34-10556
商品番号 34-10556

通販レコード→英ブルー"Walking Eyes"黒文字盤
私のドビュッシー感を打ち砕いた― 極論を狙って、ドビュッシーをロシアの作曲家ということがあるが、ロシア音楽の影響を受け継承している。伝統的な和声に支配された旧来の音楽から脱却し、近代音楽への扉を開いたドビュッシーの作品の粋は、このロシアの音楽からの影響が見え隠れするところです。昔、わたしはフランス音楽が苦手だった。クープランやプーランクにフランス音楽のエッセンスをはっきり感じていた。比べてスペイン系のラヴェルは好んで聴いていた。ドビュッシーも当然、有名曲は聞き慣れていますがBGM的な接し方でしかなかった。ドビュッシーの唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」を聴くようになったのはいつごろだったろうか。カラヤンの全盛期だったころ、そのカラヤンがドビュッシーの、これを録音発売したころじゃないかな。新譜紹介で聴いたそれは、新しい音楽の洗礼を浴びたような気持ちになった。それまでは未知の世界の音楽だった。頭の上から足の指先まで「アロマセラピー」受けたような、または「マッサージ」受けたような、大人の音楽にスイッチングしてくれた、そんな不思議な感覚になった音楽だった。ベルリン・フィルの機能美、現代的感覚、人工的工芸、エロス的美しさ。数あるカラヤン盤、ベルリン・フィルの膨大な演奏の中で、このカラヤン指揮ベルリン・フィルのドビュッシーは今でも私にとっては、とびきり上等な一枚だ。それからはフランス音楽にのめり込む。そして、「ブーレーズ」ってどうだ。1960年初頭のクリーヴランド管弦楽団とのオーケストラの機能美を極めたセンセーショナルなレコードの印象は忘れない。どの「音」も完璧なところで出すので、これまた凄い音の重なりには驚く。ブーレーズが振るオーケストラの放つ音階に「純正律」も「平均律」も関係ないのか。音階の矛盾が全くなし。制約されるもののない無限の階調だ。ブーレーズが引き出す「音」は、極めて「自然界」の音に近いような感じさえする。 曖昧さの精妙な音の綾を描き分けたブーレーズの指揮。独自の視点から見た独特な演奏で、カラヤン盤とは対照的表現による名盤のひとつです。
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現代フランスの偉大な作曲家、指揮者のブーレーズがフランスの黄金時代を築いたドビュッシーの作品集を録音。ドビュッシーの唯一のオペラであり、20世紀オペラの中でも数少ない傑作のひとつです。架空の国アルモンドで展開される宿命的な愛の悲劇をレシタティーフのような表現で歌われる、節度と洗練の極致とも感じ取れる作品です。既成概念の再考を激しく迫る、この時代のブーレーズならではの演奏と言えるでしょう。ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)は1925年3月26日、フランスのモンブリゾンに誕生。リオンで数学などを学んだ後、パリ音楽院に進んでオネゲル夫人に対位法をメシアンに和声を師事し、そのごレイボヴィッツに12音技法を学びます。1945年ブーレーズは『ノタシオン」を作曲、翌1946年には『ピアノ・ソナタ第1番』、『ソナチネ』、『婚礼の顔』も書き上げています。この年ブーレーズは、プロとしての最初の本格的な仕事となるジャン=ルイ・バロー&マドレーヌ・ルノー劇団の音楽監督に就任します。仕事の内容は舞台演劇に音楽をつけるというものでブーレーズ自身、オンド・マルトノ演奏を行ったりギリシャ悲劇『オレスティア』のための音楽を作曲・演奏するなどして、1956年までの10年間に渡って活躍します。その間、『ピアノ・ソナタ第2番』、『水の太陽』、『弦楽四重奏のための書』などの他、代表作となる『ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)」を作曲。この頃のブーレーズは過激な言動でも知られていた時期で、「オペラ座を爆破せよ」、「シェーンベルクは死んだ」、「ジョリヴェは蕪」、「ベリオはチェルニー」といった数々の暴言が現在のブーレーズからは信じられない刺激的なイメージを伝えてくれます。そして1954年10月、過激な時期のブーレーズによって創設されたのが室内アンサンブル「マリニー小劇場音楽会」で、この団体は翌年には「ドメーヌ・ミュージカル」と名前を変え、以後大活躍をすることとなります。
「ドメーヌ・ミュージカル」は当時のブーレーズが音楽監督を務めていた劇団の舞台でもあるパリのマリニー劇場を本拠地とし、件のジャン=ルイ・バローと、その夫人のマドレーヌ・ルノーがパトロンになって発足したもので創立者にはブーレーズと、この両名が名を連ねています。彼らは最初から現代音楽に特化したアンサンブルだったわけではなく、1954年のシーズンにはマショーやデュファイ、バッハといった古楽プログラム、ドビュッシー、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ストラヴィンスキー、バルトーク、ヴァレーズといった近代プログラム、シュトックハウゼン、ノーノ、マデルナなどの現代プログラムが3つの柱として存在しており、年を経るに従って現代プログラムの占有率が高くなっていきました。さらに、この団体の活動は演奏会の開催だけにとどまらず機関紙や研究書の発行にまで至り、ヨーロッパのみならず世界の現代音楽シーンに多大な影響を与えることとなります。作曲も順調で、『プリ・スロン・プリ』、『ストローフ』、『ピアノ・ソナタ第3番』、『エクラ』、『ストリクチュールⅡ』なども手がけています。その間、注目されることになったブーレーズは1960年から1963年にかけてバーゼル音楽アカデミーの教授を務めたりしましたが1967年には、フランス政府の音楽政策に抗議してフランス国内での演奏活動の中止を宣言、「ドメーヌ・ミュージカル」をジルベール・アミに託し(1973年に解散)、自らは指揮者としての活動に本腰を入れBBC交響楽団やニューヨーク・フィル、クリーヴランド管弦楽団を指揮して国際的に活動するようになります。ちなみに「ドメーヌ・ミュージカル」。ブーレーズ時代13年間の公演数は約80、登場する作曲家は約50名、作品数は約150曲といいますから、当時からブーレーズのレパートリーの広さにはかなりのものがあったことが窺われます。1967年以降のブーレーズは英米の他、バイロイトにも登場して指揮者としての名声を高めていますが、その間にも作曲は行っており、『ドメーヌ』や『即興曲 ― カルマス博士のための』、『カミングス、詩人』、『典礼 ― ブルーノ・マデルナの追憶』といった作品が書かれています。そうした声望を受け1976年にはフランスに設立されたIRCAMの所長に就任、同時に創設された現代音楽専門のアンサンブル「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」の音楽監督も兼任し、1990年代まで現代音楽に集中的に取り組むようになり、『レポン』、『デリーヴ』、『ノタシオン管弦楽版』、『固定/爆発』といった自身の作品の発表を行います。1990年代初頭、国際的な指揮の舞台に復帰したブーレーズは1995年からはシカゴ交響楽団の首席客演指揮者となり、以後、欧米各国のオーケストラを指揮して数々のコンサートやレコーディングも実施。そのため作曲の方は少なくなりましたが、それでも『アンシーズ』、『シュル・アンシーズ』、『アンテーム1』、『アンテーム2』の他、80歳となった2005年には『天体暦の1ページ」を書くなど、継続的に作品発表を行っているのは流石です。
ジョージ・シャーリー、エリーザベト・ゼーダーシュトレーム、イヴォンヌ・ミントン、ドナルド・マッキンタイア、他、コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団&合唱団。1970年ステレオ録音。
GB  CBS  77324 ブーレーズ  ドビュッシー・有名管弦楽…
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