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〝哀愁を帯びた第2楽章〟 ―  はマイルス・デイヴィスの「スケッチ・オブ・スペイン」を聴いて、チック・コリアの「スペイン」を聴いて、原曲はクラシック音楽で、スペインの作曲家ロドリーゴの《アランフェス協奏曲》であることを知って、いつか原曲を聴いてみようと意欲を抱かせる名曲でしょう。そして、クラシック・ギターの第一人者で、映画『ディア・ハンター』の音楽やフュージョン・バンドに参加する一面も見せるイギリスのギタリスト、ジョン・ウィリアムスの録音盤が選ばれる理由でしょう。1941年4月24日オーストラリアのメルボルンに生まれたジョン・ウィリアムスは、ギタリストである父レナードからギターの手ほどきを受け、1952年に父の出身地イギリスに移住。ロンドンの王立音楽院で学ぶ傍ら、イタリア・シエナのキージ音楽アカデミーで巨匠アンドレス・セゴビアに師事。1958年にウィグモア・ホールで正式にデビュー。その後CBSレコードと専属契約を結び、1964年にデビュー・アルバムを発表、同年12月にはニューヨーク・デビューし、世界的な活動を行うなど早くから名を知られていたジョン・ウィリアムスは、盟友ジュリアン・ブリームとともに、20世紀クラシック・ギター界を牽引する存在に。1969年には映画音楽家・編曲者のスタンリー・マイヤーズとの出会いから名曲「カヴァティナ」が生まれ後に映画『ディア・ハンター』で使用され彼の代表曲に。1970年代からはクラシックの枠にとどまらずさまざまなグループとの共演を開始し、フュージョンをはじめとする様々なスタイルで実験的なサウンドを追求、その成果として1979年から1983年までフュージョン・グループ「スカイ」を結成して活動。1983年以降は再びクラシック音楽に軸足を移しつつも、1990年代からは新しいアンサンブル「ATTACCA」など、広範な活動を展開。2013年に引退するまで56年間に渡って国際的に活躍、レコーディングの面でも大きな足跡を残しました。ジョン・ウィリアムスのコロンビア・レコードへの初録音は、バッハとスペイン音楽を収めた1964年の「コロンビア・レコーズ・プレゼンツ・ジョン・ウィリアムス」で、7年後には累計で100万枚のセールスを記録。それ以来、2002年の「プレイシズ・ビトウィーン」にいたるまでの全57枚のオリジナル・アルバムは、バード、ダウランド、クープラン、スカルラッティ、ヘンデルから、パガニーニ、エルガー、フォーレ、デ・ファリャ、アルベニス、ブリテン、ヴィラ=ロボス、武満徹、テオドラキス、ブローウェルにいたる多様な ― 自作を含む作曲家のギター作品を網羅しています。名曲《アランフェス協奏曲》は、1964年のユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団共演盤、1974年のダニエル・バレンボイム指揮イギリス室内管共演盤、そして1983年のルイ・フレモー指揮フィルハーモニア管弦楽団共演盤の3種類の録音がレコードでリリースされています。20世紀スペインの大作曲家ロドリーゴの代表作であるこのギター協奏曲は、哀愁を帯びた第2楽章の冒頭が有名だが、潤いのあるオーケストラ音楽をバックに、クラシック・ギターの華麗な技巧がさまざまに繰り出される名作である。風格あるジョン・ウィリアムスのギター独奏は、大きなスケールで名作の魅力を余すところなく開陳する。
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スペインの哀愁、そして明るさに満ちた ― アランフェスは、首都マドリッドから南へ約47キロほどに位置するスペインが誇る古都です。概ね乾燥した中央スペイン高原地帯にあって、タホ河の恵みで樹木がよく成育し緑豊かな土地であったため、古くから王侯の憩いの場となり、素晴らしい離宮や庭園がありました。しかし、内戦中、フランコ側の軍隊がアランフェスに入城し、人民戦線側の市民を壁に立たせて銃殺するという出来事もありました。スペイン内戦が終結した後、ホアキン・ロドリーゴ(Joaquín Rodrigo, 1901〜1999)はビクトリア夫人と共にアランフェスを訪れます。目の不自由な夫に妻が語りかけます。カルロス1世からフェリペ2世の時代にかけてスペイン宮廷の離宮が置かれ、小ヴェルサイユといわれたほど壮麗な、宮殿の遺跡がいまなおのこされている、アランフェスが如何に美しい街であるか、そして、内戦で何が起こったのか。そして、ロドリーゴはそのインスピレーションを、ギター協奏曲という形式で書き上げます。ギターはオーケストラと対峙する時には、音量的に余りにも非力です。しかも、ロドリーゴ自身はピアニストでありヴァイオリンの演奏にも長けていましたが、ギターを弾けません。にもかかわらず、ギターにこだわりました。何故ならば、ギターこそスペインが生んだ民族楽器だから。アランフェスが体現しているスペインの栄光と歴史、そして哀愁と悲しみを音楽的に表現するには、ギターをおいて他にない、という確信です。数々の作品を通じてクラシック・ギターの普及に功があったとされ、とりわけ《アランフェス協奏曲》はスペイン近代音楽ならびにギター協奏曲の嚆矢とみなされている。さて、現代における『ギター協奏曲』というジャンルに先鞭をつけたこの作品は、1930年代の国外遊学期に着想され、1939年、スペイン市民戦争の終わった年に完成した。ギターの技術的な面に関しては、スペイン屈指のギタリストで長らく王立音楽院教授をつとめたレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサからの助言が大きかったという。ロドリーゴ自身の言葉によれば、この曲の中に描かれようとしたものは〝憂愁にとらわれたフランシスコ・デ・ゴヤの影、貴族的なものが民衆的なものと溶け合っていた18世紀スペイン宮廷の姿〟だという。〝形式においても情感においても、古典性と民衆性を統合したものであることを望んだ〟とも語っている。
世界中の人々の魂を揺さぶったアダージョ ― ロドリーゴは、20世紀スペインの生んだ大作曲家です。そしてロドリーゴは目が見えないという宿命的な十字架を負っていました。《アランフェス協奏曲》は、たぶん20世紀のクラシック音楽の中で、最も一般に知られ愛されている楽曲です。しかも、その影響は、クラシック音楽を超えて、ジャズやポップスにまで及んでいます。音楽家にとって、聴覚を失うことは、死にたくなるほど辛いことだろう。それでも作曲を続け、聴覚を失ってから健常の時よりさらに奥深い音楽を書いたベートーヴェンを、〝創造の奇蹟〟と言っても、過言ではない。聴覚ほどではないにしても、視覚を失いながら、作曲家として大成するというのも容易いことではあるまい。1999年の7月6日が命日のホアキン・ロドリーゴは、3歳の頃、悪性のジフテリアに罹りました。その後遺症で4歳にして視力を完全に失明しながら、20世紀のスペインを代表する作曲家となった。そのきっかけになったのが、パリ音楽院に学んで帰国後の1939年に発表したギターと管弦楽のための《アランフェス協奏曲》である。1924年に管弦楽曲《子どものための5つの小品》によりスペイン国家賞を授与されると、ホアキンは満を持してパリに出て、25歳の時から、エコール・ノルマンに5年間にわたり留学します。当時のパリの楽壇の最高峰 ― 「魔法使いの弟子」が有名な、ポール・デュカスに師事し作曲を学びます。ホアキンをデュカスは「おそらく彼がパリにやって来たスペイン人作曲​​家の中で最も才能のある人物だ」と評価しています。同じクラスには、メキシコの作曲家、マヌエル・ポンセ、そして後にロドリーゴの作品の優れた協力者になったバスク出身の指揮者、ヘスース・アランバリもいました。その当時、ホアキンの人生に大きな意味を持つ出来事が起こりました。マヌエル・デ・ファリャとの出会いです。オペラ「はかなき人生」でフランス王立アカデミーの歌劇賞を受賞し作曲家として認められるデ・ファリャは、式典に続くコンサートでは彼自身の音楽だけでなく、エルネスト・アルフテル、ロドリーゴ、ホアキン・トゥリーナら同郷の若い作曲家の音楽もまた行うべきだと披露しました。耳の肥えた聴衆の前で自身の曲が演奏される機械を得たその出来事に、ロドリーゴはデ・ファリャに常に感謝していました。プライヴェートでは ― と済ませられない最も重要な出来事が、生涯の伴侶ビクトリア・カムヒとの出会いです。将来を嘱望されたトルコ人の女流ピアニストでしたが、夫ホアキンのために自らの音楽活動は諦めます。さまざまなヨーロッパの文化についての幅広い知識とともに、いくつかのヨーロッパの言語に通じた彼女の能力は、ホアキンの理想的なパートナーでした。作曲のみならずピアノ演奏に優れ、教壇にも立てば講演旅行や著述まで行うという、盲人とは思えない活躍ぶりを示してきたが、これにはビクトリア夫人の内助の功を見落とすことが出来ない。ロドリーゴは、若くして作曲家として高い評価を得ます。1936年にはマドリッド音楽院の教授に就任します。そんなロドリーゴにとって一大転機となったのは、スペイン内戦です。同じスペイン人同士が、人民解放戦線とフランコ将軍率いるファッショ勢力に分かれて戦い、殺戮と破壊が祖国を覆う悲劇。アーネスト・ヘミングウェイは「誰がために鐘は鳴る」を書き、パブロ・ピカソは「ゲルニカ」を描きました。そして、ロドリーゴの《アランフェス協奏曲》です。その第2楽章は、スペインで生まれた美しいメロディの象徴と言っていい。コール・アングレのソロで始まるこのアダージョの調べは、ジャズやポップスなど、様々なアレンジが施されて、世界中の人々の魂を揺さぶった。この曲に憧れて、多くの名ギタリストが生まれた。
近年、クラシック音楽の新録はダウンロード配信だけのケースが増え、往年の大演奏家たちの活動の把握が難しいが2014年から新たな「エルガー・プロジェクト」をシュターツカペレ・ベルリンとスタートしている。1942年生まれのダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim)は言うまでもなく現代を代表する指揮者でもあり、また長らく一流のピアニストでもあり続けている。短期間に膨大な演奏や録音を熟すことでも知られる、市場が縮小した今日においても定期的に新譜を出せる数少ない指揮者である。バレンボイムがピアニストとして録音を開始したのは1955年のこと。しかし本格的な録音プロジェクトがスタートしたのは1960年代になってからで、まずウェストミンスター・レーベルで、続いてイギリスEMIでピアニストとしての継続的な録音が開始されました。特に1965年に始まる指揮者無しでのイギリス室内管弦楽団との密接な関係はピアノ協奏曲を始めとするモーツァルト作品の網羅的な録音が行なわれましたが、バレンボイムが初めてコロンビア・レコードに録音するのはこの時期で、ピンカス・ズーカーマンとのモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集の指揮者として登場。イギリス室内管とはロドリーゴをジョン・ウィリアムズのギターを迎えて、大注目された録音しています。1970年代前半には交響曲2曲のほか、「エニグマ変奏曲」や「威風堂々全曲」をはじめ、名作「海の絵」まで含む、ロンドン・フィルとのエルガーの主要オーケストラ作品を録音し、〝隠れエルガリアン〟としてのバレンボイムの姿が浮かび上がります。フィラデルフィア管弦楽団を指揮して当時の夫人ジャクリーヌ・デュ=プレと共演したチェロ協奏曲のライヴ録音もその延長線上でレコード化されました。同世代の非英国人の音楽家で、ここまでエルガーの音楽に肩入れしているのはバレンボイムぐらいなもの。そしてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との名演は1975年の巨匠アルトゥール・ルービンシュタイン3度目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集での、スケールの大きな音楽作りに結実します。最熟期のルービンシュタインの気力充実した極大のピアニズムに引けを取らないオーケストラの深みのある鳴らしっぷりはバレンボイムの指揮者としての新境地を感じさせるもので、ピアニストとしてこれら5曲をオットー・クレンペラーという大指揮者と録音したバレンボイムが今度は指揮者として、やはり大巨匠のルービンシュタインと同じ5曲全てを録音した、という点でも大きな話題となりました。ピアニストとしての録音では、ズービン・メータ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックとのブラームスのピアノ協奏曲2曲、メータ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのリヒャルト・シュトラウスの協奏的作品「ブルレスケ」は、いずれもバレンボイム唯一の録音であるほか、イツァーク・パールマンとのブラームスのヴァイオリン・ソナタ全曲。同じころにピエール・ブーレーズの指揮でベルク「室内協奏曲」の録音に、ピアニストとしても参加しています。
ダニエル・バレンボイムはピアニスト、指揮者として、これまでにほぼすべてのメジャー・レーベルから膨大な録音をリリースしてきていますが、ことソニー・クラシカル(旧コロンビア時代からCBSおよびRCA REDSEAL)への録音には他レーベルにはないいくつもの特徴があります。音楽監督をつとめていたパリ管弦楽団とは、ベルリオーズを始めとするフランス音楽のエッセンスともいえる作品の名演が記録されています。現在のところ唯一の録音である「テ・デウム」や「イタリアのハロルド」、「トロイ人」の「王の嵐と狩」など、ドイツ・グラモフォンでのベルリオーズ・チクルスでは録音されなかった作品が聴けるのもソニー・クラシカルならではといえるでしょう。火照るようなロマンティシズムが溢れ出てくるシェーンベルク「ペレアスとメリザンド」も、冷徹なミヒャエル・ギーレンらとの解釈とは対極にある個性的な名演です。また同時期に録音されたニューヨーク・フィルとのデビュー録音となったチャイコフスキーの交響曲第4番は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの絶頂期を思わせるドラマティックな音楽作りが特徴で、バレンボイム初期の指揮録音の中でも傑出した名演にもかかわらず、話題にならないのが不思議なほどです。ブラームスはピアノ協奏曲を2曲書きました。2曲とも屈指の大作であり名曲ですが、特に第2番は古今のあまたのピアノ協奏曲の中でも最高峰だと思っています。恩師シューマンへの敬意とクララへの憧れが入り混じる作曲家の若書きの1番のいかつい協奏曲にくらべ、2番は自由な気概に満ち、のびのびしたここで聴くブラームスの音楽は、私の心を解きほぐしてしまう。ブラームスがイタリア旅行中に構想を得たという2番は、陽光にあふれ、一点の曇りもありません。ピアノはバレンボイムらしいルバートが見られ豊か。ピアノの表情の転換や多彩さは見事。表情豊かなピアノをオーケストラが自己主張せず巧くサポートして引き立てる。それでもメータのテンポは颯爽としているので音楽が引き締まっている。活力はあるが単に突っ走るのでなく入念でもある。知と情のバランス。やっぱりバレンボイムは並みのピアニストではない。2年ぶりにバレンボイムを取り上げるにあたって、ブルックナー交響曲全集を聴き返して同じ感慨をもったのですが、バレンボイムの指揮には「重いよー」と弱音を吐いてしまうことが多い私ですが、ピアノは何時聴いても素晴らしい。
不治の病で没したチェリスト、ジャクリーヌ・デュ=プレの元夫。エドウィン・フィッシャーの弟子。1991年よりゲオルク・ショルティからシカゴ交響楽団音楽監督の座を受け継いでからは、卓越した音楽能力を発揮し、現在は世界で最も有名な辣腕指揮者のひとりとして知られている。ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインから近年のギュンター・ヴァントやカルロ・マリア・ジュリーニ、ガリー・ベルティーニに至るまで、第二次大戦後に活躍してきた指揮界の巨星が相次いで他界した後の、次世代のカリスマ系指揮者のひとりとして世界的に注目と期待が集まっている。オペラ指揮者としては、1973年にエディンバラ音楽祭において、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮してデビュー。1981年にはバイロイト音楽祭に初めて招かれた。1992年からはベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任し、現在まで継続している。アルゼンチン生まれのため、南米出身のラテン系の音楽家というイメージが強いが、両親がともにユダヤ系ウクライナ人であり、ウラディミール・ホロヴィッツ、シューラ・チェルカスキーらと同郷のウクライナの血を引いた音楽家である。ダニエル・バレンボイムは、10歳の時に戦後建国されて間もないイスラエルに移住。その後、オーストリア・ザルツブルクに移り、モーツァルテウム音楽院で学んだ。ピアニストでいえばモーツァルト弾きで名高いイングリット・ヘブラーと同じ音楽院の出身で、バレンボイム特有の粘着質で重々しい音楽からすると意外な印象を受ける ― ただし、モーツァルトは彼の得意なレパートリーではある。ピアノを弾く姿は、椅子を高くして、決して長くない腕を斜めに下げた状態で、鍵盤に腕ごと指を打ち下ろすというもの。彼の弾くハンブルク・スタインウェイからは、他のピアニストにはない粘りのある分厚い重い音が出てくる。それはクラウディオ・アラウやハンス・リヒター=ハーザーのようなドイツ系のピアニストの輝きを持つ重厚感や、師のエドウィン・フィッシャーの音楽とは異質な音である。1954年夏、死の直前で聴力をほとんど失っていたヴィルヘルム・フルトヴェングラーから「天才少年」と賞賛を受けたことで、フルトヴェングラーへの思いは強くなり、バレンボイムの指揮ぶりにはフルトヴェングラーの重厚さ・壮大さを常に意識したところがある。音楽を大量生産する人物、政治的な策略でポストを得てきたフルトヴェングラーのエピゴーネンであるなど、バレンボイムを『指揮は出来ないが、いいピアニスト』と語っていたセルジュ・チェリビダッケのような精緻な音楽を基本とする大指揮者から評価されている。パリ管弦楽団音楽監督時代、ドイツ・グラモフォンに録音したラヴェルとドビュッシーは評価が高い。
ダニエル・バレンボイムは演奏家である前に、独自の音楽観を持った音楽家であり、楽想そのものの流れを掴むことのできる稀有な才能の持ち主であろう。テンポの揺れは殆ど無く、凪の中で静かに時間が進み、色彩が移り変わっていく。全体的には厚めの暖かみのある音色で、煌めき度は高くなく沈んだ暖色系の色がしている。ピアニストからスタートして、もともとフルトヴェングラーに私淑していたこともあり、さらにメータ、クラウディオ・アバド、ピンカス・ズッカーマンなどとともに学びあった間柄で、指揮者志向は若い時からあったバレンボイム。7歳でピアニストとしてデビューしたバレンボイムの演奏を聴いた指揮者、イーゴリ・マルケヴィッチは『ピアノの腕は素晴らしいが、弾き方は指揮者の素質を示している』と看破。1952年、一家はイスラエルへ移住するが、その途上ザルツブルクに滞在しウィルヘルム・フルトヴェングラーから紹介状〝バレンボイムの登場は事件だ〟をもらう。エドウィン・フィッシャーのモーツァルト弾き振りに感銘し、オーケストラを掌握するため指揮を学ぶようアドヴァイスされた。ピアニスティックな表現も大切なことだとは思いますが、彼の凄さはその反対にある、音楽的普遍性を表現できることにあるのではないか。『近年の教育と作曲からはハーモニーの概念が欠落し、テンポについての誤解が蔓延している。スコア上のメトロノーム指示はアイディアであり演奏速度を命じるものではない。』と警鐘し、『スピノザ、アリストテレスなど、音楽以外の書物は思考を深めてくれる』と奨めている。バレンボイムの演奏の特色として顕著なのはテンポだ。アンダンテがアダージョに思えるほど引き伸ばされる。悪く言えば間延びしている。そのドイツ的重厚さが、単調で愚鈍な印象に映るのだ。その表面的でない血の気の多さ、緊迫感のようなものが伝わってくる背筋にぞっとくるような迫力があります。パリ管弦楽団音楽監督時代、ドイツ・グラモフォンに録音したラヴェルとドビュッシーは評価が高い。シュターツカペレ・ベルリンとベートーヴェンの交響曲全集を、シカゴ交響楽団とブラームスの交響曲全集を、シカゴ交響楽団及びベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とブルックナーの交響曲全集を2種、それぞれ完成させている。ピアニストとしてより指揮者として顕著さが出る、この時期のレコードで特に表出している、このロマンティックな演奏にこそバレンボイムを聴く面白さがあるのです。「トリスタンを振らせたらダニエルが一番だよ」とズービン・メータが賞賛しているが、東洋人である日本人もうねる色気を感じるはずだろう。だが、どうも日本人がクラシック音楽を聞く時にはドイツ的な演奏への純血主義的観念と偏見が邪魔をしているように思える。
  • Record Karte
  • 1974年&1975年録音。Engineer – Mike Ross-Trevor, Roy Emerson, Producer – Paul Myers.
  • GB CBS 76369 ジョン・ウィリアムズ&バレンボイム ロドリ…
  • GB CBS 76369 ジョン・ウィリアムズ&バレンボイム ロドリ…

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