録音からおよそ半世紀を経た現在もその魅力を失っていません。1970年7月から1973年3月にかけてフリッツ・ガンツ(プロデューサー)とホルスト・リントナー(エンジニア)によって3年がかりで録音され、グレン・グールド盤(CBS)、フリードリヒ・グルダ盤(アマデオ)などと並び、アナログLP時代からピアノによる『平均律』演奏の決定盤とされてきた、この有名な録音は、日本でも新世界レコードから1972年と1974年に第1巻・第2巻に分けて発売された後、日本ビクターのメロディア・レーベルからLP、そしてCD(1994年には日本のマスターを使用して20ビット化されている)として発売。またこの録音は、世界各地でもシャン・デュ・モンド(フランス)、EMIおよびオリンピア(イギリス)、ミュージカル・ヘリテイジ・ソサエティ(アメリカ)、エテルナ(東独)、リコルディ(イタリア)などさまざまなレーベルから発売され、CD化もされてきた。米ソ冷戦下の1960年代、旧ソ連国営のレコード・レーベル・メロディアとライセンス契約を結び、鉄のカーテンの向こうの音楽家たちを日本に紹介していたのが新世界レコードである。リヒテル、エミール・ギレリス、エフゲニー・ムラビンスキーらの名盤の多くが、銀色のロゴ・マークを冠したそっけない赤色レーベルのアナログ・レコードによってファンの元に届けられていた。創業者が旧共産圏、特にロシア書籍文物の輸入商社だったことでメロディアやスプラフォンのレコードを扱っていたこと、旧社会党の関係者だった新世界レコード社は、冷戦下で東側の文化が排除されないようにという政治的な動機がレコード製作を行うことへあったようです。社名の〝新世界〟は、ドヴォルザークの交響曲から採ったものと思われます。
熊本では長崎屋のレコード売り場に行かないと買えなかったと記憶しているので〝新世界〟とは、〝革命成就後の新しい世界〟をイメージしていましたが、この時代は総じて、日本における旧ソビエトの演奏家の人気がとても高かったようで、イデオロギー的なシンパシーというのではなく、少ない情報への飢餓感からくる幻想に後押しされたと思しき、共産圏の演奏家への不思議な熱狂といったものが時代の気分としてあったのだろう。熊本・阿蘇で子どもの本の専門店「竹とんぼ」を営んでいる翻訳家、こみやゆうさんの祖父・北御門二郎がトルストイを翻訳したのも同様の動機ではなかっただろうか、と想像する。と同時に、この世代の、SP・レコードの時代から一貫して音楽とレコードを愛してきた日本の音楽ファンたちには特有の嗅覚ともいうべき〝音楽における美の本質を聴き分ける圧倒的な想像力〟があったのだな、と痛感する。日本レコード協会会員社の変遷によると、かつて神保町の古書センタービルに事務所兼直販店があった新世界レコード社は1956年入会、1975年退会とある。プレス・販売は日本ビクターだったので、新世界レコード社がレコード製作から手を引いたとき日本ビクターにメロディアの版権は委譲したようだ。スプラフォンは日本コロムビアが一時期その版権を持っていた。現在のアマゾンはなく、レコード店も中心市街にあった、古くは講談社King、日本リーダースダイジェスト社、河出書房など出版社が月極め契約でレコードを頒布する時代が1960年代初頭までありました。他にも日本メールオーダー(コンサート・ホール・ソサエティ)などがレコード通販して重要な存在でもありました。西側の音楽家が、東側の音楽家と共演するようになって触発されるようになると、西側のレコード会社も東側の音楽家をビジネスに組み込もうとするようになる。新世界レコードのオーナーも使命感から開放されたのだろう、趣味のヴィンテージ・カメラへ専念していったそうである。
最初の手合わせは1962年9月に前哨戦のように、スヴァトスラフ・リヒテルはチャイコフスキーのピアノ・コンチェルト第1番で、次に1968年9月にムスティスラフ・ロストロポーヴィチはドヴォルザークのチェロ・コンチェルトで、それぞれヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮のもとにウィーンとベルリンでドイツ・グラモフォンにレコーディングを行っていて、その両盤ともに1960年代のカラヤンの業績を象徴する名盤、名演奏であるから、この〝トリプル・コンチェルト〟でも期待は決して裏切られない。曲自体はベートーヴェンのものとしては大したものとは言い切れないところがあるが、ベートーヴェンが作曲した労作であり、もちろん、親しみやすい旋律などにも事欠かないと言えなくもないが、それでも5曲のピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲などと比較するといささか魅力に乏しいと言わざるを得ないのではないだろうか。よほどの指揮者やソリストが揃わないと同曲の真価を聴き手に知らしめるのは困難と言えるだろう。馴染みの薄い曲だけに本盤への関心は、もっぱら演奏者とその演奏内容の方に注がれることになる。カラヤンとロシアの偉大な3人のソリストという超豪華な布陣は、冷戦時代の録音当時も、そしてネット配信の隆盛を迎えている現代においても夢のような共演だったと言えるだろう。ましてやオーケストラが世界最高のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団であり、名門オーケストラにしても演奏実績を誇るとは思えないので、三重協奏曲のような楽曲ではもったいないような究極の布陣とも言える。結果は、このメンバーの演奏を聴くと、それが名曲とさえ聞こえるのだから演奏家の腕というのは大したものである。それにはカラヤンの指揮振りが大きく作用している、というのもこの若書きとも思える曲を思い切りダイナミックに、現代オーケストラの機能を最大限に発揮させるような指揮をすれば否が応でも演奏効果は現れようというものだ。後にカラヤンは若手 ― アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)、ヨーヨー・マ(チェロ)、マーク・ゼルツァー(ピアノ)をソリストに起用してこの曲を再録音しているが、この録音は大家4人のぶつかり合いと言う点でアプローチの仕方が全くことなる。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(当時61歳)、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(同42歳)、スヴァトスラフ・リヒテル(同54歳)、ダヴィッド・オイストラフ(同61歳)。ヨーロッパの音楽界を文字通り制覇していた「帝王」カラヤンと、ソ連(当時)の誇る巨匠たちとの火花を散らす共演が大きな話題になった。カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は慎重に音楽を始動してソリストの登場を待つのではなく、ソリスト登場後の展開と等価に、この黄金コンビの全盛時代ならではのオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築を行っているし、ソリストらの登場に引導を渡すロストロポーヴィチの渾身のチェロ演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っていると言える。絡むように登場してくるオイストラフのヴァイオリンも、ロストロポーヴィチのチェロに引けを取らないような凄みのある演奏を展開しているし、新しい主題のきっかけとなるリヒテルのピアノも、本名演の縁の下の力持ちとして重心の低い堂々たるピアニズムを展開していると言える。ソリストたちの存在感が生き生きとしていて、オーケストラは雄弁だ。いずれにしても、凄い演奏であるし超名演に値すると言える。そして、このような凄い超名演を持ってして漸くこの三重協奏曲の魅力が聴き手に伝えられたというのが正直なところであり、その意味では、本演奏こそが同曲の唯一無二の名演と言えるのかもしれない。この成果が弾みとなったのは疑うべきもなく、コンサート・オーケストラには機会を得られないままだったろう多彩なソリストらとの競演で立ち止まらなかった。これから始まったドイツ・エレクトローラとの共同制作は、1970年8月のオペラ『フィデリオ』の録音へと発展する。ヘルガ・デルネシュ、ジョン・ヴィッカースの歌唱を引き立てながらカラヤンは繊細な美しさと豪快さを併せ持った迫力のある進め方をしています。カラヤンのオーケストラ、ベルリン・フィルの精緻な演奏は有名なベートーヴェンのオペラが、ただオペラというよりオラトリオのように響く。カラヤンは1972~76年にかけてハイドンのオラトリオ『四季』、ブラームスの『ドイツ・レクイエム』、さらにベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』という大曲を立て続けに録音しています。
ドイツ、オーストリアの指揮者にとって、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは当然レパートリーとして必要ですが、戦後はワーグナー、ブルックナーまでをカバーしていかなくてはならなくなったということです。ヘルベルト・フォン・カラヤンが是が非でも録音をしておきたいワーグナー。当初イースターの音楽祭はワーグナーを録音するために設置したのですが、ウィーン国立歌劇場との仲たがいから、オペラの録音に懸念が走ることになり、彼はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をオーケストラ・ピットに入れることを考えました。カラヤンのオペラにおけるEMI録音でも当初はドイツもの(ワーグナー、ベートーヴェン)の予定でしたが、1973年からイタリアもののヴェルディが入りました。EMI がドイツものだけでなく広く録音することを提案したようです。この70年代はカラヤン絶頂期です。そのため、コストのかかるオペラ作品を次々世に送り出すことになりました。オーケストラ作品はほとんど60年代までの焼き直しです。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」というのが実際の状況だったようです。この時期、新しいレパートリーはありませんが、指揮者の要求にオーケストラが完全に対応していたのであろう。オーケストラも指揮者も優秀でなければ、こうはいかないと思う。歌唱、演奏の素晴らしさだけでなく、録音は極めて鮮明で分離も良く、次々と楽器が重なってくる場面では壮観な感じがする。非常に厚みがあり、「美」がどこまでも生きます。全く迫力十分の音だ。そして、1976年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団から歩み寄り、カラヤンとウィーン・フィルは縒りを戻します。カラヤンは1977年から続々『歴史的名演』を出し続けました。この時期はレコード業界の黄金期、未だ褪せぬクラシック・カタログの最高峰ともいうべきオペラ・シリーズを形作っています。
1969年9月、ベルリン、イエス・キリスト教会でのステレオ・セッション。