GB EMI ASD2259 ユーディ・メニューイン エイドリアン・ボールト ニュー・フィルハーモニア管 エルガー・ヴァイオリン協奏曲

商品番号 34-17936

通販レコード→英初期ラージドック・セミサークル盤

大家の風格をそなえた神童メニューインが英国の名指揮者ボールトと共演した絶対的な自信に充ち溢れた ― 緊張感に溢れた、たいへん熱のこもった演奏が魅力的です。 ― 戦後同世代のヤッシャ・ハイフェッツらと共にヴァイオリニストとして名声の頂点を極める。また、ユーディ・メニューインはヨガや菜食主義を実践し、健康管理を怠らず壮年期になるまでソリストとしての活動に取り組んだ強い精神が本盤でも随所に聴けます。その証左として膨大な音源が英EMIに録音された。メニューインの初期盤は、余りにも発売枚数が多すぎて、当時の音楽ムーブメントで期待が高かったことで、レコード会社の意気込みが伝わる。それが現在の中古レコードの世界では、この優れた演奏に対して 低い評価 ― 価格が安い ― がなされているのは良質の盤に出会いやすいことでは幸いをもたらした。ゴージャスを尽くしたセッション環境での演奏は申し分なく、本盤もメニューインの松脂が飛び散っています。いずれも地味だが、なかなかの好演。やや固い締まった響きで音楽の運びはオーソドックスだが独特のバランス感覚を持ち合わせた演奏です。19世紀までは聴衆にも、各地の演奏家にも有名演奏家が演奏旅行をするときにレパートリーとして貰うことで広まっていった作曲家の名声。20世紀になるとラジオで自作が演奏されるのを楽しむ様になった。英国を代表する、この作曲家は、そうしたメディアの時代に乗り合わせ国際的に評価を受ける存在になっていく。マイクロフォンの登場を受けて、エルガーは彼自身の指揮で数多くのレコードを残した。1932年、当時16歳のメニューイン少年は、エルガーの指揮により《ヴァイオリン協奏曲》の録音をアビー・ロード・スタジオにて行った。当初、この曲はエルガーがフリッツ・クライスラーに献呈したもので、クライスラーとの録音を考えていたのだが、都合がつかず、急遽このメニューインに白羽の矢が立てられたのだった。黎明期の英EMIのヴァイオリンもののレコードは、必ずと言っていいほど、この英国に帰化してサーと男爵の称号を得たメニューインが登場する。録音の数日前、巨匠の前で初めて演奏した時のことをメニューインは回想している。第2主題の部分まで弾くとエルガーは「何も問題ない」と一言だけ言い残すと楽しみにしていた競馬へとさっさと出かけてしまったという。晩年のエルガーならではのエピソードである。出来上がった録音は素晴らしいものとなった。テクニック的にも16歳の少年の演奏ということも驚きであるが、何よりも暖かく、何とも血の通ったような音色が聴かれるのだ。こういう音色が、実は〝エルガー演奏〟の大きな鍵になると思う。例えば、指揮者のジョン・バルビローリ、チェリストのジャクリーヌ・デュ=プレ、コントラルトのジャネット・ベイカーなどの発する音色が、この「暖かみ」を感じさせるという点でメニューインのヴァイオリンの音色と共通する所だ。歴史的意義とともに音楽の高い完成度からも長く記憶されている録音です。それから30余年、満を持して臨んだ当ステレオ盤も大家の風格をそなえた名演奏です。メニューインが英国の名指揮者サエイドリアン・ボールトと共演したエルガーのヴァイオリン協奏曲。彼にとって本作2度目となる ― メニューインはエルガー、ボールトの指揮でヴァイオリニストとして4回、指揮者として、ドミトリー・シトコヴィツキー、リーランド・チェンをソリストに2回、この曲を計6種類の録音が存在している ― 録音です。
作曲者本人から全幅の信頼を寄せられ、〝エルガー演奏〟の第一人者として数々の名演を残したサー・エイドリアン・ボールト。多様なエルガー作品が聴かれる時代となった今こそ必聴の演奏。ボールトは、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経て、ライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶかたわら、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエドワード・エルガー、グスターヴ・ホルスト、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。戦後はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトはJ.S.バッハからハヴァーガール・ブライアンまで、幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽と、ニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。前者では、エルガーの交響曲第2番の復活初演やヴォーン=ウィリアムズの「ロンドン交響曲」改訂版の初演など、作曲者から盤石の信頼を置かれていたボールトならではの業績は数多く残されています。エルガー最良の解釈者として名高いことに誇りと使命感を持っていたボールトの強力なサポートで思いっきりヴァイオリン技量を披露するメニューインはエルガーの指導を思い出していただろうか、ヴァイオリニスト、指揮者ともに1小節単位で表現をコントロールし爆発的な感動に導くような演奏です。これは第1楽章の冒頭部分で、すぐ顕著に現れます。いかにもイギリス的という表現がぴったりの二人が硬派の世界を展開する緊張感に溢れた、たいへん熱のこもった演奏が魅力的です。エルガーが「問題なし」と言ったのは、この音色のことではないか。現にユーディ・メニューイン少年以前にエルガーはヴァイオリンの弟子であるマリー・ホールの独奏でこの曲を録音しているのだが、このホールの音色もとても近い響きだからだ。これはエルガーの多くの作品に言えることなのだが、エルガーの曲というのは、如何に優れたテクニックでも描き切れない「心」の部分がある。作曲家と演奏家の、心のある資質が同化した瞬間に、エルガー作品の名演奏が生まれるのだと思う。特にこの曲の場合、そこに難しさがある。確かに技巧的な要素も求められてはいるのだが、それ以上に求められているものがあるのだ。それに応えられるかどうかで決まってしまう。「名作曲家イコール名演奏家」ではないが、ことエルガーに至っては彼自身が熱心にレコード録音として後進の指揮者に目的を遺した。絶対的な自信に充ち溢れた本盤、隠れた名盤です。
サー・エイドリアン・ボールトというと、長命だったこともあってか晩年の老成した演奏のイメージが強いのですが、1950年代までの彼は、ときにかなりアグレッシヴな演奏も行うという、爆演も辞さぬ積極的な芸風の持ち主であったことはマニアにはよく知られています。エルガーやホルスト等も得意としたイギリス音楽のスペシャリストとされるボールトによるヴォーン=ウィリアムズは、サー・ジョン・バルビローリ指揮のものと並んで決定版と言えるものです。長寿の作曲家と長寿の指揮者の組み合わせでもあり、極めて〝イングリッシュ〟な両者の取り合わせでもある。つまり、一歩間違えれば時代錯誤も甚だしいアナクロに陥るものが、まさに芸術の域に昇華されているわけで、極めてイギリス的な際どさがスリリング。ボールトは「私は常に指揮をとるということは、船の船長になるようなものだと思ってきた。私には石油のドラムカンといっしょにころげまわる理由はまったくない」と言った。ボールトはウェストミンスター・スクール在籍中のディナー・パーティでエルガーと出会い、自作の総譜を見せられつつ解説を受けた。オックスフォード大学で音楽の学位を得たのち、ライプツィヒ音楽院でマックス・レーガーに作曲をハンス・ジットに指揮を学びますが、この地でボールトが最も感銘を受けたのは、アルトゥール・ニキシュによるリハーサルやコンサートの数々だったといいます。ボールトは20歳代初めの若い頃、ライプツィヒで偉大な指揮者ニキシュに私淑したが、晩年に至るまで讃仰の気持ちは変わることがなかった。ニキシュは私などよりももっと簡素だった。今日、若い世代の指揮者たちには余りにも跳び回る傾向がある。もっとも、彼らはそうすることを期待されているのかもしれないがね。また最近の傾向としては、総体的な建築的構成を犠牲にしてディテール(細部)をほじくることが著しく目立っていると思う。とは、ボールトの現代批判であるが反面、聴き手はボールトに一種の安全弁のようなものを見出していたようである。少なくともイギリス人はそうであった。ボールトが英国音楽だけでなく独墺系音楽も得意としていたのは、そうした事情が背景にあるとも思われ、これまでにも両分野での人気には絶大なものがありました。
英国の巨匠サー・エイドリアン・ボールト(Adrian Boult, 1889~1983)は、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経てライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶ傍らゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエルガー、ホルスト、ヴォーン=ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。中でもボールトの代名詞ともいうべき作品がホルストの組曲「惑星」です。1945年のBBC響とのSP録音(EMI)を皮切りに、ボールトは生涯に「惑星」を5回録音も録音しています。1918年9月ロンドンのクイーズ・ホールにおける作品の非公開の全曲演奏(私的初演)が行われた際にホルストからの依頼で指揮をとったのがボールトであり、その成功によって《惑星》に初めて輝きをもたらし、作曲者の感謝を受けたエイドリアン・ボールトにという献辞の書き込まれた印刷譜を作曲者から送られています。戦後はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトはJ.S.バッハからハヴァーガール・ブライアンまで幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽とニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。イギリス人にいわせると軍服ならぬエンビの退役将軍、あるいはパブリック・スクールの老校長を想わせるというが、姿勢の正しさと無駄のないキビキビしたジェスチュアは、まさしく老将軍といった面影をそなえている。ボールトは柔和な表情のうちに威厳を兼ね備えている。一見してイギリス人らしい風貌の持ち主である。ボールトはSPレコードが電気吹き込みになる以前の1920年代からイギリスの様々なレーベルに録音しているが、その中の大手である英 EMI がボールトを発見したのは、1966年、ボールト77歳のときだった。80歳の誕生日祝いのコンサートを振った折り、ボールトはふと、こんなことをもらした。「レコード会社は、ほぼ10年ほど前に私がまだ生きていたってことに突然気づいた。こんなに忙しいのは嬉しいことだが、私がもっと元気だった、それより10年前(60歳代)に起こったらねえ」。一口にいってボールトは極めて地味な指揮者だったから、人気者で名物男だったサー・トーマス・ビーチャムが、1961年に82歳で没し、公衆のアイドルだったサー・マルコム・サージェントが1967年に72歳で没し、芸術の夕映えに輝いていたサー・ジョン・バルビローリが1970年に70歳で没したのち、後釜にボールトが浮上していたというわけである。晩年の10年間、ボールトの録音に協力したクリストファー・ビショップの談によると、80歳代の高齢にもかかわらずボールトの耳は以前としてシャープであり、老眠鏡もかけずに、こまごまとした手書きスコアを読むことができ、健康な食欲に恵まれ録音スタジオのキャンティーン(簡易食堂)で楽員たちと同じ食事をうまそうに平らげていたそうである。
First pressing released in a ''flipback'' cover on a HMV label with a big large ''Nipper'' logo and big lettering. Also released in mono (ALP 2259). This recording was first released to celebrate Yehudi Menuhin's 50th birthday in 1966. 録音:Producer – Peter Andry, Engineer – Neville Boyling
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