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〝生涯最後のレコーディング〟時空を超えた奇跡の歌声。 ― キャスリーン・フェリアーは録音でもブルーノ・ワルター指揮によるマーラーの「大地の歌」や「亡き子をしのぶ歌」の名唱は、今なお決定盤と称えられています。フェリアーの声はコントラルト特有の深い豊かな共鳴の中に清冽で透明感ある気品が漂うもので、本盤もその特徴が如何なく出ているフェリアーの遺産の一枚。カルーショーの発案でフェリアーのモノラル・マスターテープにオーケストラ伴奏を重ねてステレオ録音したという曰盤。1952年の10月にモノラル録音され、フェリアーの生涯最後のレコーディングとなった白鳥の歌。「リサイタル・オブ・バッハ・アリア集(LW 5083)」と「リサイタル・オブ・ヘンデル・アリア集(LW 5076)」として、それぞれに10インチで発売されたモノラル盤。フェリアーの死後、12インチで追悼発売された時はステレオ盤だった。本盤は1960年に「バッハとヘンデルのアリア集」のオーケストラ部分を、旧録音と同じサー・エイドリアン・ボールト指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏でステレオ再録音してフェリアーの歌声とミキシングしたという優れもの。これは〝生涯最後のレコーディング〟とは言っても、晩年歌手の説得力ある歌唱というのではなく、録音から長い月日も経過していない。好条件が整っていた。偉大なプロデューサー、ジョン・カルーショーが一枚絡んでいる特殊な盤です。実際にオーケストラと歌手が、今日一緒に演奏を交えていたかのような優秀録音。彼女の歌うヨハン・セバスチャン・バッハの《マタイ受難曲》は特に伝説的名演として語り継がれているものです。この録音はイギリスDECCAの企画で1947年にセッションが始まったのですが、当時としてはあまりにも大曲であったためか、彼女の契約の関係で年内に録音が完了することはなく完成はその翌年まで持ち越されました。この入念な準備に裏打ちされた演奏、もちろん完成度の高さには目を見張るものがあります。数多い録音の中で、フェリアーの歌唱ほど歌詞に秘められた悲しみ・憂いが粛々と表現されたものがあるでしょうか。喜び、悲しみもフェリアーの声にかかれば決して取り乱したものにはならず、余裕を持った趣で彩られたのでした。フェリアーは1953年にわずか41歳の若さで亡くなりましたが、その馥郁たるコントラルトは不世出の声として歴史に刻まれています。ワルターも彼女の声の資質を高く評価し残された「大地の歌」の録音のうち3回、彼女をソロに起用しました。フェリアーが当時有名な声楽教師であったバリトン歌手のロイ・ヘンダーソンについて学んだことも、清冽で暖かみを持ち伸びやかな彼女の歌声で、且つフェリアーの歌唱技術は男声・女声の区別を超越した素晴らしさを持っていると、高く評価される所以でしょう。
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声をエロティックなものとすることは、性的な差異としての役割とはほとんど関係がない。実際、もっともエロティックだと考えられる声、つまり聴く者がこれ以上ないほど魅了されてしまう声は、男性のものであろうと女性のものであろうと、性を超越していると言われるであろう声なのだ。つまり女性であれば低い声(キャスリーン・フェリアやマレーネ・ディートリッヒ)、男性であれば高い声(カストラートやテノール歌手)となる。 ― ミッシェル・ポワザ:「オペラ、あるいは天使の歌声」
バロック音楽は、モンテヴェルディ(1567~1643)のオペラ「オルフェオ」の上演から始まる。オペラ史を考える時、聴衆が受け入れたオペラというものは「カストラート以前/以後」によって大きく区分することができる。モンテヴェルディの『オルフェオ』の初演では、エウリュディケの役はカストラートが演じていた。男性を去勢した彼らの声は甘く、野性的でそれでいてとても官能的だったと言われる。オペラにおける「声」の研究者であるミシェル・ポワザによれば、「女性が教会で歌うことを禁じられていた」ことがカストラート成立の由来であるとされる。教会の祭式で「天使的役割」を担う歌声として、カストラートを用いる礼拝が採用されていた。庶民のオペラはまだなく神々の活躍を王様が楽しんだ宮廷劇場で、このオペラ・セリアが上演されていたことで発言力の強い教会のカストラート歌手らはオペラにおいて常に主役級の存在として位置付けられていた。17世紀から18世紀のオペラでは、男性のソプラノ歌手でも女性役を演じたりするなど、「性的・声的な反転」が重視されていた点も重要である。18世紀後半になるまで、イタリア・オペラはカストラートとほぼ同義であり、イタリア・オペラだけが正統的なオペラとして重視されたという。更に18世紀の場合、男性オペラ歌手の7割りがカストラートであった。彼らの歌声はしばしば trans-sensical(超感覚的)、天使、子供、あるいは鳥の中でも端的に、「空高く舞うひばりのように軽々と自然に何度も舞い上がり」などと絶讃された。あるいは、「超人的な、気味の悪い音」、「人間ならざるものの声」、「不気味なもの」とも形容された。しかし、カストラートはオペラ史上から姿を消していく。その最大の原因の一つが「グルックのオペラ改革」であった。映画『アマデウス』で一悶着となるオペラは言葉が従者で音楽が主人だというモーツァルトの発言で暗に示している。ベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」の後に登場してくる、ベッリーニの「ノルマ」、ケルビーニの「メディア」などベルカント・オペラで台本的にも女性はオペラの中心的存在となっていく。それまでカストラートが演じていた役所を、女性のソプラノ歌手が取って代わったのである。主にイタリアのオペラに使われるが、モーツァルトのオペラはベルカントで歌われるのが相応しいと言われている。イタリア語で〝bel canto〟とは「美しい歌」の意であるが、厳密な意味での定義はない。ロッシーニによれば「高度に華麗な音楽を楽に歌いこなせる技術を伴う自然で美しい声。低音から高音まで均質な響きを持つ声」をいう。こうして、結果的にソプラノとテノールの声域の価値が高まり、これらが現在のような中心的立場を獲得するに至る。
声は拡散であり、浸透であり、肉体の全領域、すなわち、皮膚を通過する。声は通過であり、境界、階級、名前の廃絶であるから …... 幻覚を生む特殊な力を持っている。したがって、音楽は視覚とはまったく別の効果を持っている。そもそも人間の耳そのものが〝trans-sexual (性域外)〟のものに「天使的な崇高」を見出す傾向が多いという特徴を持っている。別の言葉で言ってみると、小鳥のさえずりから天使の声への「生成変化」が起きているのだ。つまり、オペラの究極的な美学とは、実はこのような〝trans-sexual〟な声によって人間に常軌を逸した恍惚を与えることにあった。当時マリア・カラスとレナータ・テバルディは好敵手とされたが、彼女同士は仲良しだった。どちらが優れたソプラノか、ヒロインになりきっているだとかと対比されるが、それぞれの歌声が聴くものの身体に浸透し、オーガズムを引き起こす歌声がどちらかということだろう。大衆にとって、歌声の安定や演技の完璧さとは別な次元で、その声が恍惚とさせる歌手がいる。ところでソプラノがヒロインの声ならば、アルトは母声。キャスリーン・フェリアー(Kathleen Ferrier)の声はその温かみと馥郁たる豊かさに満ちた、まさに〝母なる声〟でありました。コントラルトというのはアルトとほとんど同義とされますが、厳密に言えばコントラルトはアルトよりもう少し低い声域を指すようです。もっとも近年はアルトとメゾソプラノもあまり区別がされないようで、総体に低い声域の女声歌手が少なくなっているように思われます。わたしはメゾソプラノの名歌手と云えばクリスタ・ルートヴィヒがまず第一に思い浮かびますが、ルートヴィヒはリヒャルト・シュトラウスのオペラ「薔薇の騎士」のマルシャリンも歌った声域の広い歌手で、本来は声色はやや明る目であるのに少し低く暗めの声をコントロールできる器量だろう。コントラルトはドイツ人女声歌手が主なところから、更に狭義な特色のある低く暗めの声のことを言うのだろうと思います。少女と若い女性と、年老いてからの声というのでなしに若くても子供に話しかける時の母性のあらわれた声というものでしょうか。そういう意味では、これがコントラルトと言える女声歌手は意外と少ない、現代においては特に少ないようです。アイドルグループがチヤホヤされる御時勢だから暗めの声は好まれないのでしょうかね。正真正銘のコントラルト歌手と云えるのはフェリアーあるいはマリアン・アンダーソンといったところでしょう。マーラーの交響曲を一通り聴き進めていくうち、ブルーノ・ワルターとフェリアーの「大地の歌」、「亡き児を偲ぶ歌」は、ほとんどの人が必ず通る道である。しかし、フェリアーはその短い演奏家人生のうちで多くのレコードを残したが、いくつかの演奏は記録されなかった、あるいは記録が破壊されたものもある。たとえばエルガーのオラトリオ『ゲロンティアスの夢』やヘンデルのオラトリオ『メサイア』などはそうである。そうした背景から昔は、フェリアーの新発見の音源が発売されるとなったら大騒ぎだった。さらに今でも待たれる。フェリアーの声は柔らかくあたたかく、しっとりしている。どこにも刺々しさはない。とりすました表情はどこにもない。そういう声・表情で歌われたヨハン・セバスチャン・バッハとヘンデルは、心に沁みた。それまで聴いたどんな音楽よりも、そうだった。歌声がかくも慰めをもたらすものかと。フェリアーの歌が心に沁みてこなくなったら、もう終りだと思っている。
最初から終わりまでほとんど変わりない遅いテンポで、しかも終曲を除いてはあまり劇的変化もないこの曲を、一貫した情緒で、じっとテンポを抑え、リズムを正確に歌うことは容易ではないし、また、漂うように起伏する表情が巧みに歌に出なかったら退屈になってしまうのであるが、キャスリーン・フェリアーはいささかも崩れず乱れず、良く表情を出して微妙な変化を与えているところ、非凡な歌手に違いない。昭和28年(1953年)のレコード芸術6月号で「亡き子を偲ぶ歌」推薦盤として初めて彼女のレコードを紹介している。シューマンの歌曲集「女の愛と生涯」に、私はフェリアーの優れた資質を見る。彼女を聴いて思うこと。楽器の音の美感は、多く人声を理想とする。低音が安定していて、深い味わいを出している。そしてフェリアーの声は、人の声の中でも、至高の美しさだった。フェリアーは1953年にわずか41歳の若さで亡くなりましたが、その馥郁たるコントラルトは不世出の声として歴史に刻まれています。フェリアーは録音でもブルーノ・ワルター指揮によるマーラーの「大地の歌」や「亡き子をしのぶ歌」の名唱は、今なお決定盤と称えられています。ワルターも彼女の声の資質を高く評価し残された「大地の歌」の録音のうち3回、彼女をソロに起用しました。フェリアーが当時有名な声楽教師であったバリトン歌手のロイ・ヘンダーソンについて学んだことも、清冽で暖かみを持ち伸びやかな彼女の歌声で、且つフェリアの歌唱技術は男声・女声の区別を超越した素晴らしさを持っていると、高く評価される所以でしょう。卓越した指導者のもとにあったとはいえ、天賦の才能で、音楽と詩のひと次元高い合一を成就させてしまう歌手もいないではない。私はフェリアーがそうした人だったと思っている。彼女の歌うヨハン・セバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」は伝説的名演として語り継がれているものです。この録音は英デッカの企画で1947年にセッションが始まったのですが、当時としてはあまりにも大曲であったためか、彼女の契約の関係で年内に録音が完了することはなく完成はその翌年まで持ち越されました。この入念な準備に裏打ちされた演奏、もちろん完成度の高さには目を見張るものがあります。フェリアーの声はコントラルト特有の深い豊かな共鳴の中に清冽で透明感ある気品が漂うもので、本盤もその特徴が如何なく出ている。数多い録音の中で、フェリアーのブラームスほど歌詞に秘められた悲しみ・憂いが粛々と表現されたものがあるでしょうか。シューマンで聴かせる喜び、悲しみもフェリアーの声にかかれば決して取り乱したものにはならず、余裕を持った趣で彩られたのでした。
不世出のコントラルト、キャスリーン・フェリアーは生え抜きの歌手ではなく、技術面では満点とは云えないが、心の奥底まで届く歌声の深さでは空前絶後である。誰がつけたあざ名か「〝普通の〟ディーヴァ」とは言い得て妙。1912年4月22日にイギリスのランカシャー州プレストン生まれの貧しい田舎娘は、14歳で学校を終えるとブラックバーンで電話交換手の職に就いて日々の生計を立てていた。23歳の時に金持ちのバンカー、バート・ウィルスンに見初められ、やがて好きだった音楽で身を立てようとコンクールに出る。地元のコンクールで受賞経験もあったことから自信はあった。ところが得意だったピアノではなく、余技のはずのコントラルトのボーカルでロンドンの聴衆のみならず全世界のクラシック愛好家から女神と崇められる ― 地母神と敬われるようになるのだから、運命とは皮肉なものだ。ブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラー、エイドリアン・ボールト、ジョン・バルビローリ、マルコム・サージェント、ヘルベルト・フォン・カラヤン、エドゥアルト・ファン・ベイヌム、ベンジャミン・ブリテンら錚々たる指揮者達が賛美を惜しまなかったその歌唱は実に素晴らしく、独特の美しい艶ののった声質で豊かなコントラルトの響きを獲得した声は常に見事な水準に達していました。聴く者の胸の奥に飛び込んでくる一度聴いたら二度と忘れられない、低く、柔らかく、優しい声に、すべての人のお母さんのように懐かしい声音であったことである。エリーザベト・シューマン、ロッテ・レーマンの後継として、ドイツ・リートの第一人者の位置に立ち、また美貌を兼ね備えたオペラのプリマとして活躍したエリーザベト・シュヴァルツコップはドイツ語の正確なディクションと抑えめがちな表現、そしてやや深みのある美しい声で、力業にはよらなくとも圧倒的な存在感を示しました。フェリアーはドイツ語のディクションには幾分問題が残るし、決してシュヴァルツコップのような音楽的教養と解釈力をうかがわせる存在ではないと思うが、もって生まれた声の美しさと音色表現の豊かさで聴き手をその世界に引きつけて離さない。これらの作品が求めた声質とは異なるのだが、深々とした祈りの様なフェリアーの歌唱は聴く者を包み込む。ブラームスが全て素晴らしく、「アルト・ラプソディ」や「四つの厳粛な歌」のたとえようもない深みもさることながら、イギリス民謡や小唄の類で聴かせる懐かしい遠い世界は、他の誰が聴かせてくれるだろうか。フェリアーの本当に優れたレパートリーはバロック音楽とイギリスの歌曲である。素朴であればあるほどフェリアーの声は犯し難い神聖さを帯びる。まるで、放課後の音楽室から歌声がきこえてきて、窓からのぞくと可憐なお嬢さんが歌の稽古をしている光景が思い浮かんでくる。フェリアーの歌を聴くと、そんな気持ちにさせられます。だから、大指揮者たちに愛され、早世したにもかかわらず今尚愛顧されるのだ。物悲しくも厳粛な歌声、高いレベルの音楽的才能。深く響く声を持つアルト歌手として、世界的名声を博したフェリアーは、1953年10月8日に乳癌のため41歳の若さでロンドン大学病院で没しています。英デッカのカリスマ・プロデューサー、ジョン・カルショーもその著で「単純さと正直さこそが本質であるこの歌に、キャスリーンは苦もなく生命を吹き込むことができたのだった」と大絶賛しています。歌のスタイルも感情に流されない清冽なもので、マーラーでもバロック音楽でも、作品の味わいが自然に滲み出るかのような気品ある歌唱には、様式を超えた特別な魅力が備わっています。遅咲きかつ短命の歌手であったフェリアー。彼女の歌が持つ繊細なドラマ性やフレーズ感を味わうには、歌曲こそが相応しいと思う。現代の耳には一聴、細かなビブラートが気に障るかも知れない。が、聴き進めるにつれ、その質感の良さに魅了されるだろう。

Kathleen Ferrier, London Philharmonic Orchestra ‎– A Recital Of Bach And Handel Arias

  1. J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調より「おん父の右に座したもう主よ」 Qui Sedes - Mass In B Minor
  2. J.S.バッハ:マタイ受難曲より「ざんげと悔悟は罪の心をふたつに押しつぶし」 Grief For Sin - St. Matthew Passion
  3. J.S.バッハ:ヨハネ受難曲より「事終わりぬ」 All Is Fulfilled - St. John Passion
  4. J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調より「神の子羊」 Agnus Dei - Mass In B Minor
Side-B
  1. ヘンデル:オラトリオ『サムソン』より「万軍の主よ、帰りたまえ」 Return O God Of Hosts - Samson
  2. ヘンデル:オラトリオ『メサイア』より「おお、なんじ、よき音信を告げし者」 O Thou That Tellest Glad Tidings - Messiah
  3. ヘンデル:オラトリオ『マカベウスのユダ』より「天なる父」 Father Of Heaven - Judas Maccabaeus
  4. ヘンデル:オラトリオ『メサイア』より「主ははずかしめられたり」 He Was Despised - Messiah
  • Record Karte
  • キャスリーン・フェリアー(コントラルト)、マイケル・ドブソン(オーボエ・ダモーレ)、アンブローズ・ガントレット(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、指揮:サー・エードリアン・ボールト、1952年10月7日、8日ロンドン、キングスウェイ・ホール録音。Re-mastered into stereo from recording made in 7th / 8th October 1952 at the Kingsway Hall, London - her last recording session. For the new release, the original conductor and orchestra recorded a new stereo performance in synchronisation with the original.
  • GB DEC SXL2234 フェリア・ボールト・ロンドンフィル バ…
  • GB DEC SXL2234 フェリア・ボールト・ロンドンフィル バ…

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