エルマントーンを今に伝える貴重な記録である事には異論は有るまい。 ― 美音の代名詞ともなったエルマン・トーンで名高い、ミッシャ・エルマンの録音。エルマンがデッカに移籍して2年後の録音。この頃のデッカは実に良い仕事をしています。ミッシャ・エルマンはヴァイオリンの名教師レオポルド・アウアーの弟子として知られていますが、全盛期は第一次世界大戦から1930年頃までで、その時期はかのクライスラーを凌ぐほどの人気だった。そんなエルマンにとって大きな不幸であり、また大きな幸運だったのは、ようやく晩年になって大曲の録音の機会に恵まれた、ということだったのではないか。しかし、全盛期を過ぎたとはいえ、この録音は侮れません。ボールト指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の強力な支えもあり、エルマンのヴァイオリンは伸びやかに気持ち良く歌っています。セッション録音は気力の回復を十分に取れるし、録音技術の進歩はエルマンのヴァイオリンの魅力を万全の状態で引き出した。音に勢いと力強さがあって、それでいて優美な心を失わないエルマンの妙技が存分に味わえる名盤と言えるでしょう。しかし、それにしてもそういう彼がこれだけ録音の機会に恵まれていたのは、やはり彼自身の人気とその芸術への尊敬に起因していたのは間違いない。懐古趣味でなく、1950年代のイギリス音楽の急速な発展を背景に往年の演奏スタイルがラブ・コールされたのだ。ボールトは「私は常に指揮をとるということは、船の船長になるようなものだと思ってきた。私には石油のドラムカンといっしょにころげまわる理由はまったくない」と言った。ボールトは二十歳代初めの若い頃、ライプツィヒで偉大な指揮者アルトウール・ニキシュに私淑したが、晩年に至るまで讃仰の気持ちは変わることがなかった。「ニキシュは私などよりももっと簡素だった。今日、若い世代の指揮者たちには余りにも跳び回る傾向がある。もっとも、彼らはそうすることを期待されているのかもしれないがね。また最近の傾向としては、総体的な建築的構成を犠牲にしてディテール(細部)をほじくることが著しく目立っていると思う。」とは、ボールトの現代批判であるが反面、聴き手はボールトに一種の安全弁のようなものを見出していたようである。少なくともイギリス人はそうであった。おかげで、19世紀的な演奏芸術の最後の貴重な遺産が、こうしてわれわれに鮮明な記録として与えられた。独特なヴィブラートやポルタメントの多用、テンポの揺れなど、往年のオールド・スタイルを堪能できる。本盤は1950年代後半の録音です。私たちは、彼の渾身の演奏から未だ何かしらのものを受け取ることができる。それまで培ってきた自分の型や語り口には絶対の自信があると思えるかのようにエルマンは勝負しているような気迫に迫るものがある。1956年3月21、22日ロンドン録音。この演奏を聴くと、全盛期のエルマンがどんなにか凄いヴァイオリニストであったことか、興味が尽きないところであります。本盤も“エルマン・トーン”を今に伝える貴重な記録である事には異論は有るまい。ボールトのニュアンスに富んだ表現はまさに絶妙である。エードリアン・ボールトというと、長命だったこともあってか、晩年の老成した演奏のイメージが強いのですが、1950年代までの彼は、ときにかなりアグレッシヴな演奏もおこなうという、爆演も辞さぬ積極的な芸風の持ち主であったことはマニアにはよく知られています。
英国の巨匠エードリアン・ボールト( Adrian Boult, 1889~1983 )は、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経てライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶかたわらゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエルガー、ホルスト、ヴォーン・ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。中でもボールトの代名詞ともいうべき作品がホルストの組曲「惑星」です。1945年のBBC交響楽団とのSP録音( EMI )を皮切りに、ボールトは生涯に「惑星」を5回録音も録音しています。1918年9月ロンドンのクイーズ・ホールにおける作品の非公開の全曲演奏(私的初演)が行われた際に、ホルストからの依頼で指揮をとったのがボールトであり、その成功によって「《惑星》に初めて輝きをもたらし、作曲者の感謝を受けたエイドリアン・ボールトに」という献辞の書き込まれた印刷譜を作曲者から送られています。戦後はロンドン・フィル、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトは J.S. バッハからハヴァーガール・ブライアンまで幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽とニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。イギリス人にいわせると軍服ならぬエンビの退役将軍、あるいはパブリック・スクールの老校長を想わせるというが、姿勢の正しさと無駄のないキビキビしたジェスチュアは、まさしく老将軍といった面影をそなえている。ボールトは柔和な表情のうちに威厳を兼ね備えている。一見してイギリス人らしい風貌の持ち主である。ボールトはSPレコードが電気吹き込みになる以前の1920年代からイギリスの様々なレーベルに録音しているが、その中の大手である英 EMI がボールトを発見したのは、1966年、ボールト77歳のときだった。80歳の誕生日祝いのコンサートを振った折り、ボールトはふと、こんなことをもらした。「レコード会社は、ほぼ10年ほど前に私がまだ生きていたってことに突然気づいた。こんなに忙しいのは嬉しいことだが、私がもっと元気だった、それより10年前(60歳代)に起こったらねえ」。一口にいってボールトは極めて地味な指揮者だったから、人気者で名物男だったサー・トーマス・ビーチャムが、1961年に82歳で没し、公衆のアイドルだったサー・マルコム・サージェントが1967年に72歳で没し、芸術の夕映えに輝いていたサー・ジョン・バルビローリが1970年に70歳で没したのち、サー・エードリアン・ボールトが浮上していたというわけである。晩年の10年間、ボールトの録音に協力したクリストファー・ビショップの談によると、80歳代の高齢にもかかわらずボールトの耳は以前としてシャープであり、老眠鏡もかけずに、こまごまとした手書きスコアを読むことができ、健康な食欲に恵まれ録音スタジオのキャンティーン(簡易食堂)で楽員たちと同じ食事をうまそうに平らげていたそうである。
GB DEC LXT5222 エルマン&ボールト ブルッフ・…
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