34-6829
商品番号 34-6829

通販レコード→英ナローバンド ED4 盤[オリジナル]
ウィーン・フィルの美麗な響きをもってしても、シューマンの心は描けない。 ― 2017年は、20世紀を代表する巨匠指揮者ショルティの没後20年、及び生誕105年にあたります。半世紀にわたり一貫してDECCAに録音し、数々の名盤を遺した重要なアーティストであり続けた。知名度という点では、カラヤン、バーンスタインと並ぶ、20世紀、特に戦後を代表する指揮者。なによりもゲオルグ・ショルティと関係良好だったウィーン・フィルと後世に語り継がれるオペラをウィーンのソフィエンザールで次々と録音している。ユダヤ人であったショルティはナチスの迫害を逃れスイスに亡命を強いられたり、地方のオペラ座の監督等を歴任していたが、ワーグナーの大作「ニーベルングの指環」の初のスタジオ録音をウィーン・フィルと共に完成させ一躍トップ指揮者になる。1969年からのシカゴ響楽団との蜜月時代にはカラヤン&ベルリン・フィルと並ぶ世界最強の音楽チームとして認められ、コンサートに録音にと他の追随を許さない完成度の高い音楽を世界に提供した。1997年、ダイアナ妃、マザーテレサが亡くなった数日後、療養先の南フランスにて急死する。気性は激しかったが、病や死といったイメージから最もほど遠かった指揮者だけにショルティ・ファン以外のクラシック音楽ファンにも衝撃を与えた。その旺盛なショルティのスケジュールには、翌週のダイアナ妃の追悼コンサートの指揮や、2000年の予定まで入っていたという。そのレパートリーは多岐にわたり、バッハからショスタコーヴィチまで幅広く網羅。おそらく有名交響曲作家で一曲もやっていないのはシベリウスぐらいではないか。 意外なことに現在、ワーグナーの10大オペラ、マーラー交響曲全集、ブルックナー交響曲全集を出しているただ1人の指揮者でもある。デッカが作り上げたような指揮者で、ショルティのシカゴ交響楽団の音楽監督時代にはカラヤン&バーンスタインの対抗馬として英デッカが過剰に録音をリリースしすぎた感がある。ウィーン・フィルとの名盤の中でも、ショルティ唯一のシューマン交響曲全集は、所謂ショルティ独特の強引さ、ごつごつした面が出てしまった迷演。ショルティの自伝によると、レコーディング直後のプレイバックを聴いてプロデューサが「こいつはひどいっ!」と言ったそうだが、明朗快活な〈第1番〉のいばしさに対して、苦悩に満ちた〈第2番〉ではショルティの資質が成果に加勢している。「ひどいっ!」というのも、確かに一理あって、味わい深い名演ではないのでしょうけれど、曲がわかりやすいのがショルティの美徳で、叙情的なところは弦楽器が美しい。モーツァルトの演奏に近い印象で、元気はいいが柔らかく、決して喧しくなる事はない。メロディを良く歌い、ふくよかに全曲を纏めていて素晴らしい。オーケストラの豊かな響きと高度な能力を駆使し、聞く喜びを大いに感じられます。ショルティの音楽の特性は硬派、豪快、ダイナミックで、甘えのない厳格かつ躍動感にあふれる演奏。その反面 、比類なき生彩に満ち満ちた輝きを放つ。早いテンポでオーケストラを煽り、楽器を鳴らしまくるため聞き逃されてしまうが、対位法などのオーケストレーションを含む曲の構造に留意し精緻なアンサンブルを要求するといった論理的なアプローチも特色の一つで、完全主義者といわれる所以でもある。第1番以上に第1楽章から、サバサバとした勢いに乗った音楽が流れ出す。シューマンの音楽世界にふれずに、余計な意味付けなど無用のスコアに書かれたとおりに、ここまで徹底して演奏されるとかえって爽快。第2楽章に入ると、さらに徹底の度を増し卓越な運動性能に快感しながら、潤いある響きはウィーン・フィルを選んだことが納得できます。対比的な第3楽章では、しかし、シューマンの美しいが寂しげな気分が漂う音楽はウィーン・フィルの美麗な響きをもってしても存分に味わうことができない憾みが残ります。そして再び賑やかな第4楽章は、只管推進力に満ち溢れウィーン・フィルのパワフルな面を遺憾なく発揮している。4曲しか交響曲を作曲しなかったブラームスと同時代だが、第2番は作曲家の本質を知るのに良いようだ。名盤のひとつ。
第二次世界大戦勃発直前の1941年頃に潜水艦ソナー開発の一翼を担い、その際に、潜水艦の音を聞き分ける目的として開発され、当時としては画期的な高音質録音方式であった。1945年には高域周波数特性を12KHzまで伸ばしたffrr仕様のSP盤を発売し、1950年6月には、ffrr仕様の初のLP盤を発売する。特にLP時代には、この仕様のLPレコードの音質の素晴らしさは他のLPと比べて群を抜く程素晴らしく、当時のハイファイ・マニアやレコード・マニアに大いに喜ばれ、「英デッカ=ロンドンのffrrレコードは音がいい」と定着させた。日本では1954年1月にキングレコードから初めて、ffrr仕様のLP盤が発売された。ステレオ録音黎明期1958年7月には、その技術を受け継いだステレオ・レコードであるffss(Full Frequency Stereophonic Sound 全周波数立体音響)を発表、この先進技術を武器に数多くの優秀な擦れてお録音のレコードを発売。そのハイファイ録音にステレオ感の良さが加わり、アナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけ君臨し続けた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマン SX-68 を導入するまで続けられた。Hi-Fiレコードの名盤が多い、イギリス・デッカのセンター・レーベルのデザインは年代別に4つのグループに分けることができる。それぞれを、English DECCA を記号化してオーディオファイルは ED1, ED2, ED3, ED4と呼んでいる。また、それら中でも、ED1からED3までを「ラージ・ラベル」、ED4を「スモール・ラベル」と大別している。ラージ・ラベルはスモール・ラベルよりもセンターレーベルの大きさがひとまわり大きく、レーベル中にデザインされている銀色の帯(黒色で「 FULL FREQUENCY 」と書かれている)の幅が13ミリメートルありED4よりかなり広いため、「ワイド・バンド」とも呼ばれています。SXL ナローバンドは、ED4スモール・ラベルと日頃は呼んでいます。ED1から比べると中央の「FULL FREQUENCY ...」の幅が狭くなり重量も軽くなります。ナローバンドが初版になるLPも多くあり、製盤技術、材質は安定していて再生の難しいED1と比べて再発盤でも初版より優れているケースも有ります。SXL 6435と 6447、6449以降はナローバンドが初版となります。総じて価格は手頃ですが、SXL6529(メータ指揮ロス・フィル 「惑星」)、SXL6721(チョン・キョン・ファ バッハ パルティータ)等は高額です。この2枚はジャケットの痛みが激しくても一度は手元に置きたいと思うものなのでしょう。
理想主義者にして実用主義の一面もある。
日本では米国シカゴ交響楽団の音楽監督(1969~91年)として名声を博したが、57歳で同響に招かれるまでオーケストラに固定ポストを得たことはなかった。実演、録音の両分野を通じオペラ指揮者として世界的評価を確立したのが実態だ。一家はもともとシュテルン(「星」の意味)というユダヤ系の姓を名乗った。父親が子どもたちの将来を案じ、よりハンガリー風のショルティに改めた。ブダペストのリスト音楽院で大作曲家のバルトーク、コダーイ、ドホナーニ、ヴェイネルらの教えを受け、13歳の時にエーリヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)が指揮するべートーヴェンの交響曲第5番を聴き、指揮者を志した。旧ハプスブルク帝国の一角だけに、ハンガリーでも歌劇場で指揮者を育てるシステムが整い、ショルティは18歳でブダペスト歌劇場のコレペティトゥア(指揮者の能力を備えた練習ピアニスト)に就職した。1936年にザルツブルク音楽祭のオーディションに受かり、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが指揮した「魔笛」(モーツァルト)で、かわいらしい音がする打楽器のグロッケンシュピールを担当した。1991年のモーツァルト没後200年にザルツブルクで「魔笛」を指揮したショルティはグロッケンシュピールを打ち、トスカニーニの思い出を語った。良い時代は続かなかった。ナチスを恐れ、トスカニーニのつてでスイスから米国へ逃れようと考えたショルティは1939年8月15日、ブダペスト中央駅を旅立った。父が見送りに来て感極まり、息子は「1週間の別れで泣くなよ!」とたしなめた。「それが父を見た最後でした」一度は帰国を試みたが「母は何かを予感したのか、絶対にダメだと言った」。亡くなる5日前まで続いたBBC(英国放送協会)のインタビューで、ショルティは涙ながらに振り返った。番組は死後に日本のNHKでも放映され、大きな反響を呼んだ。生活に困りジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門に応募したところ優勝、ようやく芽が出た。終戦直後、ハンガリーでの復職を望んだが断られ駐留米軍人として欧州に戻ったリスト音楽院の同級生のつてでナチス崩壊直後のドイツ、しかも廃虚のミュンヘンでバイエルン州立歌劇場音楽監督のポストを得た。経験不足は明らかだったが「物資も資金も同じように不足、上演回数が限られていたので勉強する時間があり、助かった」という。1949年には最晩年の作曲家リヒャルト・シュトラウスと出会い、貴重な助言を授かった。同年9月8日にシュトラウスが亡くなった際、ショルティは葬儀でオペラの代表作「ばらの騎士」の一場面を指揮した。英デッカのプロデューサー、ジョン・カルーショウは1958年、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」4部作初のステレオ全曲録音を名門ウィーン・フィルの演奏で実現したとき、「従来のワーグナー指揮者にない感性と聴覚の鋭さ、すべての旋律を切り立たせる力を備えた鬼才」としてショルティ起用に踏み切った。結果は世界でベストセラーの大成功。これらリヒャルト・シュトラウスとワーグナーは終生、ショルティのオペラ指揮の柱となった。ハンガリー人の激しい気性を表す、「マジャール気質」という言葉がある。ショルティも十分マジャール気質を発揮、還暦(60歳)過ぎても激しく振り過ぎた指揮棒を自らの額に刺し、血を流す「事件」を起こした。演奏もマッチョな力感にあふれウィーン・フィルやシカゴ交響楽団、ロンドン交響楽団と行った来日公演も「精神性」を尊ぶ日本のファンの間では賛否が分かれた。さすがに晩年は陰影が加わり、ヴェルディの渋いオペラ「シモン・ボッカネグラ」などでの枯れた指揮ぶりは長年の聴衆を驚かせた。「ザ・ラスト・レコーディング」と銘打たれたブダペスト祝祭管弦楽団との1枚は40数年ぶりでハンガリーに帰郷、奇跡的に残った祖父母の墓参りを済ませた前後の1997年6月末に録音された。曲目はバルトークの「カンタータ・プロファーナ」とヴェイネルの「小オーケストラのためのセレナード」、コダーイの「ハンガリー詩編」。リスト音楽院時代の恩師3人に捧げたアルバムで、ショルティは輝かしい盤歴を閉じた。シカゴで共演したピアニスト、田崎悦子に「忘れちゃいけないよ。明日もまた、鳥はさえずるんだよ」と声をかけた通り、ショルティのマジャール魂は最後の一瞬まで不滅だった。
サー・ゲオルグ・ショルティは20世紀に最も活躍した指揮者の一人で、ヨーロッパ、アメリカの音楽文化をリードしてきました。ピアノ、作曲、指揮をバルトーク、ドホナーニ、コダーイに学び、ピアニストとしてコンサート・デビューを果たしました。1937年にはザルツブルク音楽祭でトスカニーニの助手を務めました。最初のデッカへのレコーディングは1947年、デッカの特別なアーティストとして半世紀にわたり250を超える膨大な録音を残し、そのうちの45はオペラの全曲です。ショルティのシカゴ響との注目すべきパートナーシップは1954年に始まり、その時ショルティはラヴィニア音楽祭で初めてこのオーケストラを指揮しました。1956年リリック・オペラで客演のためにシカゴに戻り、1965年12月9日シカゴ、オーケストラ・ホールでデビューを果たしました。彼の音楽監督としての最初のコンサートは1969年9月でした。ショルティは22年間(1969年〜1991年)、音楽監督を務め、その後桂冠指揮者として7年間(1991年〜1997年)、死の直前までその活動を続けました。1971年に最初のツアーをスタートさせ、世界中にこのオーケストラの存在を広めた功績を忘れることはできません。1970年3月にシカゴのメディナ・テンプルで行われたマーラーの第5交響曲の初期録音から、1997年3月にシカゴのオーケストラ・ホールで行われたショスタコーヴィチの交響曲第15番まで、シカゴ交響楽団との演奏は世界における最も有名な指揮者とオーケストラのパートナーシップと高く評価され、グラミー賞も数多く受賞しました。ショルティの幅広いレパートリーには、ヘンデルの『メサイア』、ハイドンの『創造』、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』、リストの『ファウスト交響曲』、そしてまたショスタコーヴィチの『モーゼとアロン』のような20世紀の傑作なども見られます。シカゴ響とともに新しい作品に取り組み、現代作曲家を擁護し、マルティヌーのヴァイオリン協奏曲第1番、デル・トレディチの『最後のアリス』、ティペットの交響曲第4番と『ビザンティウム』、ルトスワフスキの交響曲第3番などの初演も行いました。ショルティは生涯にわたりグラミー賞を33回受賞しましたが、そのうち24回はシカゴ交響楽団とともに受賞しました。
1969年ウィーン、ゾフィエンザールでのセッション・ステレオ録音。
GB DEC SXL6487 ショルティ シューマン・交響曲2番
GB DEC SXL6487 ショルティ シューマン・交響曲2番