GB  EMI  ALP1281 ユーディ・メニューイン モーツアルト・ヴァイオリン協奏曲

商品番号 34-17310

通販レコード→英ラージ・ドッグ・セミサークル金文字盤[オリジナル]

現代のモーツァルト演奏の原点は「60年代」に始まった。 ― 巨匠時代の終焉と、対話に溢れた「平和」な音楽の歓迎。20世紀有数のヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインのレコードを聴きこむとき、まず考えておかなければならないことがある。メニューインは、ベラルーシから移民してきたユダヤ系ロシア人を両親に1916年、ニューヨークに誕生。早くからヴァイオリンに興味を示し、10歳代前半ですでに海外でも活動を開始するなど、天才少年として大きな注目を集めながら演奏を続け、戦後まもなくキャリアの頂点を極めることとなります。またメニューインはヒューマニストとしても知られており、戦時中は連合軍のための慰問活動を熱心に行い、戦後は、アメリカ楽壇の顰蹙を買いながらもヴィルヘルム・フルトヴェングラーを擁護、イスラエルから受勲したときも、演説でパレスチナへの占領活動を非難するなど、人権に対する公正な考えを常に示しており、欧米では大きな尊敬を集めてもいました。メニューインの演奏はどの曲も明確なアーティキュレーションで、決してヴィルトゥオーゾ的な技巧や美音の魅力に溢れた演奏でもないが、モーツァルトらしい躍動感に満ちた演奏は誠実そのもの。メニューインはその少年時代に師のジョルジェ・エネスコの指揮で録音しており、また1954年にはジョン・プリッチャード指揮フィルハーモニア管弦楽団と「第4、5番」を録音している。おそらく20世紀で最も名を知られたクラシック音楽家、メニューインは1916年4月にニューヨークで生まれました。4歳からヴァイオリンのレッスンを受け、7歳で公衆の前で演奏を披露。1925年に初リサイタル、1926年にニューヨークにデビュー、1927年にはラロのスペイン交響曲を演奏。1927年、10歳でポール・パレー指揮のラムルー管弦楽団とのパリ公演でヨーロッパ・デビュー、28年には米ビクター社に初録音。1929年はストラディヴァリウスを贈与され、ブルーノ・ワルター指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でベルリン・デビュー、アドルフ・ブッシュとのレッスンを始め、ロンドン・デビュー、そしてH.M.V.への初録音と神童の名をほしいままにしました。演奏家、音楽教育家として大家をなし、さらに世界的セレブリティーとして日本でも多くのファンを持つメニューインは、戦後同世代のヤッシャ・ハイフェッツらと共にヴァイオリニストとして名声の頂点を極める。また、メニューインはヨガや菜食主義を実践し、健康管理を怠らず壮年期になるまでソリストとしての活動に取り組んだ強い精神が本盤でも随所に聴けます。その証左として膨大な音源が英EMIに録音された。メニューインは、様々なヴィルトゥオーゾ的小品を数多く録音。そして記念碑的な協奏曲やソナタを演奏し、その記録はメニューインの技術的な輝きについて多くを伝えました。ヴィオラのための協奏曲もヴァイオリンで演奏し、バレエ音楽にまで及ぶほど多数。メニューインの初期盤は、余りにも発売枚数が多すぎて、当時の音楽ムーブメントで期待が高かったことで、レコード会社の意気込みが伝わる。それが現在の中古レコードの世界では、この優れた演奏に対して 低い評価 ― 価格が安い ― がなされているのは良質の盤に出会いやすいことでは幸いをもたらした。ゴージャスを尽くしたセッション環境での演奏は申し分なく、本盤もメニューインの松脂が飛び散っています。いずれも地味だが、なかなかの好演。やや固い締まった響きで音楽の運びはオーソドックスだが独特のバランス感覚を持ち合わせた演奏です。
現在ではモーツァルトのヴァイオリン協奏曲は14曲ある。未完成作、断片は数えない。そして、偽作の疑いのある3曲があるが、ユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin, 1916年4月22日ニューヨーク〜1999年3月12日ベルリン)のディスコグラフィには「6番・7番」の録音がある。彼のインド行から10年を経た1960年代、当時自らが主宰していたバース音楽祭の管弦楽団と指揮も兼ねて一連のモーツァルトの協奏曲をレコーディングしたものだ。そして本盤から、そのバース音楽祭盤と聴き継いでいくとメニューインの音楽が次第に穏やかなものに変化していくのがよくわかる。特別編成のオーケストラとのバランスも良くメリハリに富んだ素晴らしい仕上がりです。直接関連はないだろうが、1954年盤の「第4番」でメニューインは自作のカデンツァを使用しているが、このバース音楽祭管との録音では「1・2・4・5番」が自作のカデンツァだ。「第5番」を1954年盤のフランコのカデンツァと比べてみると、その地味な響きにも、メニューインの変貌の歴史が感じられて興味深い。この〈平和な〉音楽はメニューインならではのもので、弾き振り ― 弾き振りはこれがはじめてだったと思うが ― の良さが生かされた対話に溢れた演奏となっている。往年の巨匠の時代。クラシック音楽の演奏家は国策に利用され、レコード音楽は政治や社会と関わりがあった。メニューインは平和運動に極めて関心があり、実際にアメリカのユダヤ人社会を敵に回す事を承知でヴィルヘルム・フルトヴェングラーを援護したり、ユダヤ人でありながらイスラエルのパレスティナ政策を批判しています。それを極めて勇気のある政治的行動だと声を上げて良いか、悪いか、肌に感じながらメニューインのレコードを聴いて応援していたことでしょう。1960年代はレコード録音史の上で最も収穫のあった時期で、世代交代や価値観の転換など新鮮で興味深い出来事が次々に起こっていた。もちろん、演奏というものは常に時代を反映して塗り代えられていくもので、それは今日でも変わらない。時代を先取りしていく才能ある演奏家はいつでもいるが、1960年代は戦後の新しい世代の台頭がステレオ再生装置の普及と高度経済成長の波に乗って、正に百花繚乱の観があった。巨匠時代の終焉が「1960年代」なのですが、1970年代末にCDが登場。程なくして平成バブルを迎えると1960年代の録音を聴き直す人は少なかったと思います。「温故知新」を求めて「1960年代」の演奏を聴くということの意味は当時もありましたが、今では、更に積極的な意味があるかも知れません。メニューインは十代を頂点に技術の劣化をいわれる。幼児期の技術的基礎訓練の不足をそのままに成人してしまった、という側面がある。幼いころから神童と言われ十代で一流の評価を受けてしまった演奏家は、マイケル・レビンの例にも見られるように、ある時スランプに陥り袋小路に入り込んでしまうことが多いが、メニューインの場合、幼児期より芸術的感受性に非凡のものを持っていた彼は、他の天才型の演奏家と異なり技巧や美音よりも精神性に関心を向けることで、それを克服していった感がある。1951年にはインドに渡りヨーガの手ほどきを受けて導師イエンガーから独特の姿勢の取り方をいくつか教えられ、その結果、ヨーガ ― 無限なるものとの〝結合〟 ― を文字どおり体得したのである。それと同時に改めてヴァイオリン演奏の原点にまでさかのぼり、それまで本能的に身につけていた芸術性と技巧を意識的に分析し検討しはじめたのだった。そして弾き振りでモーツァルトのヴァイオリンと管弦楽曲のため音楽を一連として録音した。偽物ということでほぼ確定していて最近新録音の機会はめっきり減ったが、「アデライーデ」の愛称で親しまれている第7番は真偽の如何にかかわらず、その頃までは親しまれていた。それでも今でもヴァイオリンのレッスンでは、しばしば取り上げられることも手伝って人気が高い。それらは現代のモーツァルト研究の風潮から、あまり世評が高くないが繰り返し聴き続けられるのは、指揮者を介さずに弾き振りをすることで他の指揮者の精神に融合する必要を廃して、無邪気に音楽を楽しんでいるメニューインの演奏に高い倫理性と知性を感じるのが大きな理由だろう。
ジョン・プリッチャード(Sir John Michael Pritchard CBE)は、1921年2月5日生まれのイギリスの指揮者。幼少時から、ロンドン交響楽団のヴァイオリニストだった父親から音楽の手ほどきを受け、イタリアに留学して指揮法、ヴィオラ、ピアノ等を習得した。1947年にフリッツ・ブッシュの後を継いでグラインドボーン歌劇場の常任指揮者となって、その後1949年にブッシュの代役としてモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を指揮してデビューを飾り注目を浴び、以降コヴェント・ガーデン王立歌劇場にもしばしば登場していた。続いて1951年と1952年のシーズンにウィーン国立歌劇場で指揮をしたほか、1953年にはピッツバーグ交響楽団を指揮してアメリカ・デビューも果たしている。そして1957年から1963年までは、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を歴任。やがて1964年からグラインドボーン音楽祭の音楽顧問を務め、1969年から1978年まで音楽監督の任にあった。さらに1962年から1967年まではロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者も兼任し、このオーケストラをグラインドボーン音楽祭に度々出演させている。1970年万博の年には、来日直前急逝したサー・ジョン・バルビローリに代わって急遽来日、東京でニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮した。グラインドボーンの音楽監督から1978年からはケルン歌劇場の首席指揮者に転身し、1981年からブリュッセルのベルギー王立歌劇場(モネ劇場)の音楽監督も務め、オペラ指揮者として国際的な名声を確立した。その後1981年からBBC交響楽団の音楽監督になり、プロムスのシェフも兼ねて夏の名物プロムスでも活躍した。1986年からはサンフランシスコ歌劇場の音楽監督も兼任したが、1989年にサンフランシスコで急逝した。ヴィットリオ・グイやベルナルト・ハイティンクというマエストロたちに並ぶと際立った個性はないが、常に安定感のある流麗な演奏を保持して信頼度は高く、後年待望のサーに叙され、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのモーツァルトの「イドメネオ」録音により真のマエストロへの道を踏み出した直後にガンのため亡くなった。1989年のプロムス・ラスト・ナイトに、既にガンのため勇退を表明していたサー・ジョンが特別出演し椅子に座ったまま1曲だけ振ったあとで聴衆に引退のメッセージを伝えると満員の聴衆から温かい万雷の拍手が贈られました。この数ヶ月後の12月5日、奇しくもモーツァルトの命日に亡くなっています。
ザ・ヴェリー・ベスト・オブ
メニューイン(ユーディ)
ワーナーミュージック・ジャパン
2014-07-09

1954年モノラル録音。
GB  EMI  ALP1281 ユーディ・メニューイン モーツアル…
GB  EMI  ALP1281 ユーディ・メニューイン モーツアル…