商品名GB DGG 2740 149 オイゲン・ヨッフム ワーグナー・ニュルンベルクのマイスタージンガー(全曲)

《オペラ入門の第一歩に ― ドミンゴのドイツ語には違和感が漂っています。》 ワーグナー作品の光と影の両面を温かく、かつ的確に描き出し、多くの名演を成し遂げてきた巨匠オイゲン・ヨッフム。彼の指揮したワーグナーのなかで最高傑作の一つに数えられるのが1976年録音の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』です。キャストに、バリトンのフィッシャー=ディースカウ、テノールのドミンゴ、ソプラノのリゲンツァなど大物歌手を擁しているのも大きな聴きどころです。
本盤の魅力は、何といっても両主役であるザックスとヴァルターに、それぞれフィッシャー=ディースカウ、プラシド・ドミンゴを配している点であろう。フィッシャ=ディースカウは、いつものように巧すぎるとも言える歌唱を披露しているが、ドミンゴのドイツ語には違和感が漂っています。音楽之友社刊「名作オペラ ブックス」(アッティラ・チャンバイ、ディートマル・ホラント編の “ rororo operabücher ” の日本語版)の中では批判的に書かれている。この点が、このオペラを解釈するときのチャームポイントになるものです。
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのハンス・ザックス役、プラシド・ドミンゴのヴァルター役に、カタリーナ・リゲンツァのエヴァ役、クリスタ・ルードヴィヒのマグダレーナ役、ペーター・ラガーのポーグナー役、ゲルト・フェルトホフのコートナー役にローランド・ヘルマンのベックメッサー役。
ワーグナーは1813年、ドイツのライプツィヒに生まれた。彼の父親は警官だったが、ワーグナーが生まれて半年後に死んでしまい、翌年母親が、俳優であったルートヴィヒ・ガイヤーと再婚した。ワーグナーは、特別楽器演奏に秀でていたわけではなかったが、少年時代は音楽理論を、トーマス教会のカントル(合唱長)から学んでいた。これが後の彼の作曲に大きな役割を果たすことになる。23歳の時には、マグデブルクで楽長となり、ミンナ・プラーナーという女優と結婚した。1839年ワーグナー夫妻はパリに移り、貧困生活を味わった後、彼のオペラ「リエンティ」の成功で、ザクセン宮廷の楽長となった。しかし幸せは長く続かず、ドレスデンで起こった革命に参加した罪で、彼は亡命を余儀なくされる。スイスに逃れた彼は、友人の助けで作曲を続け、1864年、やっとドイツに帰国することが出来た。とはいえ、仕事もなく、彼は借金まみれになってしまった。そのときバイエルンの国王で彼の熱烈な崇拝者だったルートヴィヒ2世が救いの手を差し伸べてくれた。彼らの友情は長続きしなかったが、その後ワーグナーはスイスに居を構え、1870年リストの娘であるコジマと再婚し(ミンナは少し前に死去)、バイロイト音楽祭を開くなど世界的な名声を得た。彼のオペラはそれまで付録のようについていた台詞を音楽と一体化させるという革命的なもので、多くの作曲家に影響を与えた。しかし、第2次大戦中ナチスによって彼の作品が使用されたため、戦中戦後は正当な評価を受けることが出来なかった。
ようやく今、私は完全に諦めました。―私が離れることだけが、思いのまま自由に動く力をあなたに与えるのです。— 1861年12月、マティルデに宛てたワーグナーの手紙。『わが生涯』によれば、ワーグナーはチューリヒ時代(1849年 - 1858年)のパトロン、オットー・ヴェーゼンドンク、マティルデ・ヴェーゼンドンク夫妻の招待により、1861年11月7日から11日にかけてヴェネツィアに旅した。アカデミア美術館でティツィアーノの絵画「聖母昇天図( Assunta)」を見たことで、「かつての気力がまた身内に燃え上がるのを感じ―『マイスタージンガー』を仕上げようと心に決めた」とされている。その決心から25年遡る、『恋愛禁制』を1836年に完成の後、ワーグナーはオペラ・コミックともヴォードヴィルとも異なる喜劇のスタイルを模索していた。1835年7月、マクデブルクの劇場と契約を結んだワーグナーは歌手集めの旅でニュルンベルクを訪れた。このとき、酒場で歌自慢の指物師の親方が満座の笑いものにされる場面に居合わせた。そしてその直後、些細なきっかけから起こった騒ぎが高じてあわや暴動になるかと思われたが、鉄拳の一撃を合図に潮が引くように静まる様子を目撃した。これらの体験は、本作でベックメッサーが歌いそこねて恥をさらす場面(第3幕第5場)及び群衆による「殴り合いの場」(第2幕第7場)に投影されている。また、「ラ・スペツィアの幻影」(『ラインの黄金』序奏)や「聖金曜日の奇蹟」(『パルジファル』)など、ワーグナーには作品の端緒を創作神話のように語る傾向がある。しかし、ヴェーゼンドンク夫妻の仲睦まじい姿を見せつけられたワーグナーは、かなわぬ愛に終止符を打つ決心をする。かつて想いを断った相手との再会は、もう一度青春の気持ちを取り戻したのだろうし、ワーグナーにとって地上での愛の実現を断念し、芸術によるエロスの昇華をめざす転機になった。
オイゲン・ヨッフムの演奏スタイルに派手さはなく地味ではあるが、堅固な構成力と真摯な態度、良い意味でのドイツ正統派の指揮をする。やはり本領はバッハ及びロマン派音楽と思われる。彼は音楽を自己の内心の表白と考える伝統的ドイツ人で、したがってバッハ、ブルックナー、ブラームスに於いては敬虔な詩情を迸っている感動的な名盤を生むが、モーツァルトの本質を探ろうとするほどに湧き溢れて来るがごとき心理的多彩さや、ベートーヴェンの英雄的激情、それにリヒャルト・シュトラウスの豊麗なオーケストラの饒舌を表現するには乏しい結果となっている。ヨッフムがはたして、すでに成長すべき極言まで達してしまった人なのか、それともさらに可能性が期待できるのか、いつまでも巨匠の風貌に至らないのが、好感とともに焦燥を禁じえないが、おそらく同世代のベーム、ベイヌム、カラヤンたちにくらべれば、個性と想像力において弱く、名指揮者にとどまるのではないかと思われた。ところが、後年のヨッフムの録音活動の活発さは目を引いた。戦前のSPでは、わずかにテレフンケンのベートーヴェンの「第7」「第9」ほどだったのと比べて、彼が晩年型の指揮者と称されることを簡易に理解できる面だろう。ベルリン放送交響楽団(1932~34年)、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団(1934~49年)、バイエルン放送交響楽団(1949~60年)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1961~64年)、バンベルク交響楽団(1971~73年)とオーケストラ首席指揮者を務めた変遷を見ると、バイエルン以外は短いのに気づくが、同時に2つのオーケストラを兼務することをしていないことも見て取れる。そうした、一つ一つの歴任を経て来たことは彼の律儀な性格のあらわれかも知れない。でも彼の真価が本当に発揮されるのは1970年代に入ってからで、幾つかの楽団を渡り歩いたのちの70歳代になってからである。シュターツカペレ・ドレスデンとのブルックナー交響曲全集やロンドン・フィルとのブラームス交響曲全集、そしてロンドン交響楽団とのベートーヴェン交響曲全集をのこしたのもすべてこの時代である。早熟な天才指揮者ではなかったが、長く生き、途切れること無くオーケストラを相手したことで、職人指揮者で終わることもなかった。
カラヤンの「マイスタージンガー」が東独シュターツカペレ・ドレスデンとの共演を選んだのか、このヨッフム盤の高尚さを聴くに連れ理解が出来そうだ。スウェーデン生まれのカタリーナ・リゲンツァ( Catarina Ligendza 1937年10月18日 -  )はこの録音の頃にバイロイトではイゾルデを歌ってますが、録音の方ではあまり名前を見かけません。バイロイト音楽祭ではでてしまうローカルさ、俗語感のようなイントネーションは本盤のオーケストラからは後退して端正過ぎるほど、第2幕第7場での夜半の乱闘の場面から市井の空気は浄化されている。特別な狙いで取り組まれた製作ではなかっただろうと思える「ワーグナーのお好みのままに」の趣向か、丁寧で端正な演奏に圧倒させられる。
解説書付属、1976年3月19日〜4月3日、ベルリン録音。
GB DGG 2740 149 オイゲン・ヨッフム ワーグナー・ニュ…
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