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これぞウィーン・フィルの美質 ―  ウィーンの生んだ名指揮者、クレメンス・クラウス(1893〜1954)は、大戦後、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やバイロイト音楽祭、ザルツブルク音楽祭のほか、バイエルン放送交響楽団、バンベルク交響楽団などに出演する多忙な生活を送っており、指揮活動のピークを迎えていました。余談ながら、1930年からはヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてウィーン・フィルの常任指揮者となったクラウスは、ベルリン国立歌劇場の音楽総監督、そして1937年から終戦までバイエルン国立歌劇場の音楽総監督を務めて、1941年から1944年までザルツブルク音楽祭の音楽総監督を務めるなど、映画「サウンド・オブ・ミュージック」が描くような、ブルーノ・ワルターやヘルベルト・フォン・カラヤンら多くの音楽家が翻弄している渦中にあって、これでもかというくらい独墺圏のポストを広く席巻してます。その反面、ウィーン、ベルリン、ミュンヘンというドイツ語圏の三大歌劇場の音楽監督を歴任した人にしては残されたクラウス自身の録音がとても少ない。そこにはベートーヴェンやブラームスはあまり得意ではなかったようだったことにも理由がありそうだが、モーツァルトやリヒャルト・シュトラウスでの独特の華やかでしなやかな音楽は現在聞いても、きわめて魅力的である。クラウスの棒によるシュトラウスは、ヨハンの方もリヒャルトの方も困ってしまうほど面白い。クラウスは若い頃からリヒャルト・シュトラウスに信頼されており、『アラベラ』『平和の日』『ダナエの愛』『カプリッチョ』の初演を任されていたほか、『カプリッチョ』では台本も書くという親密な関係でもありました。彼の師匠に当たるリヒャルト・シュトラウスを指揮したクラウスの演奏は、どれもこれもウィーン・フィルの美質を惜しげもなく振りまいていて、ヴァイオリンのソロが大きな役割を果たす『ツァラトゥストラはかく語りき』や『英雄の生涯』ではコンサート・マスターのヴィリー・ボスコフスキーがソロをつとめています。戦後、ウィーン・フィルのセッション録音に取り組んでいたデッカ・レーベルで1950年から行ったのが、前年9月に亡くなったリヒャルト・シュトラウスの作品のレコーディングでした。『ツァラトゥストラはかく語りき』に『英雄の生涯』、『ドン・ファン』『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』『家庭交響曲』『ナクソス島のアリアドネ組曲(町人貴族)』『ドン・キホーテ』『イタリアより』 という有名作品に加え、オペラ『サロメ』全曲という傑作の数々が、モノラルながら優れた音質で遺されています。そしてクラウスの音楽の様式的な古さを顕わにしていることでもあるのですが、そのとろっとした響きの美しさこそは「これぞウィーン・フィル!」と思わせるものがあります。
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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏は、蓄音機時代から数多くレコードが聴かれ続けています。ブルーノ・ワルターとの田園交響曲やモーツァルト、マーラーは現代でも避けては通れない音楽遺産です。そうしたレコード発売を目的としたものではない大戦前のウィーン国立歌劇場のライブ録音が、たくさん残されていますがクレメンス・クラウスが資料的なものとして録音を認めたことから1933年から始まったもので、クラウスがウィーンを去った後も続き、1944年まで続けられたものです。テープレコーダーが実験段階だった頃で、SP盤への録音のため、せいぜい数分程度ずつの断片的なものでしたが、この時代にこれだけまとまった数の録音は非常に貴重。これだけでも貴族的な容姿さながら。この時代に登場する指揮者といえば、このクラウスをはじめ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ワルター、ハンス・クナッパーツブッシュ、カール・ベーム、ヴィクトル・デ=サーバタ、リヒャルト・シュトラウス、ロベルト・ヘーガー、ルドルフ・モラルト、レオポルト・ルートヴィヒ、フランツ・レハール、NHK交響楽団でお馴染みのヴィルヘルム・ロイプナー、フェリックス・ワインガルトナーなど、錚々たる面々。クラウスはウィーン少年合唱団を経て、ウィーン音楽院で学び、さまざまな歌劇場で指揮者として活躍、1929年、フランツ・シャルクの後を継いでウィーン国立歌劇場の音楽総監督に就任したのは、36歳の時。1歳下のベームが1回目のウィーン国立歌劇場の音楽総監督に就いたのは49歳の時、ヘルベルト・フォン・カラヤンが就任した時には48歳ですから、クラウスが生粋のウィーンっ子とは言え、いかに才能が高く評価されていたかの現れでしょう。しかも、クラウスが辞任した1933年をもって、ウィーン・フィルが常任指揮者制度を廃止しています。「ナチスの指揮者」というレッテルのために戦後はしばらく演奏活動が禁止されていましたから、戦後の録音はほぼ1950年からスタートしています。それだけに、新しく再開されるウィーンの国立歌劇場の音楽監督に自分が指名されることを、クラウスは疑いもしていなかったのでしょう。ところが、結果は、このような優美さと高貴さをたたえた指揮者ではなく、木訥な田舎もののベームがその地位を手に入れるのです。結局は、ベートーベンが指揮できないような指揮者がウィーンのシェフでは困ると言うことでしょうし、さらに言えば、何処まで行っても「ナチスの指揮者」という影が、新しく船出をするウィーンの国立歌劇場には相応しくないと判断されたのでしょう。そして、1954年の5月に演奏先のメキシコで急死した。
1950年6月16日ウィーン、ムジークフェラインザールでのセッション、モノラル録音。
GB DEC  LXT2549 クレメンス・クラウス R.シュトラウ…
GB DEC  LXT2549 クレメンス・クラウス R.シュトラウ…