34-6618
商品番号 34-6618

通販レコード→英ワイドバンド溝あり MADE IN ENGLAND ED2 盤[オリジナル]
民族的急進性ともいうべき表現を赤裸々かつ強烈に描き出しており、純粋な音響美を追及したショルティとは対抗した位置にある演奏 ― 2017年は、20世紀を代表する巨匠指揮者ショルティの没後20年・生誕105年にあたります。一貫してDECCAに録音し、数々の名盤を遺したハンガリー出身の指揮者、ゲオルグ・ショルティと関係良好だったウィーン・フィルと後世に語り継がれるオペラを、ウィーンのソフィエンザールで次々と録音している。その一方で英国デッカ社は、ロンドン交響楽団と有名管弦楽曲の録音を進めた。オーディオファイルが喜ぶオーケストラだ。セールスは目論見道理だっただろう。まだまだ血気盛んだった頃のショルティによるギラギラしたバルトークが聴けるアルバム。ショルティの指揮する曲は概して大胆さや迫力で押し切る傾向が有りますが、何故かロンドン交響楽団を振るとそこに丁寧さとかつ美しいが加わるから不思議です。とてもラインの黄金のドンナーを収録した同じ指揮者とは思えません。ショルティはブダペスト音楽院でバルトークにピアノを師事し、《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》初演の際にはバルトークのために譜めくりを行った、というエピソードも残されています。1960年代に録音された、このバルトークは「管弦楽のための協奏曲の冒頭の数小節を演奏しただけで我々に期待を抱かせ、そのテンションを最後まで保ち続ける」(英『グラモフォン』誌)と高い評価を受けた名演です。本盤ではショルティという指揮者の原点を感じるほどに、作品の中に民族的な語法や和声に対する共感で自身のエモーションや演奏意欲といったものをストレートにぶつけている。分厚くパワフルな音響でガツガツと畳み掛けるような演奏であり、終始不穏な緊張感を漂わせながら多彩で落差のある表現を鋭く抉り出すところに、聴いていてゾクゾクする。そんな野人的、本能的演奏にロンドン交響楽団は強力なアンサンブルで応えている。1960年代のロンドンで、これほどエスニックな録音が可能であったことが不思議にすら思えてしまうほどだ。録音の秀逸さもあって音が混濁せずに各パートが明瞭に分離して聴くことができ、演奏と音質の両面で、この作品の最も優れた録音。ショルティはバルトークの3大管弦楽名曲をシカゴ交響楽団と再録音しており、そちらでは大人の演奏を聴かせていましたが、ショルティらしい強引なまでの力技とスリリングな興奮が楽しめるという意味では、このアルバムは最高の内容を示したものと言えるでしょう。半世紀にわたりデッカの重要なアーティストであり続けたゲオルグ・ショルティ。シカゴ交響楽団との演奏は世界における最も有名な指揮者とオーケストラのパートナーシップと高く評価され、グラミー賞も数多く受賞しました。そうした新録盤の登場でアナログ録音はCD化で顧みられないので、その意味でも、これはオーディオファイルが不朽に愛聴するレコードでしょう。
第二次世界大戦勃発直前の1941年頃に潜水艦ソナー開発の一翼を担い、その際に、潜水艦の音を聞き分ける目的として開発され、当時としては画期的な高音質録音方式であった。1945年には高域周波数特性を12KHzまで伸ばしたffrr仕様のSP盤を発売し、1950年6月には、ffrr仕様の初のLP盤を発売する。特にLP時代には、この仕様のLPレコードの音質の素晴らしさは他のLPと比べて群を抜く程素晴らしく、当時のハイファイ・マニアやレコード・マニアに大いに喜ばれ、「英デッカ=ロンドンのffrrレコードは音がいい」と定着させた。日本では1954年1月にキングレコードから初めて、ffrr仕様のLP盤が発売された。ステレオ録音黎明期1958年7月には、その技術を受け継いだステレオ・レコードであるffss(Full Frequency Stereophonic Sound 全周波数立体音響)を発表、この先進技術を武器に数多くの優秀な擦れてお録音のレコードを発売。そのハイファイ録音にステレオ感の良さが加わり、アナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけ君臨し続けた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマン SX-68 を導入するまで続けられた。Hi-Fi レコードの名盤が多い、イギリス・デッカのセンター・レーベルのデザインは年代別に4つのグループに分けることができる。それぞれを、English DECCA を記号化してオーディオファイルは ED1, ED2, ED3, ED4と呼んでいる。また、それら中でも、ED1 から ED3 までを「ラージ・ラベル」、ED4 を「スモール・ラベル」と大別している。ラージ・ラベルは、スモール・ラベルよりもセンターレーベルの大きさがひとまわり大きい。また、レーベル中にデザインされている銀色の帯(黒色で「 FULL FREQUENCY 」と書かれている)の幅が13ミリメートルあり、ED4 よりかなり広いため、「ワイド・バンド」とも呼ばれている。ED2はラージ・レーベルの外周から約1センチのところに溝(GROOVE)があります。ここまではファースト・ラベルと同一デザインです。ただし、ラベル上部10時位置の文字が、「 Made in England By … 」に変更になりました。多くの専門家の間で、このセカンド(ED2)の音質は、ファーストラベル(ED1)に似ているという意見が多いです。
バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である ― ベンツェ・サボルチ
ハンガリーの生んだ20世紀最大の作曲家のひとりといえば何びともベーラ・バルトーク(1881〜1945)を挙げる。否、20世紀最大の作曲家としても、まずバルトークから指を屈する人も少なくあるまい。バルトークは8歳年長のシェーンベルクのような芸術様式上の革命家でもなかったし、1年後に生まれたストラヴィンスキーのように若くして天才的な脚光を浴びた体験も持ってはいない。しかし、第2次大戦が終わり ― バルトークはこの年に亡くなってしまうが ― 新しい芸術活動の息吹が起こった時、バルトークに対する認識が急速に深まる。それは見失われていた芸術における精神活動の尊厳の回復を示すものであった。例えば、その頃の現代音楽を扱った書物の記述に数多くの例が窺われる。フランスの急進的な批評家だったアントアーヌ・ゴレアが1954年に刊行の「現代音楽の美学」(野村良雄他訳)の中で、「彼は死後僅か何年かで20世紀の作曲家の中で、おそらくアルチュール・オネゲルを除いては最も良く演奏される人となり、又現代音楽及び、その偉大と闘争と苦闘の象徴となった。 …… 現代の音楽的ヒューマニズムの代表者の中で最も悲愴な、又最も活き活きとした方法でこれを具象化している」。また1955年出版のドイツの音楽学者ハンス・メルスマンの「西洋音楽史」(後藤暢子訳)で「ストラヴィンスキーがヨーロッパ文化の汎ゆる思潮に向かって心を開いていたのに対し、バルトークは偉大な孤独の境地で生き、且つ創造したのである」、そして日本では柴田南雄が1958年刊の「現代の作曲家」の中で「バルトークを〈巨匠〉と呼ぶ時、今や我々はベートーヴェンに対する時と対して違わぬ感情を抱くに至っている。殆ど倫理的といえるほどの芸術と人生への厳しい態度が、この二人の人間像を相似たものにしているためであろう」、これらの引用はほんの一例にすぎないもので1950年代はバルトーク評価が非常に高まったことを示すものである。1960年代以降バルトーク熱は下降したかのように見えるが、そのことが彼の音楽史上の位置づけをより明確にさせることになった。20世紀前半を生きた作曲家の中でシェーンベルク、ストラヴィンスキーとバルトークが3大巨峰であることは定説となった。例えば、あの厖大な「新オックスフォード音楽史」は第10巻(1974)を現代音楽(1890〜1960)に充てているが、最も多くの影響を与えた作曲家としてドビュッシーとシェーンベルクを重視している、しかし個人としての記述に一番多くのページが割かれているのはバルトークの25ページであり、ついでストラヴィンスキー、ベルク、ウェーベルンとなっている。バルトークは多作家ではなかったが、寡作家とも言えない。彼の作品は、ほとんどあらゆるジャンルの音楽に及んでいた。広く言われるように彼は中欧・東欧の民族音楽の研究の成果を彼の芸術音楽に採り入れているが、その有り様は高度に芸術的に昇華されたものであった。バルトークはシェーンベルクの無調音楽の影響を受けているし、ストラヴィンスキーとも無縁の人ではなかった。しかし、それらが作品に具現された時、バルトーク以外の何びとも書き得なかったものとなる。このことは彼の妥協のない創作態度の厳しさを物語っている。作品の数に比較してオーケストラのための作品が異例と言ってよいほどに少ないことからも、それが窺われる。彼が名を成すに至った1910年代の中頃以降、バルトークの書いたオーケストラのための作品は「舞踏組曲(1923)」、「弦・打楽器・チェレスタのための音楽(1936)」、「弦楽のためのディヴェルティメント(1939)」、「管弦楽のための協奏曲(1943)」の4曲しか無い。またピアノ協奏曲は未完に終わった第3番までの3曲とヴァイオリン協奏曲が1曲、これも終結部を残して絶筆となったヴィオラ協奏曲の4曲あるのみである。
バルトークが前年の母の死を機に、ディッタ夫人とともに着の身着のままの状態で渡米したのは、1940年10月30日のことであった。この頃、彼以外にもナチスから身を守るためにアメリカへ移住した音楽家に、ヒンデミット、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ミヨーなどがいた。このため当時のアメリカ音楽界の活況は大変なものであった。これらの音楽家たちはいずれもそれぞれの才能にふさわしい地位を得て、安住することができた。ところが、それと同時にバルトークが亡命したアメリカはシェーンベルグに代表されるような無調の音楽がもてはやされているときで、民族主義的な彼の音楽は時代遅れの音楽と思われていました。そのため、彼が手にした仕事は生きていくのも精一杯というもので、ヨーロッパ時代の彼の名声を知るものには信じがたいほどの冷遇で、その生活は貧窮を極めました。アメリカへ移住して約1年半後の1942年3月、彼はかつてのピアノの弟子宛に、次のような書簡を送 っている。「私たち二人の状態は日ごとに悪化しています。耐えられないといえば誇張になりますが、ほとんどそれに近いものです …… 私は、かなりの悲観論者になりました。どんな人をも、どんな国をも、またどんなことをも信じられません …… 」それに加え彼の体は白血病に冒され始め、ようやくコロンビア大学で民族音楽の名誉博士号を得て嘱託講師の地位を受け入れた彼は、民謡の録音からの採譜と分類に従事しながら、次第に衰弱していく一方でした。そんなバルトークに援助の手をさしのべたのがボストン交響楽団の指揮者だったクーセヴィツキーでした。もちろんお金を援助するのでは、バルトークがそれを拒絶するのは明らかでしたから、作品を依頼するという形で援助の手をさしのべました。そのおかげで、私たちは20世紀を代表するこの傑作「管弦楽のための協奏曲」を手にすることができました。クーセヴィツキー財団からの委嘱として、自身の70歳記念とボストン交響楽団指揮者就任20周年記念演奏のための作品を書いてほしいと切り出し、バルトークをいたく感激させた。彼にとっては、渡米後初めての作曲の委嘱である。バルトークは体力に自信が持てなかったため、この申出をいったんは断ったがクーセヴィツキーは期限を設けなくてもよいからと彼を説得し、作曲料の半額に相当する額面の小切手を彼の枕元に置いて席を立ったといわれている。実はこの時、クーセヴィツキーはライナーとシゲティの二人から依頼を受けてやって来ていた。バルトークと同郷の友人、指揮者のフリッツ・ライナーとヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティはアメリカ作曲家協会(ASCAP)に働きかけ、その援助でバルトークが安心して療養できるように取り計らった。1943年夏、こうして彼はASCAPの世話でニューヨーク北部の山中にあるサラナック湖畔で療養生活をすることになった。
その後、バルトークは信じられないスピードで委嘱された作品を仕上げる。彼は同年8月15日、作曲に着手し同年10月8日には作曲を完了している。こうして作曲されたのが《管弦楽のための協奏曲》 であった。そして翌年の12月に初演されている。初演後、クーセヴィツキーは「過去の50年を通じて最 高の傑作だ」と彼を讃えた。バルトークは初演時の演奏会プログラムに次のように書いている。「作品全体の雰囲気は ― 第2楽章を除くと ― 第1楽章の厳粛さと第3楽章の死を悼む歌から終楽章の生への肯定へと移行する漸進的な推移を示す。 …… この交響的なオーケストラ曲にこのような題をつけたのは、諸楽器を協奏的及び独創的に使用する傾向からきている …… 」この曲は名人揃いのボストン交響楽団の各プレイヤーの優れた腕前を発揮させるために作曲されただけあって、バロック時代のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)を思わせる内容となっている。バルトークの楽譜を出版しているブージー・アンド・ホークス社の社主ラルフ・ホークスが彼に宛てた「バッハのブランデンブルク協奏曲集のような作品を書いてみたらどうでしょう」という書簡や、コダーイの同名作品の影響が発想になったとも思われる。多楽章で、第5楽章「終曲」のコーダの部分は、バルトーク自身の「エンディングが唐突過ぎる感がある」との反省を基に改訂がなされている。今日の演奏ではこの改訂版を使用している。ライナーやクーセヴィツキーはバルトークの自筆楽譜を使って録音しているが、カラヤンは最終的な出版楽譜に忠実なところはバルトークでも変わらない。この曲とヴァイオリニストのユーディ・メニューインの委嘱で作曲した《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》の成功で、さてバルトークの晩年は経済的にも精神的にも充実した日々を送ることができた。だが、病魔は既に彼の体を蝕んでおり、1945年9月26日バルトークはニューヨーク市内のブルックリン病院で息を引き取った。
Side-A)中国の不思議な役人、Side-B)弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽。エンジニアはケネス・ウィルキンソン。プロデュースはエリック・スミス。1963年12月録音。
GB DEC SXL6111 ショルティ バルトーク・弦楽器&打楽器…