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あなただけの、お気に入りの一曲を見つけることができる。 ― フランスの粋で洒落た音楽が好きという方に強くオススメのアルバム。ロッシーニ、ドニゼッティ、ヴェルディからオッフェンバック、エロール、マイヤール、さらに19世紀前半に活躍したアイルランドの作曲家ウォレスまで、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて聴衆を熱狂させた名作オペラの影で「忘れられしオペラ」の序曲集。未知の作品に門戸を開くボニングの労を多としたい、打ち捨てられるには惜しい珠玉の旋律のオンパレードで楽しい内容です。いかにもボニングらしい、ずいぶんと面白い仕事をしています。バレエやオペラの発掘、蘇演にかけては彼の右に出るものはまずいまい。彼はフランス系のバレエからロシア系のバレエ音楽まで、深い教養を持って実に素晴らしい音楽を作り出しました。このアルバムには、フランスをテーマの中心とした有名・無名の作曲家たちが残した、いずれも珍しい序曲がチョイスされています。ドニゼッティの『ロベルト・デヴェリュー』やヴェルディの『ジャンヌ・ダルク』は最近、上演機会が有りますが、こと序曲はどんな音楽と尋ねられて口ずさめるかしら。序曲というある程度パターン化した音楽ばかりとはいえ、短い曲の中に素敵なメロディーと楽しいリズムに溢れたイキイキした音楽ばかりで、こういう音楽が好きという方もたくさんいらっしゃるに違いありません。誰の曲、どんなオペラ、なんて考えないで音楽に酔えます。その曲は何の曲と尋ねられて、これはねって鼻歌で歌えるほど親しんで、あなただけの、お気に入りの一曲を見つけてください。録音も黄金期のDECCA録音で、大変優秀です。絶美のメロディと、華麗なオーケストラ・サウンドにたっぷりひたれるゴージャスな一時間をお届けします。
収録曲はガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti, 1797〜1848)・歌劇「ロベルト・デヴェリュー」序曲で始まる全7曲。本盤の中で知られた序曲は「ザンパ」だろうが、19世紀半ばが活動の終盤に当たるドニゼッティ、ロッシーニ、ウォレスとマイヤールを中継ぎに、ヴェルディ、オッフェンバック初期の作品にフォーカスしている。/イタリア・オペラの巨人として19世紀後半、ヴェルディが活躍する。では19世紀前半を代表するのは、ロッシーニ、ベリーニ、そしてドニゼッティの三羽ガラスです。特にドニゼッティはロッシーニの機知に富んだオペラと、ベリーニの旋律重視の抒情オペラの影響を受けロマン派歌劇の開拓者となったのでした。システム化された当時の劇場上演スケジュールの求めに応じるドニゼッティは常軌を逸する速筆だった。1832年に初演された「愛の妙薬 L’elisir d’Amore」は、台本を担当したフェリーチェ・ロマーニの妻が残した回想録によれば、わずか14日で書かれたことになっている。また、彼の最高傑作とされることが多い「ランメルモールのルチーア Lucia di Lammermoor」(1835年9月初演)も、台本作家がサルヴァトーレ・カンマラーノ(1801~52)に決まってからほぼ1カ月でオーケストレーションにいたるまですべてを作曲し終えている。ドニゼッティは「私のモットーを知っているか? プレストだ!」と、1843年に台本作家のジャコモ・サッケーロに宛てた手紙に書いている。「プレスト」とは「速く」という意味のイタリア語で、手紙の文面は「非難されるかもしれないが、うまく作曲できた作品はいつも速く書いたものなのだ」と続く。ロッシーニも速筆で有名でした。彼はあの『セビリャの理髪師』を13日で書き上げましたが、「13日でオペラを書けるものですか?」と聞かれたドニゼッティは、「そりゃ書けるさ。奴は怠け者だから」と答えたそうです。これは「手抜きをすれば早く書ける」という意味とも取れますが、ドニゼッティの仕事ぶりからすると、「怠け者だから13日もかかるのだ」ということかも知れません。1848年に50歳で亡くなるまでに書いたオペラはおよそ70作にもおよぶ。驚異的な速さで仕上げられたいずれの作品も、ドニゼッティという作曲家がほとんど忘れられていた時代を含め、今日まで途切れることなく上演されていることは注目に値する。ドニゼッティには速く書ける能力と技術があったということで、流れ作業のように機械的にオペラを粗製乱造した、というわけはない。ずば抜けた作曲技術。
ミラノの北東約40キロに位置するベルガモの貧しい職人の家に生まれたドニゼッティは9歳のとき、地元に開校したばかりだった慈善音楽学校に入学し学校の設立に尽力したジョヴァンニ・シモーネ・マイール(Giovanni Simone Mayr, 1763~1845)と出会う。バイエルン出身のマイールは北イタリアで活躍した優れた音楽家だった。少年の才能を見出した、マイールは9年間にわたってガエターノ少年を徹底的に手解きし卒業すると、より高度な音楽教育を受けさせるために自費を投じてまでマッテイ神父のもとで対位法を学べるようにボローニャに留学させた。イタリアにおける対位法の権威スタニスラオ・マッテイ神父(1750〜1825)からジョアキーノ・ロッシーニも、この数年前、1805年から1809年まで対位法のコースを2年半受講していた。ドニゼッティも同様に、1815年11月から1817年12月までボローニャに滞在してマッテイ神父の下で対位法を学ぶことになった。こうして習得された作曲技術がドニゼッティの中に血肉化された結果、リズムやメロディを自在に操ることができた。権力者の孤独な心を世界史上最も有名な女王の肖像に重ねたドニゼッティの「女王三部作」とも呼ばれる悲劇的オペラ「ロベルト・デヴェリュー」は「アンナ・ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」に続く、ドニゼッティのチューダー朝3部作の完結編。若い愛人に裏切られた女王エリザベス1世(エリザベッタ)の最後の恋を描く。エリザベッタはスキャンダルの罪に問われたロベルトを愛し、自分の権力で彼を救おうとする。しかし彼の心がサラにあるのを知ると、嫉妬と裏切りへの怒りを爆発させ彼の処刑を認めてしまう。ロベルトはエリザベットの許しを請う術をサラに伝えるが、妻の不貞を疑うサラの夫ノッティンガム公爵の妨害にあう。ロベルトの処刑が実行され、愛する人を救えなかったエリザベッタは、権力者の孤独と苦悩に崩れ落ちる。1837年10月29日に初演され、1849年までおよそ50もの劇場で、このオペラの成功は繰り返された。オペラのシチュエーションが言葉と結びついているというドニゼッティには、伝統的な声の派手な動きや装飾をきっぱりと捨てて、言葉の抑揚やアクセントに従うことに よって、音節を重視しながらドラマチッ クな作用をもたらす言葉を作り上げる新しい歌い方のスタイルへの認識が明らかにある。楽劇のライトモチーフや、日本のアニメーションのバンクシステムを先駆けている。アクションの重要なポイントを展開させ るよりも、登場人物たちの内面の動きや精神状態を強調することの方をドニゼッティは好んだ。ドニゼッティの音楽は人物の心に寄り添い、肩入れし、ときに不安や衝動を一緒に体験できるのに対し、人物の感情から一歩下がっていたロッシーニの音楽は客観的で、ロマン主義に足を踏みだすのを躊躇っているように感じられる。
ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini, 1792〜1868)・歌劇「トルヴァルドとドルリスカ」序曲/昔はロッシーニの序曲集というLPがけっこう発売されていましたが最近は人気がないのか、ほとんどお目にかかれません。ロッシーニはイタリア歌劇中興の祖といわれる作曲家。屠殺場の監督と町のラッパ手という2つの肩書きを持った男を父として生まれた。15歳でボローニャ音楽院にはいり、チェロと作曲を学んだが、3年で退学。ハイドンとモーツァルトの作品を研究し古典派の管弦楽法を会得、イタリア歌劇の欠点を補った歌劇をつぎつぎ発表した。ロッシーニは、当時まだ創設40年ほどしか経っていないミラノ・スカラ座のために1812年に「試金石」を、1814年には「イタリアのトルコ人」を作曲していた。まだ創設からの歴史が浅いスカラ座で「試金石」でオペラ作曲家としての初成功を収めた。歌劇『トルヴァルドとドルリスカ』はロッシー二23歳の1815年、「セビリアの理髪師」上演のわずか2ヶ月前にローマで初演。ジャン=バティスト・クードレの小説『騎士フォーブスの人生と愛』が原作。領主オルドウ公は美しい人妻ドルリスカをわがものにしようと城に強奪。救いに来た夫トルヴァルを投獄する。危機一髪のところで、領主の横暴さに家臣ジョルジョとその妹のはからいで領民たちが決起。領主が投獄され、ドルリスカはめでたく夫の手に戻る。1842年の上演を最後に忘れられていたが、2006年ロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)で復活し歴史的成功を収めた作品。少年から青年時代にかけてのロッシーニは母親の優美な魅力を引き継いで、どちらかと言えば女性的美男子だったが歳をとるに従って父親に似てきた。1850年代の写真で見るロッシーニは、太ってがっしりとして快活そうである。唇は若い頃に比べて薄くなったが、眼差しは生き生きと好奇心にあふれ皮肉のひとつも言いたそうな様子である。ロッシーニは1836年に旅行した際、フランクフルトでメンデルスゾーンに会っている。メンデルスゾーンは自らの予想に反してロッシーニに深い感銘を受け、母と姉に書き送った。「いつ何時にも、言葉の端々からこぼれ落ちる知性と快活さと洗練。彼を天才と考えない人間は、あの弁舌を一度でも聞くべきです。即座に考えが変わるでしょう。」
オペラは現代の映画やテレビドラマのような流行を反映した娯楽で、各劇場が人気作曲家と人気歌手を集めて競っていた。昨年末から芸能番組で話題になっている横綱日馬富士の貴ノ岩への暴力、早々と横綱引退、貴乃花親方の理事解任は、さしづめ、週替りで続編が上演され、角界ウォーズ三部作となって大入り満員だろう。劇場は制作時間をいかに短くするかに頭を悩ませ、いまテレビ各局がシーズンごとに人気俳優を集め新作ドラマの視聴率競争でしのぎを削るように、上演済みの作品の楽曲をたびたび転用したうえ、レチタティーヴォ・セッコの作曲などは劇場付きの職人にまかせることや、場合によっては一部のアリアまでを第三者に作曲させた劇場のシステムにロッシーニは組み込まれていた。ロッシーニが書く音楽が良い意味で抽象的で特定のリブレット(台本)から切り離しても音楽が、それ自体として成り立っていたから転用しやすかったという事情がある。ロッシーニにはいったい何曲のオペラがあるのだろう。軽いものからシリアスなセリアまで、ほんとに短期間にたくさん作曲したかと思えば37歳で最後のオペラ「ウィリアム・テル」を作曲後は引退してしまったのですからこんな希有な作曲家はいません。ロッシーニはベートーヴェンとほぼ同時代に活躍し、生存中はベートーヴェンよりも人気があったのに現在では音楽史の年表にも登場しないような扱いです。管弦楽作品ではなくオペラの世界で活躍したことがその原因なのでしょうか。しかし、彼の音楽は劇的効果のある管弦楽の駆使と、優美華麗な豊富な旋律の用法が特色となっている。彼の歌劇は20曲ほどあるが、一般的にはとくに傑作としてあげられる歌劇「セヴィリアの理髪師」とか「アルジェリアのイタリア女」、第一線を引退する寸前の「ウィリアム・テル」などが知られていますが、その他の作品はほとんど知られていません。
ルイ=エメ・マイヤール(Louis Aimé Maillart, 1817〜1871)・歌劇「ヴィラールの竜騎兵」序曲/マイヤールはフランスで生まれ、フランスで活躍した作曲家で、「ヴィラール(村)の竜騎兵」、「カタルーニャの漁師」、「ララ」(Lara)などのコミック・オペラを主に作曲した。1841年には、フランスの作曲家が狙うローマ大賞で第1等になっている。歌劇「ヴィラールの竜騎兵」(Les dragons de Villars)は1859年初演。LPレコード世代が尊敬する存在のハンス・クナッパーツブッシュが指揮者としてデビューしたのが、マイヤールの歌劇「隠者の小鐘」だった。「隠者の小鐘」(Das Glöckchen des Eremiten)はドイツでもポピュラーになった、あまり肩の凝らない作品でヨーロッパの歌劇場ではレパートリーとして定着していたようだ。オリジナルはフランス語だが、ドイツ語でも歌われる。ビゼーの出世作「真珠採り」の台本はミシェル・カレ(1822〜72)とウジェーヌ・コルモン(1810〜1903)。コルモンは当時の大ヒット作、マイヤールの歌劇「村の竜騎兵」の台本を手がけている。17世紀中葉のフランスには100万人のユグノーが暮らしており、公務や商工業を担いながら法律の許す範囲で宗教活動と教育活動を行っていた。しかし、1661年より親政を始めたルイ14世(Louis XIV, 1638〜1715)はこうした寛容の方針を退け、「自称宗教改革者(Religion Prétendue Réformée)」をカトリック教会へ連れ戻すための諸政策を実行していった。宗教的儀礼や教育活動を始めとするユグノーの生活の諸側面は徐々に締め付けられていき、改宗した信徒に経済的な援助が約束される一方で改宗を拒む信徒は公職やギルドから追放されていった。遂に、1681年からは竜騎兵による暴力的な強制改宗である「ドラゴナード(dragonnades)」 が本格的に実施された。大規模なドラゴナードによって10万人規模の改宗が達成された一方で、フランスからは結果的におよそ20万人のユグノーが脱出した。カレとコルモンは、そのマイヤールのためにシチリア島を舞台にした歌劇「カタルーニャの漁師」(Les Pêcheurs de Catane, 1860年)の台本を提供している。これが「真珠採り」の原案であるという意見も見られる。初期のオッフェンバックあたりを思いだす作風。19世紀のフランス・オペラファンは聴いておきたい。
ジャック・オッフェンバック(Jacques Offenbach, 1819〜1880)・歌劇「鼓手隊長の娘」序曲/ジャック・オッフェンバックはパリで活躍し、最も19世紀のパリを軽妙な音楽と風刺で生き生きと描いた作曲家ですが、生まれはユダヤ系ドイツ人です。本名はヤーコプ・レヴィ・エーベルスト(Jakob Levy Eberst)。最初はチェロ奏者として有名になり、若き頃のアントン・ルービンシュタイン、リスト、メンデルスゾーンら著名なピアニストと共演するようになる。若い頃パリに出てきてからは殆ど終生をパリで暮らし、誰よりもパリを愛したフランス人だと言ってよい存在。オペレッタの原型を作ったともいわれ、音楽と喜劇との融合を果たした。19世紀ヨーロッパのポピュラー音楽の最も有力な作者の一人。オッフェンバックのオペラは1850年代から1860年代の間、フランスや英語圏で非常に人気があった。しかし、安住できたのではない。1848年にフランス革命から逃れるために妻と娘と共にドイツに移住。オッフェンバックはおよそ100のオペラを書き、著名な作品は今日でも定期的に演奏されている。また、政治的、文化的な風刺に富んだグランド・オペラ・パロディー、オペレッタを多数遺している。彼の作品の多くは非常に愛国的な内容を持つものであるが、 1870年に仏独間で戦争が勃発、第2帝政が終焉した際、彼は、ビスマルクの移民エージェントとしてフランスのマスコミによって批判され、やむを得ず海外へ逃れることとなる。故郷のドイツでもまた、メディアから反逆者としての謗りを受け、そのため、彼は、スペイン、イタリア、オーストリアなど各国を転々とする。 彼が戦後1871年6月にパリに戻ったとき、彼のオペラはすでに公衆に嫌われていた。
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi, 1813〜1901)・歌劇「ジャンヌ・ダルク」序曲/このオペラの題名は本来イタリア語の「ジョヴァンナ・ダルコ(Giovanna d'Arco)」となり、曲名もスコアではシンフォニアとなっていますが物語の舞台はフランス、ジャンヌもフランス人ですから歌劇「ジャンヌ・ダルク」序曲と親しまれて呼ばれることが多い。1845年2月にミラノ・スカラ座で初演された『ジョヴァンナ・ダルコ』は、イタリア・オペラ最大の作曲家ヴェルディが31歳の時に有名なシラーの戯曲をもとに作曲した通算7番目のオペラです。15世紀イギリスからの侵略を受けたフランス。国王カルロは退位して責任をとり、イギリスに国を渡すと告げる。国王はお告げに従って森へ行き、そこでジョヴァンナと運命の出会いをする。二人は共に戦う決意をするが父ジャコモは、娘が悪魔に身を売ったと嘆く。大敗を喫したタルボットの元へジャコモが現れ、イギリス軍に手を貸そうと申し出る。宮廷ではジョヴァンナが普通の娘に戻りたいと望んでいた。カルロは愛を告白するが彼女は天の声に驚いて身を引く。国王の戴冠式で父が娘を告発し、ジョヴァンナは民衆に糾弾されイギリスに捕らえられる。娘への誤解がとけたジャコモは改心するが、ジョヴァンナは戦地へ赴き戦死する。その作風は、初期とは言えすでに経験を積んでいたヴェルディの音楽的手腕の確かさが感じられるものでヴェルディを語る上で欠かせない様々な音楽的要素が垣間見える。悲劇を予兆するドラマティックな序曲からラストまで目が離せない。随所に聴きごたえのあるナンバーもあり、アリアは単独で取り上げられてもいました。しかし、台本の評判がよくなかったのか初演からしばらく経つとほとんど上演されなくなり、ヴェルディ没後50年の1951年に復活上演されるまでは休眠状態が続いていました。その後は機会は少ないとは言え上演やレコーディングも行われるようになったものの、全曲盤はレヴァイン盤しかなかった。
ルイ・ジョゼフ・フェルディナン・エロルド(Louis Joseph Ferdinand Hérold, 1791〜1833)・歌劇「ザンパ」序曲/「エロール」ともいう。音楽家の家系に生まれた彼はパリ音楽院で作曲やヴァイオリンを学び、1812年にはローマ大賞を獲得するほどの才能の持ち主であった。音楽史的にはウェーバーとかシューベルトとほぼ同じ時期に活動をした、19世紀前半のフランスの作曲家。20歳代前半には交響曲(2曲)や弦楽四重奏曲(3曲)なども作曲しているが、中心となるのは歌劇やバレエといった舞台音楽であり、特に「オペラ・コミーク」(喜歌劇)の分野では、当時第一人者の一人で42年という決して長くない生涯で22曲もの作品を残しているが、ほとんどすべてが現代では忘却の彼方。彼の全作品の中で最もよく知られているのが、1831年に作曲され、1833年にパリのオペラ・コミック座で初演された歌劇『ザンパ』(別名:大理石の許婚)である。「ザンパ」とはイタリアの海賊の名前で、女性をめぐる騒動がストーリーの中心である。海賊の親分・ザンパが航行中に捕らえたシチリア商人の娘・カミーユと無理矢理結婚しようと悪知恵を働かせようとした時に、以前散々もて遊んで捨てた昔の彼女に逆に復讐され海で殺される。今日では本編が演奏される機会は皆無と言ってよいが、この序曲だけは別格で歌劇で使用される様々なメロディーをうまく接続して組み合わわされ次々とメドレーのように繰り出される。この序曲で全体の歌劇の雰囲気がわかってしまうかのような音楽は底抜けに楽しくて明るい、聴く者の心を捕らえて放さない魅力を持っている。
ウィリアム・ヴィンセント・ウォレス(William Vincent Wallace, 1812〜1865)・歌劇「マルティアーナ」序曲/イギリス・ ロンドン出身の音楽家。ウォルト・ディズニー・カンパニーでの活動を主にし、多数の短編映画のほか複数の長編作品で音楽を担当したオリバー・ウォレスは、アカデミー作曲賞を受賞した1941年のダンボ 、シンデレラ(1950年)、ふしぎの国のアリス (1951年)、ピーターパン(1953年)、わんわん物語(1955年)で親しみがあるが、こちらは別の作曲家。第1次大戦の勃発時の頃、ロイヤル・アカデミーの委員会のメンバーとしての地位をようやく得ることとなり、さらに、ロイヤル・フィルハーモニック協会の秘書なども務めるものの、戦火のなか隊医として東部戦線に参加。眼科医としてつとめあげ、隊長の名誉を得て、1919年に軍医を引退。その後は、多数の文筆作品も残して、自身が大きな影響を受けたワーグナーやリストの伝記なども書いているウィリアム・ウォレスは、1860年、スコットランドのグラウゴー北西部にあるグリーノックという街に生まれた。エルガーと同時期の存在で、その時代性からドイツロマン派~後期ロマン派の影響が大きい。リストのような交響詩をたくさん書いたり、ロメオとジュリエットや、ペレアスとメリザンドのような劇音楽も残した、時代を考えれば保守的で、リスト、ブルックナーと、マーラーの中間に位置するような作風。一方で、スコットランドの自然風物を感じさせるという意味で、北欧風の響きも感じます。ワーグナーとリスト、ことに、交響詩や劇作品を多々残したことから、リストへの思いは強かったはずで、その作品にも、その響きを聴きとることができます。しかし、このレコードで聴くウォレスは、間にヴィンセントが入る、19世紀前半に活躍したウィリアム・ヴィンセント・ウォレス。1812年、アイルランド南端、ウォーターフォード生まれの作曲家で膨大なピアノ作品と、ウェーバー風の悠揚とした旋律が印象的なオペラをたくさん書いた。連隊で楽団の指揮者を務めていた父から様々な楽器を教わった。1825年に父が軍を除隊すると一家はダブリンへと移り、そこでウィリアムは王立劇場の管弦楽団でヴァイオリニストを務め、1830年には、サーリスの大聖堂のオルガニストに任命され、また、同地のウルスラ会修道院で音楽教師も務めた。1831年には、ダブリンに戻り再び宮廷楽団の奏者を務めた。そこでパガニーニの演奏を聴いて強い感銘を受けたという。1835年、ウォレスはヴィルトゥオーゾとしての成功を夢見て、壮大な旅へと出発した。まず、彼はオーストラリア、タスマニア島のホーバートを訪れた。翌年にはシドニーへと移り、ヴァイオリニストとピアニストの二足の草鞋で演奏活動を行い、「オーストラリアのパガニーニ」とも称されたそうである。彼がオーストラリアを離れたのは1838年のことで、その後、チリのバルパライソへ向かい、サンティアゴ、ブエノスアイレス、リマ、ジャマイカ、キューバ、メキシコシティ等を訪れ、1841年には米国に至りニューオーリンズ(1841)、フィラデルフィア(1842)、ボストン(1843)、ニューヨーク(1844)を歴訪し1844年には欧州に戻り、ドイツとオランダでの滞在を経て、翌年にはロンドンを訪れた。その年には、第1作目の歌劇《マルティアーナ Maritana》が初演され大成功を収めた。また、ピアノ曲もサロン向けのものからヴィルトゥオーゾ向けのものまで多数残しており、それらは当時は高い人気を誇っていた。一方、ヴァイオリニストとしての活躍にもかかわらず、ヴァイオリンのための作品はほとんど残っていないようである。
リチャード・ボニング(Richard Bonynge)は1930年、オーストラリアのシドニー生まれの指揮者。ジョーン・サザーランドとのおしどり夫婦は有名。ドイツ系のレパートリーは中心には据えていないが、モーツァルトやウィンナオペレッタには比較的熱心であり、DECCAには夫人とのオペラ録音があります。 一方、バレエ音楽の指揮も得意としており、DECCAには珍しい曲目を含めて多数のバレエ音楽録音があります。生地でピアノを学び、14歳でグリーグのピアノ協奏曲を弾いてデビュー、ピアニストへの道を歩んでいた。1950年に渡米、ロンドンの王立音楽院に留学、ロンドンでピアノのリサイタルを開く一方、同じオーストラリアから王立音楽院に留学していたソプラノ歌手、サザーランドとの出会いによってオペラの世界に魅せられ、指揮者に転向する。1954年、名ソプラノ歌手サザーランドと結婚、伴奏者兼ヴォイス・トレーナーを務めながら、ベル・カント・オペラの研究を続ける。この方面で忘れられていた作品の復活蘇演に尽力している。またワーグナー・ソプラノを目指してソプラノ歌手を目指したサザーランドにコロラトゥーラに転向するよう助言したのもボニングで、ロイヤル・オペラ・ハウスが夫人サザーランドにワーグナーやリヒャルト・シュトラウス作品の役を与えようとした時、ボニングは歌劇場当局に抗議したという。1962年にローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団で指揮デビュー、1963年にはヴァンクーバー歌劇場でグノーの歌劇『ファウスト』を振ってオペラ・デビュー、さらにその翌年にはロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場、国際的な活動を開始し、オペラ指揮者として不動の地位を獲得する。1970年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビュー、ヴァンクーバー歌劇場を経て、1976~85年シドニー歌劇場の音楽監督を務めた後、フリーとして活躍、バレエのスペシャリストとしても知られている。1975年にメトロポリタン歌劇場に帯同して初来日、1978年にもサザーランド夫人のリサイタルの伴奏指揮者として再来日している。
1966年初発。
GB DEC LXT6235 リチャード・ボニング 19世紀の序曲集…
GB DEC LXT6235 リチャード・ボニング 19世紀の序曲集…