34-23168

商品番号 34-23168

通販レコード→英ワイドバンド ED2 オリジナルですが、最初の1枚 ED1 混合の珍品盤

イタリア・オペラの醍醐味を楽しむ、当代随一のゴールデン・キャストを揃えた名盤 ―  レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。この《ドン・カルロ》は社運をかけたプロジェクト『ニーベルングの指環』全曲盤の「神々の黄昏」録音期間に当てはまる。その反映かヴェルディの時代物の緊迫感を強く感じさせるところが、この録音全体に徹底しているところが魅力となっています。これ以上劇的に壮大なオペラはないのではないか。ヴェルディ作品の中で、もっとも人間の心理の深淵に踏み込んだ作品。登場人物がそれぞれ逃れられない宿命的な運命を背負いながら、それぞれが複雑に絡み合いながら進行する壮大な歴史悲劇です。そして、シラー原作によるこの壮大な音楽劇をサー・ゲオルグ・ショルティが手堅く引き締め、聴き手を深く感動させてくれます。1965年にコヴェント・ガーデン歌劇場で録音。この作品は幾つもの版があって複雑ですが、これは1886年のモデナ版と呼ばれるイタリア語5幕版による録音で現在多くの上演で使われているものです。原典版はフランス語歌唱の5幕版。これが長かったので改訂が繰り重ねられます。パリ初演版は短縮を試みられ、それをイタリア語歌唱に改めたボローニャ版。続くナポリ版は原典版のフランス語をイタリア語に変え、台本が大幅に見なおされた。その後、ミラノ・スカラ座版で全体の50%をカットして良いところだけを残し、無理の無いよう作曲し直した。これが現在一般的に上演されている4幕版。オペラは上演当時であれば、ネタ元を観客もよく把握していて観劇するものですが、そのスカラ座版でカットした第1幕を復活させたのがモデナ版です。ヴェルディ自身の改訂はここまでなのですが、オペラの常として、その後も演出家、指揮者の考えで復活されるシーンが有ったり、カットされる音楽もあったり。本筋を理解できていれば、そういう演出も楽しみの一つ。劇場では感動的だけど、それだからこそ、レコードでは満足できるものが少ない。本盤は〝20世紀最高のプリマ〟と言われたレナータ・テバルディをはじめ、〝マリオ・デル=モナコと並ぶテノール〟のカルロ・ベルゴンツィのほか、ニコライ・ギャウロフ、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウといった当代随一のゴールデン・キャストを揃えたイギリスDECCAならではの名盤。最も聴きどころはドラマティックで情感溢れる歌唱で素晴らしいテバルディのエリザベッタ。キャラクターが良く立ってます。ギャウロフのフィリッポ2世、グレース・バンブリーのエボリ公女が好演。イタリア・オペラにはもう少し歌いあげて欲しかったのは、ロドリーゴ役のフィッシャー=ディースカウ。多彩な音色を駆使して言葉のニュアンスを細かく表現する彼の歌唱は歌唱効果をあげようという癖が裏目に出た印象。劇性を高めようとしてのことでしょうが、そこが痛し痒し。特に第2幕の王との二重唱が、理想主義的な考えから、体制内にありながらはみ出しがちなロドリーゴの存在を対比させた点でとても聞きごたえがありました。この録音のキャスティングの狙いもそこにあったのではないでしょうか。この成果が、ヘルベルト・フォン・カラヤンが『ラインの黄金』でウォータンに起用した理由だろうと思います。わたしはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の性能を遺憾なく発揮させた、ヴェルディのオーケストレーションで宿命的な歴史悲劇を描き上げたカラヤン盤は無敵だと好んでいて、それこそカラヤンに初めて触れる世代に是非ともと思っているオペラ録音ですが、本盤有名なジョン・カルショウ(プロデューサー)とゴードン・パリー(録音エンジニア)の名コンビによる鮮明な録音も大きな魅力です。
関連記事とスポンサーリンク
彼のトレードマークのようなリヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』でイギリスのコヴェント・ガーデン王立歌劇場に登場、その成功により1961年に音楽監督に就任した、その時ゲオルグ・ショルティ49歳。気に障る先輩指揮者がいた。その名は、レジナルド・グッドオール(Sir Reginald Goodall, 1901年7月13日〜1990年5月5日)。その男、ワーグナー馬鹿の聴き手にとってはスペシャルな存在だ。コヴェント・ガーデン時代の10年間、ショルティはグッドオールと同じ職場にいながら、指揮の才能の疑問を持っていたため、グッドオールに指揮をさせなかったのだが、ロンドンのもうひとつの歌劇団、サドラーズ・ウェルズ・オペラ(現在のイングリッシュ・ナショナル・オペラ)でグッドオールが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を振ったところ、大絶賛を浴びてしまったのだった。ワーグナーのファンはイギリスにもけっして少なくなかったが、上演のさいには、ドイツから大指揮者を招いて指揮してもらうのが当然だった。時は20世紀半ば、イギリスがオペラの大輸入国で首都ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場さえ、やっと自前のカンパニー(歌劇団)を常設したばかりの頃である。コヴェント・ガーデンの指揮者陣に加えてもらっていたグッドオールは筋金入りのワーグナー馬鹿で、ワーグナーの楽劇を指揮することしか眼中になく、それ以外の音楽にはほとんど目もくれなかった。であったからに、どれほど彼が切歯扼腕しようともワーグナーを指揮する機会は与えられなかった。好きでもないイタリア・オペラばかり指揮させられた男は、投げやりになった。気難しい上に、独学の指揮はひどくわかりにくかったから、やがて男は指揮棒を取りあげられた。コヴェント・ガーデンの最上階、掃除係と共同の一部屋に押し込められ、歌手のコーチだけがその唯一の仕事となった。ところが1968年、63歳になった彼が引退を考えはじめたとき運命が変わった。一夜にしてイギリス最高のワーグナー指揮者として、熱狂的な人気を博することになった。指揮者ストーリーのシンデレラだ。当然、なんでコヴェント・ガーデンでは冷遇されてるんだ、嫌がらせじゃないのか、という声も上がるわけで、若いショルティの仕打ちは、その批判の矛先にもされたらしい。ショルティは「ショルティ自伝」にはグッドオールについて…私は彼に指揮の機会を与えないといって非難された。目がなかったのかもしれないが、私の意見はそうだった。と書いている。
しかも、録音史上の金字塔となるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのワーグナーの「ニーベルングの指環」全曲スタジオ録音と、このコヴェントガーデンでの〝指環〟上演は並行して行われていました。こちらもすべてにおいて初の試みであり、録音時には多くの困難があったことが伝えられています。〝神々の黄昏〟はコヴェントガーデンでの上演が、ゲオルグ・ショルティが初めて公式に演奏した場でもありました。当日の演奏は特にビルギット・ニルソンの歌唱が多くの称賛を集め、全体としても大変高く評価されました。当時の評論家ハロルド・ローゼンタールが1961年11月号の「Opera」誌でショルティが正しく(指揮者ルドルフ・)ケンペが間違っているというわけではない。逆もまた然り。ワーグナー音楽へのアプローチ方法はひとつではないのだから。だからこそ、ワーグナーの音楽は人々を魅了し続け永遠に生き続けるのだ。その夜のオーケストラの出来は素晴らしく、コヴェント・ガーデンが一流歌劇場オーケストラを持ったことを実感させた。今まで聴くことのなかったワグネリアンのどよめきが沸き立ち、オーケストラの響きは言葉で言い尽くせぬほど刺激的だった。とショルティの選択したスタイルは当時のコヴェント・ガーデンで聴かれたものとはかなり異質なものだったことも指摘しながらも、ショルティの音楽家魂、響きとバランスに対する耳の良さ、この音楽を牽引する力と情熱を賞賛している。この高評価を経て、コヴェントガーデンのチクルスの完成、さらにはデッカ録音の成功へと繋がって行きます。このコンサートは、その後のワーグナー録音史の流れを決める分水嶺とも言える瞬間だったのです。
ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereophonic Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。第2次世界大戦勃発直後の1941年頃に潜水艦ソナー開発の一翼を担い、その際に、潜水艦の音を聞き分ける目的として開発された技術が、当時としては画期的な高音質録音方式として貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。1945年には高域周波数特性を12KHzまで伸ばしたffrr仕様のSP盤を発売し、1950年6月には、ffrr仕様の初のLP盤を発売する。特にLP時代には、この仕様のLPレコードの音質の素晴らしさは他のLPと比べて群を抜く程素晴らしく、その高音質の素晴らしさはあっという間に、当時のハイファイ・マニアやレコード・マニアに大いに喜ばれ、「英デッカ=ロンドンのffrrレコードは音がいい」と定着させた。日本では1954年1月にキングレコードから初めて、ffrr仕様のLP盤が発売された。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてFFSSが使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売。そのハイファイ録音にステレオ感が加わり、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。Hi-Fiレコードの名盤が多い。
理想主義者にして実用主義の一面もある。
サー・ゲオルグ・ショルティは1912年10月21日、ハンガリーのブダペスト生まれ。20世紀に最も活躍した指揮者の一人で、ヨーロッパ、アメリカの音楽文化をリードしてきました。リスト音楽院でピアノ、作曲、指揮をバルトーク・ベラ、エルンスト・フォン・ドホナーニ、コダーイ・ゾルターンに学んでいる。コレペティートルとしてザルツブルクを訪れた時、ザルツブルク音楽祭のリハーサルのためのピアニストに欠員が出たためショルティに声がかかったが、これがアルトゥーロ・トスカニーニの目にとまり、1937年にはザルツブルク音楽祭で助手を務めました。ナチス・ドイツによるオーストリア併合があった1938年3月11日。ブダペスト歌劇場のモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』で指揮者デビューするが、ぶっつけ本番であった。1942年にジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し、ピアニストとしてコンサート・デビューを果たしました。それまで仕事にありつけずにいたショルティだが、この成功によって音楽家として名声を博していくことになる。戦後、7年ぶりにたった2度ほどベートーヴェンの歌劇『フィデリオ』を指揮した後、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の音楽監督に抜擢。非ナチ化の影響で多くのドイツ人指揮者が失脚していたという幸運もあった。最初の英国デッカ社へのレコーディングは1947年。それはピアニストとしての契約であった。以来、デッカの特別なアーティストとして半世紀にわたり250を超える膨大な録音を残し、うち45は歌劇全曲盤です。ショルティのシカゴ交響楽団との注目すべきパートナーシップは1954年に始まり、その時ショルティはラヴィニア音楽祭で初めてこのオーケストラを指揮しました。1956年リリック・オペラで客演のためにシカゴに戻り、1965年12月9日シカゴ、オーケストラ・ホールでデビューを果たしました。彼の音楽監督としての最初のコンサートは1969年9月でした。ショルティは22年間(1969〜1991)、音楽監督を務め、その後桂冠指揮者として7年間(1991〜1997)、死の直前までその活動を続けました。1971年に最初のツアーをスタートさせ、世界中にこのオーケストラの存在を広めた功績を忘れることはできません。1970年3月にシカゴのメディナ・テンプルで行われたマーラーの第5交響曲の初期録音から、1997年3月にシカゴのオーケストラ・ホールで行われたショスタコーヴィチの交響曲第15番まで、シカゴ響との演奏は世界における最も有名な指揮者とオーケストラのパートナーシップと高く評価され、グラミー賞も数多く受賞しました。ショルティの幅広いレパートリーには、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』、ハイドンのオラトリオ『天地創造』、ベルリオーズの劇的物語『ファウストの劫罰』、リストの『ファウスト交響曲』、そしてまたショスタコーヴィチの歌劇『モーゼとアロン』のような20世紀の傑作なども見られます。シカゴ響とともに新しい作品に取り組み、現代作曲家を擁護し、マルティヌーのヴァイオリン協奏曲第1番、デル・トレディチの歌劇『最後のアリス』、ティペットの交響曲第4番と『ビザンティウム』、ルトスワフスキの交響曲第3番などの初演も行いました。ショルティは生涯にわたりグラミー賞を33回受賞しましたが、そのうち24回はシカゴ響とともに受賞しました。
サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti)は、日本では米国シカゴ交響楽団の音楽監督(1969~1991)として名声を博したが、57歳で同響に招かれるまでオーケストラに固定ポストを得たことはなかった。実演、録音の両分野を通じオペラ指揮者として世界的評価を確立したのが実態だ。一家はもともとシュテルン(Stern,「星」の意味)というユダヤ系の姓を名乗った。父親が子どもたちの将来を案じ、よりハンガリー風のショルティに改めた。ブダペストのリスト音楽院で大作曲家のバルトーク・ベラ、コダーイ・ゾルターン、エルンスト・フォン・ドホナーニ、ヴェイネル・レオーらの教えを受け、13歳の時にエーリヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)が指揮するべートーヴェンの交響曲第5番を聴き、指揮者を志した。旧ハプスブルク帝国の一角だけに、ハンガリーでも歌劇場で指揮者を育てるシステムが整い、ショルティは18歳でブダペスト歌劇場のコレペティトゥア(指揮者の能力を備えた練習ピアニスト)に就職した。1936年にザルツブルク音楽祭のオーディションに受かり、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが指揮した「魔笛」(モーツァルト)で、かわいらしい音がする打楽器のグロッケンシュピールを担当した。1991年のモーツァルト没後200年にザルツブルクで「魔笛」を指揮したショルティはグロッケンシュピールを打ち、トスカニーニの思い出を語った。良い時代は続かなかった。ナチスを恐れ、トスカニーニのつてでスイスから米国へ逃れようと考えたショルティは1939年8月15日、ブダペスト中央駅を旅立った。父が見送りに来て感極まり、息子は「1週間の別れで泣くなよ!」とたしなめた。「それが父を見た最後でした」一度は帰国を試みたが「母は何かを予感したのか、絶対にダメだと言った」。亡くなる5日前まで続いたBBC(英国放送協会)のインタビューで、ショルティは涙ながらに振り返った。番組は死後に日本のNHKでも放映され、大きな反響を呼んだ。生活に困りジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門に応募したところ優勝、ようやく芽が出た。終戦直後、ハンガリーでの復職を望んだが断られ駐留米軍人として欧州に戻ったリスト音楽院の同級生のつてでナチス崩壊直後のドイツ、しかも廃虚のミュンヘンでバイエルン州立歌劇場音楽監督のポストを得た。経験不足は明らかだったが「物資も資金も同じように不足、上演回数が限られていたので勉強する時間があり、助かった」という。1949年には最晩年の作曲家リヒャルト・シュトラウスと出会い、貴重な助言を授かった。同年9月8日にシュトラウスが亡くなった際、ショルティは葬儀でオペラの代表作「ばらの騎士」の一場面を指揮した。英デッカのプロデューサー、ジョン・カルーショウは1958年、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」4部作初のステレオ全曲録音を名門ウィーン・フィルの演奏で実現したとき、「従来のワーグナー指揮者にない感性と聴覚の鋭さ、すべての旋律を切り立たせる力を備えた鬼才」としてショルティ起用に踏み切った。結果は世界でベストセラーの大成功。これらリヒャルト・シュトラウスとワーグナーは終生、ショルティのオペラ指揮の柱となった。ハンガリー人の激しい気性を表す、「マジャール気質」という言葉がある。ショルティも十分マジャール気質を発揮、還暦(60歳)過ぎても、激しく振り過ぎた指揮棒を自らの額に刺し、血を流す「事件」を起こした。演奏もマッチョな力感にあふれウィーン・フィルやシカゴ響、ロンドン交響楽団と行った来日公演も「精神性」を尊ぶ日本のファンの間では賛否が分かれた。さすがに晩年は陰影が加わり、ヴェルディの渋いオペラ「シモン・ボッカネグラ」などでの枯れた指揮ぶりは長年の聴衆を驚かせた。「ザ・ラスト・レコーディング」と銘打たれたブダペスト祝祭管弦楽団との1枚は40数年ぶりでハンガリーに帰郷、奇跡的に残った祖父母の墓参りを済ませた前後の1997年6月末に録音された。曲目はバルトークの「カンタータ・プロファーナ」とヴェイネルの「小オーケストラのためのセレナード」、コダーイの「ハンガリー詩編」。リスト音楽院時代の恩師3人に捧げたアルバムで、ショルティは輝かしい盤歴を閉じた。シカゴで共演したピアニスト、田崎悦子に「忘れちゃいけないよ。明日もまた、鳥はさえずるんだよ」と声をかけた通り、ショルティのマジャール魂は最後の一瞬まで不滅だった。
  • Record Karte
  • ヴェルディ:歌劇『ドン・カルロ』全5幕(イタリア語)
    • カルロ・ベルゴンツィ(テノール:ドン・カルロ)
    • レナータ・テバルディ(ソプラノ:エリザベッタ)
    • ニコライ・ギャウロフ(バス:フィリッポ2世)
    • ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン:ロドリーゴ)
    • グレース・バンブリー(アルト:エボリ公女)
    • コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団&合唱団
    • サー・ゲオルグ・ショルティ(指揮)
    録音:1965年6月19日~7月15日、ロンドン・オペラ・センター(ステレオ)
  • GB DEC SET305-8 ショルティ・コヴェント・ガーデン王立…
  • GB DEC SET305-8 ショルティ・コヴェント・ガーデン王立…
ヴェルディ:ドン・カルロ 全曲
バンブリー(グレース)
ユニバーサル ミュージック クラシック
2004-11-26