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イタリアの青い空、地中海の碧い色。陽気さ、明るい、そういう音色、そして一抹の陰り … 哀愁。懐かしさと郷愁も感じる、そんなヴァイオリンの音色に惚れた ― その凄さが、これみよがしになっていないのが心憎い。歌うようなヴァイオリンの音色という形容は、これこそ肉声の歌声を聴いているようなカンポーリの録音にこそ言える至福の一枚。そしてまた、楽譜に書かれた音符から読み取った教官に忠実に、楽器が放つ音に色彩や音量の変化を綿密に施していくカンポーリの音楽性は、トルソーの少女像が甘美な官能的なものに変化していく様な艶めかしさも感じられて脱帽もの。ボールトは「私は常に指揮をとるということは、船の船長になるようなものだと思ってきた。私には石油のドラムカンといっしょにころげまわる理由はまったくない」と言った。英国の巨匠エードリアン・ボールトはオックスフォード大学で音楽の学位を得たのち、ライプツィヒ音楽院でマックス・レーガーに作曲をハンス・ジットに指揮を学びますが、この地でボールトが最も感銘を受けたのは、アルトゥール・ニキシュによるリハーサルやコンサートの数々だったといいます。ボールトは20歳代初めの若い頃、ライプツィヒで偉大な指揮者アルトゥール・ニキシュに私淑したが、晩年に至るまで讃仰の気持ちは変わることがなかった。「ニキシュは私などよりももっと簡素だった。今日、若い世代の指揮者たちには余りにも跳び回る傾向がある。もっとも、彼らはそうすることを期待されているのかもしれないがね。また最近の傾向としては、総体的な建築的構成を犠牲にしてディテール(細部)をほじくることが著しく目立っていると思う。」とは、ボールトの現代批判であるが反面、聴き手はボールトに一種の安全弁のようなものを見出していたようである。少なくともイギリス人はそうであった。ボールトが英国音楽だけでなく独墺系音楽も得意としていたのは、そうした事情が背景にあるとも思われ、これまでにも両分野での人気には絶大なものがありました。どれも堂々たる仕上がりのボールトらしい立派な演奏でリズムの弾力性の高さもボールトの多くの録音の中でも群を抜くもの。ここでもアンサンブルはかっちりと凝縮されており、極めて清潔なその響きにも酔いしれます。類まれな技巧を駆使して豊かな情感が表現されるが、その情感にはあくまで上品で繊細な響きの持ち主、アルフレツド・カンポーリ。名前からして純粋なイタリア人と思えるが、活躍の場は女王陛下の国英国。バッハもモーツァルトもベートーヴェンもイタリアのやり方を見習い、その手法で自分の音楽を書きましたが、カンポーリは祖国イタリアを、異国の地、英国でDECCAの力を借り、国際スタンダードにした立役者と云ったところか。カンポーリのヴァイオリンは官能的なまでに甘美でありながら、ぴんと張りつめるような緊張感を保って伸びやかに歌っている。イタリア人という彼の中のラテン的な明るさとストラディヴァリスの豊穣な音色が相まって、 ゆっくりとした時間の流れに身を委ねることが出来ます。ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、シベリウス、ブルッフなどと有名コンチェルト七大としたい。この曲は曲への深い共感と、自然な息づかいで精神的な余裕が感じられる演奏である必要がある。そこが課題だが、平然と演奏できるようになるには、作曲の背景にある《とある人類が引き起こした悲しい歴史》の生々しい記憶が遠いものと成ってからのことかもしれないが。
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英国の巨匠エードリアン・ボールト(Adrian Boult, 1889~1983)は、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経てライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶ傍らゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエルガー、ホルスト、ヴォーン・ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。中でもボールトの代名詞ともいうべき作品がホルストの組曲「惑星」です。1945年のBBC響とのSP録音(EMI)を皮切りに、ボールトは生涯に「惑星」を5回録音も録音しています。1918年9月ロンドンのクイーズ・ホールにおける作品の非公開の全曲演奏(私的初演)が行われた際にホルストからの依頼で指揮をとったのがボールトであり、その成功によって「《惑星》に初めて輝きをもたらし、作曲者の感謝を受けたエイドリアン・ボールトに」という献辞の書き込まれた印刷譜を作曲者から送られています。戦後はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトはJ.S.バッハからハヴァーガール・ブライアンまで幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽とニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。イギリス人にいわせると軍服ならぬエンビの退役将軍、あるいはパブリック・スクールの老校長を想わせるというが、姿勢の正しさと無駄のないキビキビしたジェスチュアは、まさしく老将軍といった面影をそなえている。ボールトは柔和な表情のうちに威厳を兼ね備えている。一見してイギリス人らしい風貌の持ち主である。ボールトはSPレコードが電気吹き込みになる以前の1920年代からイギリスの様々なレーベルに録音しているが、その中の大手である英 EMI がボールトを発見したのは、1966年、ボールト77歳のときだった。80歳の誕生日祝いのコンサートを振った折り、ボールトはふと、こんなことをもらした。「レコード会社は、ほぼ10年ほど前に私がまだ生きていたってことに突然気づいた。こんなに忙しいのは嬉しいことだが、私がもっと元気だった、それより10年前(60歳代)に起こったらねえ」。一口にいってボールトは極めて地味な指揮者だったから、人気者で名物男だったサー・トーマス・ビーチャムが、1961年に82歳で没し、公衆のアイドルだったサー・マルコム・サージェントが1967年に72歳で没し、芸術の夕映えに輝いていたサー・ジョン・バルビローリが1970年に70歳で没したのち、サー・エードリアン・ボールトが浮上していたというわけである。晩年の10年間、ボールトの録音に協力したクリストファー・ビショップの談によると、80歳代の高齢にもかかわらずボールトの耳は以前としてシャープであり、老眠鏡もかけずに、こまごまとした手書きスコアを読むことができ、健康な食欲に恵まれ録音スタジオのキャンティーン(簡易食堂)で楽員たちと同じ食事をうまそうに平らげていたそうである。
DECCAの廉価盤は1960年代初頭より少し前にモノラルのAce of Clubsではじまり、1965年頃からはステレオ録音をAce of Diamondsレーベル(SDDナンバー)として再発売していきます。初回発売SDD101はエルネスト・アンセルメ指揮のベートーヴェン交響曲1・8番。SDD100番台まではレーベルが大きく上部にFull Frequency Range Recordingという表示があります。これらは盤質もワイドバンドと同様なだけでなく、ほとんどの場合ワイドバンドで使われた金属原盤を流用してプレスされているので大レーベルで溝ありと溝なしがあり、音質的にワイドバンドに匹敵するものになっています。殊更に高価なSXL2000番台の再発にあたるものはコレクターズアイテムです。1970年代に入るとSDDシリーズのレーベルも小さくなり、デザインも微妙に変化しています。オリジナルのSXLと別編集のリカッティングになっているものも多く、盤質も低下していてコレクション的な価値は下がります。1958年5月6〜8日ロンドン録音。
GB DEC SDD110 カンポリ&ボールト メンデルスゾーン・ヴ…
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