34-17593

商品番号 34-17593

通販レコード→英ワイドバンドED3盤

〝ROH〟パフォーマンスの玉手箱 ―  誰もが、独自のハイライトを持っていると思います。これは英国デッカの豊富な録音アーカイブから採掘された定番名曲のボックスセットではなく、これは当時のコヴェントガーデン・カンパニーのアニヴァーサリーを祝うだけの記念盤ではありません。ジョーン・サザーランド、ギネス・ジョーンズ、ピーター・ピアース、ティート・ゴッビにイヴォンヌ・ミントン。わたしが若いオペラ・ファンになった時には、これらの歌手はピークに達していましたが、それ自体が魅力的なコレクションです。さらに、ウォルトン、ブリテン、およびティペットのオペラ作品が、ヴェルディ、プッチーニ、モーツァルトなどの世界中の歌劇場で人気のあるレパートリー作品と並んでいます。英国ロンドンのコヴェントガーデンを本拠とするロイヤル・オペラ・ハウスの始まりは、17世紀にイングランド国王チャールズ2世がサー・ウィリアム・ダベナントに渡した特許状に由来する。当時1つの劇団しかなかったロンドンで、ダベナントは大手を振って新しい団体を運営することを認められた。まず、1728年に俳優兼マネージャーであったジョン・リッチは、劇作家ジョン・ゲイの『乞食オペラ』を上演した。このオペラは大きな成功を収め、これにより得た資金を元に歌劇場の建設が決定、エドワード・シェファードの設計によるシアター・ロイヤルが建設され、1732年12月7日に1回目の公演が行われた。さっそく1734年にはヘンデルが、ここを活動の場にするためにやってくる。ヘンデルのオラトリオ作品の大部分もここコヴェント・ガーデンで上演され、幕間には即興でオルガン演奏の腕前を披露した。オルガンは舞台の最も目立つ位置に据えられていた。ところが、1808年に発生した火事によってこのオルガンを含め、多くの物品は失われてしまった。それは折しも、貴族オペラの終焉と時を同じくしている。歌劇場の再建は同年12月に開始され、1809年9月18日に第1回公演が行われ、『マクベス』の上演で幕開ける。この頃、ロンドンにおける娯楽は多様化していた。オペラとバレエはその中心であったが、決してそれだけではなかった。1856年3月5日に劇場は再び火事に襲われ、第一次世界大戦中には建設省に接収され、家具の保管場所として利用された。第二次世界大戦中はダンスホールとして用いられていたが、歌劇場として再建することが決まり、ロイヤル・オペラ・ハウスは1946年2月20日にオリヴァー・メッセルの手による『眠れる森の美女』の上演により再開された。1955年から1958年まで、ラファエル・クーベリックが音楽監督をつとめているが、そのあと音楽監督が空位の時期に、サー・ゲオルグ・ショルティがトレードマークのようなリヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』でイギリスのコヴェント・ガーデン王立歌劇場に登場、その成功により1961年に音楽監督に就任した。その時ショルティ49歳。
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サー・ゲオルグ・ショルティがコヴェント・ガーデン王立歌劇場の音楽監督に就任した時、気に障る先輩指揮者がいた。その名は、レジナルド・グッドオール。その男、ワーグナー馬鹿の聴き手にとってはスペシャルな存在だ。コヴェント・ガーデン時代の10年間、ショルティはグッドオールと同じ職場にいながら、指揮の才能の疑問を持っていたため、グッドオールに指揮をさせなかったのだが、ロンドンのもうひとつの歌劇団、サドラーズ・ウェルズ・オペラ(現在のイングリッシュ・ナショナル・オペラ)でグッドオールがワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を振ったところ、大絶賛を浴びてしまったのだった。ワーグナーのファンはイギリスにもけっして少なくなかったが、上演のさいには、ドイツから大指揮者を招いて指揮してもらうのが当然だった。時は20世紀半ば、イギリスがオペラの大輸入国で首都ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場さえ、やっと自前のカンパニー(歌劇団)を常設したばかりの頃である。コヴェント・ガーデンの指揮者陣に加えてもらっていたグッドオールは筋金入りのワーグナー馬鹿で、ワーグナーの楽劇を指揮することしか眼中になく、それ以外の音楽にはほとんど目もくれなかった。であったからに、どれほど彼が切歯扼腕しようともワーグナーを指揮する機会は与えられなかった。好きでもないイタリア・オペラばかり指揮させられた男は、投げやりになった。気難しい上に、独学の指揮はひどくわかりにくかったから、やがて男は指揮棒を取りあげられた。コヴェント・ガーデンの最上階、掃除係と共同の一部屋に押し込められ、歌手のコーチだけがその唯一の仕事となった。ところが1968年、63歳になった彼が引退を考えはじめたとき運命が変わった。一夜にしてイギリス最高のワーグナー指揮者として、熱狂的な人気を博することになった。指揮者ストーリーのシンデレラだ。当然、なんでコヴェント・ガーデンでは冷遇されてるんだ、嫌がらせじゃないのか、という声も上がるわけで、若いショルティの仕打ちは、その批判の矛先にもされたらしい。ショルティは「ショルティ自伝」にはグッドオールについて…私は彼に指揮の機会を与えないといって非難された。目がなかったのかもしれないが、私の意見はそうだった。と書いている。しかも、録音史上の金字塔となるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのスタジオ録音と、このコヴェントガーデンでの〝指環〟上演は並行して行われていました。こちらもすべてにおいて初の試みであり、録音時には多くの困難があったことが伝えられています。〝神々の黄昏〟はコヴェントガーデンでの上演が、ショルティが初めて公式に演奏した場でもありました。当日の演奏は特にビルギット・ニルソンの歌唱が多くの称賛を集め、全体としても大変高く評価されました。ローゼンタールショルティが正しくケンペが間違っているというわけではない。逆もまた然り。ワーグナー音楽へのアプローチ方法はひとつではないのだから。だからこそ、ワーグナーの音楽は人々を魅了し続け永遠に生き続けるのだ。その夜のオーケストラの出来は素晴らしく、コヴェント・ガーデンが一流歌劇場オーケストラを持ったことを実感させた。今まで聴くことのなかったワグネリアンのどよめきが沸き立ち、オーケストラの響きは言葉で言い尽くせぬほど刺激的だった。とショルティの選択したスタイルは当時のコヴェント・ガーデンで聴かれたものとはかなり異質なものだったことも指摘しながらも、ショルティの音楽家魂、響きとバランスに対する耳の良さ、この音楽を牽引する力と情熱を賞賛している。この高評価を経て、コヴェントガーデンのチクルスの完成、さらにはデッカ録音の成功へと繋がって行きます。このコンサートは、その後のワーグナー録音史の流れを決める分水嶺とも言える瞬間だったのです。
リチャード・ボニング(Richard Bonynge)は1930年、オーストラリアのシドニー生まれの指揮者。ジョーン・サザーランドとのおしどり夫婦は有名。ドイツ系のレパートリーは中心には据えていないが、モーツァルトやウィンナ・オペレッタには比較的熱心であり、英国DECCAには夫人とのオペラ録音があります。 一方、バレエ音楽の指揮も得意としており、英国DECCAには珍しい曲目を含めて多数のバレエ音楽録音があります。生地でピアノを学び、14歳でグリーグのピアノ協奏曲を弾いてデビュー、ピアニストへの道を歩んでいた。1950年に渡米、ロンドンの王立音楽院に留学、ロンドンでピアノのリサイタルを開く一方、同じオーストラリアから王立音楽院に留学していたソプラノ歌手、サザーランドとの出会いによってオペラの世界に魅せられ、指揮者に転向する。1954年、名ソプラノ歌手サザーランドと結婚、伴奏者兼ヴォイス・トレーナーを務めながら、ベル・カント・オペラの研究を続ける。この方面で忘れられていた作品の復活蘇演に尽力している。またワーグナー・ソプラノを目指してソプラノ歌手を目指したサザーランドにコロラトゥーラに転向するよう助言したのもボニングで、ロイヤル・オペラ・ハウスが夫人サザーランドにワーグナーやリヒャルト・シュトラウス作品の役を与えようとした時、ボニングは歌劇場当局に抗議したという。1962年にローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団で指揮デビュー、1963年にはヴァンクーバー歌劇場でグノーの歌劇『ファウスト』を振ってオペラ・デビュー、さらにその翌年にはロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場、国際的な活動を開始し、オペラ指揮者として不動の地位を獲得する。1970年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビュー、ヴァンクーバー歌劇場を経て、1976~85年シドニー歌劇場の音楽監督を務めた後、フリーとして活躍、バレエのスペシャリストとしても知られている。1975年にメトロポリタン歌劇場に帯同して初来日、1978年にもサザーランド夫人のリサイタルの伴奏指揮者として再来日している。本盤では、バレエの佳品から最大の見せ場を聴かせます。
Royal Opera House, Covent Garden ‎– Covent Garden Opera, Anniversary Album
  • Side-A
    1. Bizet Carmen, Prelude Conductor – Georg Solti ビゼー:『カルメン』第1幕への前奏曲 指揮:サー・ゲオルク・ショルティ
    2. Donizetti La Fille Du Regiment Conductor – Richard Bonynge, Soprano – Joan Sutherland ドニゼッティ:『連隊の娘』~高い身分と豪勢な暮しに・・・フランス万歳! ジョーン・サザーランド(ソプラノ)、指揮:リチャード・ボニング
    3. Berlioz Les Troyens A Carthage. Act IV. Scene 3 Conductor – Rafael Kubelik, Mezzo-soprano – Josephine Veasey ベルリオーズ:『トロイ人』~モノローグ ジョセフィン・ヴィージー(メゾ・ソプラノ)、指揮:ラファエル・クーベリック
    4. Mussorgsky Boris Godunov. Coronation Scene Conductor – Edward Downes, Tenor – John Lanigan, Bass – Joseph Rouleau ムソルグスキー:『ボリス・ゴドゥノフ』~ボリス・フェオドロヴィチ皇帝ばんざい…わが魂は悲しむ! ジョセフ・ルーロー(バス)、ジョン・ラニガン(テノール)、指揮:サー・エドワード・ダウンズ
  • Side-B
    1. Mozart Le Nozze Di Figaro. Act III Conductor – Georg Solti, Soprano – Joan Carlyle モーツァルト:『フィガロの結婚』K.492~Dove sono ジョーン・カーライル(ソプラノ)、指揮:サー・ゲオルク・ショルティ
    2. Verdi Otello. Act I Conductor – Georg Solti, Tenor – John Dobson, Baritone Vocals – Tito Gobbi ヴェルディ:『オテロ』~喜びの炎…喉を潤そう ティト・ゴッビ(バリトン)、ジョン・ラニガン、ジョン・ロブソン(テノール)、指揮:サー・ゲオルク・ショルティ
    3. Verdi Falstaff. Act III Conductor – Edward Downes, Baritone – Geraint Evans ヴェルディ:『ファルスタッフ』~Eh! Taverniere ..Mondo ladro サー・ジェレイント・エヴァンス(バリトン)、指揮:サー・エドワード・ダウンズ
    4. Puccini La Boheme. Act III Conductor – Edward Downes, Soprano – Elizabeth Vaughan, Maria Pellegrini, Tenor – Jean Bonhomme, Baritone – Delme Bryn-Jones プッチーニ:『ボエーム』~Addio, dolce svegliare エリザベス・ヴォーン、マリア・ペレグリーニ(ソプラノ)、ジャン・ボノーム (テノール)、デルメ・ブリン=ジョーンズ(バリトン)、指揮:サー・エドワード・ダウンズ
  • Side-C
    1. Britten A Midsummer Nights Dream Conductor – Georg Solti, Soprano – Elizabeth Robson, Mezzo-soprano – Anne Howells, Tenor – Kenneth Macdonald, Baritone – Delme Bryn-Jones ブリテン:『真夏の夜の夢』~ヘレナ! ハーミア! デメトリアス! ライサンダー! デルメ・ブリン=ジョーンズ(バリトン)、ケネス・マクドナルド(テノール)、エリザベス・ロブソン、アン・ハウエルズ(ソプラノ)、指揮:サー・ゲオルク・ショルティ
    2. Britten Billy Budd. Act I Scene 3 Conductor – Georg Solti, Bass – Forbes Robinson ブリテン:『ビリー・バッド』Op.50~オー・ビューティ・ハンサムネス・グッドネス フォーブス・ロビンソン(バス)、指揮:サー・ゲオルク・ショルティ
    3. Tippett King Priam. Act I. Scene 2 Guitar – John Williams, Tenor – Richard Lewis ティペット:『プリアム王』~オー・リッチ・ソイルド・ランド リチャード・ルイス(テノール)、ジョン・ウィリアムズ(ギター)
    4. Walton Troilus And Cressida. Act II. Scene 1 Conductor – Sir William Walton, Soprano – Marie Collier, Tenor – Peter Pears ウォルトン:『トロイラスとクレシダ』~ハウ・キャン・アイ・スリープ? マリ・クレール(ソプラノ)、サー・ピーター・ピアーズ(テノール)、指揮:サー・ウィリアム・ウォルトン
  • Side-D
    1. Beethoven Fidelio. Act I. Scene 4 Conductor – Georg Solti, Soprano – Elizabeth Robson, Gwyneth Jones, Tenor – John Dobson, Bass – David Kelly ベートーヴェン:『フィデリオ』~何という不思議な気持ちでしょう エリザベス・ロブソン(ソプラノ)、ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)、ジョン・ドブソン (テノール)、デイヴィッド・ケリー(バス)、指揮:サー・ゲオルク・ショルティ
    2. Richard Strauss Der Rosenkavalier. Act II Conductor – Georg Solti, Soprano – Yvonne Minton, Bass – Michael Langdon リヒャルト・シュトラウス:『ばらの騎士』Op.59~騎士様 イヴィンヌ・ミントン(メゾ・ソプラノ)、指揮:サー・ゲオルク・ショルティ
    3. Richard Strauss Elektra Conductor – Edward Downes, Soprano – Amy Shuard リヒャルト・シュトラウス:『エレクトラ』Op.58~そんなことはききたくない エイミー・シュアード(ソプラノ)、指揮サー・エドワード・ダウンズ
    4. Wagner Das Rheingold. Scene 4 Conductor – Reginald Goodall, Bass – David Ward ワーグナー:『ラインの黄金』~夕べの空は陽に映えて デイヴィッド・ウォード(バス)、指揮:レジナルド・グッドオール
ユダヤ人であったショルティはナチスの迫害を逃れスイスに亡命を強いられたり、地方のオペラ座の監督等を歴任していたが、ワーグナーの大作「ニーベルングの指環」の初のスタジオ録音をウィーン・フィルと共に完成させ一躍トップ指揮者になる。マーラーの交響曲についても比較的早くから取り組んでおり、1960年代にロンドン交響楽団と第1、2、3、9番、そしてコンセルトへボウ・アムステルダムとともに第4番の録音を行っている。ショルティのマーラーには、どこをとっても曖昧な箇所がなく明瞭で光彩陸離たる音響に満たされている。1969年からのシカゴ交響楽団との蜜月時代にはカラヤン&ベルリン・フィルと並ぶ世界最強の音楽チームとして認められ、1970年及び1971年に録音された第5~8番を皮切りに1980~1983年にかけて第1~4番と第9番を再録音してマーラーの交響曲全集を完成させるなどコンサートに録音にと他の追随を許さない完成度の高い音楽を世界に提供した。強靭なリズム感とメリハリの明瞭さはショルティの鋭角的な指揮ぶりからも明らかであり、これは最晩年になっても変わりがないものであった。ハンガリー人の激しい気性を表す、「マジャール気質」という言葉がある。ショルティも十分マジャール気質を発揮、還暦(60歳)過ぎても激しく振り過ぎた指揮棒を自らの額に刺し、血を流す「事件」を起こした。演奏もマッチョな力感に溢れウィーン・フィルやシカゴ響、ロンドン響と行った来日公演も「精神性」を尊ぶ日本のファンの間では賛否が分かれた。さすがに晩年は陰影が加わり、ヴェルディの渋いオペラ「シモン・ボッカネグラ」などでの枯れた指揮ぶりは長年の聴衆を驚かせた。1997年、ダイアナ妃、マザーテレサが亡くなった数日後、療養先の南フランスにて急死する。気性は激しかったが、病や死といったイメージから最もほど遠かった指揮者だけにショルティ・ファン以外のクラシック音楽ファンにも衝撃を与えた。その旺盛なショルティのスケジュールには、翌週のダイアナ妃の追悼コンサートの指揮や、2000年の予定まで入っていたという。「ザ・ラスト・レコーディング」と銘打たれたブダペスト祝祭管弦楽団との1枚は40数年ぶりでハンガリーに帰郷、奇跡的に残った祖父母の墓参りを済ませた前後の1997年6月末に録音された。曲目はバルトークの「カンタータ・プロファーナ」とヴェイネルの「小オーケストラのためのセレナード」、コダーイの「ハンガリー詩編」。リスト音楽院時代の恩師3人に捧げたアルバムで、ショルティは輝かしい盤歴を閉じた。シカゴで共演したピアニスト、田崎悦子に「忘れちゃいけないよ。明日もまた、鳥はさえずるんだよ」と声をかけた通り、ショルティのマジャール魂は最後の一瞬まで不滅だった。
理想主義者にして実用主義の一面もある。
ゲオルク・ショルティは、日本では米国シカゴ交響楽団の音楽監督(1969~91年)として名声を博したが、57歳で同響に招かれるまでオーケストラに固定ポストを得たことはなかった。実演、録音の両分野を通じオペラ指揮者として世界的評価を確立したのが実態だ。一家はもともとシュテルン(「星」の意味)というユダヤ系の姓を名乗った。父親が子どもたちの将来を案じ、よりハンガリー風のショルティに改めた。ブダペストのリスト音楽院で大作曲家のバルトーク、コダーイ、ドホナーニ、ヴェイネルらの教えを受け、13歳の時にエーリヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)が指揮するべートーヴェンの交響曲第5番を聴き、指揮者を志した。旧ハプスブルク帝国の一角だけに、ハンガリーでも歌劇場で指揮者を育てるシステムが整い、ショルティは18歳でブダペスト歌劇場のコレペティトゥア(指揮者の能力を備えた練習ピアニスト)に就職した。1936年にザルツブルク音楽祭のオーディションに受かり、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが指揮した「魔笛」(モーツァルト)で、かわいらしい音がする打楽器のグロッケンシュピールを担当した。1991年のモーツァルト没後200年にザルツブルクで「魔笛」を指揮したショルティはグロッケンシュピールを打ち、トスカニーニの思い出を語った。良い時代は続かなかった。ナチスを恐れ、トスカニーニのつてでスイスから米国へ逃れようと考えたショルティは1939年8月15日、ブダペスト中央駅を旅立った。父が見送りに来て感極まり、息子は「1週間の別れで泣くなよ!」とたしなめた。「それが父を見た最後でした」一度は帰国を試みたが「母は何かを予感したのか、絶対にダメだと言った」。亡くなる5日前まで続いたBBC(英国放送協会)のインタビューで、ショルティは涙ながらに振り返った。番組は死後に日本のNHKでも放映され、大きな反響を呼んだ。生活に困りジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門に応募したところ優勝、ようやく芽が出た。終戦直後、ハンガリーでの復職を望んだが断られ駐留米軍人として欧州に戻ったリスト音楽院の同級生のつてでナチス崩壊直後のドイツ、しかも廃虚のミュンヘンでバイエルン州立歌劇場音楽監督のポストを得た。経験不足は明らかだったが「物資も資金も同じように不足、上演回数が限られていたので勉強する時間があり、助かった」という。1949年には最晩年の作曲家リヒャルト・シュトラウスと出会い、貴重な助言を授かった。同年9月8日にシュトラウスが亡くなった際、ショルティは葬儀でオペラの代表作「ばらの騎士」の一場面を指揮した。英デッカのプロデューサー、ジョン・カルーショウは1958年、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」4部作初のステレオ全曲録音を名門ウィーン・フィルの演奏で実現したとき、「従来のワーグナー指揮者にない感性と聴覚の鋭さ、すべての旋律を切り立たせる力を備えた鬼才」としてショルティ起用に踏み切った。結果は世界でベストセラーの大成功。これらリヒャルト・シュトラウスとワーグナーは終生、ショルティのオペラ指揮の柱となった。
サー・ゲオルグ・ショルティは20世紀に最も活躍した指揮者の一人で、ヨーロッパ、アメリカの音楽文化をリードしてきました。ピアノ、作曲、指揮をバルトーク、ドホナーニ、コダーイに学び、ピアニストとしてコンサート・デビューを果たしました。1937年にはザルツブルク音楽祭でトスカニーニの助手を務めました。最初のデッカへのレコーディングは1947年、デッカの特別なアーティストとして半世紀にわたり250を超える膨大な録音を残し、そのうちの45はオペラの全曲です。ショルティのシカゴ響との注目すべきパートナーシップは1954年に始まり、その時ショルティはラヴィニア音楽祭で初めてこのオーケストラを指揮しました。1956年リリック・オペラで客演のためにシカゴに戻り、1965年12月9日シカゴ、オーケストラ・ホールでデビューを果たしました。彼の音楽監督としての最初のコンサートは1969年9月でした。ショルティは22年間(1969年〜1991年)、音楽監督を務め、その後桂冠指揮者として7年間(1991年〜1997年)、死の直前までその活動を続けました。1971年に最初のツアーをスタートさせ、世界中にこのオーケストラの存在を広めた功績を忘れることはできません。1970年3月にシカゴのメディナ・テンプルで行われたマーラーの第5交響曲の初期録音から、1997年3月にシカゴのオーケストラ・ホールで行われたショスタコーヴィチの交響曲第15番まで、シカゴ交響楽団との演奏は世界における最も有名な指揮者とオーケストラのパートナーシップと高く評価され、グラミー賞も数多く受賞しました。ショルティの幅広いレパートリーには、ヘンデルの『メサイア』、ハイドンの『創造』、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』、リストの『ファウスト交響曲』、そしてまたショスタコーヴィチの『モーゼとアロン』のような20世紀の傑作なども見られます。シカゴ響とともに新しい作品に取り組み、現代作曲家を擁護し、マルティヌーのヴァイオリン協奏曲第1番、デル・トレディチの『最後のアリス』、ティペットの交響曲第4番と『ビザンティウム』、ルトスワフスキの交響曲第3番などの初演も行いました。ショルティは生涯にわたりグラミー賞を33回受賞しましたが、そのうち24回はシカゴ交響楽団とともに受賞しました。
ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereophonic Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。第2次世界大戦勃発直後の1941年頃に潜水艦ソナー開発の一翼を担い、その際に、潜水艦の音を聞き分ける目的として開発された技術が、当時としては画期的な高音質録音方式として貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。1945年には高域周波数特性を12KHzまで伸ばしたffrr仕様のSP盤を発売し、1950年6月には、ffrr仕様の初のLP盤を発売する。特にLP時代には、この仕様のLPレコードの音質の素晴らしさは他のLPと比べて群を抜く程素晴らしく、その高音質の素晴らしさはあっという間に、当時のハイファイ・マニアやレコード・マニアに大いに喜ばれ、「英デッカ=ロンドンのffrrレコードは音がいい」と定着させた。日本では1954年1月にキングレコードから初めて、ffrr仕様のLP盤が発売された。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてFFSSが使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売。そのハイファイ録音にステレオ感が加わり、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。Hi-Fiレコードの名盤が多い。
  • Record Karte
  • 1968年リリース、2枚組。1958年6月、1960年5月、1967年7月、1968年2~3,5~7月ロンドン、キングスウェイ・ホール、ステレオ録音
  • GB DEC  SET392-3 ボニング&ショルティ 他 …
  • GB DEC  SET392-3 ボニング&ショルティ 他 …
  • GB DEC  SET392-3 ボニング&ショルティ 他 …
Royal Opera Gala
Orch of the Royal Opera House
Eloquence
2009-03-06

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