アヴァンギャルドで楽しむ優秀録音オーディオファイル盤。 ― シェイベル・マーチャーシュ( Seiber Mátyás, マティアス・セイバー、1905年5月4日〜1960年9月24日)は、ハンガリーの作曲家。ナチから逃れるため1933年に祖国を離れ、1935年以降はイギリスに国籍を取得して定住した。ブダペストでコダーイ・ゾルターンに師事、1928年からフランクフルト・アム・マインで初めてジャズの学術的な講義を行った。1942年よりロンドンのモーリー大学で教鞭をとり、ピーター・ラシーン・フリッカー、アンソニー・ミルナー、ヒュー・ウッド、ウォーリー・ストット(後のアンジェラ・モーリー)らを育てた。そうした後進を育てるために南アフリカ共和国への講演旅行中に自動車事故で死去。作風はジャズ、バルトーク・ベーラやアルノルト・シェーンベルクの強い影響が見られ作品にはカンタータ『ユリシーズ』(ジェイムズ・ジョイスの小説による)や、アニメ『動物農場』などの映画音楽、ハンガリーと南スラヴの民謡による合唱曲などがある。1940年代に BBC のために作曲した、その多くは演劇の付随音楽として書かれた前衛的作品であった。1949年はゲーテ生誕200周年記念の年であり BBC は、この偉大な作家の最高傑作《ファウスト》の新訳作成を1941年より BBC の社員でもあったアイルランドの詩人ルイス・マクニース(1907〜1963)に委託する。この新訳を BBC が6回に分けて放送した際に、セイバーは付随音楽の作曲を依頼されている。本盤はセイバー自演の録音。1960年1月22日の録音ということは、交通事故で不慮の逝去となった作曲家の追悼盤でもあっただろう。他の録音も予定されていたかもしれない。曲はセシル・アーロノヴィッツをソリストに迎えての、小編成のオーケストラとヴィオラのためのエレジー。マティアス・セイバーの歌曲集《詩に寄す》を初演したピーター・ピアースを語りに迎えての、ジェイムズ・ジョイスの「若い芸術家の肖像( A Portrait of the Artist as a Young Man )」からの3つの断章をドリアン・シンガーズとメロス・アンサンブルで録音。主人公スティーヴン・ディーダラスは、ジョイス自身がモデルとされ、代表作『ユリシーズ』の主人公の一人でもある。ディーダラスはギリシャ神話のダイダロスと、太陽の近くまで飛んで墜落した、その息子であるイカロスの説話をふまえたキャラクターで、カトリックの信仰をすてて文学を志すディーダラスの幼年時代から青春時代にいたるまでを描くもので、その文体は童話、教科書、礼拝、説教、美学論、日記など多様なスタイルで書かれていて、教養小説的な要素や自伝小説的要素もある。20世紀を代表する小説家ジェイムズ・ジョイスの1916年初版となった初期作品。勿論、デッカの優秀な録音技術やロンドン・キングズウェイホールの響きの素晴らしさも手伝って、フレージングと楽器の音色がクッキリと浮かび上がってくる。
リストの作品についている「S」。これは「サール番号」といいます。ハンフリー・サールはフランツ・リストの最も正統的な作品表を作成したことにより有名でリスト作品の整理番号の中では、サールの開発した番号づけの方式でご存じの方も多いと思います。ハンフリー・サール( Humphrey Searl, 1915〜1982)は1915年イギリス生まれの作曲家で音楽学者。ロンドンにある王立音楽大学において作曲家ジョン・アイアランドに師事して古典的な音楽を学んでいました。しかしウィーンに留学し、オーストリアの作曲家アントン・ヴェーベルンから作曲を学ぶと一転、十二音技法に代表される新ウィーン楽派のスタイルを踏襲するようになる。戦前のヴォーン=ウィリアムズによって先導された民謡復興による国民音楽の活動はイギリス音楽に勢いをもたらしたが、一方ではノスタルジックな音楽表現にマンネリズムを生み出していた。これに対する反発としてドデカフォニスト達の活動はあったと考えられる。しかしそのモダニズムは急進的ではなく控えめである。「控えめである」ということがイギリスのモダニスト達に共通した傾向である。ブリッジの音楽は無調と調性の折衷であり、またウィリアム・ウォルトンは1923年の ISCM の演奏会で発表した弦楽四重奏曲で、わずか21才にして一躍国際的にその名前が知れ渡るようになりアルバン・ベルクに「イギリスの無調音楽のリーダーである」と言わしめたほど大陸のモダニズムの手法をいち早く取り入れた作曲家であったが、ヒンデミットやストラヴィンスキーなどによって啓発された、新古典主義的な作風へと次第に変化し保守化してゆく。第二次世界大戦後のイギリス音楽はベンジャミン・ブリテンの最初のオペラ『ピーター・グライムズ』 (1945) で始まる。ブリテンは初期にはアルバン・ベルクの強い影響を受けていたが、その後イギリスの古い時代の音楽に関心を寄せるようになる。ヘンリー・パーセルの音楽への関心は変奏技法とオペラのコンポジションの研究にあったと言われ、彼はしばしば「パーセルの相続人」と形容されている。ブリテンの音楽には急進的なアヴァンギャルドな試みや実験は認められない。それはショスタコーヴィチのように、書式は保守的であっても一切妥協のない極めて純化された精神性の高い音楽であると言える。
ハンフリー・サールは戦後において英国におけるセリー技法の進歩的な先駆者となり、彼はラティエンスと共に音列技法のシステマティックな方法を実践し、イギリスにドデカフォニーをもたらしてアヴァンギャルドな活動を推進させた人物である。また映画音楽や、イギリス BBC の長寿SFテレビドラマ「ドクター・フー」などの音楽も担当。プロデューサーとしても活躍し、その地位を用いてセリー技法の普及に尽くした。1954年、ハンフリー・サールは音楽学者として1冊のリスト研究書を発表しました。それが『 The Music of Liszt (リストの音楽)』です。ウェーベルンが1945年に、終戦後に作曲活動を再開する思惑からウィーンを去ってザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難。喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところをオーストリア占領軍の米兵により闇取引の合図と誤解され、その場で射殺された後の事である。この研究書はロマン派としてのリストというより、偉大なピアニストであるフランツ・リストは、ロマンチックな印象派の範囲の中で実験的な作品をあえてする現代音楽の発展において重要な人物だった。とする、革新性や先駆者としての側面にスポットを当てた内容となっているようです。著名な作品に、ダルムシュタットで初演された《22の弦楽器のための詩曲》( Poem for 22 Strings, 1950年)、ゴーゴリ原作によるオペラ《狂人日記》( The Diary of a Madman, 1958年)、5つの交響曲がある。1982年5月12日、ロンドンで没しています。1960年1月19日ロンドン、キングズウェイ・ホール録音。ボールトのニュアンスに富んだ表現はまさに絶妙である。エードリアン・ボールトというと、長命だったこともあってか、晩年の老成した演奏のイメージが強いのですが、1950年代までの彼は、ときにかなりアグレッシヴな演奏もおこなうという、爆演も辞さぬ積極的な芸風の持ち主であったことはマニアにはよく知られています。スコアを十全に見据えた解析力を感じます。エルガーやホルスト等も得意としたイギリス音楽のスペシャリストとされるボールトの手腕に、聴き慣れないこうした曲も新鮮に感じます。
英国の巨匠エードリアン・ボールト( Adrian Boult, 1889~1983 )は、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経てライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶかたわらゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエルガー、ホルスト、ヴォーン・ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。中でもボールトの代名詞ともいうべき作品がホルストの組曲「惑星」です。1945年のBBC交響楽団とのSP録音( EMI )を皮切りに、ボールトは生涯に「惑星」を5回録音も録音しています。1918年9月ロンドンのクイーズ・ホールにおける作品の非公開の全曲演奏(私的初演)が行われた際に、ホルストからの依頼で指揮をとったのがボールトであり、その成功によって「《惑星》に初めて輝きをもたらし、作曲者の感謝を受けたエイドリアン・ボールトに」という献辞の書き込まれた印刷譜を作曲者から送られています。戦後はロンドン・フィル、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトは J.S. バッハからハヴァーガール・ブライアンまで幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽とニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。イギリス人にいわせると軍服ならぬエンビの退役将軍、あるいはパブリック・スクールの老校長を想わせるというが、姿勢の正しさと無駄のないキビキビしたジェスチュアは、まさしく老将軍といった面影をそなえている。ボールトは柔和な表情のうちに威厳を兼ね備えている。一見してイギリス人らしい風貌の持ち主である。ボールトはSPレコードが電気吹き込みになる以前の1920年代からイギリスの様々なレーベルに録音しているが、その中の大手である英 EMI がボールトを発見したのは、1966年、ボールト77歳のときだった。80歳の誕生日祝いのコンサートを振った折り、ボールトはふと、こんなことをもらした。「レコード会社は、ほぼ10年ほど前に私がまだ生きていたってことに突然気づいた。こんなに忙しいのは嬉しいことだが、私がもっと元気だった、それより10年前(60歳代)に起こったらねえ」。一口にいってボールトは極めて地味な指揮者だったから、人気者で名物男だったサー・トーマス・ビーチャムが、1961年に82歳で没し、公衆のアイドルだったサー・マルコム・サージェントが1967年に72歳で没し、芸術の夕映えに輝いていたサー・ジョン・バルビローリが1970年に70歳で没したのち、サー・エードリアン・ボールトが浮上していたというわけである。晩年の10年間、ボールトの録音に協力したクリストファー・ビショップの談によると、80歳代の高齢にもかかわらずボールトの耳は以前としてシャープであり、老眠鏡もかけずに、こまごまとした手書きスコアを読むことができ、健康な食欲に恵まれ録音スタジオのキャンティーン(簡易食堂)で楽員たちと同じ食事をうまそうに平らげていたそうである。
GB DEC SXL2232 エイドリアン・ボールト ハンフリーサー…
GB DEC SXL2232 エイドリアン・ボールト ハンフリーサー…