34-14861

商品番号 34-14861

通販レコード→英ブルーライン盤

これは病み付きになります。 ― ブルックナーの交響曲は第3番から第6番までが中期と呼べるでしょうが、その中での最高峰が第5番というのは誰もが認めるところです。これから、ブルックナーに本腰をいれるところなら、4、7、8番から聴き始めて、次に並ぶのが3、5、9番でしょう。独墺系の指揮者としてブルックナーの位置づけはきわめて重要なもので、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー+ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の録音があり、ヘルベルト・フォン・カラヤンの演奏歴の中においても ― 特に後半の3曲は繰り返しコンサートで演奏し、録音もしていますので、大切な曲だったのでしょう。カラヤンがことあるごとに愛奏した十八番レパートリーは3曲。フルトヴェングラーを意識し、挑発する格好の対照である交響曲第5番。カラヤン的スポーティな演奏だと爽やかな風が通り過ぎるかのような心地良さがあり、カラヤン美学の象徴とも言える緩徐楽章は情緒纏綿にねっとりと歌い上げる交響曲第7番。一部には顔を顰める人もいるカラヤン流レガート奏法も抑え気味でリズムを明確に強調した実直とも言える表現と素晴らしい音響の、交響曲第8番は極めてシリアスで、荘厳な演奏でフィナーレのカタルシスは正にこの世の終わりを感じさせるほどの圧倒的な存在感を誇ります。カラヤンのブルックナー作品への傾倒は第2次大戦前からのことで、演奏会では交響曲第4番以降の諸曲をコンスタントに取り上げていましたが、録音面ではステレオ時代の到来を待ってようやく1957年に実現したベルリン・フィルとの交響曲第8番が最初でした。その後、1960年代にはなぜかブルックナーの録音は行われず、1970年代に入って完全にベルリン・フィルを手中に収めたカラヤンが、神と自然への賛美という要素を孕んだブルックナーの広大な世界観を余すところなく表現しています。足掛け6年という歳月を要して完成された交響曲全集は、スタイリッシュなブルックナー演奏の極致を聴かせた巨匠、カラヤンならではのブリリアントな唯一の大傑作となりました。第4番はアクが強いが、スタニスワフ・スクロヴァチェフスキとオイゲン・ヨッフムは全曲結構アクが強い。第4番を除けばカラヤンの良くも悪くも「まじめな演奏」なので、音楽全体に内在する「岩石」も「宝石」も、同格の真剣さで表現されてしまって1、2番などは、曲そのものに旋律美が希薄気味で、カラヤン流の完璧さは「厚化粧」に感じさせる。カラヤンの作り出す音楽は、『とてつもなく単純な発想で、この上ない完璧さを追求したもの』である。したがってブルックナーの全集の場合は曲そのものとして完成度の高い、5、8、9番が有無を言わせぬ説得力を感じる名演になっている。外連味のない〝カラヤンの5番は入門用に最適〟といわれる。カラヤンのブルックナーの交響曲は多数の録音があるが、ベルリン・フィルの実力を最高に引き出しているのは当盤であろう。極めてスタイリッシュかつパワフルで録音も素晴らしく、オーディオ的観点からも胸のすく音の洪水。本録音はカラヤンの何時もの重厚感が堪らなく良いし、豪華絢爛なベルリン・フィルも健在。ベルリン・フィルの各セクションが絶妙にブレンドされた、オルガンの如き壮大な響きは必聴に値します。録音も優秀。ベルリン・フィルの最強コントラバス部隊の凄い低音に加え、雷のようなティンパニが轟きわたるブルックナー・交響曲第5番は1975年に始まったカラヤン&ベルリン・フィルのブルックナー・交響曲全集中でも最高の聴きものと言える一枚です。カラヤンに要求されるまま強奏しているうちに、ベルリン・フィルのティンパニ奏者は難聴になってしまった録音のこぼれ話がある。これは病み付きになります。
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最高のオーケストラを起用して技術上の完璧さが独走しないところに、ヘルベルト・フォン・カラヤン芸術の身幅、貫禄がある。1970年代の演奏は緊張感が違う。弱音部では繊細きわまりない音楽を作り出し、強奏部分では怒濤の迫力で押してくる。その較差、落差と云ってもいいのかな、他の指揮者ではなかなか見られないカラヤン流の演出。本物のブルックナーでは無く、カラヤンが見える。ブルックナーを聴いた、というより〝カラヤン・サウンド〟を味わうのに最高の素材がこの曲でした、的な演奏。ではあるが、他の名指揮者の既発盤が存在するにも関わらず、曲としての揺るぎない規範を示し得たレコードだ。ブルックナー存命時の最大の敵はエドゥアルト・ハンスリック(Eduard Hanslick, 1825〜1904)だった。ハンスリックの批判の矛先を少しでも躱さんが為、第5番の初演に際してシャルク改訂版で演奏された。指揮者のフランク・シャルクが聴衆に受け入れ易くする為に楽譜に大幅なカットと、金管、打楽器を追加するという改悪版だの奇形児だのといわれているシャルク改訂版で録音した、ハンス・クナッパーツブッシュのレコードに始まり、フランツ・コンヴィチュニー、オイゲン・ヨッフム、オットー・クレンペラーのLP録音は、カラヤンのレコードが登場する以前に評判が良く、その時代の変遷の匂いがなんとなくわかる気がします。クレンペラーは、このブルックナー・交響曲第5番に於いても、偏執的な程ポリフォニックな表現で全体を構築している。そして、壮大なスケール感と透明度は、他では得難いものである。交響曲第5番に、ブルックナー本人の改訂版は無い。カラヤン盤では原典版と表記されるハース版も、ノヴァーク版と殆ど違いが無い。ブルックナーが交響曲第5番の作曲に着手したのは第4番の完成後3ヶ月ほどたった1875年2月 14日。第2楽章のアダージョから始めました。次いで第1、3、4楽章へ、一通り完了した後、交響曲第3番の改訂作業に取り組み、1877年5月16日に第5番の仕事に戻り、 第4、1、2楽章の順に見直しをして1978年1月4日に完了しました。ブルックナーの交響曲にはコラールふうの楽節がしばしば現れます。ブルックナーはカトリック教徒ではあったが、プロテスタントのバッハの音楽には敬意を払い、またバロックの多くの作曲家の作品も研究していて、ルター派のコラールには親近感を抱いていた。さらにメンデルスゾーンのオラトリオ《聖パウロ》をはじめとする宗教音楽、交響曲第2番《讃歌》、交響曲第5番《宗教改革》でのコラール的なものの扱い方からも影響を受けた。そうした既存のコラールをブルックナーは、そのまま使うことはせずコラール風の楽句を金管楽器を主体にして奏し、崇高感や荘厳感を出している。このようなコラール主題は、交響曲第3番以降で特に目立って現れ、「コラール風」と称されることもある交響曲第5番に於いて実に効果的に扱われています。
カトリックは、キリスト教の四大会派の一つで伝統性が特徴で、歴史ある聖堂に、歴史ある儀式の数々を保持するために富民層に権威を与えました。主として聖書をもとにした純粋な信仰を掲げたプロテスタントが、ローマ教会から離脱します。これがメンデルスゾーンの交響曲のテーマとなっている、16世紀の宗教改革です。ルター支持派のプロテスタントは、ローマ教皇の絶対的権威を否定し、聖書だけが唯一の信仰の対象で、神と人間との関わりは直接的であり、人は生まれながらに役割を課せられていて、救いはキリストの贖いを信じることによってのみ得られると教えています。天職という言葉はプロテスタントの考えに根ざしています。対して、神の恩寵を信じ、善き行いを重ねることで救いに與る機会を得られると教えているのが、カトリックです。リンツ近郊の村に生まれ、生涯オーストリアを本拠に活動したアントン・ブルックナー(1824~96)は村の教員から出発し、教会オルガニストも務めた彼は、作曲家としては晩学で主に宗教音楽の分野から出発します。教会音楽家としての経歴、そして素朴で敬虔なカトリック信仰に基づく生来の村人気質は、ブルックナーの交響曲の独特なスタイルのうちに反映されている。重層的に構築された気宇壮大なスケールの中で、神と大自然を畏敬の心をもって観照するといった特質を持つ彼の交響曲は、初期の探求と実験を経て、中期の始まりを告げる第4番で一層の拡がりと壮大さを持つスタイルが追求された後、中期の代表作といえる第5交響曲において、新たな表現世界に一気に到達しました。この第5番はブルックナーの全交響曲のうちでも後期の第8番と並んで特に規模の大きなもので、後期3大交響曲である第7、8、9番にも引けを取らないほどの傑作です。とりわけバロック的ともいえる対位法の技法が活用されている点がこの第5番の大きな特徴で、音の横の流れを多層的に積み重ねて壮大な音の大伽藍を築き上げるその作風は、しばしばゴシック建築にも譬えられてきた。象徴的に用いられるコラール主題などは、この作品の根本にある宗教的な意味合い、神への畏敬の念を示したものと解釈できる。ブルックナーの交響曲第5番の第4楽章には全金管楽器により厳かに奏されるコラールがあります。また、第4楽章のコーダの後半部にはブルックナー自身がコラール(Choral)と名付けた楽段があり、実に雄大で荘厳に諸主題が繰り返され、圧倒的なクライマックスを作り上げています。さらに循環手法によって全曲の論理的な流れをフィナーレのクライマックスに収斂させるという作品全体の設計も、全ての事象を絶対的で超越的な神に帰す固い信仰を表現したものと見なすことができよう。
ドイツ後期ロマン派の伝統的な演奏スタイルというと、深遠で巨大、重圧というような言葉が思いつきますが、それらは現代ではすっかり失われてしまった感が有ります。かつての大巨匠たち、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーやハンス・クナッパーツブッシュ、オットー・クレンペラーなどに代表されるスタイルと共に、演奏技術の発達とともに存在意義が薄れてくる全集なのかもしれないが、録音媒体とはよく出来たもので、ヘルベルト・フォン・カラヤンのブルックナーが聴きたいときにはいつでもすぐ聴けます。最高のオーケストラを起用したからやんのブルックナー・交響曲全集から20年を経た、1996年から2001年にかけてギュンター・ヴァントがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して制作した一連のブルックナー・アルバムは出来不出来が少なく、常に高次元を保っている。ドライな印象の強かったケルン放送交響楽団盤に較べれば、ベルリン・フィル盤でのディテールはかなり豊かな表情を湛えたものとなっています。練習時間をたっぷりとることが可能だったドイツの放送オーケストラと長年仕事をしてきたヴァントにとっては、当然の条件でもあったのでしょうが、得意の第5番ではベルリン・フィルとしては異例と言ってよい長時間に及ぶリハーサルがあったことも見逃せません。ヴァントとベルリン・フィルの演奏は、ひとつひとつの音を丹念に積み重ね、重層的な音の連なりを的確に処理したもので、そのたぐいまれなヴィルトゥオジティはベルリン・フィルならでは。轟然と響きわたるティンパニを核とした強烈なトゥッティの迫力や、存在感たっぷりの木管の独奏、馬力満点のブラス・セクションに、分厚い弦楽と、この ― ヴァント自身が“世界最高のオーケストラ”と讃えていたオーケストラの長所が存分に引き出されたサウンドにも圧倒的なものがありながらも細部がかっちりしているのは、ヴァントの造形的アプローチの賜物でしょうか。
「構造」が全交響曲中もっともガッチリした第5番は、ギュンター・ヴァント+ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団盤ではヴァントが「完全に5番向きの人」と評されることに納得がいく素晴らしい出来映えである。第9番とともに「ブルックナーが世に背を向けて書いた」とブルックナーが評した第5番を世俗性を徹底的に排除したスタイルで演奏したのだから、ヘルベルト・フォン・カラヤン+ベルリン・フィル盤を意識せずにはいられないだろう。演奏の完成度という点では全くの互角。音色の輝かしさではややカラヤン盤が上回るだろうか。ただし、音の深さは、ヴァント+ベルリン・フィル盤ではそれこそ底知れぬ沼のようである。ヴァントが第5番をレパートリーに加えたのは最後だったという。つまり、慎重な態度を保ち続けていたこの曲に対して余程の自信が持てたからこそ録音に踏み切ったということだろう。そうしたヴァントにとっての第5番を、「スーパー・オーケストラ」は余裕綽々の鳴りで楽しませてくれる。ベルリン・フィルの迫力も頂点に達している。オーケストラに任せきってしまっても心配いらないほど「構造」は、個々の楽器が当然のように巧いし、全体がよく揃っている。この曲がカラヤンの演奏スタイルと相性のよい曲なので、全集中で最も高く評価されるということなのだろう。カラヤンの5番が本盤1種類のみというのは少々寂しい。しかし、だからこそ満足いく出来だったろう。ダイナミック・レンジが非常に大きい、カラヤン節の極みとでも言える演奏を聴くと、まさしく厳かで荘厳な響きを味わう事が出来る。ブルックナーの音楽は多くの作品がブルックナー・トーンと呼ばれる弦楽器のトレモロで始まるが、カラヤン&ベルリン・フィル・黄金のコンビのアプローチは全体が少し早めのテンポながら ― 揺るがない沈着なテンポを保持しながら、仰ぎ見て卒倒しかねないほどの巨大な伽藍を構築する。 ― 流麗でとても美しい演奏だ。そして時に、美の刄にも似た凝集した音でもってブルックナーの到達した神秘の世界を描き出します。ちょうどワーグナーの楽劇がそうであるように、観光や日々の営みの中で目の当たりにした美しい光景に、この破格の音楽をBGMとして呼び入れることはできない。カラヤン&ベルリン・フィル全盛期の録音で、後期交響曲とは違った若々しいエネルギーと率直さで表現した演奏の構築力の堅固さ、圧倒的な響きの美しさは筆舌に尽くし難いものです。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)は、レコード録音に対して終生変わらぬ情熱を持って取り組んだパイオニア的存在であり、残された録音もSP時代からデジタル録音まで、膨大な量にのぼります。その中でも、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との結び付きがいよいよ強固なものとなり、続々と水準の高い録音が続々と行われた1970年代は、カラヤンの録音歴の中でも一つの頂点を築いた時代といえます。本盤は1970年代に比較的短いスパンでEMI→DGGと再録音が行なわれたモーツァルトやチャイコフスキーの後期交響曲集などと同じく、待望されていた1970年秋のブルックナー・交響曲第4&7番の登場でファンの溜飲を下げたあと、1975年1月~1976年12月の丸2年で人気処の4・5・7~9番の選集にするつもりが、何らかの事情で1979年9月に6番を追加、そして、デジタル録音の登場が弾みとなったか、初期の1〜3番までを一気に1980年9月~翌81年1月に録音し、全集完成。EMIのオイゲン・ヨッフムとシュターツカペレ・ドレスデンの二度目の交響曲全集ににらみをつけた。カラヤンはオーストリア出身ですが、同郷の作曲家ブルックナーの作品を網羅的に取り上げていた訳ではありません。レコード録音に対して終生変わらぬ情熱を持って取り組んだパイオニア的存在であり、残された録音もSP時代からデジタル録音まで、膨大な量にのぼりブルックナーの交響曲全集録音を遺してはいますが、作品ごとに愛着や理解の濃淡があったと見るのが当然です。初期作品や、交響曲第6番は実演では取上げていないと推測されている。カラヤン&ベルリン・フィルの絶頂期~晩年に差し掛かる時にレコーディングされたものではあるが、ただそれだけでは済まない。充実期の賜物だったろうが、短期間での録音であり、カラヤンは全曲一貫した方法論によって、ブルックナーのスコアからきわめて壮麗な音楽を引き出しており、当時絶頂期にあった同コンビの凄まじいまでのヴィルトゥオジティもあって、全体の仕上がりは正統派(?)ブルックナー党が目をむくようなゴージャスなものとなっているのが特徴。
ヨーロッパの音楽界を文字通り制覇していた「帝王」カラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と、ドイツでの拠点を失ってしまった英H.M.V.の代わりとなったドイツ・エレクトローラとの共同制作は、1970年8月のオペラ『フィデリオ』の録音を成功させる。カラヤンのオーケストラ、ベルリン・フィルの精緻な演奏は、ヘルガ・デルネシュ、ジョン・ヴィッカースの歌唱を引き立てながら繊細な美しさと豪快さを併せ持った迫力のある進め方をしています。有名なベートーヴェンのオペラが、ただオペラというよりオラトリオのように響く。カラヤンは1972~76年にかけてハイドンのオラトリオ『四季』、ブラームスの『ドイツ・レクイエム』、さらにベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』という大曲を立て続けに録音しています。ドイツ、オーストリアの指揮者にとって、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは当然レパートリーとして必要ですが、戦後はワーグナー、ブルックナーまでをカバーしていかなくてはならなくなったということです。ヘルベルト・フォン・カラヤンが是が非でも録音をしておきたいワーグナー。当初イースターの音楽祭はワーグナーを録音するために設置したのですが、ウィーン国立歌劇場との仲たがいから、オペラの録音に懸念が走ることになり、彼はベルリン・フィルをオーケストラ・ピットに入れることを考えました。カラヤンのオペラにおける英EMI録音でも当初はドイツもの(ワーグナー、ベートーヴェン)の予定でしたが、1973年からイタリアもののヴェルディが入りました。英EMIがドイツものだけでなく、レパートリー広く録音することを提案したようです。この1970年代はカラヤン絶頂期です。そのため、コストのかかるオペラ作品を次々世に送り出すことになりました。オーケストラ作品はほとんど1960年代までの焼き直しです。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」というのが実際の状況だったようです。この時期、新しいレパートリーはありませんが、指揮者の要求にオーケストラが完全に対応していたのであろう。オーケストラも指揮者も優秀でなければ、こうはいかないと思う。歌唱、演奏の素晴らしさだけでなく、録音は極めて鮮明で分離も良く、次々と楽器が重なってくる場面では壮観な感じがする。非常に厚みがあり、「美」がどこまでも生きます。全く迫力十分の音だ。ベルリン・フィルの魅力の新発見。そして、1976年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団から歩み寄り、カラヤンとウィーン・フィルは縒りを戻します。カラヤンは1977年から続々『歴史的名演』を出し続けました。この時期はレコード業界の黄金期、未だ褪せぬクラシック・カタログの最高峰ともいうべきオペラ・シリーズを形作っています。カラヤンのレコードでは、芸術という大目的の下で「人間味」と「完璧さ」という相反する引き合いが、素晴らしい相乗効果を上げる光景を目の当たりにすることができる。重厚な弦・管による和声の美しさ、フォルティシモの音圧といった機械的なアンサンブルの長所と、カラヤン個人の感情や計算から解き放たれた音楽でもって、音場空間を霊的な力が支配しており、聴き手を非現実の大河へと導く。
ブルックナー:交響曲第5番
カラヤン(ヘルベルト・フォン)
ユニバーサル ミュージック
2017-03-08

1977年初発。2枚組、解説書付き。1976年12月6日〜12月11日ベルリン、フィルハーモニーでの録音。ハース版による演奏。