34-18162

商品番号 34-18162

通販レコード→英ワイドバンド ED1盤[オリジナル]

言葉が音楽を規制する ―  という考え方に懐疑的であり、ショパン自身は音楽に標題を付すことを嫌った。ルバートを多用した自由な演奏、ロマン派の芸術家達との交流、ジョルジュ・サンドとの同棲生活などの事象は、ショパンをロマン派に分類したくなるのも十分な音楽家なのだが、多くのロマン主義の音楽家が文学に題材を求め、その劇的な内容や心理描写、神秘性や絵画性などを音で再構成しようとしたのに比べると相違があり、しばしばロマン的古典主義者、古典的ロマン主義者などと呼ばれることに、わたしは納得しているし、同感だ。学校の音楽教室に並んでいる肖像画の中で、モーツァルトはバロック音楽の終焉に位置させたいし、ショパンから枝分れる作曲家はいないので、シューベルト、シューマン、ブラームスと繋がるロマン派の流れにショパンを入れるわけにはいかない。そして、ショパンが1830年に完成させたヘ短調作品21のピアノ協奏曲を、20歳になったばかりの半月後に初演した。ワルシャワの国立劇場で行われた演奏会(1830年3月17日、22日)でショパンは故郷のデビューを果たし、意気揚々と2度目のウィーン訪問をするが、1年前と異なる待遇に戸惑いと失望の日々を送る。1830年12月22日付の家族への手紙に次のように書いている。ウィーンの数ある楽しみの中では、レストランでの夕べのコンサートがよく知られています。ヨハン・シュトラウス1世やヨーゼフ・ランナーが夕食時にワルツを演奏するのです。ワルツが1曲終わる度に、ものすごい拍手です。オペラの旋律や歌やダンス曲によるメドレーの演奏となると、聴衆はもう大喜びで、抑えがきかなくなるほどです。これで、ウィーンの人々の趣味がいかに堕落しているかわかります。ウラディーミル・アシュケナージが20歳代に録音した本盤は、彼が世界的なピアニストとして名声を確立したころのもので、そのフレッシュな若々しさが「バラード」「3つのエチュード」で伺えます。フレッシュな若々しさを前面に発揮した意欲的な演奏を繰り広げている。19世紀の作曲家の多くが触発されたバラードでも、アシュケナージ曰く、「ピアノではオクターブ、 連打の技術が最も難しい」。バラードのドラマ性よりも、抒情性に重きを置いた、ショパン演奏の現代のスタンダードと呼べる真摯で真面目な演奏スタイルによる正統派の演奏です。ピアノは流麗。その持ち味である温かく輝かしい音色、繊細で細やかな歌心で、作品の隅々まで神経の行き届いた極めてバランスがよく質の高い演奏を聴かせてくれます。この時期だからこそ表現しえた稀代の演奏と言えるだろう。
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ウィーンの作曲家たちが真面目で深刻なものから目をそらし、軽い音楽の「甘い感傷」やロッシーニのオペラ、ダンスの発展、ノスタルジアの開拓にうつつをぬかし、出版社も、芸術より商売第一主義で、よく売れるワルツばかり印刷していた。時は『会議は踊る』のまっただ中。これは、オーストリアの宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒの文化政策が、音楽事情にも影を落としていたことが背景にある。1815年のウィーン会議の結果、斬新と思えるものに目を光らせ、反体制的な動きを煽りそうなものを弾圧した。政府とほとんど摩擦を起こさない官能的な音楽だけが人々の心を捉えたことも無視できないが、真面目で深刻な音楽は、反逆的な感情を誘発すると見なされる不安な雰囲気があった。ショパンにしてみれば、前年にウィーン訪問で近づきになったウィーンの貴族や、ウィーンで幅を利かせるポーランド貴族の支援を頼むのが難しくなったうえに、当てにした銀行商からも、「よほど評判にならない限り楽壇に打って出ないほうがよい」「時期が悪い」と助言の体で、資金援助を断わられた。そればかりか、無報酬で演奏会をさせたあげく、作品を出版しようとしないトビアス・ハスリンガーの吝嗇な態度をショパンは非難したが、ハスリンガーが政府の監視の目やポーランド事情に神経を尖らせたことは十分に考えられる。ところで、コンサートホールとサロンが、この時代の音楽家の活動拠点であった。オペラの上演では、歌劇場に上流階級一族の専用ボックスがあって、それは世襲で受け継がれていたが、新たに建造されたコンサートホールの演奏会では、切符さえ入手すれば一般市民も上流階級と隣りあわせで鑑賞することになる。その結果、コンサートホールは談話室である。御婦人は楽器の音ではなく、ライバルや友達の囁く声に耳を欹てる。人は何か踊らなければ、何か喋ろうとするのだと、ドイツの作家ジャン・パウルが『一般音楽新聞』(1806年)に書いている有り様になった。市民は音楽会には目一杯に盛装し、富の象徴である柄付き眼鏡をかけ、山高帽をかぶり、ステッキを持って出かけた。彼らは音楽を伴奏にお喋りをし、生き生きとした会話のために音楽がほとんど聞こえないほどであった。パリに到着まもないショパンの感受性は、「人は自由に呼吸し、好き勝手にしている」「何しようと思いのまま」「ここには最大の豪華と最大の卑猥、最大の美徳と最大の悪徳がある」とパリを看破している。
パリでヴィルトゥオーゾ熱を煽ったのは、ヴァイオリニストのパガニーニが1831年3月9日に行った演奏会であり、同年11月21日に、マイヤベーアはグランド・オペラ《悪魔ロベール》を初演し、その甘たるいメロディと豪華絢爛な舞台スペクタクルは、聴衆を熱狂の渦に落とし入れた。ピアノにおけるヴィルトゥオーゾを代表するリストの演奏ぶりは、1873年のカリカチュアに見る通り、情熱にまかせた大仰な身振りの、視覚的なパフォーマンスに溢れたものだった。超絶技巧は手品の一種であり、茫然としている聴き手を熱狂させ、創造的な思想全般を二の次にしてしまう。「生の哲学」などをはじめ、ドビュッシー論やラヴェル論などの音楽論でも著名だった「分類できない哲学者」ウラジーミル・ジャンケレヴィッチが指摘するように、演奏会は見せ物と化し、聴衆はアクロバットに群れる単なる「大衆」と化して、見せ物の観客と演奏会の聴衆という二つを合わせた存在になった。20世紀にも、ベトナム戦争の不安を背景に、ウッドストック・フェスティバルや、ハイドパークコンサート、新宿フォークゲリラといった野外ライヴの熱狂を経て、商業ロックの導線となったのが、シェアスタジアムや日本武道館で演奏会を行なったビートルズがあり、21世紀現代の辻井伸行への賛美も同じだろう。アニメ「クラシカロイド」でリストのピアノ作品の名曲・愛の夢、ラ・カンパネラ、ハンガリー狂詩曲第2番はそれぞれ、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルトのピアノ作品に呼応していて、メフィスト・ワルツがショパンを対象にしていると描かれていた。このようなヴィルトゥオーゾが、旧来の枠組みをはずし、主体的な表現で人間らしさを取り戻そうとする新たな思潮の、演奏面での象徴的な存在になったことは納得できる。その思潮は、ブルジョワ社会の台頭と自由な空気のなかで、それまでの古典主義から脱却しつつあった。リストはショパンの死後に出版した著書『ショパン』の中に、ショパンのパリ到着直後に、文学と音楽の分野に新たな流派が形成されたという見解を示し、古い形式の縛りを雷光で打ち砕く若い才能が現れたのだ。 と書いている。そうした、フランスのロマン主義の激しい傾向には、ドイツでロマン主義的な音楽を書いていたシューマンですら次第に懐疑的になっていった。また、大正11年11月5日に日本で出版されたショパンの伝記の記念すべき第一号『ショパンの生涯』で、ポーランドとパリに分けて、その人間像に迫ったジェームス・ハネカーは、ショパンがロマン主義の運動を心から支持しなかったのは、その突飛さ、馬鹿げた熱狂、激動、保守的なもの(教会や国家など)に対する攻撃のゆえであるとする。
さて、サロンはすでに17世紀に存在し、ルイ15世の時代になると、哲学者、思想家、文学者、音楽家、画家が集まり、文化や芸術を育む知的な拠点となっていった。ショパンはサロンの交流で、新奇なものに惹かれる世情とロマン主義の流行を認識しながらも、ロマン主義とは常に距離を置き、無関心なように見えたという。リストは、それがショパンの性格に帰するものとみていた。スキャンダルに関わることを避け、他人の欲望を侵害したり精神を強いたりすることもなく、ショパンは全ての束縛から逃れたのだとリストは考えていたが、そもそもショパンは、ロマン主義という言葉を好意的には用いない。すでに1826年6月20日付の手紙に、ウェーバーの歌劇《魔弾の射手》について、「ドイツ的な性格、例の妙なロマン主義」と書いている。1828年にベルリンに旅行した際にも、何事にも常に感動して高揚する女性を、「ロマンティック人形」と揶揄している。ショパンはベルリオーズとも交友関係を持ったが、作品の過激な傾向を嫌っていた。彼は弟子のアドルフ・グートマンに「五線紙上にペンを振って偶然できたインクのシミを音符にしたもの、それがベルリオーズの音楽だ」と語ったほどであった。ショパンはポーランドが背負う悲劇の歴史と国民的感情で、同国人の詩人らと結ばれていた。ポーランドは1815年のウィーン会議の結果、ロシア、プロシア、オーストリアに分割支配されたが、限定的な自治が許されたロシア支配地区の首府ワルシャワでは文化が発展した。ポーランドのロマン主義は、ポーランド文化の進化における文学的、芸術的、知的な時代であり、1822年には詩人のアダム・ベルナルト・ミツキェーヴィチ(1798〜1855)の最初の詩の出版と同時に始まり、トマシュ・ザン(1796〜1855)、ユゼフ・ボフダン・ザレスキ(1802〜1886)、ステファン・ヴィトフィツキ(1801〜1847)がそれぞれポーランドの歴史的な物語や民話によるバラードを発表すると、それは爆発的な流行を呼んだ。ポーランドにおけるロマン主義は、この「バラードの年」に始まるとされる。ショパンはロマン主義の潮流から意図的に身を遠ざけてはいたが、祖国の知識人との交流を通して呼び覚まさされた国民的感情は、彼を創作に突き動かさずにおかなかった。その現れとして、ショパンの作品の激情的な箇所には、ときおり悲憤の念を感じることがある。それがロマン主義を自認するパリの芸術家達の心を捉えたとすれば、無意識にせよ、ショパンはポーランドのロマン主義と結ばれていたことになるが、ショパンは音楽が言語に束縛されることを避けた。
ロンドンの楽譜出版商のウェッセルは、ショパンの《ノクターン Op.9》《スケルツォ ロ短調》《バラード第1番 Op.23》《バラード第2番 Op.38》に、それぞれ「セーヌのさざめき」「地獄の宴」「瞑想」「優美な女」という標題を付けて出版した。ショパンはこれに激怒し、友人のユリアン・フォンタナに、「ウェッセルだが、彼は馬鹿で詐欺漢だ。…もし彼が僕の作品で損をしたら、前もって禁じ、幾度もスタプレトン氏と口論したのに、あんな馬鹿げた題名を自分勝手に付けたからに違いないと言ってください」と手紙(1841年10月9日付)に書いた。ポーランドを離れた若い日、彼はオペラを書かずにピアノ作曲家の道を歩くという決意をかためた。確かにショパンは友人のステファン・ヴィトフィツキの詩に歌曲を書いたが、演奏会のプログラムに取り上げたことはなく、生前に出版もしなかった。死後に17曲をまとめてポーランド歌曲集として出版を手掛けた友人のフォンタナは、そのまえがきに「言葉は音楽に対して、思考の秩序を、スタイルや曲調を強制する。ショパンは決してそれをよしとしなかった」と、ショパンの物言いから読み取れる姿勢を書いている。フランス・ロマン主義の偉大なる巨匠ウジェーヌ・ドラクロワはノアンのジョルジュ・サンドの別荘を訪ねてショパンと語り合い、「音楽で論理的なものは和声と対位法である」「フーガに精通することは音楽の道理と一貫性を知ることに等しい」というショパンの言葉を書き留めている。ショパンは幼少時代からバッハとモーツァルトの芸術に触れ、その深遠な精神世界、簡素を尊ぶ形式美などに普遍的な価値を見出した。振り返って、幼少のショパンに最初の音楽教育を授けたのは、当時としては稀有なヨハン・ゼバスティアン・バッハの崇拝者のヴォイチェフ・ジヴニーが、教育の基本に《平均律クラヴィア曲集》を置いたことは、ショパンの音楽に決定的な影響を与えたものと思われる。バッハの対位法による作曲法がショパンに与えた影響は、習作の《ソナタ Op.4》をはじめとして、ショパンの全作品の随所にポリフォニックな模倣や展開に顕現している。ショパンはバッハを通して、メロディと和声の推移に情念を適合させるバロックの演奏美学を修得した。ショパンは《平均律クラヴィア曲集》の20曲ほどを暗譜で弾くことができ、演奏会を開くときには準備の全てとなった。
ヴォイチェフ・ジヴニーに続きショパンの音楽教育を担当したユゼフ・クサヴェルィ・エルスネルは、ハイドンとモーツァルトの崇拝者、啓蒙主義者であった。彼はモーツァルトの《弦楽四重奏曲「不協和音」K465》をショパンに教え、斬新な不協和音とその解決法を学ばせた。ショパンはエルスネルを通して、モーツァルトの無駄のない音の構成の仕方を受け継いだといえる。ジョルジュ・サンドは「ショパンは子供でも弾けるような10行で、限りない高尚な詩や比類のない活力のドラマを描くことができた」と書いているが、簡素な音の扱いで多くを語る能力は、確かにモーツァルトと共通するものである。そしてショパンはウジェーヌ・ドラクロワに、「モーツァルトの音楽の声部はそれぞれが独立していて、互いに結びつきながらメロディを形成し、他の声部はメロディに完璧に従っている」と語っている。これは、ショパンが明快な楽曲構成に骨を砕き、古典的と見なされる根拠につながっている。ショパンは《平均律クラヴィア曲集》の20曲ほどを暗譜で弾くことができ、公開演奏会を開くときには準備の全てとなった。自作を弾かず、ひたすらバッハを弾いて彼を創作に導いた霊感の源泉である和声の響きや対位法的な要素を確認した。ショパンが音楽院時代の1827年に作曲した《モーツァルトの歌劇〈ドン・ジョヴァンニ〉の「ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ」による変奏曲 Op.2》は、エルスネルとの勉学の成果である。2曲のピアノ協奏曲を含めて、このようなオーケストラとの協奏作品を1831年までに集中して作曲した。音楽家がデビューするには、大人数を収容するコンサートホールでオーケストラと一緒に協奏作品を演奏するのが一番の早道という当時の常識に従ったのである。パリに移り住んだ当初も、協奏作品を盛んに演奏している。《華麗なる変奏曲》《ドイツ民謡による変奏曲》《変奏曲〈パガニーニの思い出〉》《3つのエコセーズ》《ピアノ三重奏曲 Op.8》などは、派手で耳を奪うものや、安易で楽しく魅力的な曲目を好んで、コンサートホールに集う一般市民を相手に、成功しているムツィオ・クレメンティ、ヨハン・ネポムク・フンメル、イグナーツ・モシェレスなどのセンスや優雅さを身につけた華麗様式による作品といえる。しかし、音楽院時代にバッハやモーツァルトに魅了され、和声と対位法の多様な絡みに霊感を受けたショパンにとって、単に華麗なだけでは不満足だったのであろう。様式は受け継ぎつつも、より精緻な彫琢を施さずには済まなかった。それが結果的に、技巧の難渋さをもたらしたのである。ところで、ショパンが最初のバラードに着手したのは、《練習曲集 Op.10》を書き溜めていたのと同時期である。
パリにいる間、ショパンはわずかな数の公開演奏会に参加し、ショパン、リスト、フェルディナント・ヒラーがバッハの『3つの鍵盤楽器のための協奏曲』を演奏した記録がある。ショパンは様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を大幅に拡大し、後のピアノ音楽に大きな影響を与えました。ショパンは「練習曲(エチュード)」と名のつく作品を27曲残しています。一般によく演奏される作品10, 25それぞれ12曲の練習曲と、作品番号なしの「3つの新練習曲」です。「練習曲」に、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。ショパンのエチュードはツェルニーの練習曲とは異なり、曲順と難易度は全く関係がなく、そして、曲数が何故12曲で、作品10と作品25で合わせて24曲なのか、この曲数に深い意図があるのか、と考えると、 行きつくところはバッハの「平均律クラヴィーア曲集」となる。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」はハ長調 ― ハ短調から始まって半音ずつ上がっていく配列を取っていますが、ショパン「練習曲集」は作品10-1がハ長調、作品10-2がその平行調のイ短調となっている点が注目に値します。そして作品10-3はホ長調、作品10-4がその平行調の嬰ハ短調、作品10-5が変ト長調で作品10-6がその平行調の変ホ短調という配列です。これは偶然ではなくショパンのはっきりとした意図が読み取れます。しかし、ト長調に行かずに、作品10-7が作品10-1と同じハ長調となり、作品10-8に至ってはヘ長調になり、長調と短調でセットという法則まで崩れてしまい。作品10-9がヘ短調、作品10-10が変イ長調と長調と短調の順番は逆転、作品10-11の変ホ長調と作品10-12のハ短調は平行調の関係が復活しています。ショパンの全作品を概観しても、ト長調の作品は非常に少なく、ト長調というのは非常に明るい調性で、明るさだけを取ればハ長調以上ですが、基本的に穏やかな調性であるため、プレリュードに1曲、ノクターン第12番、マズルカ(30,42,53)に3曲、アンダンテ・スピアナートだけであるほかは、ピアノ協奏曲第1番の第1楽章の再現部の第2主題に経過的に使われています。作品10と作品25で限界だったところに数年後改めて向き合い、前奏曲集で24の調性をすべて使った練習曲を創作しようとした野望を達成します。ショパンの「前奏曲集 作品28」はハ長調 ― イ短調から始まって5度ずつ上がる配列であり、この調性関係が、様々な雰囲気の24曲から成り立つこの曲集に存在する不思議な統一感の源泉となっている。これらの練習曲集は、ピアノ音楽史上の金字塔として燦然と光り輝いているのは周知の通りで、この後、リスト、ドビュッシー、ラフマニノフ、スクリャービン等が、12という曲数にこだわった、芸術的な練習曲集を書いています。
ショパンのエチュード作品10の12曲は、同時代の作曲家フランツ・リストに献呈され、作品25はリストの愛人として知られ、ダニエル・ステルンというペンネームで作家・ジャーナリストとして活動したマリー・ダグー伯爵夫人に献呈されています。そのため両作品は性格が違うのでしょう。作品10はリストに献呈されただけあり、作品25と比較して覇気に満ちた難曲揃いで、リストに対する挑戦状という意味合いもあったのだろうが、作品10の冒頭の2曲の難易度が突出していることからもショパンの気迫が伝わってきます。リストは受け取った、作品10のエチュードを、ショパンの前で見事に弾いて見せたと伝わっています。「革命のエチュード」「黒鍵のエチュード」「エオリアンハープ」「木枯らし」などの愛称が付いている曲が思い出され、「別れの曲」も練習曲だったことを再認識させられる。当然、愛称はどれもショパン自身によるものではない。ショパンの曲を弾きやすくするために、練習曲集をショパンは編み、愛称はしおりだと考えればいい。人気マンガ「ピアノの森」のアニメ版で「大洋」がオープニング音楽に選ばれている。暗く激しい怒涛のアルペジオの連続が、荒れ狂う大海原の波のうねりを連想させるところから、「大洋」というタイトルが付けられていますが、 左右両手のアルペジオと正確なポジション移動が課題となっています。演奏効果が非常に高い曲で、エチュードの中では特に難しい部類ではなく、 むしろ易しい方にもかかわらず、意外に上手く弾けない曲です。それは、左手、右手毎はミスタッチせずに弾けても、両手で弾くとミスタッチを連発するということも多々あるようです。成功させるには、とにかく先を急がないこと。人間の腕のメカニズムを、正確に活用するとショパンの音楽をうまく表現できるというのでしょう。「3つの新練習曲」は、作曲家イグナーツ・モシェレスとフランソワ=ジョゼフ・フェティスの編纂した教則本「諸メトードのメトード(Methode des methodes)」の中に含まれており、作品番号はない。モシェレスは複数の作曲家にエチュードの作曲を依頼し、 新練習曲集としてまとめて出版した。モシェレスの編纂への貢献とでは作曲の意気込みがおのずから異なるのであろう、作品10や25の練習曲集のような高度な演奏技巧と崇高さはないが、そこはショパンである、シューマン「幻想小曲集」の「夜に」(1837年作曲)に雰囲気が似ている「ヘ短調」。古典的推移を超えて跳躍的に次々と移り変わる、「変イ長調」は、ショパンの作品にはめったに無い、面白い曲想だ。「変ニ長調」は、ワルツの形を借りて右手でレガートとスタッカートの二声部の同時演奏を練習する、軽快で上品な曲です。
ウラディーミル・アシュケナージは、エリザベート女王コンクールで優勝した後、1958年にアメリカへの演奏旅行を行い、西欧各国でも出演している。1965年春に初来日して演奏旅行を行なった。ステージに立った彼は、168センチ59キロという、日本人でも小柄の方で、ピアノの傍らに立っておじぎをする様子は、何か初々しく、詩人のような繊細な雰囲気が立ち込めていた。しかし、いったんピアノを弾き始めると、そのよく響くタッチと素晴らしい技巧で、小さなアシュケナージの姿が俄に大きくなってしまうような印象を与えられた。彼の演奏は、ヴィルトゥオーソ的なテクニックと、その風貌からも伺われる詩人的な感性の表出のバランスが絶妙を極めていた。音楽の心を全身に漲らせた類稀なピアニストの一人だったといえる。アシュケナージは圧倒的に広いレパートリーを持っており、そして、彼は大変な努力家で、1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったと聞いています。デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。バッハからロマン派、近代に及ぶこれらのレパートリーで目立つことは、アシュケナージは本当の意味での現代的なピアニズムを先天的に身に着けているということである。彼のメカニックは巧緻だが、その技巧に支えられた詩的表現は、フレージングとダイナミズムの幅広いニュアンスに独特のものを見せている。名手を数多く輩出したロシアのピアニストの伝統と西欧的なスタイルが、彼の中に見事なバランスを持って融合されているのである。彼を単に感受性に富んだピアノの詩人と見なすことは出来ない。アントン・ルービンシュタイン以来、セルゲイ・ラフマニノフ、ヨゼフ・ホフマン、ヨーゼフ・レヴィン、ウラディミール・ホロヴィッツ、スヴァトスラフ・リヒテル、エミール・ギレリスなどピアノ史上に不朽の名声を残した大演奏家を生んだロシアの伝統が、アシュケナージによって更に新しい面を見せてくれたといえよう。アメリカの評論家ハロルド・チャールズ・ショーンバーグは、ニューヨーク・タイムズで長年活躍した高名な音楽評論家。日本でも「ピアノ音楽の巨匠たち」をはじめ著書が翻訳されているが、当時次々と西欧に紹介されたソ連のピアニストの中で、アシュケナージを特に高く評価し、彼はギレリスの確実さと、リヒテルの想像力を併せ持った詩的ピアニストだといっていたところに、アシュケナージの音楽的な本質を巧みに要約した、ニューゲイト・キャレンダーの筆名で同紙上で覆面ミステリ批評家としても活動していた彼ならではの評言だといえよう。
ショパン国際ピアノコンクールで2位となり、エリーザベト王妃国際コンクールで優勝したウラディーミル・アシュケナージ(Vladimir Davidovich Ashkenazy)は、英EMIや露メロディアからレコードも発売されるなど音楽院在学中から国際的な名声を確立します。1965年には来日も果たし、さらに英デッカと専属契約を結んで着々とレコーディングを行うなど、活躍の場の国際化とともに政府の干渉や行動制限が増えたため、1974年にはソ連国籍を離脱してアイスランド国籍を取得しています。この時期のアシュケナージの勢いにはすごいものがありました。主にデッカ・レーベルに膨大な録音をしているアシュケナージは、モーツァルトのピアノ協奏曲全集、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、同ピアノ協奏曲全集はゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団と、ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との2種、ショパンのピアノ曲全集、シューマンのピアノ曲全集、ラフマニノフ、スクリャービン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなどのほか、アンサンブル・ピアニストとしてもヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、ピアノ・トリオ、リートの伴奏などにも参加し、驚異的とも言える非常に膨大なレパートリーを誇っている大ピアニストである。大作曲家のレアな楽曲はもちろんのこと、マイナーな作曲家の楽曲も数多くレコーディングしており、そうした音楽的な好奇心に加え、世界中のオーケストラの指揮台に登って個々の音楽家と無理なくコラボレーションしていく姿勢には定評がある。そこにはソリストとして、様々な ― キリル・コンドラシン、ハンス・シュミット=イッセルシュテット、ユージン・オーマンディ、イシュトヴァン・ケルテス、ゲオルグ・ショルティ、ロリン・マゼール、アンドレ・プレヴィンといった名指揮者たちや有力オーケストラと共演してきたアシュケナージならではの観察眼やノウハウが活かされているに違いない。弾き振りも期待された、NHK交響楽団とは1975年に初共演。2004〜2007年には音楽監督を務め、現在では桂冠指揮者として定期的に共演を重ねている。
ウラディーミル・アシュケナージは持ち前の明るく口当たりの良いタッチで、良い意味で万人向きのピアノである。打鍵の粒が揃った演奏で、実に細部まで美しく彫琢された、現代的なすこぶる明快な演奏で、メロディラインははっきり聴こえる。磨きぬかれた輝かしい音色、ニュアンスに富んだ表現力、優れた音楽性、筋のよい安定したテクニックと、あらゆる面において現代のピアニストの水準を上を行く演奏を聴かせています。なかでも木の香り漂う温かいベーゼンドルファーの重心の低い響きと、その自然なタッチのもとに歌うシューマンの世界は格別、他のピアニストではけっして得られない独特の世界。シューマン作品のロマンティックな持ち味が、アシュケナージの抒情に富む表現によって写し出されている様な演奏です。音楽の都ウィーンの気品あるピアノ。ベーゼンドルファーのインペリアルが使用されており、重厚な音色を堪能できます。ベーゼンドルファーのピアノはフランツ・リストの激しい演奏に耐え抜いたことで多くのピアニストや作曲家の支持を得、数々の歴史あるピアノブランドが衰退していく中、その人気を長らくスタインウェイと二分してきた。かつてベーゼンドルファーのピアノは1980年までショパン国際ピアノコンクールの公式ピアノの一つであった。ベーゼンドルファーのピアノを特に愛用したピアニストとしてはヴィルヘルム・バックハウスが有名。ジャズ界においては、オスカー・ピーターソンが「ベーゼン弾き」としてよく知られている。木の香り漂う温かい響きが特色のメーカー。オーストリア・ウィーンで製造。ロンドン、デッカレーベルはベーゼンドルファーと契約しているようで、ラドゥ・ルプー、ホルヘ・ボレット、アンドラーシュ・シフ、アリシア・デ・ラローチャ、パスカル・ロジェ、ジュリアス・カッチェンなどはシューベルトの『ピアノ・ソナタ全集』やハイドンの『ピアノ・ソナタ』などウィーン古典派の作品を中心にベーゼンドルファーを弾いている。一方、ルドルフ・ブッフビンダーやシュテファン・ヴラダー、ティル・フェルナーなどの新しい若い世代のウィーンのピアニストはスタインウェイを弾いていて、あえて伝統的なベーゼンドルファーの使用を避けているようだ。音色は至福の音色と呼ばれる。ピアノ全体を木箱として鳴らす設計で、ズーンと太く伸びやかに鳴り響く低音域が魅力。スタインウェイを金管楽器に例えるなら、こちらは木管楽器といった印象でしょうか。ナチュラルホルンが倍音を響かせて鳴り響くような音の豊かさ、魅力がある。弱点は大ホールで演奏する際のパワー不足。
圧倒的に広いレパートリーを持ち、細部まで丁寧に演奏していること、そしてその結果として演奏の水準にほとんどムラがないことは特筆すべきことです。素晴らしいテクニックの持ち主だが、それをひけらかすことなく難しい作品もいとも容易く弾きこなしてしまう。それがウラディーミル・アシュケナージだ。アシュケナージは大変な努力家で、1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったようだ。DECCAレーベルの入れ込みようは並々ならず。英デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。1937年7月6日にソ連のゴーリキーで生まれ、幼少からピアノに才能を発揮。ショパン国際ピアノコンクール、エリザベート王妃国際コンクール、そしてチャイコフスキー国際コンクールと、ピアノコンクールの3大難関コンクールで優勝、または上位入賞を果たした。1955年にショパン国際ピアノコンクールで2位となりますが、このときアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことは有名な話。ちなみに優勝したのは開催国ポーランドのアダム・ハラシェヴィチ。その後モスクワ音楽院に入学し、翌1956年、エリーザベト王妃国際コンクールで優勝、活躍の場を一気に世界に広げ、音楽院在学中から国際的な名声を確立し、英EMIや露メロディアからレコードも発売された。1960年にはモスクワ音楽院を卒業し、1962年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場してイギリスのジョン・オグドンと優勝を分け合います。アシュケナージがデッカと専属契約を結んで初めて録音をおこなったのは、チャイコフスキー国際コンクール優勝の翌年、1963年のことでした。1963年にはソ連を出てロンドンへ移住、まず3月に録音したのは亡命作曲家ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」で、指揮はソ連からの亡命指揮者であるアナトール・フィストゥラーリが受け持ち、活動の場の国際化とともに政府の干渉や行動制限が増えたため、ほどなく亡命することとなるアシュケナージがソロを弾くという亡命尽くしの録音でした。翌月には同じくロンドン交響楽団とチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を録音しています。ここでの指揮は当時破竹の勢いだったロシアの血をひく指揮者ロリン・マゼールが担当しています。この年の9月には、ツアーに来ていたキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルという祖国のチームとの共演でラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を録音しており、この年のうちにアシュケナージは3つのロシアの有名協奏曲をロシアつながりの指揮者との共演で録音したことになります。
翌年からはソロの録音も本格化し、以後半世紀に渡って数多くの録音を英デッカで行うこととなります。ピアノ音楽の殆んど全てに及ぶほど、彼の録音したピアノ曲のレパートリーは幅広い。着々とレコーディングを行う一方、世界各国でコンサートをおこない、1965年には初来日も果たすなど、この時期のアシュケナージの勢いには凄いものがありました。その後、1970年代に入るとピアニストとしての活動に並行して指揮活動も行うようになり、1974年にはソ連国籍を離脱してアイスランド国籍を取得してからは、オーケストラ・レコーディングにも着手するなど、その指揮活動は次第に本格的なものとなって行きます。クリーヴランド管弦楽団との鮮烈なリヒャルト・シュトラウスやプロコフィエフのバレエ音楽「シンデレラ」、コンセルトヘボウ管弦楽団との美しいラフマニノフなど、ウラディーミル・アシュケナージの指揮の腕前がピアノのときと同じく見事なものであることを示す傑作が数多くリリースされた。もちろん彼の演奏するロシア音楽の素晴らしさは特筆すべきものがある。ピアニストとして傑出したキャリアを誇るだけでなく、アーティストとして多彩な活動を積極的に展開し、現在はアイスランド交響楽団、シドニー交響楽団及びNHK交響楽団の桂冠指揮者、スイス・イタリアーナ管弦楽団の首席客演指揮者に就任。特に桂冠指揮者を務めるロンドンのフィルハーモニア管弦楽団との関係は深く、英国各地に加え世界中の無数のツアーで指揮台に立ち続けている。EUユース管弦楽団の音楽監督(2000〜2015)、シドニー交響楽団の首席指揮者兼アーティスティック・アドバイザー(2009〜2013)、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、そしてNHK交響楽団の音楽監督としても活躍。首席客演指揮者を務めたクリーヴランド管や首席指揮者兼音楽監督を務めたベルリン・ドイツ交響楽団とも深い繋がりを保ち続け、定期的に招かれている。
Chopin: Piano Works
Chopin
Decca
2010-03-30

1964年7月ロンドン、デッカ第3スタジオでの録音。Engineer – Arthur Bannister, Gordon Parry. Producer – John Culshaw.
GB DEC  SXL6143 ウラディーミル・アシュケナージ ショ…
GB DEC  SXL6143 ウラディーミル・アシュケナージ ショ…