34-5491

商品番号 34-5491

通販レコード→英オレンジ銀文字盤

世界の平和を求めつつ一層の発展を ―   天皇陛下が5月1日に即位。令和に元号が改まった。いよいよ天皇皇后両陛下も同世代となって、前大戦を記憶する国の象徴ではなくなった。一般参賀で国民に初めて呼びかけた願いは、「我が国が諸外国と手を携えて世界の平和を求めつつ、一層の発展を遂げること」だった。「自由詩の父」と称される米詩人ウォルト・ホイットマンの『草の葉』をテキストにした『海の交響曲』、大都市の印象を描いた『ロンドン交響曲』、田園風景の印象の音楽化した『田園交響曲』、第2次大戦の影響を受けた『第4~6番』、映画音楽『南極のスコット』を再構築した『南極交響曲』、小編成のオーケストラに5人の打楽器奏者を要する『第8番』、人生の意味を追究し続けた『第9番』と多岐にわたる内容をもつ交響曲。《交響曲第6番ホ短調》は、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズが1944年から1947年にかけて作曲した交響曲である。作曲者は完成の直前に75歳の誕生日を迎えている。同じ時期に作曲された交響曲としてはショスタコーヴィチの交響曲第9番があり、それよりはシリアスな作品と言えそうです。確かに戦争の名を冠しても違和感は無いとしても、どこかに救いようのある上品さ、優雅さ、人間らしさのようなものがあって身震いするようなものではない。それに比べてショスタコーヴィチ作品には底が見えない、得体が知れない恐怖感を伴う断片があり、そこが魅力ではあるが。世相をヴォーン=ウィリアムズがどうみていたのか、その作品のあり方としての距離間はどちらかと言えばブルックナーの交響曲に近いか。最初の3楽章の不協和音がつんざく激しい性格のため「戦争交響曲」とも評されたこともあり、第1楽章の冒頭から阿鼻叫喚の場に投げ込まれたような、闘争的であり、また皮肉や不気味さが交錯するこれらの楽章には、第二次世界大戦と戦後の混乱が反映しているといえる。しかし全曲の3分の1を占める終楽章は対照的に、終始ピアニッシモで緩やかに演奏される。英国も戦勝国なのに《交響曲第6番》の終わり方は戦勝を祝うというものとはほど遠いもので、混沌の中に埋もれて沈んでいくような感じです。これは平和の暗示ではなく、夜の静寂、冷たく生命のない世界の沈黙といった性格とも初演当時から評されてきた。それでもヴォーン・ウィリアムズの場合はどことなく優雅で、救いようがあるような響きになっています。但し、作曲者はこの曲と戦争の関連性を強く否定しており、絶対音楽として理解してほしいと語っている。初演は1948年4月21日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにおけるロイヤル・フィルハーモニック協会主催の演奏会で、サー・エイドリアン・ボールト指揮、BBC交響楽団によって行われた。本盤は1953年録音。交響曲第2、3、4、6番を初演するなど、ヴォーン=ウィリアムスの音楽を世に広めることをライフ・ワークとしていたボールト卿による録音となった。ボールト指揮の1952〜1956年のモノラル録音が第1回のヴォーン=ウィリアムズの交響曲全集。作曲家存命中で、まだ第9番が作曲されていなかった頃で第1番から第8番となる。デッカならではの優れた技術により、モノラルとはいえディテールは克明で、なおかつ質感が良好に収録されているのも嬉しいところ。これぞイギリス音楽のイメージとぴったりの安定感と抒情を湛えた名演。ボールトというと、長命だったこともあってか、晩年の老成した演奏のイメージ ― 佇まいから受ける印象も、よくよく聴くと吟味された拘りがある。映画音楽的な音楽であろうと、ボールトはメロドラマに墜ちず、あくまで実直に曲のフレーズの存在感を高め、ハッキリとした印象を打ち出している。フォーマルの装いが体型にフィットサイズであることのみならず、ネクタイピンからカフスまで仕立てに含まれているようなものである。 ― が強いのですが、1950年代までの彼は、ときにかなりアグレッシヴな演奏もおこなうという、爆演も辞さぬ積極的な芸風の持ち主であったことはマニアにはよく知られています。この全集でも、名高いEMI盤にはない過激な表情、ヴァイタリティに富む音楽づくりが実に魅力的。これこそ、作曲者から認められ、初演を任されていた当時のボールトの芸風に近いもの、つまり作曲家の具体的なイメージに最も近い演奏ということになるのではないでしょうか。もちろん、ここにはEMI盤のような老成した佇まいはありませんが、この快活さ、ダイナミックでホットな雰囲気には独特の魅力があるといわざるをえません。
英国の巨匠サー・エードリアン・ボールトは「私は常に指揮をとるということは、船の船長になるようなものだと思ってきた。私には石油のドラムカンといっしょにころげまわる理由はまったくない」と言った。ボールトというと、長命だったこともあってか晩年の老成した演奏のイメージが強いのですが、1950年代までの彼は、ときにかなりアグレッシヴな演奏も行うという、爆演も辞さぬ積極的な芸風の持ち主であったことはマニアにはよく知られています。60歳代に録音されたDECCA盤は、パワフルなスタイルが印象的なものでしたが、70歳代の終わりから80歳代の始めにかけて録音されたこのEMIの録音では、DECCA盤とは対照的な切り口、泰然として動じない安定感が魅力的です。気張った部分や不要な感情移入を否定した、〝形〟としての立派さが、それぞれの作品に風格を与えているかのような雰囲気の良さが特徴的で、特に息長く張りのある大柄なフレージングは素晴らしく、風格ある雰囲気が見事に作品に適合した格調高い演奏となっています。ボールトはオックスフォード大学で音楽の学位を得たのち、ライプツィヒ音楽院でマックス・レーガーに作曲を学ぶ傍らハンス・ジットに指揮を学びますが、この地でボールトが最も感銘を受けたのは、アルトゥール・ニキシュによるリハーサルやコンサートの数々だったといいます。ボールトは20歳代初めの若い頃、ライプツィヒで偉大な指揮者ニキシュに私淑したが、晩年に至るまで讃仰の気持ちは変わることがなかった。「ニキシュは私などよりももっと簡素だった。今日、若い世代の指揮者たちには余りにも跳び回る傾向がある。もっとも、彼らはそうすることを期待されているのかもしれないがね。また最近の傾向としては、総体的な建築的構成を犠牲にしてディテール(細部)をほじくることが著しく目立っていると思う。」とは、ボールトの現代批判であるが反面、聴き手はボールトに一種の安全弁のようなものを見出していたようである。少なくともイギリス人はそうであった。ボールトが英国音楽だけでなく独墺系音楽も得意としていたのは、そうした事情が背景にあるとも思われ、これまでにも両分野での人気には絶大なものがありました。どれも堂々たる仕上がりのボールトらしい立派な演奏でリズムの弾力性の高さもボールトの多くの録音の中でも群を抜くもの。ここでもアンサンブルはかっちりと凝縮されており、極めて清潔なその響きにも酔いしれます。
英国の巨匠サー・エードリアン・ボールト(Adrian Boult, 1889~1983)は、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経てライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶ傍らゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエルガー、ホルスト、ヴォーン=ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。中でもボールトの代名詞ともいうべき作品がホルストの組曲「惑星」です。1945年のBBC響とのSP録音(EMI)を皮切りに、ボールトは生涯に「惑星」を5回録音も録音しています。1918年9月ロンドンのクイーズ・ホールにおける作品の非公開の全曲演奏(私的初演)が行われた際にホルストからの依頼で指揮をとったのがボールトであり、その成功によって「《惑星》に初めて輝きをもたらし、作曲者の感謝を受けたエイドリアン・ボールトに」という献辞の書き込まれた印刷譜を作曲者から送られています。戦後はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトはヨハン・ゼバスチャン・バッハからハヴァーガール・ブライアンまで幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽とニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。イギリス人にいわせると軍服ならぬエンビの退役将軍、あるいはパブリック・スクールの老校長を想わせるというが、姿勢の正しさと無駄のないキビキビしたジェスチュアは、まさしく老将軍といった面影をそなえている。ボールトは柔和な表情のうちに威厳を兼ね備えた、一見してイギリス人らしい風貌の持ち主である。ボールトはSPレコードが電気吹き込みになる以前の1920年代からイギリスの様々なレーベルに録音しているが、その中の大手である英EMIがボールトを発見したのは、1966年、ボールト77歳のときだった。80歳の誕生日祝いのコンサートを振った折り、ボールトはふと、こんなことをもらした。「レコード会社は、ほぼ10年ほど前に私がまだ生きていたってことに突然気づいた。こんなに忙しいのは嬉しいことだが、私がもっと元気だった、それより10年前(60歳代)に起こったらねえ」。一口にいってボールトは極めて地味な指揮者だったから、人気者で名物男だったサー・トーマス・ビーチャムが、1961年に82歳で没し、公衆のアイドルだったサー・マルコム・サージェントが1967年に72歳で没し、芸術の夕映えに輝いていたサー・ジョン・バルビローリが1970年に70歳で没したのち、ボールトが浮上していたというわけである。晩年の10年間、ボールトの録音に協力したクリストファー・ビショップの談によると、80歳代の高齢にも係わらずボールトの耳は以前としてシャープであり、老眠鏡もかけずに、こまごまとした手書きスコアを読むことができ、健康な食欲に恵まれ録音スタジオのキャンティーン(簡易食堂)で楽員たちと同じ食事をうまそうに平らげていたそうである。
  • Record Karte
  • 1953年12月5日ロンドン、セッション・モノラル録音。
  • GB DEC LXT2911 ボールト ウィリアムズ・6番