34-15398
商品番号 34-15398

通販レコード→英ナローバンド ED4 盤[オリジナル]
ショルティにうってつけの豪快華麗な、20世紀を合唱音楽の代表作。 ― 2017年は、20世紀を代表する巨匠指揮者ショルティの没後20年、及び生誕105年にあたります。半世紀にわたり一貫してDECCAに録音し、数々の名盤を遺した重要なアーティストであり続けた。なによりもゲオルグ・ショルティと関係良好だったウィーン・フィルと後世に語り継がれるオペラをウィーンのソフィエンザールで次々と録音している。その一方で英国デッカ社は、ロンドン交響楽団やロンドン・フィルとの有名管弦楽曲の録音を進めた。ショルティはハンガリー人だが、ご存知のとおり後年は英国籍を取得したし「サー」の称号も得ている。シカゴ交響楽団の音楽監督としての活動が主に知られているが、もちろん、ロンドン・フィルは首席指揮者を1979年から83年までつとめているので、ショルティにとって大変縁のあるオーケストラであり、エルガーの2つの交響曲のほか、行進曲「威風堂々」、「エニグマ変奏曲」なども同オーケストラと録音している。ロマンティックで、イギリス的な雰囲気な作風のサー・ウィリアム・ターナー・ウォルトン(1902年〜1983年)は戦後純音楽の分野で活躍しました。『戴冠式テ・デウム』は英国女王エリザベス2世の戴冠式の最後を彩るための音楽で壮麗で祝典的曲で、親しみやすい音楽だ。『ベルシャザールの饗宴』では、ユダヤ人のバビロン捕囚と、やがて実現される予言へ期待 ― ウォルトンの選んだ物語は、旧約聖書に出ている栄華を誇り悪徳の栄えたユーフラテス河畔の大都会バビロンの崩壊 ― を描いている作品です。二重合唱や二群の吹奏楽を要する壮大なこの作品は、さすがショルティの資質にあっているらしくダイナミックな表現が冴えた演奏です。全曲を通して、複雑なリズムと、豊かな管弦楽法が際立っている。聖書の物語を伝えるために利用されたリズム語法や和声法は、ウォルトンが興味を持っていたジャズなどのポピュラー音楽を反映している。しかも録音エンジニアは、あのケネス・ウィルキンソンだ。キラキラ輝く音質はここでも素晴らしい、楽器の音色が判別しやすく、音が前へ前へと飛んで来る勢いがある。そして合唱、オーケストラ、独唱者はオール・イングリッシュ。曲の編成はバリトン独唱、二重混声合唱と膨大な編成のオーケストラにサキソフォーンやあらゆる打楽器(スラップスティック、かなとこ、など)が加わり、これらのオーケストラのほかに2つのブラスバンドが指揮者の左右に配される。“ステレオはロンドン”のデッカに打って付けの豪快華麗なウォルトンの代表作で、また今世紀の合唱音楽の代表作でもある。大都市バビロンの崩壊を嘆く声に平行してユダヤ人民は自由を喜び合い、歓喜の合唱を歌うクライマックスは、カラヤンが「20世紀で最もすぐれた合唱作品」と言ったのが納得できる、壮麗な音響が楽しめる。
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第二次世界大戦勃発直前の1941年頃に潜水艦ソナー開発の一翼を担い、その際に、潜水艦の音を聞き分ける目的として開発され、当時としては画期的な高音質録音方式であった。1945年には高域周波数特性を12KHzまで伸ばしたffrr仕様のSP盤を発売し、1950年6月には、ffrr仕様の初のLP盤を発売する。特にLP時代には、この仕様のLPレコードの音質の素晴らしさは他のLPと比べて群を抜く程素晴らしく、当時のハイファイ・マニアやレコード・マニアに大いに喜ばれ、「英デッカ=ロンドンのffrrレコードは音がいい」と定着させた。日本では1954年1月にキングレコードから初めて、ffrr仕様のLP盤が発売された。ステレオ録音黎明期1958年7月には、その技術を受け継いだステレオ・レコードであるffss(Full Frequency Stereophonic Sound 全周波数立体音響)を発表、この先進技術を武器に数多くの優秀な擦れてお録音のレコードを発売。そのハイファイ録音にステレオ感の良さが加わり、アナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけ君臨し続けた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマン SX-68 を導入するまで続けられた。Hi-Fiレコードの名盤が多い、イギリス・デッカのセンター・レーベルのデザインは年代別に4つのグループに分けることができる。それぞれを、English DECCA を記号化してオーディオファイルは ED1, ED2, ED3, ED4と呼んでいる。また、それら中でも、ED1からED3までを「ラージ・ラベル」、ED4を「スモール・ラベル」と大別している。ラージ・ラベルはスモール・ラベルよりもセンターレーベルの大きさがひとまわり大きく、レーベル中にデザインされている銀色の帯(黒色で「 FULL FREQUENCY 」と書かれている)の幅が13ミリメートルありED4よりかなり広いため、「ワイド・バンド」とも呼ばれています。SXL ナローバンドは、ED4スモール・ラベルと日頃は呼んでいます。ED1から比べると中央の「FULL FREQUENCY ...」の幅が狭くなり重量も軽くなります。ナローバンドが初版になるLPも多くあり、製盤技術、材質は安定していて再生の難しいED1と比べて再発盤でも初版より優れているケースも有ります。SXL 6435と 6447、6449以降はナローバンドが初版となります。総じて価格は手頃ですが、SXL6529(メータ指揮ロス・フィル 「惑星」)、SXL6721(チョン・キョン・ファ バッハ パルティータ)等は高額です。この2枚はジャケットの痛みが激しくても一度は手元に置きたいと思うものなのでしょう。
理想主義者にして実用主義の一面もある。
日本では米国シカゴ交響楽団の音楽監督(1969~91年)として名声を博したが、57歳で同響に招かれるまでオーケストラに固定ポストを得たことはなかった。実演、録音の両分野を通じオペラ指揮者として世界的評価を確立したのが実態だ。一家はもともとシュテルン(「星」の意味)というユダヤ系の姓を名乗った。父親が子どもたちの将来を案じ、よりハンガリー風のショルティに改めた。ブダペストのリスト音楽院で大作曲家のバルトーク、コダーイ、ドホナーニ、ヴェイネルらの教えを受け、13歳の時にエーリヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)が指揮するべートーヴェンの交響曲第5番を聴き、指揮者を志した。旧ハプスブルク帝国の一角だけに、ハンガリーでも歌劇場で指揮者を育てるシステムが整い、ショルティは18歳でブダペスト歌劇場のコレペティトゥア(指揮者の能力を備えた練習ピアニスト)に就職した。1936年にザルツブルク音楽祭のオーディションに受かり、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが指揮した「魔笛」(モーツァルト)で、かわいらしい音がする打楽器のグロッケンシュピールを担当した。1991年のモーツァルト没後200年にザルツブルクで「魔笛」を指揮したショルティはグロッケンシュピールを打ち、トスカニーニの思い出を語った。良い時代は続かなかった。ナチスを恐れ、トスカニーニのつてでスイスから米国へ逃れようと考えたショルティは1939年8月15日、ブダペスト中央駅を旅立った。父が見送りに来て感極まり、息子は「1週間の別れで泣くなよ!」とたしなめた。「それが父を見た最後でした」一度は帰国を試みたが「母は何かを予感したのか、絶対にダメだと言った」。亡くなる5日前まで続いたBBC(英国放送協会)のインタビューで、ショルティは涙ながらに振り返った。番組は死後に日本のNHKでも放映され、大きな反響を呼んだ。生活に困りジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門に応募したところ優勝、ようやく芽が出た。終戦直後、ハンガリーでの復職を望んだが断られ駐留米軍人として欧州に戻ったリスト音楽院の同級生のつてでナチス崩壊直後のドイツ、しかも廃虚のミュンヘンでバイエルン州立歌劇場音楽監督のポストを得た。経験不足は明らかだったが「物資も資金も同じように不足、上演回数が限られていたので勉強する時間があり、助かった」という。1949年には最晩年の作曲家リヒャルト・シュトラウスと出会い、貴重な助言を授かった。同年9月8日にシュトラウスが亡くなった際、ショルティは葬儀でオペラの代表作「ばらの騎士」の一場面を指揮した。英デッカのプロデューサー、ジョン・カルーショウは1958年、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」4部作初のステレオ全曲録音を名門ウィーン・フィルの演奏で実現したとき、「従来のワーグナー指揮者にない感性と聴覚の鋭さ、すべての旋律を切り立たせる力を備えた鬼才」としてショルティ起用に踏み切った。結果は世界でベストセラーの大成功。これらリヒャルト・シュトラウスとワーグナーは終生、ショルティのオペラ指揮の柱となった。ハンガリー人の激しい気性を表す、「マジャール気質」という言葉がある。ショルティも十分マジャール気質を発揮、還暦(60歳)過ぎても、激しく振り過ぎた指揮棒を自らの額に刺し、血を流す「事件」を起こした。演奏もマッチョな力感にあふれウィーン・フィルやシカゴ響、ロンドン交響楽団と行った来日公演も「精神性」を尊ぶ日本のファンの間では賛否が分かれた。さすがに晩年は陰影が加わり、ヴェルディの渋いオペラ「シモン・ボッカネグラ」などでの枯れた指揮ぶりは長年の聴衆を驚かせた。「ザ・ラスト・レコーディング」と銘打たれたブダペスト祝祭管弦楽団との1枚は40数年ぶりでハンガリーに帰郷、奇跡的に残った祖父母の墓参りを済ませた前後の1997年6月末に録音された。曲目はバルトークの「カンタータ・プロファーナ」とヴェイネルの「小オーケストラのためのセレナード」、コダーイの「ハンガリー詩編」。リスト音楽院時代の恩師3人に捧げたアルバムで、ショルティは輝かしい盤歴を閉じた。シカゴで共演したピアニスト、田崎悦子に「忘れちゃいけないよ。明日もまた、鳥はさえずるんだよ」と声をかけた通り、ショルティのマジャール魂は最後の一瞬まで不滅だった。
サー・ゲオルグ・ショルティは20世紀に最も活躍した指揮者の一人で、ヨーロッパ、アメリカの音楽文化をリードしてきました。ピアノ、作曲、指揮をバルトーク、ドホナーニ、コダーイに学び、ピアニストとしてコンサート・デビューを果たしました。1937年にはザルツブルク音楽祭でトスカニーニの助手を務めました。最初のデッカへのレコーディングは1947年、デッカの特別なアーティストとして半世紀にわたり250を超える膨大な録音を残し、そのうちの45はオペラの全曲です。ショルティのシカゴ響との注目すべきパートナーシップは1954年に始まり、その時ショルティはラヴィニア音楽祭で初めてこのオーケストラを指揮しました。1956年リリック・オペラで客演のためにシカゴに戻り、1965年12月9日シカゴ、オーケストラ・ホールでデビューを果たしました。彼の音楽監督としての最初のコンサートは1969年9月でした。ショルティは22年間(1969年〜1991年)、音楽監督を務め、その後桂冠指揮者として7年間(1991年〜1997年)、死の直前までその活動を続けました。1971年に最初のツアーをスタートさせ、世界中にこのオーケストラの存在を広めた功績を忘れることはできません。1970年3月にシカゴのメディナ・テンプルで行われたマーラーの第5交響曲の初期録音から、1997年3月にシカゴのオーケストラ・ホールで行われたショスタコーヴィチの交響曲第15番まで、シカゴ交響楽団との演奏は世界における最も有名な指揮者とオーケストラのパートナーシップと高く評価され、グラミー賞も数多く受賞しました。ショルティの幅広いレパートリーには、ヘンデルの『メサイア』、ハイドンの『創造』、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』、リストの『ファウスト交響曲』、そしてまたショスタコーヴィチの『モーゼとアロン』のような20世紀の傑作なども見られます。シカゴ響とともに新しい作品に取り組み、現代作曲家を擁護し、マルティヌーのヴァイオリン協奏曲第1番、デル・トレディチの『最後のアリス』、ティペットの交響曲第4番と『ビザンティウム』、ルトスワフスキの交響曲第3番などの初演も行いました。ショルティは生涯にわたりグラミー賞を33回受賞しましたが、そのうち24回はシカゴ交響楽団とともに受賞しました。
『戴冠式テ・デウム』 ― ソールズベリー大聖堂聖歌隊、ウィンチェスター大聖堂聖歌隊、チチェスター教会聖歌隊、ラルフ・ダウンズ(オルガン)、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団&合唱団。オラトリオ『ベルシャザールの饗宴』 ― ベンジャミン・ラクソン(バリトン)、ラルフ・ダウンズ(オルガン)、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団&合唱団。1977年3月ロンドン、キングズウェイ・ホールでのセッション・ステレオ録音。
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