34-13419
商品番号 34-13419

通販レコード→英ロイヤル・ブルー金文字盤
グリューネヴァルト教会の空間情報を自然な形で誇張なく拾い上げている。 ― 20世紀オーケストラ音楽の傑作。カラヤンがその生涯でスタジオ録音を行なったバルトークのオーケストラ作品は「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」の2曲だけでした。実演では、ピアノ協奏曲第3番など、ほかの作品も取り上げています。本盤の「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」は、カラヤンの2種類ある録音のうち1960年に録音された2度目のものにあたります。録音会場は20世紀初頭に建てられ、EMIが1950年代後半にさまざまな録音に使用していたベルリンのグリューネヴァルト教会で、イエス・キリスト教会と並んで優れた音響効果で知られていました。このステレオ録音を最後にカラヤンは当時契約を結んでいたEMIを離れたため、1947年から続いてきたカラヤンの第1期EMI時代を締めくくる録音ともなりました。カラヤンの丹念緻密な音楽づくりが最良の結果をもたらしたものの一つである。このバルトークの作品は、音楽自体、かなりの緊張感を持っているもので、張り詰めた感じの演奏が多いものだが、ここでのカラヤンは、磨き抜かれた美しい音色を基調とし、柔らかさとゆとりをもつ演奏に仕上げている。カラヤンのイメージにまさに相応しいもので、カラヤンは作品に対しての客観的分析と主観的共感をほどよく混ぜ合わせたような演奏を行っている。聴いてみれば、純音楽的でハンガリー的な素材を生かしつつ、モダンに仕上げられた作品と分かります。バルトークの作曲技法はどのジャンルでも念入りであり、斬新な味を含みつつ根底に堅実な土台があるように思います。考えようではベートーヴェンと同じ観念であると言えます。この作品は、弦楽パートを2つに分けて指揮者の左右に対称的に配置するという指示があり、左右のパートのかけ合いの面白さが聴きどころのひとつですが、この録音では過度にそうした左右の分離感を強調するのではなくむしろアナログ時代のEMIらしい自然な空間性を感じさせる音づくりで、重厚で精気みなぎる1960年代のカラヤンとベルリン・フィルの充実した響きを捉えています。現代は自己特徴を表現するヴィルトゥオーゾ時代へ移行する時期にありますが、1950年代から60年代は名曲の録音がステレオLPの開発で意欲的に進んだ時代で、演奏家も積極的に、かつ曲に敬意を持って名演を残してくれました。本盤1960年録音とは思えないステレオ録音へのEMIの見識を示した良さも特筆すべきです。1957年11月11月28、29日に同じくグリュンネヴァルト教会で録音されていた〈ヒンデミット:交響曲「画家マチス」〉との組み合わせで1961年初出。
カラヤンはフィルハーモニア管弦楽団を率いて1952年5月ヨーロッパ大陸ツアーも成功させ、それは創立10年に満たない楽団の地位向上に貢献した。英EMIの偉大なレコード・プロデューサー、ウォルター・レッグとカラヤン&フィルハーモニア管弦楽団のレコードの数々は、その後のクラシック音楽のレコードの作り方、販売戦略の手段として正に基準となるような仕事であった。カラヤンは最初の《悲愴交響曲》の録音の時から既に大オーケストラの繊細な単音からダイナミックなハーモニーまでを、いかに効率良くレコードで聞かせることができた。その天性の才能あってヴィルヘルム・フルトヴェングラーに頭を抑えられてコンサート活動が思うように出来ないカラヤンをレッグはレコード製作に誘った。フィルハーモニアとの良好な関係を構築したかに見えたカラヤンは、1955年にベルリン・フィルの首席指揮者に就任してしまう。1954年にドイツ音楽界に君臨していたフルトヴェングラーの急逝にともない、翌55年にカラヤンは、ついにヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルの首席指揮者の地位に登りつめた。そうなるとカラヤンはさらなる飛躍を狙った。もはや機運はカラヤンに向いていた。ウィーン・フィルがすでに英DECCAと専属契約していたし、ベルリン・フィルを抑えたドイツ・グラモフォンもカラヤンに接触していた。そして何よりも結婚だ。26歳年下のファッション・モデル、エリエッテ夫人と結婚した。もうレッグの手を借りなくても独り立ちできる。時は満ちていた。一方、レッグは契約更新をしないでいるカラヤンをギリギリまで待った。はっきりした時にはフィルハーモニア管弦楽団にはオットー・クレンペラーを迎え入れている。既に内通は通っていたのだろう、親離れするカラヤンを慮って席を開けてくれていたのだ。本盤は、そのお互いの利害が一致した関係に終止符を打った最後の録音。フィルハーモニア管弦楽団との最終録音セッションは、この2ヶ月前の「プロムナードコンサート」だった。つまりは英EMI時代への置き土産にベルリン・フィルを使ってベルリン、グリューネヴァルト教会でのセッションとしても最後となったステレオ録音を遺した。ベルリンのグリューネヴァルト教会は20世紀初頭に建てられ、EMIが1950年代後半にさまざまな録音会場として使用していた、イエス・キリスト教会と並んで優れた音響効果で知られていました。この録音を最後にカラヤンは当時契約を結んでいたEMIを離れたため、1947年から続いてきたカラヤンの第1期EMI時代を締めくくる録音ともなりました。これらの録音では過度に左右の分離感を強調するのではなくむしろアナログ時代のEMIらしい自然な空間性を感じさせる音づくりで、重厚で精気みなぎる60年代のカラヤンとベルリン・フィルの充実した響きを捉えています。
日本では「帝王カラヤン」と邦語されたが「K」の韻を踏んで、"Kaiser - Karajan" と呼ばれるようになる背景にはカラヤンがベルリン・フィルの第4代の常任指揮者であった期間、他の指揮者はベルリン・フィルを指揮してベートーヴェンとブラームスの交響曲を録音しないという「暗黙の了解」があった。レコード会社のセールに於いて、絶大な人気を博していた1970年代以降は以降は言うまでもないが、60年代の初めにわずかな例外を指摘できるが、この「暗黙の了解」は守り続けられた。こうして続々登場するレコードは木管・金管に綺羅星のごとき名手を擁していた時期にあたり、絶頂期のベルリン・フィルでしか成し得ないゴージャスな響きが見事に捉えられています。特にひそやかなピアニッシモから豪壮なフォルティッシモにいたるダイナミック・レンジの広さは見事です。対してカラヤンがベルリン・フィル以外のオーケストラを指揮するとき、同じくベートーヴェンとブラームスの交響曲は演奏しないとの「暗黙の了解」があった。これは主にウィーン・フィルに限られていたわけだがカラヤンの晩年におけるウィーン・フィルとの演奏会、レコーディングにおいてブルックナーやチャイコフスキー、シューマン、モーツァルト、シューベルト、ドヴォルザークの交響曲が取り上げられたのはこのためである。戦後ドイツ・グラモフォンへの初録音はリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。ベルリン・フィルとベルリンのダーレムにあるイエス・キリスト教会で1959年3月2日に、はじまった。同年末まではEMIへ ― 11月11日のバルトーク「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」がレッグとの最後 ― の録音はグリューネヴァルト教会で行ったが60年代はウィーン・フィルとはゾフィエンザール、ベルリン・フィルとはイエス・キリスト教会でセッションが組まれた。カラヤン&ベルリン・フィル最初期の録音の一つ。卓越した演奏技術を持つベルリン・フィルを巧みにドライヴし、その実力を見事に引き出した定評ある名演です。特に『画家マチス』は、これがカラヤン唯一のセッション録音。バルトークともどもカラヤンの卓越した演出力が光ります。ウォルター・レッグとの1950年代の自然なバランスによる音作りは、録音会場の効果の差異を聴き取ることが出来ます。フィルハーモニア管弦楽団とのレパートリーも幅広く、ステレオで再録音していない名曲もある。
バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である ― ベンツェ・サボルチ
バルトークが前年の母の死を機に、ディッタ夫人とともに着の身着のままの状態で渡米したのは、1940年10月30日のことであった。この頃、彼以外にもナチスから身を守るためにアメリカへ移住した音楽家に、ヒンデミット、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ミヨーなどがいた。このため当時のアメリカ音楽界の活況は大変なものであった。これらの音楽家たちはいずれもそれぞれの才能にふさわしい地位を得て、安住することができた。ところが、それと同時にバルトークが亡命したアメリカはシェーンベルグに代表されるような無調の音楽がもてはやされているときで、民族主義的な彼の音楽は時代遅れの音楽と思われていました。そのため、彼が手にした仕事は生きていくのも精一杯というもので、ヨーロッパ時代の彼の名声を知るものには信じがたいほどの冷遇で、その生活は貧窮を極めました。アメリカへ移住して約1年半後の1942年3月、彼はかつてのピアノの弟子宛に、次のような書簡を送 っている。「私たち二人の状態は日ごとに悪化しています。耐えられないといえば誇張になりますが、ほとんどそれに近いものです …… 私は、かなりの悲観論者になりました。どんな人をも、どんな国をも、またどんなことをも信じられません …… 」それに加え彼の体は白血病に冒され始め、ようやくコロンビア大学で民族音楽の名誉博士号を得て嘱託講師の地位を受け入れた彼は、民謡の録音からの採譜と分類に従事しながら、次第に衰弱していく一方でした。そんなバルトークに援助の手をさしのべたのがボストン交響楽団の指揮者だったクーセヴィツキーでした。もちろんお金を援助するのでは、バルトークがそれを拒絶するのは明らかでしたから、作品を依頼するという形で援助の手をさしのべました。そのおかげで、私たちは20世紀を代表するこの傑作「管弦楽のための協奏曲」を手にすることができました。クーセヴィツキー財団からの委嘱として、自身の70歳記念とボストン交響楽団指揮者就任20周年記念演奏のための作品を書いてほしいと切り出し、バルトークをいたく感激させた。彼にとっては、渡米後初めての作曲の委嘱である。バルトークは体力に自信が持てなかったため、この申出をいったんは断ったがクーセヴィツキーは期限を設けなくてもよいからと彼を説得し、作曲料の半額に相当する額面の小切手を彼の枕元に置いて席を立ったといわれている。実はこの時、クーセヴィツキーはライナーとシゲティの二人から依頼を受けてやって来ていた。バルトークと同郷の友人、指揮者のフリッツ・ライナーとヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティはアメリカ作曲家協会(ASCAP)に働きかけ、その援助でバルトークが安心して療養できるように取り計らった。1943年夏、こうして彼はASCAPの世話でニューヨーク北部の山中にあるサラナック湖畔で療養生活をすることになった。
その後、バルトークは信じられないスピードで委嘱された作品を仕上げる。彼は同年8月15日、作曲に着手し同年10月8日には作曲を完了している。こうして作曲されたのが《管弦楽のための協奏曲》 であった。そして翌年の12月に初演されている。初演後、クーセヴィツキーは「過去の50年を通じて最 高の傑作だ」と彼を讃えた。バルトークは初演時の演奏会プログラムに次のように書いている。「作品全体の雰囲気は ― 第2楽章を除くと ― 第1楽章の厳粛さと第3楽章の死を悼む歌から終楽章の生への肯定へと移行する漸進的な推移を示す。 …… この交響的なオーケストラ曲にこのような題をつけたのは、諸楽器を協奏的及び独創的に使用する傾向からきている …… 」この曲は名人揃いのボストン交響楽団の各プレイヤーの優れた腕前を発揮させるために作曲されただけあって、バロック時代のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)を思わせる内容となっている。バルトークの楽譜を出版しているブージー・アンド・ホークス社の社主ラルフ・ホークスが彼に宛てた「バッハのブランデンブルク協奏曲集のような作品を書いてみたらどうでしょう」という書簡や、コダーイの同名作品の影響が発想になったとも思われる。多楽章で、第5楽章「終曲」のコーダの部分は、バルトーク自身の「エンディングが唐突過ぎる感がある」との反省を基に改訂がなされている。今日の演奏ではこの改訂版を使用している。ライナーやクーセヴィツキーはバルトークの自筆楽譜を使って録音しているが、カラヤンは最終的な出版楽譜に忠実なところはバルトークでも変わらない。この曲とヴァイオリニストのユーディ・メニューインの委嘱で作曲した《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》の成功で、さてバルトークの晩年は経済的にも精神的にも充実した日々を送ることができた。だが、病魔は既に彼の体を蝕んでおり、1945年9月26日バルトークはニューヨーク市内のブルックリン病院で息を引き取った。
1960年11月9〜11日ベルリン、グリュンネヴァルト教会でのセッション録音。ウォルター・レッグのプロデュースによる最後の録音。
GB  COL  CX1783 カラヤン バルトーク・弦楽&打楽器&…
GB  COL  CX1783 カラヤン バルトーク・弦楽&打楽器&…