GB EMI ALP1456 メニューイン&エルガー エルガー・ヴァイオリン協奏曲
通販レコード→英ラージ・ドッグ、セミサークル黒文字盤

GB EMI ALP1456 メニューイン&エルガー エルガー・ヴァイオリン協奏曲

音階とアルペジオをよく練習するんだよ。 ― テレビで新進演奏家のインタビューを聞いていると、最初は親のお仕着せでヴァイオリンやピアノからはじめても、小学生になる頃に将来を目標とした楽器を決めたという話題がよく聴かれる。オーケストラに女性パーカッション奏者は多く、ロックバンドでドラムスをたたいている女性も珍しくなくなってきたが、ヴァイオリニストを目指すには小さい時から開始するのが良いとされる。小学生の時にいじめっ子から「何だお前、ピアノなんか習って女みたいだ」と誂われた音楽少年が、「ベートーヴェンもモーツァルトもゴッホもショパンもみんな男だろうが。女どこにいんだよ言ってみろよ」と言い返した笑い話のような話がある。その反撃にいじめっこは納得したようだが、小学校の音楽の教科書に出てくる作曲家に女はいない。ゴッホは画家でバッハの間違いだが、モーツァルトもベートーヴェンも女みたいなヘアスタイルしているが、怖そうなおじさんだ。実のところは職業作曲家ばかりだからで、作曲家が職業である必要がなかった、音楽史上最初の作曲家は女だった。それはここではどうでもいい話。閑話休題。ユーディ・メニューインの評価に時代背景に気が回っていない既成概念がネットで常識化している。確かに音程が聴いてすぐに感じられるところではあるけれど、イザイに「音階とアルペジオをよく練習するんだよ」と言われたことを怠った。と短絡的に解釈され駄目だという声も聞こえている。これも戦後まもなく30歳代半ばのメニューインが来日した時に、新聞や音楽雑誌の批評が辛辣で勝戦国アメリカから敗戦国へ日本への文化使節でもあり、この大演奏家を文化程度の高くない日本人が酷評するとはとんでもないと、アメリカ側の怒りも伝えられたのが変容していったもの。伝言ゲームでもともとの意味が変わるのは、ホロヴィッツ来日の時の吉田秀和氏の「ヒビの入った骨董」が転化したことに似ている。メニューインが十代時のバッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番ト短調 BWV1001」録音をSP盤で聴いて欲しい。本盤録音時メニューイン16歳、メニューインがいわゆるヴィルトゥオーゾから精神主義者へと変貌しつつあった時期の稀有な演奏だ。19世紀までは聴衆にも、各地の演奏家にも有名演奏家が演奏旅行をするときにレパートリーとして貰うことで広まっていった作曲家の名声。20世紀になるとラジオで自作が演奏されるのを楽しむ様になった。英国を代表する、この作曲家は、そうしたメディアの時代に乗り合わせ国際的に評価を受ける存在になっていく。何しろ磁気テープ録音も登場していない時代ですが、複数のテイクを重ねる熱心さでした。エルガーは機械録音から電気録音への進歩を体験。ソロ楽器とオーケストラのバランスに苦心した時代であったことで、レコード発売には最良のテイクを選んでいたようで残された良質のラッカー原盤からステレオ再生さえ可能にしています。
マイクロフォンの登場を受けて、エルガーは彼自身の指揮で数多くのレコードを残した。1932年、当時16歳のメニューイン少年は、エドワード・エルガーの指揮により《ヴァイオリン協奏曲》の録音をアビー・ロード・スタジオにて行った。作曲者エルガー自身の指揮を得て若き日のメニューインが力の限りを尽くしている1932年の録音の魅力を乗り越えるのは容易ではない存在となる。当初、この曲はエルガーがクライスラーに献呈したもので、クライスラーとの録音を考えていたのだが、都合がつかず、急遽このメニューインに白羽の矢が立てられたのだった。黎明期の英 EMI のヴァイオリンもののレコードは、必ずと言っていいほど、この英国に帰化してサーと男爵の称号を得たメニューインが登場する。ユーディ・メニューイン( Yehudi Menuhin, 1916年4月22日ニューヨーク〜1999年3月12日ベルリン)はアメリカ合衆国出身、年少の頃は演奏界における神童の象徴的な存在でもあった。1985年にイギリスに帰化。1965年にすでに英国王室より叙勲されていたが、国籍変更により正式にサーの称号と「メニューイン男爵( Baron Menuhin of Stoke d'Abernon )」を名乗ることが許される。イギリスに帰化し、一代貴族となったメニューインの重要なレパートリーがイギリス音楽である。1987年に来日して新日本フィルを振ったヴォーン・ウィリアムズの「タリスの主題による幻想曲」について宇野功芳氏は「あまりにも美しい音楽であり、あまりにも美しい演奏であった。しみじみと心に触れてくる人生の夕映えのような情感は、メニューインの円熟した音楽性や感性とマッチして、いつまでもその中に浸っていたいような、時間が経つのが惜しいような名演を生んだのである。」(『音楽の友』1987年5月号)と評していた。さて録音の数日前、巨匠の前で初めて演奏した時のことをメニューインは回想している。第2主題の部分まで弾くとエルガーは「何も問題ない」と一言だけ言い残すと楽しみにしていた競馬へとさっさと出かけてしまったという。晩年のエルガーならではのエピソードである。出来上がった録音は素晴らしいものとなった。テクニック的にも16歳の少年の演奏ということも驚きであるが、何よりも暖かく、何とも血の通ったような音色が聴かれるのだ。本盤は決して少なくはないエルガーの自作自演の中でも際立った演奏で、取り憑かれたように大きく揺れ動く振幅に込められた感情の高まりをメニューインが正面から受けとめ、力強い音楽を絶えず返している。メニューインがいわゆるヴィルトゥオーゾから精神主義者へと変貌しつつあった時期の稀有な演奏だ。こういう音色が、実は「エルガー演奏」の大きな鍵になると思う。例えば、指揮者のジョン・バルビローリ、チェリストのジャクリーヌ・デュ=プレ、コントラルトのジャネット・ベイカーなどの発する音色が、この「暖かみ」を感じさせるという点でメニューインのヴァイオリンの音色と共通する所だ。歴史的意義とともに音楽の高い完成度からも長く記憶されている録音です。
おそらく20世紀で最も名を知られたクラシック音楽家、ユーディ・メニューインは1916年4月にニューヨークで生まれました。4歳からヴァイオリンのレッスンを受け、7歳で公衆の前で演奏を披露。1925年に初リサイタル、1926年にニューヨークにデビュー、1927年にはラロのスペイン交響曲を演奏。1927年、10歳でパレー指揮のラムルー管弦楽団とのパリ公演でヨーロッパ・デビュー、28年には米ビクター社に初録音。1929年はストラディヴァリウスを贈与され、ワルター指揮のベルリン・フィルでベルリン・デビュー、アドルフ・ブッシュとのレッスンを始め、ロンドン・デビュー、そして H.M.V. への初録音と神童の名をほしいままにしました。演奏家、音楽教育家として大家をなし、さらに世界的セレブリティーとして日本でも多くのファンを持つメニューインは、戦後同世代のハイフェッツらと共にヴァイオリニストとして名声の頂点を極める。また、メニューインはヨガや菜食主義を実践し、健康管理を怠らず壮年期になるまでソリストとしての活動に取り組んだ強い精神が本盤でも随所に聴けます。その証左として膨大な音源が英 EMI に録音された。メニューインは、様々なヴィルトゥオーゾ的小品を数多く録音。そして記念碑的な協奏曲やソナタを演奏し、その記録はメニューインの技術的な輝きについて多くを伝えました。ヴィオラのための協奏曲もヴァイオリンで演奏し、バレエ音楽にまで及ぶほど多数。メニューインの初期盤は、余りにも発売枚数が多すぎて、当時の音楽ムーブメントで期待が高かったことで、レコード会社の意気込みが伝わる。それが現在の中古レコードの世界では、この優れた演奏に対して 低い評価 ― 価格が安い ― がなされているのは良質の盤に出会いやすいことでは幸いをもたらした。ゴージャスを尽くしたセッション環境での演奏は申し分なく、本盤もメニューインの松脂が飛び散っています。いずれも地味だが、なかなかの好演。やや固い締まった響きで音楽の運びはオーソドックスだが独特のバランス感覚を持ち合わせた演奏です。
エドワード・エルガー(1857~1934)唯一の《ヴァイオリン協奏曲》は、オーケストラの規模の大きさ、演奏時間の長さ、独奏者に要求される技量の高さでベートーヴェンやブラームスの協奏曲に比肩する大曲である。超絶技巧の誇示よりもオーケストラと独奏楽器の親密な対話がこの曲の本質であり、「ヴァイオリン独奏付の交響曲」とも言えよう。事実、交響曲第1番(1908年)と第2番(1911年)の間に書かれたこの曲は、エルガーの創作の最円熟期に属する。その頃、オーストリア出身の大ヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラー(1875~1962)はエルガーを「現存する最高の作曲家」と評し、自分のために協奏曲を書いてくれることを期待していると再三、新聞や雑誌のインタビューで語っていた。これを知って感動したエルガーはクライスラーと会見し、1909年から10年にかけてクライスラー本人や友人でロンドン交響楽団のリーダー(コンサートマスター)であったウィリアム・リード(1876~1942)の助言を得ながらヴァイオリン協奏曲の作曲に打ち込んだ。無名時代のエルガーはヴァイオリンの教師として糊口をしのぎ、一時はヴィルトーソ・ヴァイオリニストになることを夢見て、ロンドンでハンガリー出身の著名なヴァイオリニスト、アドルフ・ポリツァー(1832~1900)に師事したが、結局ソリストの道は断念した。しかしその後もこの楽器へのこだわりは強く、クライスラーとの出会いがエルガーの協奏曲の創作欲に火をつけたのである。ヴァイオリン協奏曲にはまた、エルガーのもっとも個人的な強い想いも込められていた。この曲のスコアの表紙には「 Aqui está encerrada el alma de ….. ― ここには ….. の魂が封じ込められている」と謎めいたスペイン語の短い一文が記されている。ところで5つの伏せ字に誰の名前が入るかについては、エルガーの愛妻アリス(1848~1920)、初恋のひとヘレン・ウィーバー(1860~1927)、エルガー夫妻が親しくしていた米国婦人ジュリア・ワージントン(1856~1913)、フリッツ・クライスラーなど何人もの候補がある。しかし、伏せ字はアリス・スチュワート=ワートリー(1862~1936)という才色兼備の女性をさす可能性が高い。9歳年長の夫人と同名のアリスを区別して、エルガーは5歳年少の彼女を「ウィンドフラワー(アネモネ)」の愛称で呼んでいた。彼女は「オフィーリア」などで知られるラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレー(1829~96)の娘で、保守党議員の男爵の後妻であった。エルガー夫妻とスチュワート=ワートリー夫妻の交流の中で、ウィンドフラワーのアリスはエルガーの音楽の最高の理解者となっていく。実のところ、ヴァイオリン協奏曲の作曲中にエルガーとウィンドフラワーの間には頻繁な手紙のやりとりがあり、その中でエルガーがこの曲を「貴女の協奏曲」や「われわれの協奏曲」と呼んでいることからも、彼女がこの曲のミューズであることはほぼ間違いない。しかし、ふたりの間に恋愛感情があったかは定かではない。ウィンドフラワーはエルガー夫人アリス公認のミューズであり、愛妻家のエルガーが道を踏み外した形跡もないが、この曲にはやるせないまでの憧れの想いが充ち溢れている。ちなみに1934年エルガーの葬儀における弔辞で「イングランドの音楽におけるシェイクスピア」と作曲者を讃えたのはウィンドフラワーのアリスであった。初演は(1910年11月10日ロンドン、フリッツ・クライスラー独奏、作曲者指揮ロイヤル・フィルハーモニック協会の管弦楽団、実体はロンドン交響楽団。)作品を献呈したクライスラーが行ったがレコード録音はなく、1932年にエルガー自身の指揮でこの曲が録音されたときには弱冠16歳のユーディ・メニューイン(1916~99)が独奏者に起用された。
エルガーはロマン派音楽の時代の最後にイギリスで花開いた作曲家だが、中でも、この「ヴァイオリン協奏曲ロ短調 作品61」はエルガーの美質がよく表われた作品として多くのヴァイオリニストのレパートリーに加えられている傑作だ。メニューインは《ヴァイオリン協奏曲》をソリストとして3回、指揮者として2回、合計5回録音している。メニューインはエルガーの指導を受けて共に1小節単位で表現をコントロールし爆発的な感動に導くような演奏です。これは第1楽章の冒頭部分で、すぐ顕著に現れます。いかにもイギリス的という表現がぴったりの硬派の世界を展開する緊張感に溢れた、たいへん熱のこもった演奏が魅力的です。エルガーが「問題なし」と言ったのは、この音色のことではないか。現にメニューイン以前にエルガーはヴァイオリンの弟子であるマリー・ホールの独奏で、この曲を録音しているのだが、このホールの音色もとても近い響きだからだ。これはエルガーの多くの作品に言えることなのだが、エルガーの曲というのは、如何に優れたテクニックでも描き切れない「心」の部分がある。作曲家と演奏家の、心のある資質が同化した瞬間に、エルガー作品の名演奏が生まれるのだと思う。特にこの曲の場合、そこに難しさがある。確かに技巧的な要素も求められてはいるのだが、それ以上に求められているものがあるのだ。それに応えられるかどうかで決まってしまう。英国が最も誇りにする作曲家エドワード・エルガーは1857年6月2日、ロンドン西方のウースター州に生まれた。モールヴァン地方の美しい自然に囲まれて育ったエルガーは、楽器商を営む父親 ― ウースター大聖堂のオルガン奏者でもあった ― のもとでピアノ、オルガン、ヴァイオリンなど様々な楽器に親しみ、作曲も含めて楽器演奏のほとんど独学で身につけた。加えてエルガーはイギリスの作曲家の中で、ベンジャミン・ブリテンと並んで自作自演の録音が多い。移動録音を可能にしたモービル車(トラック型の簡易録音機材運搬車)の登場によって、エルガーのイギリス国内各地での演奏会はライブ録音されて、英国全土でラジオ放送で聴かれることになった。「名作曲家イコール名演奏家」ではないが、ことエルガーに至っては彼自身が熱心にレコード録音として後進の指揮者に目的を遺した。レコーディングの翌年、メニューインの独奏で自作のヴァイオリン協奏曲を演奏するためにフランスに出かけたエルガーはパリ郊外のグレ・スル・ロワンに居するディーリアスを訪ねています。しかし、帰国後健康を害し、翌1934年2月23日に没します。それだけにエルガー自身、絶対的な自信に充ち溢れた本盤、隠れた名盤です。
1932年6月14、15日録音。
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