GB DECCA LXT2759 エルネスト・アンセルメ ヘンデル・オルガン協奏曲Op.4-1/Op.4-2
珍しいヘンデル。 ― 「ロマンド管の音を味わっていただくのには、ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで聴いてもらわなくてはなりません。」アンセルメが来日時のインタビューで語った、ダニエル・バートン設計の同ホールは低音が極端に抑えられ、高音は艶やかさと華やかさにあふれた独特の響きをもつために、ドイツ音楽には不向きだがフランス音楽には最適とされる。ここでは管楽器の独特の音色やニュアンス、とくに鼻にかかったような木管のイントネーションとラテン的で華麗なブラスの響きに特徴があり、今では失われてしまったフランスの古き良き香りが引き立つ。本盤はオルガンの音でオーケストラ全体を包みこむように録る“デッカ・ツリー”のマイク・セッティングによるもので、やわらかな金属和音がオーケストラにしっとりと溶け合う。個別にマイクを向けたオーケストラとオルガンの演奏を合成して仕上げた不自然な響きとは次元の異なる質の高いサウンドを堪能させてくれる。表面はサラッと流しているようだが、その実、細部まで神経のよく行き届いた表現で、ことに管楽器のバランスと、リズムの扱いの巧妙さという点では抜群だ。オルガンの明るい音色とスイス・ロマンド管弦楽団との息がぴったりと合っているのも、こころよい。残念なことにヴィクトリア・ホールは1980年代に火災に遭い、オルガンなどを消失してしまった。オルガンは世界的女流オルガン奏者のジャンヌ・ドゥメシュ( Jeanne Demessieux )。1921年2月13日フランスの南部、中世からの学園都市であるモンペリエに生まれる。1936年から1939年まで、マルセル・デュプレに個人的にオルガンを師事。作曲をアンリ・ビュッセルに師事。1946年にパリのサル・プレイエルでオルガニストとして初リサイタルを果たす。ドゥメシュは驚異的な記憶力の持ち主で、暗譜で弾けるレパートリーは優に2,500曲にものぼった。録音数も数多く、フランクのオルガン曲全集(1958年)は、1960年にディスク大賞に輝いている。もともと虚弱体質であったため、1960年代中ごろに健康上の不安から演奏活動を制限した。1967年にデッカ・レコードと契約して、オリヴィエ・メシアンのオルガン曲全集を録音することになったものの、病臥してから数ヵ月後の1968年11月11日にパリの住居で他界したため、この企画は実現を見なかった。しかし作曲は数多く、オルガン曲を軸に室内楽、歌曲に及ぶ。ヘンデルのオルガン協奏曲の2曲のカデンツァもドゥメシュが書いている。特に本盤を録音した1952年は充実している。ドゥメシュのオルガンは上品にヘンデルの軽妙さと味わい深さを抽出。アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団も端正にして優雅。作品の魅力を充分に伝えてくれる。アンセルメの響きは英デッカの技術の恩恵で出来上がった。ストラヴィンスキーの3大バレエをはじめ、ファリャのバレエ音楽など彼らが世に紹介し広めてきた音楽の、その演奏が多くの人々に支持されたことによってアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は第一級の「売れる」オーケストラとなっていった。1968年の日本公演で「オーケストラが二流」、「名演奏はレコード録音のマジック」という風評が巻き起こり、このコンビの評価と人気は急落する事態を招くが、決して一流ではなかったスイス・ロマンド管弦楽団をヴィルトゥオーゾ・オーケストラように聴かせたデッカ・サウンド最大の“マジック”を、オーディオファイルは身を持って体感したという。
なんといってもバレエ音楽が卓出している。いちおうベートーヴェンの交響曲も得意のレパートリーにははいっており、すでに交響曲全集を完結してはいるが、異質である。その面白さはバレエ音楽の比ではない。
エルネスト・アンセルメ( Ernest Ansermet, 1883年11月11日〜1969年2月20日)のレコード歴は長い。英デッカがマイクを使った電気録音を商業化した時分からと古く、SPレコードも多い。1929年9月、デッカ・ストリング管弦楽団 ― 実態は1918年にアンセルメによって創設されたスイス・ロマンド管弦楽団だろう。 ― と録音したヘンデルの「合奏協奏曲」がアンセルメの初録音。1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、スイス・ロマンド管弦楽団はブルーノ・ワルターやフルトヴェングラー、カール・シューリヒトなど多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。骨格的にはやや弱いが極彩色の豊麗なオーケストラの響きに魅せられる、彫琢された美しさをもった演奏が聴きどころである。先般、近衛音楽研究所がパート譜から起こした戦時下での「近衛版・未完成交響曲」を再現演奏できるようにした。「玉木宏 音楽サスペンス紀行~マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」は、その編曲が機会あるごとに書き足されたり、楽器の指定を変更していることが解ったことに端を発する。シューベルトはドイツの作曲家だが、その歌謡性がナチスに好まれていなかった。雄渾な編曲を加える事でナチスから演奏許可されたのだろうか。近衛秀麿はドイツ将校が多く住んでいた、フランスとスイスの国境で度々演奏会を開いている。両者が直接知り合ったかは明らかにならないが同時期スイス側では、ドイツからスイスに拠点を移動したアンセルメも多くの演奏家の亡命を助けていた。ユダヤ人を擁護したことで裁判で有罪になりドイツで仕事が激減したカール・シューリヒトとは第2次世界大戦前から親交があったが、アンセルメが終戦の前(1944)年に彼をスイス・ロマンド管弦楽団に客演を依頼してドイツから亡命する手助けをした。ナチ政権末期、大指揮者ではあってもナチに対して反抗的な態度があったり、それに類する事件が以前にあると、ゲシュタポはさまざまな口実を求めて容赦なく逮捕しようとした。ユダヤ人音楽家たちを助けようと獅子奮迅の活躍をし、有名なヒンデミット事件の時、公然とナチスを新聞紙上で非難し、全ての公職を辞任するということまでしているフルトヴェングラーは逮捕されそうになり1945年1月30日の夜スイスに逃げる。
「ゲシュタポのブラック・リストに載っていること」や「逮捕間近」という噂などを聞いていたが、前日のウィーン・フィルの演奏会でフランクの《交響曲ニ短調》とブラームスの《交響曲第2番ニ長調》を演奏、当日、ベルリンに戻り、ベルリン・フィルでコンサートを指揮する予定だった。しかし、早朝5時の列車でウィーンを離れた。これは当に間一髪、10時にフルトヴェングラーのホテルに踏み込んだゲシュタポは見事空振りに終わる。フルトヴェングラーは1944年1月17日ローザンヌ、1月19日ジュネーヴで客演していた。そのことから以前からの契約で行われたことは間違いないが、1945年2月12日には亡命したフルトヴェングラーはスイス・ロマンド管弦楽団の指揮台に立っていた。ローザンヌで行われた演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの《交響曲第1番》と《レオノーレ序曲第2番》、ブラームスの《交響曲第2番》だった。2月14日にはジュネーヴで同じプログラムによるコンサートが行われ、2月23日にはヴィンタートゥーアに客演しブルックナーの《交響曲第8番》を演奏している。その前のチューリッヒのトーンハレ管弦楽団との2月20日と25日のコンサートは、「ナチスの手先であった」フルトヴェングラーに対するデモが起こって、中止に追い込まれていた。このコンサートも、警察によるデモの鎮圧を受けて、やっとのことで行われたのだった。結局、このヴィンタートゥーア管弦楽団を振ったコンサートが戦前の最後の演奏となったのです。この後、フルトヴェングラーはスイス国内で、一切、公式、非公式に関わらず自分についての発言を行わないという約束をもって、ようやくスイスにとどまることができたのであった。そして、フランス・アルプスから名山ダン・デュ・ミディに至るアルプスの雄大な風景がレマン湖に映えて美しいこの地で彼は2年間、ナチの戦犯容疑で演奏活動を禁止され、半引退の日々を送ることになったのです。スイスに来る時、彼はほとんど何も持っていなかった。旅券さえもいい加減なもので、彼はそれを見逃してくれた国境警備隊員が「音楽ファンで私のことをきっと知ってくれていたからだろう」と語っているが、その程度であったためフルトヴェングラーはスイスで行ったたった3回のギャラを使い果たすと無一文になるという困窮を体験することとなる。アンドレーエやラインハルト卿をはじめザッヒャーやシェルヘン、アンセルメなどがこうした事態にフルトヴェングラーに手を差し伸べた。
人間が集中を持続できるのは最大3秒と科学者が説明するのを、興味深くカラヤンは聞いていたという。音楽家が熱心だったのが珍しかったと解説しているが、カラヤンはウィーン工科大学にも通っていた。古今の詩歌は、どんな言葉も3秒で読み取れるという。それをカラヤンは自分の音楽に反映させていった。テクノロジーへのカラヤンの関心は、バウムガルトナーの影響もあるだろうが、レコードで残せば未来永劫カラヤンの演奏で古今の名曲が世界中で聞かれる、と強く思っていたからだ。自宅に編集室まで持ち、レコード会社の編集室でミキシングを弄ってみせたのはエンジニアたちには苦笑させたが、CDの素晴らしさを説明しているムービーはデジタル時代を先へ進める貢献となった。また、ダーレンのイエス・キリスト教会を録音の常場に出来たことはカラヤンとベルリン・フィルには幸いだった。そして、エルネスト・アンセルメ。アンセルメもまた幾何学者の父と小学校の教師を母に持ち、“数学の神童”として才能を発揮した。ローザンヌの工業学校と大学で数学と物理を、ソルボンヌ大学で数学と哲学を学んで数学の教師をやっていた。アンセルメは理知的な演奏を心掛ける指揮者であり、縦の線をあわせるドイツ流の拍節感から生ずるズレの感覚を逆手に取り、これを明瞭に示して聴き手に快感をあたえている。しかも「サラサラ」とやって小粋に聴かせているのが“音の魔術師”アンセルメの上手いところだ。鼻に掛かったフランス語のようなオーボエや、お洒落で軽みのある弦の歌が魅力的であるスイス・ロマンド管弦楽団の音がいい。アンセルメはサウンドが全体にしっとりしていて、ヘンデルの古典的なバロックスタイルを明らかにするよりは、きわめて自然体のものとして聴かせる。ジュネーヴのヴィクトリア・ホールのホールの響きの良さは、名ピアニストのバックハウスがわざわざベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集をヴィクトリア・ホールで録音したことでもわかります。録音の調整室が無く、調理室を録音用に使うという、大変使いにくいホールにも関わらず、バックハウスがぜひにと使ったこのホールは、スイス・ロマンド管弦楽団を育てました。1918年にエルネスト・アンセルメによって創設されたスイス・ロマンド管弦楽団は、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とともにフル編成のオーケストラとしてはスイスを代表する歴史と評価を得ています。アンセルメはこのオーケストラを50年にわたって率い、彼自身の理想とするオーケストラを目指した。木管楽器と弦楽器の絶妙なバランスとそこから浮かび上がってくる目眩く音色感を、実に繊細に扱っていたことに気づき、その芸術的成果の高さに改めて思いを巡らせているドビュッシーやラヴェルの管弦楽曲全集といったフランス近代の音楽に対するセンスの良さは、素晴らしいもので、響き、バランスに対するアンセルメの実に鋭い耳が、こういった複雑なオーケストレーションから鮮やかなサウンドを引き出しています。ストラヴィンスキーの「春の祭典」などは、木管の扱いの巧妙さでは、音楽史の中で最も素晴らしい作品の一つです。ラヴェルのオーケストレーションの秘密もそこにありますし、アンセルメが得意にした、リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」などのオーケストレーションの特色の多くの部分は木管にありと言っても過言ではないベートーヴェンやブラームスといった作品は、レコード会社の意向もあって、なかなか録音させてもらえなかったアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団で楷書でやられた演奏は、フルトヴェングラー等の演奏とは対極に位置するもので、アンセルメにとった解釈が時代を先取りしすぎていたとも言える古典の録音としては、LP初期にモーツァルトの録音があったりして、決してスイス・ロマンド管にとって不慣れなレパートリーとは言えなかったアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団の響きの基本は木管楽器だったんだと、理解できます。
オルガン協奏曲は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲したオルガンのための独奏曲がまずあがるだろう。全6曲が存在する。オルガンとオーケストラのための協奏曲ではなく、本来他者が作曲した協奏曲をバッハがオルガン独奏曲として編曲したものである。グレン・グールドが唯一のオルガン録音でもある。これを録音するにあたり、グールドはオルガン用の楽譜ではなく、チェルニーがピアノ用に校訂した楽譜に足鍵盤の指定を自分で書き込んだものを使用している。足鍵盤の使用は最小限に抑えられ、レガート奏法を徹底的に避け楽器の送風音を、わざと目立たせる風変わりなマイクのセッティングで音を拾う不思議な試みを行った。ヘンデルにもオルガン独奏用の協奏曲もあるが、作品4と作品7をあわせた12曲はオルガンを独奏に室内合奏団を伴う協奏曲。そのほとんどが傑作で、古典的なバロック趣味をよく表している。これらのオルガン協奏曲は、教会ではなくオペラやオラトリオの演奏される幕間に劇場でヘンデル自身の手で演奏された。ロンドンにおいては当時、オペラが次第に不人気になってきており、ヘンデルは次にオラトリオに取り組むことにしたのである。そして、この試みは成功したのであるが、聴衆はヘンデル自身が演奏する幕間のオルガン協奏曲を非常に楽しみにしていたという。したがって、バッハのオルガン曲とは対照的である。これらのオルガン協奏曲は教会音楽でない。信仰から離れてオルガンの荘重な響きに遊んでいるヘンデルのパフォーマンスに英国聴衆は熱狂したのである。重低音と大音響、ハードロックを好んだのは英国民の血にあるのか。ヘンデルの作品には全部で16曲のオルガン協奏曲があるが、そのほとんどが傑作で、古典的なバロック趣味をよく表している。第6番は、有名な「ハープ協奏曲変ロ長調 H.W.V.294」の原曲。ハイクラスなホテルのラウンジに行くと、かなりの確率で流れているのがこのヘンデルの協奏曲とボッケリーニのメヌエットである。もっとも、このヘンデルの作品に関して言えばハープに編曲されたものの方がポピュラーで、実際によく聞かれるのは「ハープ協奏曲」であろう。バロック音楽は、モンテヴェルディ(1567~1643)のオペラ「オルフェオ」の上演から始まる。7月30日の鑑賞会で、1910年の曲としてタルティーニ作曲、クライスラー編曲で「コレッリの主題による変奏曲」を聴いてもらった。コレッリの音楽は均整のとれた節度と、明るく調和のとれた美しさがある。ローマで活躍したコレッリ(1653~1713)は、後のイタリアのみならずフランス、そしてドイツ人のヘンデルにも大きな影響を与えた。コレッリは合奏協奏曲というバロック音楽の様式を確立した。コレッリの合奏協奏曲作品6は盛期バロック音楽の器楽曲の規範となった。合奏協奏曲は、ヴィヴァルディなどによってさらにヴァイオリン協奏曲に発展していく。また、コレッリはバロックの古典的な精神を最初に音楽で表した人物であった。イタリアでおこった古典的なバロック音楽は器楽曲ではコレッリ、歌劇ではアレッサンドロ・スカルラッティ(1660~1725)によって確立される。17世紀から18世紀にかけてフランスの宮廷で活躍したクープランやラモーらが古典的なバロック様式を発展させた。しかし、真にバロックの古典主義を音楽で完成したのはドイツ人のヘンデル(1685~1759)であった。
ヘンデルはドイツに生まれるが、若いころから音楽の先進国であるイタリアに旅行している。そして、古典的なバロック音楽を身につけてイタリア風のオペラを作曲して成功を収めている。ドイツを一歩も出なかったバッハとは対照的である。当時のヨーロッパでは、音楽といえばオペラか教会音楽をさしていた。ヘンデルはオペラの作曲家として出発する。ロンドンでは今風のイタリア・オペラを望む声が強く、ヘンデルはロンドンの女王劇場の招きに応じて、本格的なイタリア・オペラを書くことになる。この音楽史上有名なオペラ《リナルド》が大成功を収めて、ヘンデルは「現代のオルフェウス」と人々にいわれるようになる。オペラには「間奏曲」という種類の音楽が付されることが多い。これは幕間に観客を飽きさせないための工夫で、舞台装置を転換している間、時間稼ぎのために音楽が演奏される。有名なものでは一幕物のオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」。二場の舞台で教会から場面転換するのにオルガンが演奏される趣向だった。ヘンデルに限って言うなら、間奏曲のかわりに自作の協奏曲を演奏していた。そして、それは作曲者が博打的要素の高いオペラ興行から手を引き、宗教的題材を扱ったオラトリオに軸足を移してからも続けられた。本盤のオルガン協奏曲もそういった目的で作曲された音楽である。この作品はコレッリの影響が濃厚で、緩急緩急という楽章の構成が多い。オルガンを独奏したのはもちろんヘンデル自身であった。このヘンデルのオルガンの演奏が話題になり、ヘンデルの演奏を見るために多くの聴衆が押し掛けるいう様子であった。オルガンの荘重な音色でドーリア調の神殿風な景色を、オルガンの輝かしい音色でイオニア調の典雅な舞というように荘重で明朗典雅な、時に陽気に舞う古代ギリシャ・ローマの神話的な世界を見事に顕わしている。ヘンデルの演奏の素晴らしさは、様々な逸話に残っているが、その自由闊達な演奏と完壁な技術は人々の称賛の的であった。ヘンデルは劇場のオルガンの神秘的な音色で、“教会のバッハ”とは全く違った世界を顕わしている。なおバッハは、1719年と1729年の2度にわたりイギリスを訪問しヘンデルに面会を求めたが最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった。バッハが「音楽の父」と評されるのに対し、日本ではヘンデルを俗に「音楽の母」と呼ぶこともあるが、ヘンデルは生涯独身で子供はいなかった。これに対し、バッハは2度の結婚で合計20人 ― 無事に成長した子供は約10人もの子供に恵まれた子沢山の父親として知られており、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいたと言われている。
ステレオ録音黎明期。1958年から、FFSS ( Full Frequency Stereo Sound )と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国 DECCA レーベル。レコードのステレオ録音は、英国 DECCA が先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマン SX-68 を導入するまで続けられた。英 DECCA は、1941年頃に開発した高音質録音 ffrr の技術を用いて、1945年には高音質 SPレコードを、1949年には高音質 LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英 DECCA は LP・EP にて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でも LP 3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして ffss( Full Frequency Stereophonic Sound )が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
オルガン協奏曲ト短調 Op.4-1, HWV289、ヘンデル:オルガン協奏曲変ロ長調 Op.4-2, HWV290、ジャンヌ・ドゥメシュ(オルガン)、1952年10月ジュネーブ、ヴィクトリア・ホール録音。
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