34-12907
商品番号 34-12907

通販レコード→英ダーク・ブルー・アンド・ブラック銀文字盤[EPIC オリジナル]
私がジョージ・セルが率いたクリーブランド管弦楽団の演奏を好むのは、当時のモーリス・シャープのフルート、マーク・リフシェイのオーボエの音色が好きで堪らないからです。― もちろん、ジャン・ピエール・ランパルやジェームズ・ゴールウェイ、ハインツ・ホリガー、ローター・コッホらのように有名ではありませんが、セル指揮クリーヴランド管弦楽団の1958年録音のドヴォルザークの〈交響曲第8番〉、1964年録音のブラームスの〈交響曲第3番〉あたりは一度聴いてみる価値はあります。特にフランスやアメリカには無名だが、アッと言わせられるような木管奏者がたくさんいる。カラヤンが晩年モントリオール交響楽団の首席フルーティスト奏者を強く所望したのは有名なお話、これを断られザビーネ・マイヤーをごり押ししたのも有名で、これが「ベルリン・フィル入団騒動」に発展してカラヤンのベルリン・フィルでの実績の黄昏の始まりとなった。おそらく一番録音が多いのは、フルートではランパル、オーボエではホリガーでしょう。そして現在一番活躍しているのは、フルートではエマニュエル・パユが筆頭、オーボエではハンスイェルク・シェレンベルガー、フランソワ・ルルー、アルブレヒト・マイアーといったあたりか。セルの最大の業績はオハイオ州の地方都市クリーヴランドのオーケストラを、大都会のニューヨーク、ボストン、シカゴ、ロサンゼルス各オーケストラに比肩する、いや場合によっては凌駕する全米屈指の名門オーケストラに育て上げたことではないでしょう。その演奏スタイルは独裁者と揶揄されたセルの芸風を反映して、驚くべき透明さや精緻とバランスを持って演奏することであったという。セルはまたオーケストラのある特定のセクションが目立つことを嫌い、アンサンブル全体がスムーズかつ同質に統合されることを徹底したとも云う。こうしたセルの演奏からまず伝わってくるのは、あたりを払うような威厳であり作品の本質を奥底まで見つめようとする鋭い視線が窺える。絶頂期のクリーヴランド管弦楽団の音色の美しさも特筆すべきもので、オーケストラ全体がまるでひとつの楽器のように聴こえます。本盤の指揮は、セルに影のように付き従っていたアソシエート・コンダクターのルイス・レイン。彼はセルのオーケストラに対する姿勢について『一にも二にもリズムが最優先し、それに綺麗で正確なイントネーションを求め、さらに自然で誰が聞いても柔和なアンサンブルの緻密さを加えて自分なりに納得のいく音を完成していく』と語る。つまりセルの理念の実行舞台がクリーヴランド管弦楽団だったわけである。セルの心の中には多分、アメリカにおけるメカニックで澄み切った音色とヨーロッパの優雅にして膨らみのあるアンサンブルの機能をいかに合致させていくかということに一つの目標を置いていたと思う。だからアメリカ広しといえども、その欧州的体質が存分に膚で感じられるのはクリーヴランド管弦楽団の音質だけである。“運命”でも“未完成”でも“イタリア”でも実に膨よかな音を醸成するのである。レコードでは1960年代後半に発売されたLPの数々は全てこの点で完全に“欧州化されたクリーヴランド”を満たしていたのである。これぞセルの極意、セルが指揮していないクリーヴランド管弦楽団が演奏しているレコードを聞く醍醐味です。
ルイス・レインはジョージ・セル時代のクリーヴランド管弦楽団の准指揮者でセルのアシスタントとして当時世界最高の、このオーケストラを影で支えた。セルの“告別のコンサート”となった日本公演にも同伴、レコード録音も少なくテラークから出ていた「ローマの松」その他のレスピーギ集ぐらいで同じセルの弟子では弟分のジェイムズ・レヴァインに水を空けられた。セルに可愛がられたレインだったが、セルの死後はダラス交響楽団の音楽監督に就任したもののぱっとせず、アトランタ交響楽団の音楽監督だったロバート・ショウにオーケストラビルダーとしての腕を買われ、こちらも准指揮者として呼ばれたりしたが、その後はアクロン市やテペイロ市などのアメリカの地方オーケストラを渡り歩いていたようだ。数は少ないが1958年録音で、モートン・グールドの「アメリカン・サリュート」、コープランドの「ロデオ」、バーンスタインの「キャンディード」序曲、ピストンの「不思議な笛吹き」にアンダーソンの「セレナータ」など演奏はいずれもレインの職人的な腕の確かさを如実に示す快演。ベラボウにうまいクリーヴランド管弦楽団の合奏力にも舌を巻く。「ロデオ」などバーンスタインの演奏に迫る出来だ。EPICレコードの録音で、いずれもアメリカの作曲家によるポップス調のものばかりで、レーンの師匠のセルの録音のない曲ばかり。守備範囲の広かったセルの影になった形だろう。
本盤はジョージ・セルと同世代の4人の作曲家によるフルートのための音楽。スイスに生まれたフランス音楽の作曲家、オネゲル以外はアメリカの作曲家。1曲目の《フルートとオーケストラのためのポエム》を作曲したチャールズ・トムリンソン・グリフス(Charles Tomlinson Griffes, 1884年12月17日〜1920年4月8日)はベルリンのシュテルン音楽学校でピアノと作曲を学び、ピアノ教師として自活しながら自費でエンゲルベルト・フンパーディンクに師事して作曲家修行を積んだ。ヨーロッパ滞在中にドビュッシーの音楽を知り、フランス音楽の神秘的な響きや異国趣味に魅了されて大きく影響を受けていたグリフスは、同時代のロシアの作曲家(たとえばスクリャービン)も研究しており、その作品に合成音階やバーバリズムを採り入れている。アメリカ合衆国において最も有名な印象主義音楽の推進者である。ホルストに《日本組曲》を作曲させた舞踊家の伊藤道郎と交流があり、その依頼で日本民謡をいくつか編曲している。渡米中の山田耕筰とも接触した可能性もある。数多い歌曲からは、リヒャルト・シュトラウスに影響された後期ロマン派音楽様式から、よりモダンな作曲様式へとグリフスが変貌を遂げていく過程をたどることができる。リヒャルト・シュトラウスの歌曲に興味を持ったら、グリフスも聴いて見る価値が高い。
ハーバード大学で最初に音楽学の学位を取得した人物としてアメリカ音楽史上に、その名を残すアーサー・ウィリアム・フット(Arthur William Foote、1853年3月5日〜1937年4月8日)は、ペインやチャドウィック、パーカー、エイミー・ビーチと並ぶ「第2次ニューイングランド楽派」の作曲家の一人。とりわけ室内楽創作の面からアメリカ合衆国におけるクラシック音楽の発展を基礎付けた一人と看做されているフットの《夜曲》が2曲目。フットの作風はヨーロッパとアメリカの折半的であり、セルには持って来いの作曲家だったとも思える。フットは保守的な作曲家であり、19世紀末のアメリカ人作曲家には珍しく、若いうちにヨーロッパで作曲の研鑽を積んだことがなかった。母親がフットの幼児期に急死したため、ジャーナリストだった父親によって育てられた。1867年からボストンで個人教師にピアノや和声を学んだ後、1870年にハーバード大学への入学資格を得てジョン・ノウルズ・ペインに対位法・フーガ・作曲を学ぶ。2冊の和声論を上梓しており、かつてはアメリカの音楽教育者や音楽学生に音楽理論家として知られた。「ワーグナーには感動させられるが、その作品に学ぶべきものがあると感じたことはないし、ドビュッシーの初期作品を認められるようになったのも遅かった」と述懐し、フットが作曲家として最も尊敬したのはブラームスであり、とりわけ、「ブラームスの後期小品集」に対して賞賛の念を惜しまなかった。しばしば作曲の手本としたヨーロッパの作曲家ではメンデルスゾーン、シューマン、チャイコフスキー、ドヴォルザークなどが垣間見える。そして、ゆっくりした楽章においてチャドウィックやマクダウェルらアメリカの作曲家の影響やアメリカ民謡を思わせる旋律やリズム法を好んで用いている。
裏面の前半は戦後作曲された《フルート、コーラングレと弦楽合奏のための室内協奏曲》。近代フランスの作曲家であるアルテュール・オネゲル(Oscar-Arthur Honegger、1892年3月10日〜1955年11月27日)はフランス6人組のメンバーの一人。スイス人の両親の元、ルアーブルに生まれ第一次世界大戦の際はスイス軍に従軍し一時国境警備などにも就くが、まもなくパリに戻り、以降生涯のほとんどをパリで暮らした。1945年以降はあらゆる領域で新たな地平を発見する目的でドイツ、ベルギー、イギリス、オランダ、ポーランド、チェコスロヴァキア、イタリア、スペイン、ギリシャなどヨーロッパの主要な国へ旅行をし、自作の指揮と講演を行うために1947年夏にアメリカへ。1929年から1947年にかけてデッカ・レコードを含む複数のレーベルに自作の10作品 ― 『パシフィック231』や『ラグビー』、交響曲第3番『典礼風』 ― を指揮してSP録音を残している。またピアノ伴奏をして歌曲集も録音している。オネゲルがワーグナーの音楽に対して非常に心酔していた事実は周知の通りで、ある友人はワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』が嫌いであるとはっきり言ったが、それに対してオネゲルは「それでは、あなたは恋愛をした経験がないのか」と言い返したという。
最後はハワード・ハンソン(Howard Harold Hanson、1896年10月28日〜1981年2月26日)の《フルート、ハープ、弦楽合奏のためのセレナード 作品35》で、こちらも第2次世界大戦後の作曲。好んで北欧文化を題材とするため「アメリカのシベリウス」の異名をとるアメリカ合衆国の作曲家・指揮者・教育者。サミュエル・バーバーと並んで、保守的な新ロマン主義音楽の作曲家として知られるハンソンで締めくくる4曲のプログラムが面白い。クリーヴランド管弦楽団のレコードらしさが強烈に出ている。ハンソンは、当代のモダニズム芸術に常々反感を抱いていた。リズムと色彩の乱舞、線的なポリフォニーの躍動に特徴付けられる同時代の音楽への反感は旋律美と、安定した和声進行にもとづく抒情的・伝統的な表現へと結実することになった。ハンソンのロマン主義への耽溺は18世紀のチェコ系移民による作品や、チャドウィックやマクダウェルらの作品を手ずから指揮して録音した姿勢にも現れている。そしてハンソンの作品は、著しく拡張されているとはいえ調的である。第2次世界大戦後が終わりに近づいた頃、チャトーカ湖近郊の避暑地でマーガレット・エリザベス・ネルソンと出逢い、この曲を献呈した彼女と1946年7月24日に結婚する。ハンソンは決して同時代の新音楽を好まなかったにもかかわらず1960年には、『近代音楽の和声の素材〜平均律音階のための源泉』を上梓しピッチクラス理論に基礎を与えることとなった。デイヴィッド・ダイアモンドの《モーリス・ラヴェルに寄せる悲歌》を「あまりにも現代的である」と毒づきながらも、指揮者としてこれを初演し成功に導くなどの功績もあったことなど、セルのオーケストラに対する姿勢やクリーヴランド管弦楽団の“音”を楽しむのに最適な一枚に思えてくる。
ジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団に就任してきた1946年当時、オーケストラのメンバーは88人だった。それを長い年月をかけて“うまく扱う個人的プレーヤーではどうにもならない”の信念を基本にしてメンバーを自分の好みに従うように入れ替えていき、器用とか、うまいというだけの理由では一人たりとも団員を採用せず、オーケストラの一員として如何にその機能を果たすかに基本を置いて人集めをしていった。24年間の蓄積が、セルが満足気に“自分の楽器”と答えさせるに至った。然し24年という4分の1世紀にも及ぶ長い期間をかけて粘り強く築き上げていくということは並大抵のことではない半面、クリーヴランド管弦楽団という土壌がいかにセルにプラスしていたかを改めて知らせてくれたと言って良い。今日、オーケストラに、その土着性というか郷土性の強いのが体臭のように染み付いているのは東ドイツの一連のオーケストラぐらいのものだろう。ソ連の著名オーケストラにしても、お国ぶりを示すプログラムにさえ新しい国際意識が先立って出てくる。音楽教育の“国際的均一化”が、そうさせるのかもしれない。一昔前ならヴァイオリニストの奏法一つにしてもアウアー派とか、イザイ派などと整然と区別されたのだが、今やオーケストラに至るまで国際化の時代である。日本公演で大阪に到着したセルが5月14日にフェスティバルホールのボックス席でカラヤンの指揮を見聞した。たしかブラームスの〈交響曲第2番〉などのプログラムだった。然し、このカラヤンとベルリン・フィルからはセルが昔ヨーロッパに居た時のようなヨーロッパのカラーなり体質を汲み取ることは多分出来なかったと思う。なぜならフルトヴェングラー時代と違ってカラヤンになってベルリン・フィルは東西両ドイツにまたがる都市のように全く国際化してしまっているからである“名人肌のオーケストラと違い、誠実なセルの性格を反映してか楽団員一人一人が原曲の意図に忠実に従い、音楽の純妙な燃焼に全力を尽くしたクリーヴランド管弦楽団の音に指揮者とメンバーの結びつきが、こんなに大切な要素を持っていると、このレコードからも感じられる。セルの時代に精魂傾けて創りだした手作りの芸術作品というのが、そう簡単に次の時代に培養できないことは、その4分の1世紀の足跡が物語っているからである。それだけにセル=クリーヴランド管弦楽団は一つの20世紀の演奏史上における1ページを綴ったといっても過言ではあるまい。その後年月を経って伝統のないクリーヴランド管弦楽団を育て上げ、名オーケストラとした時にはセルはネオ・ロマニストとして全く独自の世界を切り開いていたのである。クリーヴランドを終生の地と決めたとき、セルは名前をゲオルグから米国流のジョージに変えた。その心底にクリーヴランド管弦楽団に一生をかけるといった気持ちがあったことを知ると感動させられるだろう。そして誠実なセルは、その通りに全ての自分の役目を果たし終えたのである。そして敬服すべき一徹者と言って良いジョージ・セルの名前と芸術は20世紀の指揮者地図から絶対に欠かすことの出来ない存在であることを残された貴重なレコードを聞きながら改めて思い知らされた。
1965年2月リリース。
GB COL  SX1682 モーリス・シャープ フルート曲集
GB COL  SX1682 モーリス・シャープ フルート曲集