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「君はテクニックがありすぎるね」 ―  パスカル・ロジェが17歳の時、演奏を初めてジュリアス・カッチェンに聴いてもらうと、ピアノから離れなさい。1日10時間もピアノの前で練習していたら、他のものに対する好奇心を失ってしまう。音楽はピアノの前で考えるだけでなく、人生を知ることでもあり、他人の心情に思いを馳せることでもあるのだからとアドヴァイスされた。「ものを考えたり、本を読んだり、美術館で絵画を見たり、芸術、文学、哲学 … 色々なものを受け入れて視野を広げることも大事ですよ。」ということだ。その言葉にはカッチェンの信条が在るが儘出ている。演奏活動で多忙だったせいか弟子はほとんどとらなかったカッチェンの唯一の弟子と言われているのがロジェで、およそ2年間カッチェンの元で学んでいる。カッチェンは、10歳の時にラジオ番組に出演してシューマンを弾き、その放送の出来を聴いていたユージン・オーマンディに1年後に招かれて、Philadelphia Academy of Musicでフィラデルフィア管弦楽団と演奏。その1ヶ月後、ニューヨークのカーネギーホールで、ジョン・バルビローリの指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第20番を弾いてデビュー、ニューヨーク・タイムズはカッチェンの演奏について11歳の少年にこれ以上望むことはできないだろう。と賞賛した。子供の頃のカッチェンは優れた水泳選手であり卓球選手でもあった。ピアノの練習をしていないときは庭で野球をするのが大好きだった。14歳までは自宅で祖父母から音楽を学んでいたが、カッチェンの父は、まず正規の教育をきちんを受けるべきで、ピアノが優先されてはいけないという考えを持っていたため、カッチェンは音楽学校には行かず、一般高校からベンシルベニアのハヴァフォード大学に進学した。その後、カッチェンは大学で哲学とフランス語学を学びながら、カレッジ時代での師事したピアノの教師はデイヴィッド・サパートンだけだった。1946年にカレッジの4年課程を3年間で終え哲学の学位をとり、首席で卒業。この優秀な学業成績によってフランス政府から奨学金を得て、1946年にパリへ留学。演奏会が注目を集めると、その後はパリを本拠に活躍した。ピアニストとしての活動をほぼ休止し、一般大学で学生生活を送ったことついてカッチェン自身は、知的好奇心を育ててくれたことで、レパートリーとしてより精神的な面でチャレンジングな作品への関心を持つようになったと言っている。それにカッチェンのタッチは力強く、音量も大きいし、指回りも抜群に良い。「個々にそれぞれ異なる性格、音楽性、肉体的条件を尊重し、洞察し、その自然な成長を待つ」という、テオドール・レシェティツキーの流派のメトードに根ざした、難曲のコンチェルトを一晩に数曲演奏するほどのスタミナが培われていたのだ。米国でも定期的に演奏活動を行ったが、彼はパリに永住した。その理由として「米国では音楽学生同士は建設的な関係にあって友人同士でさえある。お互いのコンサートに行っては誉めあう。パリでは、コンサートへ行くのは同僚ピアニストの失敗や欠点を探しにいくためだ」とインタビューで話していた。お互いを認め合って横並びに前進するより、ライヴァルのしくじりを見つけることは得られることがあるし、それは私も面白い。
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カッチェンはレコーディングが好きだったが、スタジオ録音の時でさえ、自然に熱情や興奮が湧き上がってくるといううらやむべき才能があった。カッチェンが共演した指揮者は、エルネスト・アンセルメ、カール・ベーム、ゲオルク・ショルティ、ラファエル・クーベリック、オイゲン・ヨッフム、オットー・クレンペラー、ピエール・モントゥー、アンドレ・クリュイタンス、エドゥアルト・ファン・ベイヌム、イシュトヴァン・ケルテス、アタウルフォ・アルヘンタ、フェレンツ・フェレンチク、フランツ・コンヴィチュニー、カール・ミュンヒンガー、ペーター・マーク、ベンジャミン・ブリテン、アナトール・フィストゥラーリ、エイドリアン・ボールト、ルドルフ・ケンペ、ピエリーノ・ガンバなど。ピアニストとしての活動が20年ほどと短かったけれど、レパートリーは幅広く数多くの録音を残している。英DECCAレーベルの花形スターにふさわしい華やかで超絶的な技巧を身に付けつつ、同時に見世物サーカスにならない抑制的な知性も有する。しかもその音楽がヒューマンで抒情的で温かい。それどころかときには熱い情熱すら感じさせる。英DECCAが、カッチェンが20歳になる前にすでに契約をしていたというのは驚きだが、一番最初の録音(DECCA)は、1949年、彼が23歳の時に弾いたブラームスのピアノ・ソナタ第3番。しかも、この時の録音を担当したのは有名なDECCAのプロデューサー、ジョン・カルショー。このほかにもカッチェンの録音を担当していた。語弊がある表現かもしれないが、アット・ホームなレコーディング風景だった。いろんな演奏の録音を聴いていると、かなり感情が嵩ぶって弾いているところも少なくない。感情(激情)と理性との間を絶えず行き来しつつバランスをとりながら弾いているという感じの方が強い。カッチェンの演奏は理知的なアプローチだと言われたりするが、本盤、チャイコフスキーのピアノ協奏曲では、カッチェンが突進している。「知性」と「テクニック」と「情熱」を高度な水準で融合させた協奏曲録音。<未完>聴衆のなかの任意の一人に目標を定め、その人のために弾いたと言われる。もしこの人物が他の聴衆よりも演奏を堪能したとしたら、カッチェンは狼狽しただろう。</未完>
公開演奏を愛するジュリアス・カッチェンは確かなメソードを身につけ、音楽性、肉体の成長を無理せず、スコアを洞察し、その自然な成長で〝聴かせる音楽〟をクリエイトしたピアニストだ。カッチェンがリラックスしていた唯一のポジションは、椅子に座ってピアノの鍵盤へ腕を伸ばしている姿勢の時であったほどだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲などの録音を担当したプロデュサーによれば、カッチェンは、スタジオ録音であっても、各楽章は1つの曲としてまとまったものであるべきだという考え方だった。そのため、スタジオ録音でもほとんど編集をしていなかった。スタジオ録音もたいていは手慣れたもので、強い集中力のおかげで長時間の録音も平気だった。立て続けにベートーヴェンの代表作3曲とディアベリ変奏曲のような複雑な曲を録音するのにかかった時間は、3時間の録音セッションが2回足らずだったと録音プロデューサーのレイ・ミンシェルの回想にある。カデンツァを聴くとカッチェンがいかに高度なテクニックを持っているかわかる。タッチの種類が豊富で素晴らしい。強靭な音から優しい音、輝かしい音から軽やかな音まで見事に描き分けている。カッチェンの演奏は高度な技巧と確かな様式感を軸とした充実したもので、録音を担当したDECCAのプロデューサーはカッチェンについて、「いつも大きな笑顔を浮かべ、エネルギッシュで社交的だった。陽気で誰からも愛される性格で、自己中心的(egocentric)なところがあるが、それがとても魅力的だった」と言っている。驚異的な技巧と深い教養に裏打ちされた音楽的な表現が印象深いカッチェンの演奏は、抒情的な感情に溺れることなく理知的で、現代人の感覚にもストレートに訴えかけてきます。レパートリーは古典から現代曲まで、またスラヴものからドイツ、フランス、アメリカものまで幅広く、ヨーロッパでは高く評価され、特にブラームスとベートーヴェンのスペシャリストとしてよく知られています。逸材との共同作業にも先進的だった、デッカには40数枚のLP録音を残しました。そうした洗練されたカッチェンの美しきピアニズムは本盤でも遺憾なく発揮され、淡々とした美しさを奥深い透明感で貫いて描ききる素晴らしい名演。数々の英デッカのオーディオファイルレコードで、カッチェンは弾力的なリズム感と固い構成感で全体を見失わせない実に上手い設計で聴かせてくれる。冒頭から終わりまで息もつけぬ緊張感を味わえます。カッチェンの演奏は理知的なアプローチだと言われたりするが、当時、カッチェンは〝あまりに急ぎすぎる〟、〝衝動的に突進する〟とずっと批判されていた。これに対して、編集者のジェレミー・ヘイズは「それほどに音楽的な衝動に突き動かされてピアニストが弾いているのを聴くことができるというのは、驚くべきことだ」と言っている。
英デッカ社は、この米国の逸材から利益を計上したと関係者から聞いた事が有ります。一頃のデッカのピアノ部門はカッチェンが背負っていたと云っても過言でないことを証明する名盤。ジュリアス・カッチェン(Julius Katchen)は42歳の若さで亡くなったアメリカ人ピアニスト。ピアニストとしての活動が20年ほどと短かったけれど、レパートリーは幅広く数多くの録音を残している。再録音した曲もかなりあり ― ブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」「ヘンデルバリエーション」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」など ― 録音した作品は、ベートーヴェン、ブラームス、リスト、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、グリーグ、シューマン、モーツァルト、ショパン、ラヴェル、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ムソルグスキー、ガーシュウィン、ストラヴィンスキー、ブリテン、ローレムなど。戦後パリに住んでいたアメリカ人作曲家のネッド・ローレムとは友人で、ピアノ協奏曲第2番の初演、ピアノ・ソナタ第2番の初録音を行っている。後年になると、シューベルトの最後のソナタやベートーヴェンのディアベリ変奏曲のような偉大な作品に対して、哲学的な観点から熟考したカッチェンの解釈が注目される。もし、彼がガンで42歳の若さでこの世を去らなければ、音楽的により深い解釈者へと深化していたかもしれない。カッチェンは1926年8月15日にニュージャージー州ロングビーチで生まれました。11歳の時、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団とモーツァルトのニ短調ピアノ協奏曲 K.466 を演奏したことで知られます。彼の両親は、彼に適切な教育を受けさせることにこだわりましたが、それは後になって大きな実を結ぶことになります。1946年フランスに移り、短い生涯を終えるまでフランスで過ごしました。その動機として、「アメリカのピアノ界は、音楽学生同士のもたれ合いや馴れ合いが根底にある。それが嫌だ」と発言している。カッチェンは肺癌に侵されていて、彼が亡くなったのは1969年4月29日、42歳の時でした。1968年12月12日にロンドン交響楽団とラヴェルの《左手のための協奏曲》を共演したのが、最後の公開演奏となった。彼の最初のDECCAへの録音は、1947年の“ヘンデルの主題による変奏曲”を含むブラームスの作品集で、最後の録音は1968年、ヨゼフ・スーク、ヤーノシュ・シュタルケルとのブラームス“3つのピアノ三重奏曲”でした。カッチェンは演奏会ピアニストとしての活動が長かったが、短い生涯の間にブラームスの重要なピアノ曲とピアノを含む室内楽を全て録音した、ただ一人の世界的なピアニストでしょう。
第2次世界大戦の潜水艦技術が録音技術に貢献して、レコード好きを増やした。ノイズのないレコードはステレオへ。ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereo Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてffss(Full Frequency Stereophonic Sound)が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調Op.23、リスト:ハンガリー民謡旋律に基づく幻想曲、1955年録音。
GB DEC LXT5164 カッチェン&ガンバ チャイコフ…
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