34-23004

商品番号 34-23004

通販レコード→英国プレス片面収録白テスト盤2枚組

どうしてあの時気付かなかったんだろう ― 令和元年9月29日に佐藤しのぶさんが61歳で急死したことが10月3日に発表された報に触れて、懐いが及んだソプラノ。演奏を聴いているだけで、この人はいい人なんだろうなぁ、という人柄が出てくる演奏家がいる。ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスは、同じスペイン出身の重量級のモンセラート・カバリエの陰に隠れてしまいがち。マリア・カラスやレナータ・テバルディらと同時代に活躍した歌い手だが、胸のすくような技巧を誇示したりはしない彼女の歌唱に共通して感じられるのは、細やかで清楚な歌いぶりなのである。名前のアンヘレスとはスペイン語で天使のこと。多くの聴衆や指揮者たちから愛された彼女は、〝天使のビクトリア〟と呼ばれていたという。再発見が待たれる人だろう。熱狂的なオペラファンだった、日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある故ドナルド・キーンが高く評価しつつも、オペラにおいては「蝶々夫人以外は…」というロス・アンヘレス。大歌手と呼ばれる柄ではなく、人柄はチャーミングで優雅、かつかわいい女性だったらしい。イタリア物もフランス物もドイツ物も非常にうまくこなし、バイロイト音楽祭にも出ている。ワーグナー・オペラのヒロインの中でもお姫様系統のエルザ(ローエングリン)やエリーザベト(タンホイザー)では最高だったらしい。美しく豊かな声、優れた歌唱技術、的確な様式感と表現力、温かみのあるフィーリング、誰からも好かれる人柄、イタリア、フランス・オペラはもちろんモーツァルトからワグナーまでこなす広いレパートリー。ロス・アンヘレスの評価グラフは真円に近かったと言える。こうした評価は舞台に接している批評家の感想であり、悔しいことですが、音だけのレコードで聴いて、モーツァルトからワーグナーの、どの役にも適合するような声のキャラクターと、カリッと上品な砂糖菓子のような軽い声質は唯一無二の個性だろう。カラスがその霊感に満ち満ちた強烈な劇的演唱のために、他のすべてを ― 声の美しささえも、表現のために ― 犠牲にしたのに比べると、実に対照的だ。無論人並み以上の努力はあっただろうが、強烈な個性を打ち出そうとうは決してせず、癖のある個性を強調した歌い方ではないのに、またきちんと役の違いを歌い分けているのに、どれを聴いてもロス・アンヘレス、というのはある。自分の〝素材〟の良さをしっかり知っていた人だったのだろう。 不思議な歌手だ。上演中に大向こうから〝ブラーヴァ!〟と声がかかるような大見得とか、聴き手を驚かせるような声の超絶技巧とか、激しい感情表現とか、そういう要素は彼女には全く希薄だったわけで、素人受けのするタイプではなかったということなのである。だからといって、まず彼女の歌声に嫌悪感を抱くことはないだろうし、オペラ初心者にもお勧めです。本盤は管弦楽伴奏の歌曲集。ドビュッシー、ベルリオーズはシャルル・ミュンシュの得意としたレパートリーですが、この《選ばれし乙女》、《夏の夜》が唯一の録音であるというのに忘れられそうになっている。ドビュッシーがローマ大賞授賞後、ローマ滞在中に構想されたオラトリオ《選ばれし乙女》は、ドビュッシーの音楽語法を熟知した充実した演奏が展開されている。ベルリオーズの《夏の夜》でのロス・アンヘレスの可憐な歌声も大きな魅力。作曲者の目論見では、男女取り混ぜて2人から4人の歌手がとっかえひっかえ交代で歌う、という構想だったらしい。作曲者の念頭にはひとりの女性歌手が6曲を歌い通すという発想はなかったらしい。→コンディション、詳細を確認する
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今日ではベルリオーズの歌曲集《夏の夜》はひとりの歌手 ― おおむねソプラノかメゾ・ソプラノが全曲を通して歌うのが通例になっているが、ベルリオーズは6曲それぞれに、歌われるべき声域を明記した。それは『低い女声か、高い男声』と『低い女声か、低い男声』というもの。6曲に異なる指定があることから、男女が交代でうたう「愛の歌」です。ベルリオーズはそれぞれの歌の声域にあわせ、親しくしていたワイマール宮廷の歌手 ― 男女とりまぜて別々に献呈までしている。19世紀には一夜のプログラムに雑多な演目が混在し、多くの演奏家が動員されることが珍しくなかったので、こんな贅沢な役割分担も可能だったのだろう。男女取り混ぜて2人から4人の歌手がとっかえひっかえ交代で歌う、という構想は奇抜なことして喜ばせたベルリオーズらしい。1970年初頭にフィリップスから続々とベルリオーズ録音をリリースして、コリン・デイヴィスはベルリオーズのスペシャリストとして注目されるようになるが、コリン・デイヴィスはソプラノ、メゾ・ソプラノ、テノール、バスの4人に振り分けて歌わせていた。この男女4人に振り分けた大胆な実践を踏まえて、従来どおりひとりの(女性)歌手で通すか、複数の(男女の)歌手に分担させるか、続く録音においては指揮者の見識がそのつど問われることになった。ベルリオーズに一家言をもつと看做されたピエール・ブーレーズも、コリン・デイヴィスの顰みに倣う形で、男女2人。それぞれに3曲ずつ歌わせるスタイルで、「夏の夜」を委ねた。ベルリオーズが付曲したテオフィル・ゴーティエの詩が描き出す愛の姿の多様性にも目を瞠る。①無邪気であどけない恋心を素直に歌った『ヴィラネル』(原詩/律動的なヴィラネル)。②亡霊になった男性が、「僕が命を落とした原因は君だよ」と女性に呼びかけている『薔薇の亡霊』。③死者を偲んで深く沈潜する『入江のほとり』(原詩/漁夫の唄)。④失恋の痛手を嘆き哀しむ『君なくて』から、⑤『墓地にて』(原詩/ラメント)。最後は、⑥果てしのない憧憬を謳い上げる『未知の島』(原詩/舟歌)。
結構奔放な生活をしていたらしい、ドビュッシーが若い頃に書いた歌曲はすべて女声用。サンソン・フランソワの先生として知られるイヴォンヌ・ルフェビュールがドビュッシーの前でピアノを弾いたときのこと。巨匠の作品をドキドキしながら弾き終えたイヴォンヌがおそるおそる感想をうかがうと、夢からさめたようなおぼろげな表情のドビュッシーが、「ごめんなさい、あなたの髪があまりに美しくてピアノを聴いていませんでした」と告白したそうな。当時イヴォンヌは、身の丈ほどもある髪を頭のまわりにぐるぐる巻きつけていたのだ。本盤の表紙の女性像のようだったのか。それはそれとして、若きドビュッシーのオラトリオ《選ばれし乙女》は、19世紀ラファエル前派のイギリスの画家で詩人、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti, 1828〜1882)の詩と絵画にもとづくポエム・リリック。何とも妖艶な香りがする女性を描いた絵画ですが、『祝福された乙女』(La damoiselle élue)から着想を得て作曲された。この詩や絵に触れることで、若きドビュッシーが思い描いていた恋愛観を知り・感じることができるのではないでしょうか。選ばれし乙女は、手に3本の百合を持ち長い髪には7つの星を輝かせながら、天国の黄金の欄干に佇んでいる。地上の恋人のことを想い、天国でも彼と愛を分かち合いたいと望む。女声に対するドビュッシーの嗜好は終生不変であった。脳みそのどこかをくすぐられるような、女性のエキスがしたたりそうな…女声合唱だけの部分の透明で清澄な響きはドビュッシーの特徴となっている。フランスの音楽評論家アントワーヌ・ゴレアによれば4年前の『放蕩息子』と同様、マスネやグノーの、つまり19世紀後半の極めてフランス的な二人の作曲家の音楽の官能的な雰囲気と爽やかな果実のような味わいこそがドビュッシーの全音楽の特徴なることは否定できなかろう。そして、本質的にこのことによってこそ、ドビュッシーは《フランス的音楽家》であり、《フランスのクロード》であるのだ。シャルル・ミュンシュは音楽が持っているストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることからブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。そのアイデンティティあってこそのベルリオーズなどのフランスものでの情熱的な指揮ぶり、爆発的な熱気あふれる音楽表現で感動的。〝ベルリオーズの幻想交響曲〟と〝ブラームスの第1交響曲〟でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセルヴァトアールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。解釈は当然ながら徹底していて、ベルリオーズの標題性とドラマ性を思い切りよく描き出した。
ミュンシュは、多少コスモポリタン的な傾きはあるが、全く現代的で、緊迫度が高く簡潔緻密だ。特に、ほど良く淡白な叙情性と人生の秋をしのばせる曲趣の調和が目立つ。尻上がりに油が乗ってくる。ワルターとは逆の手法で成功したものといえよう。盤鬼・西条卓夫
シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891〜1968)のキャリアはヴァイオリニストからスタートしていますが、若かりし頃、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任、その時の楽長がヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。毎日その巨匠の目の前に座って多くのことを習得したことから、知らずと例の拍子を暈す内容重視の指揮法はフルトヴェングラーの指揮姿から身につけたものと推察出来ます。ミュンシュは音楽が持っているのストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。ベルリオーズの「幻想交響曲」とブラームスの「第1交響曲」でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセバトワールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることから、歴としたドイツ人であるが故にブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。1929年にパリで指揮者としてデビュー、1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。そのフランス音楽の守護神のようなミュンシュが、アメリカのボストン交響楽団の音楽監督に迎えられた。1946年のアメリカ・デビューから3年後のことだ。1962年まで、その地位にあり、戦後のボストン交響楽団の黄金時代を築いたのは周知のとおりだ。ピエール・モントゥーは1919~1924年にボストン響の常任指揮者を務めたが、後任となったセルゲイ・クーセヴィツキーは在任中、モントゥーを客演に招こうとしなかった。モントゥーの伝記によれば、オーケストラ側から、退任後も翌シーズンから客演に呼びたいと言われていたが、全く実行されなかったとぼやいている。その約束が果たされたのは27年後の1951年、クーセヴィツキーの後を継いだミュンシュ時代になってからであった。ミュンシュはモントゥーと懇意で、ミュンシュが1962年に常任を離れるまで、モントゥーは頻繁に同響の指揮台に立った。戦後アメリカの旗印は〈自由の国〉だったが、ミュンシュが生涯にわたって、願って止まなかったのも、この〈自由〉。ミュンシュが指揮するラヴェルの「ボレロ」は、作曲者のイン・テンポの指示を守らずに、どんどんアチェレランドして行くことで有名だ。が、ミュンシュがやりたいようにやっている自然さが別の魅力を生んで、忘れ難い名演となっている。ミュンシュが自身の音楽を大きく花開かせたのは、この頃からだ。ミュンシュは戦前には、必ずしも強烈な個性や豊かな音楽を持った指揮者ではなかったと思うが、ミュンシュとボストン響との相性の良さは、戦後アメリカで重要なポストに就いた指揮者のなかでも、最良の成果を双方にもたらした。ミュンシュの代表盤の大半が、このオーケストラとのものとなっている。ミュンシュは常任指揮者に就くとともに、このオーケストラと専属契約関係にあったアメリカRCA社に録音を開始、主要作品を網羅したベルリオーズに始まり、ラヴェル、ドビュッシーなどのフランス音楽のほか、ドイツ音楽など多彩な内容のアルバムを数多く制作。それらの多くは、優れた音響を持つボストン・シンフォニー・ホ-ルで行われ、ほぼ全てを〝RCAリビング・ステレオ〟の礎を築いたリチャード・モーア、ルイス・レイトンのコンビが手がけた。
遥か昔から、アルザス地方はドイツとフランスが領有権を奪い合ってきました。ライン川中流の西岸で、その北のロレーヌ地方とともに、葡萄、小麦などの豊かな農作物、鉄・石炭の産地であり、フランスとドイツの1000年にわたる争奪戦が繰り広げられた。人種的にはドイツ系住民が多いが、文化的にはフランス文化の影響の強い地域といわれる。アルザス=ロレーヌはフランス革命・ナポレオン時代を通してフランス領として続き、ウィーン会議でもかろうじてフランスは領有を維持したが、普仏戦争に敗れ、1871年、両地方の大部分をドイツ帝国に割譲した。19世紀後半のフランスの作家アルフォンス=ドーデの「最後の授業」は、この普仏戦争でアルザス地方がドイツ領に編入されたときのことを題材にしている。明日からはドイツ語で授業をしなければならないという最後の日、フランス語の先生は子供たちにフランス語は世界で一番美し言葉だと教え、忘れないようにと説く。そして最後に黒板に大きく「フランス万歳!」と書く、という話で、かつては日本の教科書にもよく見られたが、実は、アルザス地方で話されていた言葉はフランス語ではなく、もともとドイツ語の方言であるアルザス語です。〝シャルル・ミュンシュ〟が生まれた1891年にはドイツ領で、〈ドイツ人〉として生まれ、ドイツ人として音楽教育を受けている。第二次世界大戦中アルザスの若者達はドイツ軍に強制編入されました。ドイツとしてはアルザス人はフランス語を話すので、激戦区だった東部戦線の最先端に送られ、戦後何年もシベリアに抑留されました。まるで捨て駒のような扱いでしたが、17、18歳の若者が参加したのは、ドイツ軍に加わらなかった場合は、非国民として家族も収容所へ送られたからです。第二次世界大戦終結し、アルザスはドイツから解放され再びフランスに戻ります。しかし、フランスの他の地域に比べて倍以上の犠牲を出したにも関わらず、占領されていた歴史の結果として約4万5千人のアルザス人が対独協力容疑で収容されました。建築物や食生活などに見るアルザスの独特な生活文化は、この地方の文化の二重性がもたらした貴重な財産であると同時に、歴史的困難をもたらした要因でもあったわけです。ミュンシュが熱心に取り上げるフランスの作曲家にオネゲルがいるが、戦争や人種対立などを憂い、危機意識をもって苦悩するオネゲルへの深い共感が底流にあるのもそのためだ。ミュンシュはラヴェルの「ボレロ」を4回スタジオ録音している。第1回目は1948年のパリ音楽院管弦楽団との録音。この演奏は、イン・テンポを守っている。むしろしばしば言い聞かせるように確認しながらの音楽の運びが興味深い。そしてどこかしら退屈そうだ。この演奏を聴いていると、その後のボストン交響楽団との演奏が、どれほど自由で開放的かに思いが至る。オネゲルの「交響曲第5番」は、1951年3月9日に、ミュンシュ指揮、ボストン響により初演され、そのまま録音が行われた。ミュンシュの繊細でいながら力強い前向きの演奏が、オネゲルの思いの深さと呼応した名演だ。『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでクライスラーが中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事」(福田達夫訳)の中で紹介していますが、今ここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする〝命懸けの豪胆さ〟が私たちの心をひしひしと打つのです。
ミュンシュが、その最晩年に持てるエネルギーの全てを注いだのがパリ管弦楽団(Orchestre de Paris)の創設と育成でした。1967年6月、フランス文化相アンドレ・マルローと文化省で音楽部門を担っていたマルセル・ランドスキのイニシアチブにより、139年の歴史を誇りながらも存亡の危機を迎えていた名門パリ音楽院管弦楽団(Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)の発展的解消が行われ、新たに国家の威信をかけて創設されたのがパリ管弦楽団で、その初代音楽監督に任命されたのが〝フランスの名指揮者〟としてのシャルル・ミュンシュでした。第2次世界大戦前にパリ音楽院管弦楽団の常任指揮者を務めていたミュンシュ以上にこの新たなオーケストラを率いるのにふさわしい指揮者はおらず、同年10月2日からの綿密なリハーサルを重ねてむかえた11月14日の第1回演奏会は、国内外に新しいフランスのオーケストラの誕生をアピールする大成功を収めたのでした。翌1968年11月、パリ管弦楽団の北米ツアーに同行中にリッチモンドで心臓発作のため急逝するまで、ミュンシュは30回ほどの共演を重ねながら、EMIにLP4枚分の録音を残しました。その中の1枚がこの〝ベルリオーズの幻想交響曲〟で、11月14日の第1回演奏会でも取り上げる作品となり、EMIはそれに先だって4日間のセッションを組み、巨匠の叱咤激励のもと覇気に燃える新生オーケストラの息吹を捉えたのです。仲間と音楽を作りたい。そう思ったのかどうか、若い時にオーケストラは組織し、自己流で指揮法を編み出した男の情熱の行き着いた終結点。パリの巨大キャバレーのようなサル・ワグラム・ホール。だだっ広いスペースを音楽で充満させられたのはミュンシュの熱意か。指揮者ミュンシュは、この交響曲でありながら標題音楽でもある〝幻想〟のもつストーリー性を小説家の様な視点で語りかけてくる。ロマンティックな曲想は、ベルリオーズの実体験にもとづいたストーリーあってのものだということを熱を持って表現する。ミュンシュがドライヴするパリ管の燃焼ぶりは、30年以上経った今でも色褪せることがない。
  • Record Karte
  • 1955年4月11日(選ばれし乙女)、12,13日(夏の夜)ボストン、シンフォニー・ホールでのモノラル・セッション録音。元英国EMIエンジニアが所有していた、当時評論家向けに50セット前後試作されたテスト盤。片面収録で2枚組になります。音圧も強くマスターテープの余韻も十分感じられるレア盤。
  • GB EMI ALP1368 ミンシュ・ボストン響 ベルリオーズ・夏…
  • GB EMI ALP1368 ミンシュ・ボストン響 ベルリオーズ・夏…
ドビュッシー:聖セバスティアンの殉教
ボストン交響楽団 ミュンシュ(シャルル)
BMG JAPAN
2006-12-20