34-17451

商品番号 34-17451

通販レコード→英"MADE IN ENGLAND BY THE DECCA" ワイドバンド溝ありED2盤

カラヤンの陰に隠れていた、凄まじいショルティ初期録音盤 ―  グリンカの歌劇《ルスランとリュドミーラ》序曲からはじまるこのアルバムは、冒頭からただならない気配が支配し、その空気が全体を覆う。『ロマンティック・ロシア』というタイトルからロシア作曲家による序曲・管弦楽の名旋律集だろうと高を括ると、然に非ずロマンティックというよりはスペクタクル、という言葉が合いそうです。ロシアものといってもショルティが取り上げているのはオペラからの作品だということが特徴でしょう。ムソルグスキーの歌劇《ホヴァンシチナ》の前奏曲と、交響詩《禿げ山の一夜》。ボロディンの歌劇《イーゴリ公》から序曲と《ダッタン人の踊り》。ともにリムスキー=コルサコフ(とグラズノフ)の補筆版で選曲の芯が一本通っている。最初からトップスピードで飛ばしてオーケストラをドライブする歌劇《ルスランとリュドミーラ》序曲に圧倒されてしまいました。名曲コンサートのオープニングを飾ることや、アンコールで演奏される機会が多く、この曲を目当てでレコードを探せば、必ず本盤を手にしているというほどです。快速快演の後は、しっとりとした音で描きだす雰囲気豊かな光景。ムソルグスキーの歌劇《ホヴァンシチナ》から前奏曲です。一般には「モスクワ川の夜明け」と呼ばれているもので、この時期はイギリスのコヴェントガーデン王立歌劇場の音楽監督についていたショルティの自家薬籠中のもの。つづく《禿げ山の一夜》も変化に富んだ音色で、魑魅魍魎の世界を描き出します。音がシャープで切れ味が鋭いので別の曲を聴いているようです。ボロディンの《イーゴリ公》は合唱を加えて、戦闘的といいたくなるくらいの勇壮さです。オペラの一場面を切り取って来たかの様な演奏で、それも、オペラ指揮者としてのアプローチで単なるオーケストラピースとしての演奏ではなく、非常にドラマチックに曲を組み立てています。ショルティの各楽曲に対するアプローチは、すべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。オーケストラの響きは深々としていて実在感があり、息の長い旋律には生命感が漲り、押しと引きの対比も鮮やかで精鋭。ロンドン交響楽団のもつ驚異的な表現力の幅がいかんなく発揮されています。ショルティのイメージから聴き始めはマッシブでガチガチに硬派な演奏と思いきや、オーケストラを煽るだけではなくて、しなやかさもあって、あるいは自らの底にあるハンガリーのロマンティシズムが目覚めたからなのか、それにオーケストラも非常に共感を持って応えているようです。時にロマンティックなうねりすら聴かせるのですが、それが類まれなほどの説得力を持って聴き手に迫ってきます。録音は1966年であり、歴史的名演であるワーグナーの「ニーベルングの指環」をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とスタジオ録音している最中のもの。楽劇「神々の黄昏」が1964年、そして1966年の楽劇「ワルキューレ」で締めくくらんと、かかる録音も終わりに近づいており、そうしたことに去来するであろう自らの指揮芸術に対する漲るような自信と誇りが演奏自体にもあらわれているかのようです。録音場所のキングスウェイ・ホールはデッカが録音会場の性能チェックのための基本データをここで採取した、いわばデッカ録音の〝メートル原器〟。1959年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と録音されていたロシア音楽集も、ロンドンでいちばん録音に適した音響を持つ場所で、ジョン・カルショーのプロデュースでロンドン響と再録音されるに至った。この時期のデッカはステレオ録音でモノラル録音を置き換えるクラシック音楽の大カタログを築きあげんとしていた。ヘルベルト・フォン・カラヤンとウィーン・フィルが次々に後世に遺るレコーディングを熟しているが、そこからこぼれた名曲を拾いながら、ポスト・カラヤンと目されていたロリン・マゼールや、ラファエル・クーベリック、そして、ショルティが虎視眈々と機会をモノにしていった。ショルティならではの大迫力とダイナミックレンジの広いデッカらしい優秀録音で、現在でも一級のオーディオファイル盤として愛聴されています。
関連記事とスポンサーリンク
2017年は、20世紀を代表する巨匠指揮者サー・ゲオルグ・ショルティ(ハンガリー、1912〜1997)の没後20年、及び生誕105年でした。1912年、ブダペスト生まれ。リスト音楽院でバルトーク、コダーイ、ヴェイネルなどにピアノ、作曲、指揮を学び、1930年に卒業後、ブダペスト歌劇場の練習指揮者として経験を積み、1936、37年にはザルツブルク音楽祭でアルトゥーロ・トスカニーニの助手をつとめた。1938年にブダペストでモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」を指揮してデビュー後にスイスに亡命、大戦中は主にピアノを教え、1942年のジュネーブ国際コンクールに優勝している。指揮者としての本格的な活動は戦後の1946年にミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任してからで、1952年からフランクフルト市立歌劇場、1961年から1971年までロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場の音楽監督をつとめ、この間に各地のオーケストラに客演して名声を高めた。ディスコグラフィーをみると、ショルティは1947年に録音契約を結んで以来、ほとんどDECCA(ロンドン)だけに録音している。ピアニストとしての契約だったが、指揮者としての活躍がレコード製作とシンクロしている。はじめロンドンのオーケストラと、さまざまな作品を録音していたが、1950年代から1960年代にかけてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と録音した世界初の「ニーベルングの指環」全曲(1958〜1965年)に代表される一連のワーグナー楽劇、管弦楽曲集をはじめ、モーツァルト、ヴェルディ、リヒャルト・シュトラウスなどのオペラの優れた演奏で名声を不動のものとした。1969年から1991年までシカゴ交響楽団の音楽監督を努め、同響は世界最高のオーケストラのひとつと評価された。シカゴに移ってからはバッハからバルトークにいたる多彩なレパートリーを次々と録音しているが、とくにマーラー(1970〜1983年)、ベートーヴェン(1972〜74年、1986〜89年)、ブラームス(1978、79年)の交響曲全集は、ショルティの演奏を特徴づける堅固な構成と見事に統率されたオーケストラの豊かな響きとが端的に示された代表的な名演である。そのほか恩師バルトーク、リヒャルト・シュトラウスとストラヴィンスキーなどの管弦楽曲、後年になってレパートリーに加えたショスタコーヴィチなど、いずれも少しも年齢を感じさせない巨匠ならではの完成度の高い演奏である。半世紀にわたり一貫して英デッカに録音し、数々の名盤を遺した重要なアーティストであり続けた。なによりもショルティと関係良好だったウィーン・フィルと後世に語り継がれるオペラをウィーンのソフィエンザールで次々と録音している。その一方で英国デッカ社は、ロンドン交響楽団やロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との有名管弦楽曲の録音を進めた。ショルティはハンガリー人だが、ご存知のとおり後年は英国籍を取得したし「サー」の称号も得ている。シカゴ響の音楽監督としての活動が主に知られているが、もちろん、ロンドン・フィルは首席指揮者を1979年から1983年までつとめているので、ショルティにとって大変縁のあるオーケストラであり、エルガーの2つの交響曲のほか、行進曲「威風堂々」、「エニグマ変奏曲」なども同オーケストラと録音している。
ワーグナー録音史は、ゲオルク・ショルティ抜きでは語れません。そんな巨人、ショルティですが、そのキャリアにおいてすべてが順風満帆だった訳ではありません。音楽監督を置かずに運営されてきたコヴェントガーデン王立歌劇場に就任し、そこには解決すべき問題が山積されていました。ショルティの就任当時、まだコヴェントガーデンは世界一流の歌劇場とは認識されておらず、上演されるオペラはイギリス人歌手が英語で歌うというポリシーが貫かれていました。ショルティはまず、この慣習を一新、原語による上演と世界中から一流歌手を招聘することに着手します。そうした、まさにゼロからのスタートで、〝指環〟チクルスを完結されるのがどれほどの難仕事であったかは想像に難くありません。今からは驚きだが、〝指環〟チクルスの「ジークフリート」を録音した後、先にリリースした「ラインの黄金」の制作費が回収できず、「ワルキューレ」「神々の黄昏」を続けることになかなかゴーサインが出ないまま、ブリュンヒルデのアニタ・ヴェルキ、ヴォータンのハンス・ホッター、ジークリンデのクレア・ワトソンなど超豪華な歌手陣を迎えて、1961年9月29日、コヴェントガーデンの音楽監督に就任したばかりのショルティはロイヤル・オペラハウスにて新演出の「ワルキューレ」を演奏した。それが評論界からも、「超一流」「驚くべき」「戦後最高」「言葉にならないほどの興奮」と最大の賛辞が送られ、数ある20世紀クラシック録音の中でも「金字塔」と呼ばれる《ニーベルングの指環》全曲の録音を開始したばかりのショルティ渾身のパフォーマンスとして他に類をみない大絶賛を得ました。それが追い風になるのです。
彼のトレードマークのようなリヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』でイギリスのコヴェント・ガーデン王立歌劇場に登場、その成功により1961年に音楽監督に就任した、その時ゲオルグ・ショルティ49歳。気に障る先輩指揮者がいた。その名は、レジナルド・グッドオール(Sir Reginald Goodall, 1901年7月13日〜1990年5月5日)。その男、ワーグナー馬鹿の聴き手にとってはスペシャルな存在だ。コヴェント・ガーデン時代の10年間、ショルティはグッドオールと同じ職場にいながら、指揮の才能の疑問を持っていたため、グッドオールに指揮をさせなかったのだが、ロンドンのもうひとつの歌劇団、サドラーズ・ウェルズ・オペラ(現在のイングリッシュ・ナショナル・オペラ)でグッドオールが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を振ったところ、大絶賛を浴びてしまったのだった。ワーグナーのファンはイギリスにもけっして少なくなかったが、上演のさいには、ドイツから大指揮者を招いて指揮してもらうのが当然だった。時は20世紀半ば、イギリスがオペラの大輸入国で首都ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場さえ、やっと自前のカンパニー(歌劇団)を常設したばかりの頃である。コヴェント・ガーデンの指揮者陣に加えてもらっていたグッドオールは筋金入りのワーグナー馬鹿で、ワーグナーの楽劇を指揮することしか眼中になく、それ以外の音楽にはほとんど目もくれなかった。であったからに、どれほど彼が切歯扼腕しようともワーグナーを指揮する機会は与えられなかった。好きでもないイタリア・オペラばかり指揮させられた男は、投げやりになった。気難しい上に、独学の指揮はひどくわかりにくかったから、やがて男は指揮棒を取りあげられた。コヴェント・ガーデンの最上階、掃除係と共同の一部屋に押し込められ、歌手のコーチだけがその唯一の仕事となった。ところが1968年、63歳になった彼が引退を考えはじめたとき運命が変わった。一夜にしてイギリス最高のワーグナー指揮者として、熱狂的な人気を博することになった。指揮者ストーリーのシンデレラだ。当然、なんでコヴェント・ガーデンでは冷遇されてるんだ、嫌がらせじゃないのか、という声も上がるわけで、若いショルティの仕打ちは、その批判の矛先にもされたらしい。ショルティは「ショルティ自伝」にはグッドオールについて…私は彼に指揮の機会を与えないといって非難された。目がなかったのかもしれないが、私の意見はそうだった。と書いている。
しかも、録音史上の金字塔となるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのワーグナーの「ニーベルングの指環」全曲スタジオ録音と、このコヴェントガーデンでの〝指環〟上演は並行して行われていました。こちらもすべてにおいて初の試みであり、録音時には多くの困難があったことが伝えられています。〝神々の黄昏〟はコヴェントガーデンでの上演が、ゲオルグ・ショルティが初めて公式に演奏した場でもありました。当日の演奏は特にビルギット・ニルソンの歌唱が多くの称賛を集め、全体としても大変高く評価されました。当時の評論家ハロルド・ローゼンタールが1961年11月号の「Opera」誌でショルティが正しく(指揮者ルドルフ・)ケンペが間違っているというわけではない。逆もまた然り。ワーグナー音楽へのアプローチ方法はひとつではないのだから。だからこそ、ワーグナーの音楽は人々を魅了し続け永遠に生き続けるのだ。その夜のオーケストラの出来は素晴らしく、コヴェント・ガーデンが一流歌劇場オーケストラを持ったことを実感させた。今まで聴くことのなかったワグネリアンのどよめきが沸き立ち、オーケストラの響きは言葉で言い尽くせぬほど刺激的だった。とショルティの選択したスタイルは当時のコヴェント・ガーデンで聴かれたものとはかなり異質なものだったことも指摘しながらも、ショルティの音楽家魂、響きとバランスに対する耳の良さ、この音楽を牽引する力と情熱を賞賛している。この高評価を経て、コヴェントガーデンのチクルスの完成、さらにはデッカ録音の成功へと繋がって行きます。このコンサートは、その後のワーグナー録音史の流れを決める分水嶺とも言える瞬間だったのです。
Georg Solti, London Symphony ‎– Borodin / Glinka / Mussorgsky, Romantic Russia
  • Side-A
    1. グリンカ:歌劇《ルスランとリュドミラ》序曲
    2. ムソルグスキー:歌劇《ホヴァンシチナ》前奏曲(リムスキー=コルサコフ補筆完成)
    3. ムソルグスキー:交響詩《はげ山の一夜》(リムスキー=コルサコフ編曲)
  • Side-B
    1. ボロディン(リムスキー=コルサコフ、グラズノフ補筆完成):歌劇《イーゴリ公》 序曲
    2. ボロディン(リムスキー=コルサコフ、グラズノフ補筆完成):歌劇《イーゴリ公》 よりダッタン人の踊り
ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereophonic Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。第2次世界大戦勃発直後の1941年頃に潜水艦ソナー開発の一翼を担い、その際に、潜水艦の音を聞き分ける目的として開発された技術が、当時としては画期的な高音質録音方式として貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。1945年には高域周波数特性を12KHzまで伸ばしたffrr仕様のSP盤を発売し、1950年6月には、ffrr仕様の初のLP盤を発売する。特にLP時代には、この仕様のLPレコードの音質の素晴らしさは他のLPと比べて群を抜く程素晴らしく、その高音質の素晴らしさはあっという間に、当時のハイファイ・マニアやレコード・マニアに大いに喜ばれ、「英デッカ=ロンドンのffrrレコードは音がいい」と定着させた。日本では1954年1月にキングレコードから初めて、ffrr仕様のLP盤が発売された。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてFFSSが使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売。そのハイファイ録音にステレオ感が加わり、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。Hi-Fiレコードの名盤が多い。
理想主義者にして実用主義の一面もある。
サー・ゲオルグ・ショルティは1912年10月21日、ハンガリーのブダペスト生まれ。20世紀に最も活躍した指揮者の一人で、ヨーロッパ、アメリカの音楽文化をリードしてきました。リスト音楽院でピアノ、作曲、指揮をバルトーク・ベラ、エルンスト・フォン・ドホナーニ、コダーイ・ゾルターンに学んでいる。コレペティートルとしてザルツブルクを訪れた時、ザルツブルク音楽祭のリハーサルのためのピアニストに欠員が出たためショルティに声がかかったが、これがアルトゥーロ・トスカニーニの目にとまり、1937年にはザルツブルク音楽祭で助手を務めました。ナチス・ドイツによるオーストリア併合があった1938年3月11日。ブダペスト歌劇場のモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』で指揮者デビューするが、ぶっつけ本番であった。1942年にジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し、ピアニストとしてコンサート・デビューを果たしました。それまで仕事にありつけずにいたショルティだが、この成功によって音楽家として名声を博していくことになる。戦後、7年ぶりにたった2度ほどベートーヴェンの歌劇『フィデリオ』を指揮した後、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の音楽監督に抜擢。非ナチ化の影響で多くのドイツ人指揮者が失脚していたという幸運もあった。最初の英国デッカ社へのレコーディングは1947年。それはピアニストとしての契約であった。以来、デッカの特別なアーティストとして半世紀にわたり250を超える膨大な録音を残し、うち45は歌劇全曲盤です。ショルティのシカゴ交響楽団との注目すべきパートナーシップは1954年に始まり、その時ショルティはラヴィニア音楽祭で初めてこのオーケストラを指揮しました。1956年リリック・オペラで客演のためにシカゴに戻り、1965年12月9日シカゴ、オーケストラ・ホールでデビューを果たしました。彼の音楽監督としての最初のコンサートは1969年9月でした。ショルティは22年間(1969〜1991)、音楽監督を務め、その後桂冠指揮者として7年間(1991〜1997)、死の直前までその活動を続けました。1971年に最初のツアーをスタートさせ、世界中にこのオーケストラの存在を広めた功績を忘れることはできません。1970年3月にシカゴのメディナ・テンプルで行われたマーラーの第5交響曲の初期録音から、1997年3月にシカゴのオーケストラ・ホールで行われたショスタコーヴィチの交響曲第15番まで、シカゴ響との演奏は世界における最も有名な指揮者とオーケストラのパートナーシップと高く評価され、グラミー賞も数多く受賞しました。ショルティの幅広いレパートリーには、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』、ハイドンのオラトリオ『天地創造』、ベルリオーズの劇的物語『ファウストの劫罰』、リストの『ファウスト交響曲』、そしてまたショスタコーヴィチの歌劇『モーゼとアロン』のような20世紀の傑作なども見られます。シカゴ響とともに新しい作品に取り組み、現代作曲家を擁護し、マルティヌーのヴァイオリン協奏曲第1番、デル・トレディチの歌劇『最後のアリス』、ティペットの交響曲第4番と『ビザンティウム』、ルトスワフスキの交響曲第3番などの初演も行いました。ショルティは生涯にわたりグラミー賞を33回受賞しましたが、そのうち24回はシカゴ響とともに受賞しました。
サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti)は、日本では米国シカゴ交響楽団の音楽監督(1969~1991)として名声を博したが、57歳で同響に招かれるまでオーケストラに固定ポストを得たことはなかった。実演、録音の両分野を通じオペラ指揮者として世界的評価を確立したのが実態だ。一家はもともとシュテルン(Stern,「星」の意味)というユダヤ系の姓を名乗った。父親が子どもたちの将来を案じ、よりハンガリー風のショルティに改めた。ブダペストのリスト音楽院で大作曲家のバルトーク・ベラ、コダーイ・ゾルターン、エルンスト・フォン・ドホナーニ、ヴェイネル・レオーらの教えを受け、13歳の時にエーリヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)が指揮するべートーヴェンの交響曲第5番を聴き、指揮者を志した。旧ハプスブルク帝国の一角だけに、ハンガリーでも歌劇場で指揮者を育てるシステムが整い、ショルティは18歳でブダペスト歌劇場のコレペティトゥア(指揮者の能力を備えた練習ピアニスト)に就職した。1936年にザルツブルク音楽祭のオーディションに受かり、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが指揮した「魔笛」(モーツァルト)で、かわいらしい音がする打楽器のグロッケンシュピールを担当した。1991年のモーツァルト没後200年にザルツブルクで「魔笛」を指揮したショルティはグロッケンシュピールを打ち、トスカニーニの思い出を語った。良い時代は続かなかった。ナチスを恐れ、トスカニーニのつてでスイスから米国へ逃れようと考えたショルティは1939年8月15日、ブダペスト中央駅を旅立った。父が見送りに来て感極まり、息子は「1週間の別れで泣くなよ!」とたしなめた。「それが父を見た最後でした」一度は帰国を試みたが「母は何かを予感したのか、絶対にダメだと言った」。亡くなる5日前まで続いたBBC(英国放送協会)のインタビューで、ショルティは涙ながらに振り返った。番組は死後に日本のNHKでも放映され、大きな反響を呼んだ。生活に困りジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門に応募したところ優勝、ようやく芽が出た。終戦直後、ハンガリーでの復職を望んだが断られ駐留米軍人として欧州に戻ったリスト音楽院の同級生のつてでナチス崩壊直後のドイツ、しかも廃虚のミュンヘンでバイエルン州立歌劇場音楽監督のポストを得た。経験不足は明らかだったが「物資も資金も同じように不足、上演回数が限られていたので勉強する時間があり、助かった」という。1949年には最晩年の作曲家リヒャルト・シュトラウスと出会い、貴重な助言を授かった。同年9月8日にシュトラウスが亡くなった際、ショルティは葬儀でオペラの代表作「ばらの騎士」の一場面を指揮した。英デッカのプロデューサー、ジョン・カルーショウは1958年、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」4部作初のステレオ全曲録音を名門ウィーン・フィルの演奏で実現したとき、「従来のワーグナー指揮者にない感性と聴覚の鋭さ、すべての旋律を切り立たせる力を備えた鬼才」としてショルティ起用に踏み切った。結果は世界でベストセラーの大成功。これらリヒャルト・シュトラウスとワーグナーは終生、ショルティのオペラ指揮の柱となった。ハンガリー人の激しい気性を表す、「マジャール気質」という言葉がある。ショルティも十分マジャール気質を発揮、還暦(60歳)過ぎても、激しく振り過ぎた指揮棒を自らの額に刺し、血を流す「事件」を起こした。演奏もマッチョな力感にあふれウィーン・フィルやシカゴ響、ロンドン交響楽団と行った来日公演も「精神性」を尊ぶ日本のファンの間では賛否が分かれた。さすがに晩年は陰影が加わり、ヴェルディの渋いオペラ「シモン・ボッカネグラ」などでの枯れた指揮ぶりは長年の聴衆を驚かせた。「ザ・ラスト・レコーディング」と銘打たれたブダペスト祝祭管弦楽団との1枚は40数年ぶりでハンガリーに帰郷、奇跡的に残った祖父母の墓参りを済ませた前後の1997年6月末に録音された。曲目はバルトークの「カンタータ・プロファーナ」とヴェイネルの「小オーケストラのためのセレナード」、コダーイの「ハンガリー詩編」。リスト音楽院時代の恩師3人に捧げたアルバムで、ショルティは輝かしい盤歴を閉じた。シカゴで共演したピアニスト、田崎悦子に「忘れちゃいけないよ。明日もまた、鳥はさえずるんだよ」と声をかけた通り、ショルティのマジャール魂は最後の一瞬まで不滅だった。
  • Record Karte
    • Recorded 31 January & 2 - 3 February 1966
    • Recording venue: Kingsway Hall, London
    • Producer: John Culshaw
    • Engineers: Gordon Parry, Kenneth Wilkinson
  • GB DEC SXL6263 ゲオルク・ショルティ ROMANTIC…
  • GB DEC SXL6263 ゲオルク・ショルティ ROMANTIC…
ロマンティック・ロシア
ロンドン交響合唱団
ポリドール
1999-06-02

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。