34-5139
商品番号 34-12907

通販レコード→英ダーク・ブルー・アンド・ブラック銀文字盤[EPIC オリジナル]
私が客演指揮したなかで3度のリハーサルのあと言うべきことがなくなった唯一のオーケストラ― カラヤンは1967年のザルツブルク音楽祭の折りクリーヴランド管弦楽団でプロコフィエフの交響曲第5番を振っている。そして、クリーヴランド管弦楽団のシェフに就任したクリストフ・フォン・ドホナーニに送った祝電の中で称賛している一文だ。オーケストラの卓抜した優秀さではカール・ベーム盤でのベルリン・フィルとオトマール・スイトナー盤でのシュターツカペレ・ドレスデンが第1級のオーケストラであるのは言うを待たない。しかし殊、「機能性」に絞って言うなら、このクリーヴランド管弦楽団は、それら何れをも上回っているように思う。ジョージ・セルは凄いオーケストラを作り上げたものだ、とにかく耳を澄ませば、どの声部も聞こえてくるのだ。セルの最大の業績はオハイオ州の地方都市クリーヴランドのオーケストラを大都会のニューヨーク、ボストン、シカゴ、ロサンゼルス各オーケストラに比肩する、いや場合によっては凌駕する全米屈指の名門オーケストラに育て上げたことではないでしょう。その演奏スタイルは独裁者と揶揄されたセルの芸風を反映して、驚くべき透明さや精緻とバランスを持って演奏することであったという。セルはまたオーケストラのある特定のセクションが目立つことを嫌い、アンサンブル全体がスムーズかつ同質に統合されることを徹底したとも云う。セルがクリーヴランド管弦楽団に就任してきた1946年当時、オーケストラのメンバーは88人だった。それを長い年月をかけて"うまく扱う個人的プレーヤーではどうにもならない"の信念を基本にしてメンバーを自分の好みに従うように入れ替えていき、器用とか、うまいというだけの理由では一人たりとも団員を採用せず、オーケストラの一員として如何にその機能を果たすかに基本を置いて人集めをしていった。こうしたセルの演奏からまず伝わってくるのは、あたりを払うような威厳であり作品の本質を奥底まで見つめようとする鋭い視線が窺える。絶頂期のクリーヴランド管弦楽団の音色の美しさも特筆すべきもので、オーケストラ全体がまるでひとつの楽器のように聴こえます。"名人肌のオーケストラと違い、誠実なセルの性格を反映してか楽団員一人一人が原曲の意図に忠実に従い、音楽の純妙な燃焼に全力を尽くしたクリーヴランド管弦楽団の音に指揮者とメンバーの結びつきが、こんなに大切な要素を持っていると、このレコードからも感じられる。
「客演指揮したなかで」が付いているのがベルリン・フィルを掌中にできているという強調した意地を見せているところだろう。しかし脅威を隠しきれていないのが背景に感じる、「3度のリハーサルのあと言うべきことがなくなった」からは、その時のカラヤンの驚きが伝わってくる。日本ではビートルズの来日の興奮冷めやらぬ翌年のこと。カラヤンもまたクラシックの興行とレコードにおける革命を始めようとしていた。カラヤンはザルツブルク音楽祭で、ワーグナーの〈指環〉を4年間かけて一作ずつ上演する。資金は全てカラヤンが負担し彼自身はノーギャラで取り組む代わり、誰にも口出しさせない。会員制の後援会を作り会員に優先的にチケットを販売、出来上がったレコードを提供する。レコードは勿論、市販もされる。世界各地のオペラハウスに引っ越し公演として、この演目を持って回るという構想だった。カラヤンが自分の意思だけでは決められなかったのが、オーケストラだった。ウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーは集団で休暇をとってザルツブルクに行くことが認められなかった。残るのはベルリン・フィルしかなかった。唯一最大の問題は、このオーケストラがオペラの演奏をほとんど経験したことがない点だった。しかし、それはそれで「ベルリンでは聴けない、ベルリン・フィルのオペラ」となれば聴衆にとっては魅力的な組み合わせだった。この時点で、すでにカラヤンを脅かす長年のライバルはいなかった。唯一、目障りなのはカール・ベームであったが、ベームはカラヤンに取って代わろうという発想は持たなかったので表向きは友好な関係が続いていた。レナード・バーンスタインはアメリカを拠点としていたので、棲み分けが可能だった。しかし、カラヤンにとって最大の敵が近づいていた。ゆうこうなかんけいがつづいていた。ゆうこうなかんけいがつづいていた。はっそうはもたなかったのでおもてむきはゆうこうなかんけいがつづいていた。はっそうはもたなかったのでおもてむきはゆうこうなかんけいがつづいていた。とってかわろうというはっそうはもたなかったのでおもてむきはゆうこうなかんけいがつづいていた。とってかわろうというはっそうはもたなかったのでおもてむきはゆうこうなかんけいがつづいていた。からやんにとってかわろうというはっそうはもたなかったのでおもてむきはゆうこうなかんけいがつづいていた。からやんにとってかわろうというはっそうはもたなかったのでおもてむきはゆうこうなかんけいがつづいていた。。
本盤の指揮は、セルに影のように付き従っていたアソシエート・コンダクターのルイス・レイン。彼はセルのオーケストラに対する姿勢について『一にも二にもリズムが最優先し、それに綺麗で正確なイントネーションを求め、さらに自然で誰が聞いても柔和なアンサンブルの緻密さを加えて自分なりに納得のいく音を完成していく』と語る。つまりセルの理念の実行舞台がクリーヴランド管弦楽団だったわけである。セルの心の中には多分、アメリカにおけるメカニックで澄み切った音色とヨーロッパの優雅にして膨らみのあるアンサンブルの機能をいかに合致させていくかということに一つの目標を置いていたと思う。だからアメリカ広しといえども、その欧州的体質が存分に膚で感じられるのはクリーヴランド管弦楽団の音質だけである。"運命"でも"未完成"でも"イタリア"でも実に膨よかな音を醸成するのである。レコードでは1960年代後半に発売されたLPの数々は全てこの点で完全に"欧州化されたクリーヴランド"を満たしていたのである。これぞセルの極意、セルが指揮していないクリーヴランド管弦楽団が演奏しているレコードを聞く醍醐味です。レインはセル時代のクリーヴランド管弦楽団の准指揮者でセルのアシスタントとして当時世界最高の、このオーケストラを影で支えた。セルの"告別のコンサート"となった日本公演にも同伴、レコード録音も少なくテラークから出ていた「ローマの松」その他のレスピーギ集ぐらいで同じセルの弟子では弟分のジェイムズ・レヴァインに水を空けられた。セルに可愛がられたレインだったが、セルの死後はダラス交響楽団の音楽監督に就任したもののぱっとせず、アトランタ交響楽団の音楽監督だったロバート・ショウにオーケストラビルダーとしての腕を買われ、こちらも准指揮者として呼ばれたりしたが、その後はアクロン市やテペイロ市などのアメリカの地方オーケストラを渡り歩いていたようだ。数は少ないが1958年録音で、モートン・グールドの「アメリカン・サリュート」、コープランドの「ロデオ」、バーンスタインの「キャンディード」序曲、ピストンの「不思議な笛吹き」にアンダーソンの「セレナータ」など演奏はいずれもレインの職人的な腕の確かさを如実に示す快演。ベラボウにうまいクリーヴランド管弦楽団の合奏力にも舌を巻く。「ロデオ」などバーンスタインの演奏に迫る出来だ。原盤はEPICレコードの録音で、いずれもアメリカの作曲家によるポップス調のものばかりで、レーンの師匠のセルの録音のない曲ばかり。守備範囲の広かったセルの影になった形だろう。
第2次世界大戦後、兵役を終えて帰還した22歳の青年ルイス・レインは作曲家になる夢を抱いてはいたものの思うように仕事は見つからない。そんな1946年夏、クリーヴランド管弦楽団と新任の音楽監督ジョージ・セルが指揮者の研修プログラムを提供するというので応募する。しかしレインの指揮経験は大学時代に遊びで振ったことがあった程度だったが、指揮者になるつもりなど毛頭なかったが1年間だけならそれも悪くはなかろうと考えたのだ。作曲家を目指す漠然としたビジョンだけで、現実問題行動を起こすすべは指揮者経験が将来に活かせるだろうと思う程度だったろう。ルイス・レイン(Louis Lane)は1923年12月25日アメリカ、テキサス州生まれ。2016年2月15日に92歳で没した。さて、プログラムに参加するにはセルの前でモーツァルトか、ベートーヴェンか、ブラームスの交響曲から1曲選び第1楽章を、主旋律を口笛で吹くか歌うかしながら指揮をするというオーディションに合格しなければならない。この時レインが選んだのは、モーツァルトの第28番の交響曲。セルの「第1ヴァイオリンのパートの裏で第2ヴァイオリンは何をしているのか」という問いに的確に答えたレインにセルを感心させたとか。オーディションが終わった後でセルが「この特殊な交響曲」を選んだ理由を尋ねたところレインは、オーディションにはセルが通じていない曲が良いと考えて、この曲を選んだと明け透けに答える。これに対し、セルは次のように言ったという。「君は完全に正しいよ。私はこの曲を指揮したことはないんだ。」セルが録音したモーツァルトの20番代の交響曲は、この第28番1曲限り。質問時の「この特殊な交響曲」といった言葉や上記の答えから推察するに、オーディションの出来事が蓄積となったことは容易に想像つくが、セルはクリーヴランド管弦楽団を育てながら本格的に、この曲の勉強を始め機が熟すのを待ったのだろう。結局レインは、この時はオーディションには落ちてしまいロチェスターのイーストマン音楽学校で勉強していたが、1年後、彼のもとにクリーヴランド管弦楽団のインテンダントから突然電話がかかってくる。話しを聞くと近々アシスタント指揮者のオーディションがおこなわれるのだが、クリーヴランドに来てまたオーディションを受けてみないかとセルが言っているというのだ。勿論レインは機会を逃さず、この申し出に応じ今度は目出度く合格を果たし、セル時代のクリーヴランド管弦楽団の准指揮者として世界最高のオーケストラを陰で支えた。当時のセルの弟子には他にマイケル・チャーリ、ジェームズ・レヴァインといった人たちがいて結局この中ではレヴァインが抜きん出て有名となりましたが、セル自らはレーンを最も可愛がったそうです。一時はグラミー賞候補にもなりましたが、メジャーオーケストラからは無難な客演指揮者として重宝されてしまった結果、縁の下の力持ちで終わってしまったようです。
本盤は1959年リリースの「Pop Concert Latin America(BC 1047)」をバージョンアップしたような内容。新録は1曲目の《不思議な笛吹き》。ウォルター・ピストン(Walter (Hamor) Piston (Jr.)、1894年1月20日〜1976年11月12日)の代表作かつ最も有名なバレエ音楽。指揮者アーサー・フィードラーの求めに応じてボストン・ポップス・オーケストラのために作曲された音楽と、2曲目のワリングフォード・リーガー(Wallingford Riegger、1885〜1961)の《ダンス・リズム 作品58》。ガーシュウィンの《キューバ序曲》とダンス・ミュージックをバーンスタイン流に味付けした《ファンシー・フリー》とアンコール的なブラス・ガリンド・ディマス(Blas Galindo Dimas、1910〜1993《ソネス・デ・マリアッチ》を外して、。
1962年リリース。Side-2の全7曲は1959年リリース済み。