34-20400
商品番号 34-20400

通販レコード→英ブルーライン盤
録音が非常に優秀。アルゲリッチのピアノは静かに穏やかにセンチメンタルな表現で賑やかさの裏の淋しさを見事に表現している。 ― アルゲリッチの猛烈な打鍵がひたすら心地良いダイナミックな名盤。まだ若かったアバドも元気な伴奏をつけており、当時、カラヤンのもとではスタイリッシュでゴージャスなサウンドを聴かせていたベルリン・フィルも、ここではまさにパワー全開です。ラヴェル、プロコフィエフともに強烈な仕上がりですが、作品との相性ではやはりプロコフィエフでしょう。全編息きつくヒマもない緊迫感が快適です。ラヴェルはもちろん、プロコフィエフがとても良い雰囲気に仕上がっている。現在でもこの2曲の最良の演奏の1つに挙げられる名盤。クラウディオ・アバドの指揮するオーケストラもダイナミックでアルゲリッチのピアノは静かに穏やかにセンチメンタルな表現で音色の変化、色彩感が良く出ていて、賑やかさの裏の淋しさを見事に表現しています。加えてオーケストラも歪み感は一切なく鮮明で、素晴らしい録音です。1967年録音。優秀録音。一般的にモーツァルトやベートーヴェンの印象よりプロコフィエフという名は親しみがないが、蓄音機世代の人に聞かせたら日本のメロディに聴こえるねと率直な感想が帰ってきた。
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奔放で情熱的な中にも絶妙なバランス感覚を備えた、アルゲリッチ若き日の奇跡の名演。マルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich)は1941年6月5日生まれ、アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。5歳から名教師スカラムッツァに学び、8歳でモーツァルトとベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を公開の場で弾いてデビュー。14歳の時ヨーロッパにわたり、フリードリヒ・グルダ(Friedrich Gulda, 1930.5.16〜2000.1.27)、ステファン・アスケナーぜ(Stefan Askenase, 1896.7.10〜1985.10.18)、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Arturo Benedetti Michelangeli, 1920.1.5〜1995.6.12)、ニキタ・マガロフ(Nikita Magaloff, 1912.2.8〜1992.12.26)ら名だたる名ピアニストに学んでいます。アルゲリッチの名がピアノ界に轟いたのは1957年、16歳でブゾーニとジュネーヴの2つの国際コンクールで相次いで優勝を飾った時のこと。それを受けて1960年には名門ドイツ・グラモフォンからデビュー・アルバムを発表、さらに5年後の1965年第7回ショパン国際ピアノコンクールで優勝。マウリツィオ・ポリーニが優勝した5年後ワルシャワで圧倒的な勝利を手にしたこのピアニストはドイツ・グラモフォンから、「いつでも好きな曲を録音していい」という破格の契約を提案されるほど保証されるとともに期待された。そして1967年にはショパン・アルバムと、プロコフィエフの3番とラヴェルを組み合わせた最初のコンチェルト・アルバムの2枚を発表した。美しい黒髪を靡かせた鍵盤の巫女を思わせる容姿は、デビュー・アルバムの初版ジャケット写真でも印象に残りますが、アルゲリットとアバドの若い音楽家2人が楽譜を前に何を相談しているのか。モノクロジャケットの印象は強烈。それまでのカラー写真のジャケットもモノクロのデザインに変わり、ファッション戦略のように一躍世界的なものにしたのでした。レパートリーはバロック音楽から古典派、ロマン派、印象派、現代音楽までと非常に幅広い。ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、後に室内楽に傾倒していく。アルゲリッチは、あらゆる意味で個性的なピアニストである。アルゲリッチは確かに体格に恵まれている。指の強靭さも並大抵では無いだろう。それにしても彼女の演奏、これだけエキサイティングで熱っぽい演奏でありながら、どこか慎ましい歌心も秘めた演奏というのはあり得るのだろうか。才能の塊とは、このことではないのか。自ら表現するということはどこまでが「自らの」表現なのか、あるいは聴くものが「期待する音楽」とはなんなのか、それは演奏によって生まれたものを遡及的に「期待していた」と認識するだけではないのか。
ピアニストであるということは、かくも難しいことなのだ。誰もあなたに期待してない、誰もあなたを必要としていない。ジャック・ラカンならこう言っただろう。ピアノを弾くということは、自分が持っているかどうか自信のないものを、本当に欲しがっているかどうか自信のない人に与えることである。
アルゲリッチは録音スタジオに入ったら、曲を3回演奏して、あとはエンジニアに任せて帰っていく。その後姿を見送りながら思うのは音楽、私生活という区別すら彼女の前ではあまり意味の無い区別かもしれない。稀代の天才であるミシェル・ベロフはドビュッシーやラヴェルといったフランス印象主義音楽、ならびにバルトークやメシアンのスペシャリストとしてのみならず、フランツ・リストやムソルグスキー、プロコフィエフといったヴィルトゥオーソ向けの難曲を得意としており、さらにシューマンやブラームス、サン=サーンスといったロマン派音楽にも鋭い感性を発揮している。1970年にパリで行ったメシアンの『幼な児イエズスに注ぐ20のまなざし』の全曲演奏は、イヴォンヌ・ロリオによる初演以後25年ぶりの全曲演奏として大きな注目を集めた。以後、演奏会とレコーディングを通して若くして世界的なキャリアを築く。1980年代半ば頃より右手を故障して第一線から退いていた時期があったが、彼を骨抜きにしたのがアルゲリッチだった。結婚こそしなかったものの、ベロフは10歳以上歳上のアルゲリッチに告白し2人は付き合うようになる。しかし、アルゲリッチは碌に練習もしないのに自分より遥かに美しくピアノを弾く。そうした焦りを彼は感じた。そうしているうちに、彼の右腕は病で動かなくなる。ベロフはアルゲリッチの才能に嫉妬したようだ。ウィーンのピアニスト、フリードリッヒ・グルダもアルゲリッチと若い頃からとても親しかった。こちらは、まだ20歳代だったウィーンのグルダの元に10歳代のアルゲリッチが弟子入りする。極めて明晰な打鍵と、繊細な感情表現、技術をギリギリのところで凌駕する本能に従う勇気、そうした特性をこの2人は共有している。2人の異端児が、同じ部屋で音楽について語りあった。アルゲリッチはピアノの技術や楽曲解釈の習得より、音楽を共有する要領を教わったことの方が価値多かった。彼女の家には、いつもボヘミアンのように友人たちが滞在し、ミッシャ・マイスキー、ネルソン・フレイレ、エフゲニー・キーシン、ギドン・クレーメル、イヴリー・ギトリス、シャルル・デュトワ、クラウディオ・アバド、ミシェル・ベロフ、等数えればきりがないほどの演奏家たちとの共演は多い。舞台に上がる彼女は、何も怖いものなどないような存在感を放ち演奏している。しかし、アルゲリッチの舞台恐怖 ― ステージフライトは有名である。またキャンセル魔であることから、気まぐれな天才と思われがちだが、音楽への畏れのようなものが常につきまとい彼女は納得できる演奏ができないと感じると、どうしてもステージに上がることができないのである。それは彼女の真摯過ぎる芸術への姿勢によるものだということがわかる。彼女は一人に耐えられないのだ。それよりも「対話」を好む。ソロのリサイタルをめったに開かないことは、クラシック界では有名な話だ。ドイツ・グラモフォンから、英EMIに移籍して、仲間たちとの室内楽の録音は同曲異演が多い。即ちレパートリーの拡充にも慎重であり、それが彼女のキャリアに独特の個性を与えていると言えるだろう。
若き日のアルゲリッチの不朽の名盤といえるプロコフィエフとラヴェル。歯切れの良い卓越したリズム感と叙情性があいまって、スリリング且つロマンティックな世界を表現しています。アルゲリッチの強靭なタッチと、感情の起伏に機敏に反応する瞬発力を備えたテクニックが注目される。アルゲリッチは作品の抒情性を歌いあげるだけでなく、骨太な表現も全面に出し、激しい気迫のこもった演奏を展開している。挑戦的ともいえる自由奔放な表現を随所に見せながら、天性の優れたバランス感覚を発揮して、演奏の形を美しく整え、流れを爽快にまとめている。アルゲリッチの奔放なソロにとって盤石のサポートとなっているのが、若きクラウディオ・アバドの指揮といえるでしょう。当時、カラヤンのもとではスタイリッシュでゴージャスなサウンドを聴かせていたベルリン・フィルを指揮して、その若獅子ぶりを存分に発揮しています。アルゼンチン出身のクロアチア系で優しさと気性の激しさを兼ね備えたアルゲリッチ、イタリア・ミラノの名門音楽一家出身で一貫して物静かなアバド。ともにラテン系とはいえ、正反対の性格だからこそ音楽的にひかれ合い、補い合うものも大きかったのだろう。デビューから少しずつ力を蓄え、時間をかけて巨匠大家になる音楽家が大半のなか、アルゲリッチとアバドは20歳代からトップクラスの大物だった。演奏家には天才型と晩成型があると思うが、彼らの大きな特徴は、鋭い閃き、生まれながらの節回し、強烈な情熱、そして個性であろう。一切の躊躇なく、けた外れに鋭く力強い打鍵で作品の心臓部へと一気に踏み込むアルゲリッチ、これを優れたバランス感覚で包み込みオーケストラを無理なく動かし、時にハッとするほど美しい瞬間を生み出すアバド。テクニックよりは感性のセンサーで器楽奏者や歌手の音楽性や呼吸を知り、最良の音楽を造形するアバドの棒さばきは決して流麗ではない。「もしかしたら当時、2人は恋仲だったのか」と思われても当然のツーショットには今みても胸がワクワクするが、彼女に共感したアバドの指揮も情熱的です。ドイツ初版の国内向けジャケットはカラーで、「これ、ちょっと、どう弾こうかな」と眉を歪めたアルゲリッチ一人のショットでした。それの相談に乗っているクラスメートという2種類のジャケットを物語る展開でしょうか。作曲家がロシア革命で祖国を逃れ、日本にしばらく滞在してから欧米へ移る過程で書かれたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章には「越後獅子」のリズムが現れる。アルゲリッチとアバドが日本の原曲を知っている可能性はゼロに近いにもかかわらず、私たち日本人にも全く違和感なく、この主題が明瞭に聴き取れる。ラベルの協奏曲の第2楽章では優しさの極みを描き、若い2人の感性がキラキラ輝く。ベルリン・フィルも録音スタッフも知り尽くしたダーレンの教会で、70歳代の両人しか知らない若い音楽ファンが仰天するほどの美男美女はスコアを挟んで初めてのデートをした。「あれだけ弾ければ私には充分。これ以上、何を望み得ましょうや」音楽に造詣の深い老紳士の胸中に同感する。
1967年5月、6月ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッション・ステレオ録音。
GB DGG 139 349 アルゲリッチ&アバド  プロコ…
GB DGG 139 349 アルゲリッチ&アバド  プロコ…