34-22252

商品番号 34-22252

通販レコード→英ラージドッグ・セミサークル金文字盤

トスカニーニ率いるオーケストラの響きは、絶大なる力とエネルギーの放出をもって僕たちの魂を鷲づかみにする。 ― アルトゥーロ・トスカニーニによるヴェルディの歌劇《オテロ》の記念碑的演奏。〝同じ放送録音のレコード発売だったが、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」やヴェルディの歌劇「椿姫」の音が詰まったような録音を聞き慣れた耳には、トスカニーニのオペラ録音の中では最高のすばらしい音に驚嘆した。〟 ― 1949年、RCA Victorのスタジオで78回転シェラック盤のテスト・プレスを試聴した、リチャード・カニエルがそのときのことを振り返って書いた解説が、オリジナルLPのラッカー盤と78回転テスト盤から復刻したCDにあった。令和元年8月25日、熊本市西区にある五福まちづくり交流センターで聴かれた、〝昭和12年盤のトスカニーニの田園交響曲〟に同じ感想を抱いた人は少なくなかった。次第に楽団員を怒鳴りつける口調になるトスカニーニのリハーサルで繰り返されるのが〝テンポを保て〟だが、感情表現を排し、スコアに忠実に演奏することで、〝田園の嵐〟がリアルな描写に変わる。ピリオド楽器で演奏されたベートーヴェンを聴いた時に、それまでのベートーヴェン演奏の赤が洗い流されて感激したが、モダン・オーケストラなのだから堪らない。昭和12年の録音だったというのだから、信じられない。78回転シェラック盤の素晴らしさを聴かされた。ドイツ・オーストリアののどかな田園風景を描いた交響曲には、ブルーノ・ワルターがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と録音した78回転シェラック盤が最高の地位を譲らない。客観的・即物的なトスカニーニと「田園」というと違和感のある組合せではないか。実際その通りなのですが、予想通り早い目のテンポですが、説得力がすごい第1楽章「田舎へ着いた時の楽しい感情の目覚め」から第2楽章「小川のほとりの情景」を経て、この早さが当然のように思われてくる。第3楽章「田舎の人たちの楽しいつどい」にかけての流れもワルターのような心温まるのどかな田園風景とは違うかもしれませんが、トスカニーニなりの平和な田園風景が描かれる。この箇所聴きながら、サー・ジョン・バルビローリや、ヘルベルト・フォン・カラヤンの田園は、スポーツカーで週末に訪れた田園での行楽と書いていたのを思い起こしていた。第3楽章後半部分と第5楽章「嵐の後の喜びと感謝の気持ち」の引き締まった演奏は見事。会長も言にしたが、1、2楽章はワルター盤で、3〜5楽章はトスカニーニ盤が、SPレコードのベストの組み合わせになる。トスカニーニはこのように一見彼のイメージにそぐわない曲でもすばらしい。この「田園」はトスカニーニの隠れた名演だと言えるのではないでしょうか。一切の弛緩なく、最後まで緊張感をもって進められる音楽の素晴らしさ。トスカニーニ率いるオーケストラの響きは、絶大なる力とエネルギーの放出をもって僕たちの魂を鷲づかみにする。ヴェルディの歌劇《オテロ》は激しい嵐に遭難しかけた、ムーア人で、ヴェネツィア領キプロスの総督が、島の住民が待ちわびる港に帰還する場面から始まる。ヴェルディの指揮で「オテロ」が初演された時、トスカニーニは第2チェロを弾いていた。第1幕のオテロとデズデモナの愛の二重唱はチェロの四重奏によって導かれるが、そこでヴェルディが「第2チェロ!」と声を上げた。名指しされたトスカニーニは驚いた。老巨匠は若き第2チェロ奏者に言った。「君の音は柔らかすぎる。もっと大きく弾きなさい」。楽譜にはピアノと書かれていたが、ヴェルディはもっとはっきりとした音を欲していたのだ。あるいは、実際の劇場では大きめに弾くべきだと教えたのかもしれない。このヴェルディとの直接のコンタクトは、トスカニーニに強烈な印象を残した。ヴェルディは、ワーグナーの真似なんてやる気もなかったと言うが、愛と死の同期するこの場面は、方法こそ違え、ワーグナーの魂と相通ずる。 →コンディション、詳細を確認する
ジュゼッペ・ヴェルディはイタリア歌劇最大の作曲家。パルマ地方のロンコーレという寒村の小さな宿屋の息子として生まれ、15歳で作曲を初め、18歳の時勧められてミラノ音楽学校の給費生を受験したが、年齢が多すぎたため落第し、スカラ座のチェンバリストのラヴィナから作曲とピアノそれにソルフェージュを学んだ。26歳のときスカラ座で上演された最初の歌劇「オベルト」を皮切りに25曲の歌劇を書いた。最初はなかなか認められず、彼の名声が確立したのは、33歳に書いた歌劇「リゴレット」、40歳の歌劇「トロヴァトーレ」と歌劇「椿姫」などが相次いで発表されてからである。彼は大器晩成型で、それからさらに49歳で歌劇「運命の力」、54歳で歌劇「ドン・カルロ」、58歳で歌劇「アイーダ」、73歳で歌劇「オテロ」そしてなんと79歳で歌劇「ファルスタッフ」を完成している。実は、ヴェルディは、歌劇『アイーダ』でオペラの作曲を引退すると決めていました。歌劇『仮面舞踏会』の初演(1859年)から2年が経過し、ヴェルディは作曲をまるで忘れたかのようであった。新たに創設されたイタリア国会において彼はボルゴ・サン・ドンニーノ ― 今日のフィデンツァ ― 代表の議員であったし、またサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の農園に各種の近代的設備を導入する仕事にも忙殺されていた。しかし、まさにその農園改造計画への資金の必要も一因となり、折しも、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場のために新作オペラを作曲してもらえないだろうか、という打診がもたらされた。そこで歌劇『運命の力』は着手され、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にて1862年11月10日に初演された。その後、歌劇「ドン・カルロ」、歌劇「アイーダ」の成功で農園改造計画への資金の必要も目処が立ち、歌劇「アイーダ」の作曲と上演準備の一方で、喜歌劇を作曲しようと台本探しに熱中していた。農場経営も順調そのもので、買い増した土地は当初の倍以上になり、雇う小作人は十数人までになった。パリではレジオンドヌール勲章とコマンデール勲章を授かり、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた。そのため納税額の多さから上院議員に任命されるが議会には一度も出席せず、自らが設計し増築を繰り返して大きくなった邸宅で、自家製のワインを楽しみ、冬のジェノヴァ旅行も恒例となった。慈善活動には熱心で奨学金や橋の建設に寄付をしたり、病院の建設計画にも取り組んだ。その頃に彼は、ほとんど音楽に手を出さず、「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。
彼が音楽の世界に戻るのは1879年になる。11月、農場に届いたアリーゴ・ボーイトの台本『オテロ』に、ヴェルディは興味をそそられるが作曲は難航。歌劇「シモン・ボッカネグラ」、歌劇「ドン・カルロ」の改訂に忙殺していた1883年2月にワーグナーの訃報が届く。彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーにヴェルディはライバル心をむき出しにすることもあったが、その才能は認めていた。そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せなかった。「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き残すほどヴェルディは沈んだ。ワーグナーの遺灰を継ぐ如く、作業にも拍車がかかり丸7年の期間をかけた歌劇『オテロ』は完成。スカラ座での初演はヴェルディ16年ぶりの新作オペラに期待以上の出来映えに沸き立った。20世紀最大の指揮者の一人、アルトゥーロ・トスカニーニは4歳のときに初めてオペラを聴き、9歳でパルマ王立音楽院に入学しチェロと作曲を学び、イタリアの巡回歌劇団のチェロ奏者となりました。帰国後はミラノ・スカラ座のチェロ奏者に就任し、同時にイタリアやスペインで指揮活動も開始。1887年のヴェルディの歌劇「オテロ」の歴史的な初演のチェロ演奏を担当していた若きトスカニーニは実家のパルマに戻っても興奮が冷めやらず、母親をたたき起こして素晴らしさを叫んだという。かつての美しい旋律が無くなったとの評もあるが、各登場人物を明瞭に描き出し、彼が追求した劇と曲の切れ目ない融合はさらに高く纏められた完成度の高い劇作を現実のものとした。歌劇『オテロ』を成功で終えたヴェルディは虚脱感に襲われていた。ローマ開演の招待を断り、また農場に引っ込むと、建設された病院の運営など慈善事業に取り組んだ。そして、引退した音楽家らが貧困に塗れて生涯を終えるさまを気に病んでいたヴェルディは、彼らのために終の棲家となる養老院建設を計画した。一方でボーイトは、ヴェルディの才能は枯渇していないことを見抜いていた。喜劇に手を染めたことのなかったヴェルディに、「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、すべてがひっくり返ります」と誘いをかけると、歌劇「アイーダ」の作曲の一方で、喜歌劇を作曲しようと台本探しに熱中していたヴェルディは乗った。ヴェルディ集成の歌劇「オテロ」と最後の歌劇「ファルスタッフ」は、ワーグナーが半音階の大悲恋楽劇「トリスタンとイゾルデ」と、ハ長の喜劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を対にしていることに重なる。この歌劇『オテロ』は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示するシンフォニズム理論に対するイタリア側からの回答となった。
世界的指揮者だったヘルベルト・フォン・カラヤンは来日した際に、「君が代」を聴いて、「世界の国歌の中で最も荘厳な曲」と評価した。1973年にカラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて来日公演を開いた初日では、まず君が代、続いて西ドイツ ― 当時 ― 国歌が演奏された。戦時中は演奏会の最初や最後に『星条旗』 ― 星条旗よ永遠なれ ― を演奏することも多かった。『星条旗』を演奏する際アルトゥーロ・トスカニーニは、リハーサルや録音であっても、チェロを含む全員を起立させて演奏したと言われている。イタリアへの母国愛を終生抱き続けたトスカニーニであったが、だからこそ米国人にとっての母国である米国への愛を尊重していたのだと思われ、トスカニーニの人となりがわかる。トスカニーニは戦前・戦中・戦後初期を代表する大指揮者で、ヨーロッパではヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アメリカではトスカニーニと人気を二分した。フルトヴェングラーのロマンティックの極みに対してトスカニーニは、イタリアのエミリア・ロマーニャ州の県都パルマ出身ということから当地で高名なワイン、弱発砲性赤ワイン・ランブルスコのようにすっきり系ですが、すっきりまとめているからといって、そこには軽さは感じられず力強さが感じ取れます。トスカニーニは1898年31歳の時にはイタリア・オペラの総本山とも言うべきミラノ・スカラ座の指揮者に迎えられます。そのデビュー公演でワーグナーを取り上げ楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」を1ヶ月以上に亘る猛烈な訓練の後に演奏、この公演はスカラ座の歴史に残る程の大成功を収めワーグナー指揮にみせるトスカニーニの才能のほどを内外に確認させる事となった。ドイツ系指揮者以外はまだ誰も足を踏み入れていないバイロイト音楽祭から1930年63歳の時に出演要請を受け歌劇「タンホイザー」と楽劇「トリスタンとイゾルデ」を指揮してバイロイト音楽祭始まって以来の外国人指揮者登場の第一歩を標す。そこにはアドルフ・ヒットラーを嫌い「バイロイトを人種の別なく音楽の聖域としたい」と考えていたリヒャルト・ワーグナーの忘れ形見ジークフリートの思想が働いていた。彼は外国人のトスカニーニに積極的に出演を要請して、このバイロイトを開かれたものとしたのですが生憎トスカニーニが初めてのデビューを飾った、この1930年の夏にジークフリートは突然亡くなってしまいます。ヒトラーへの敬愛を公言していたヴィニフレート夫人のもとバイロイトはナチスの牙城としての色彩を強めていく。トスカニーニは翌1931年には歌劇「タンホイザー」と舞台神聖祝典劇「パルジファル」を指揮し、更に翌々年の1933年にはバイロイトの名誉市民の称号も得て、いよいよ念願の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮する予定になっていた。演奏会で指揮している分は良かったのですが、「是非今年の公演の折りには直接会ってナチス第三帝国の首相として御礼を申し上げたい」という大変遜った文面の手紙がナチスからトスカニーニに届く。
ヒットラーのユダヤ人政策に徹底して反対していたアルトゥーロ・トスカニーニは「現在のような状況のもとではバイロイトに足を運ぶわけにはいかない」と断っており、「この間バイロイトで指揮できたこと、それ自体が私にとっての報酬である。」として、この時のバイロイト音楽祭の出演料は一切受け取らなかった。この当時、利用するだけ利用されたブルーノ・ワルターは演奏活動が出来ないところまでナチスに追いつめられ、娘は娘婿だったナチス将校に銃殺される。危機を感じて帰宅しないで演奏会場に駆け込んだワルターの急場を救うべく指揮を代行したのがトスカニーニだった。程なくフランス経由でイギリスへの逃避行を手引した。1936年引退を決意してニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を辞任し、イタリアへ戻ったトスカニーニに翌1937年にはラジオ放送を通じて一度に何百万もの人々に演奏を聴いて貰おうと言うアメリカの放送局からの提案を受け入れ再びニューヨークに復帰すると、1937年トスカニーニのためにアメリカRCA社が創設したNBC交響楽団の指揮者となります。ワルターの晩年にアメリカ・コロンビア社が結成したコロンビア交響楽団の先駆けみたいですが、当時のアメリカの財力は有名指揮者にオーケストラをプレゼントするとは凄まじい。商魂逞しい米国のメディアが投資するトスカニーニには、剛毅で、集中力が高く、熱気にあふれ、人を引き付ける何かがあった証左であろう。後輩のヘルベルト・フォン・カラヤンでさえ持つことが出来なかった強大な影響力を生み社会現象になった初めてのマエストロではなかろうか。1954年4月4日、カーネギー・ホールでのコンサートを以て引退。1957年1月16日、ニューヨークの自宅にて脳血栓のため亡くなった。89歳でした。この「20世紀最大の指揮者」の音楽は、TV放送用の映像と共に残されていて、死後60年以上経過した今なお、多くのクラシック愛好家の心を震わせている。
  • Record Karte
  • オテロ:ラモン・ヴィナイ(テノール)、デズデモナ:ヘルヴァ・ネッリ(ソプラノ)、ヤーゴ:ジュゼッペ・ヴァルデンゴ(バリトン)、エミーリア:ナン・メリマン(メゾ・ソプラノ)、NBC交響楽団、アルトゥーロ・トスカニーニ(指揮)。1947年12月6,13日ニューヨーク、NBC放送・8Hスタジオ録音。ロング・カートン、リーフレット付属、名演、名盤
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