34-15423
商品番号 34-15423

通販レコード→英ブルー"Walking Eyes"黒文字盤
ストラヴィンスキーの音楽がすんなりと聞こえるようになる― 大阪万博の時にジョージ・セル率いるクリーヴランド管弦楽団と来日したブーレーズは2回の公演を大阪フェスティバルホールで開いた。すでに大きな話題になっておりストラヴィンスキーをして「バーバリズムの見本のような音楽から、知的で、スコアをレントゲン写真で見たような演奏」ということで驚きをもって迎えられた。当時のオーケストラにとって「春の祭典」はかなりの難曲で、コンサートの演目に載ることでさえ大きな話題でした。「火の鳥」はブーレーズの1911年組曲版を最初にして、ようやく現代音楽からクラシックの仲間入りをしたという印象がある。初代エイドリアン・ボールトが20年間主席を務めたBBC交響楽団は歴史と伝統ある実力派オーケストラですが、ロンドンに犇めく著名オーケストラの中ではシェフが長期間続かない特色がある。アンドルー・デイヴィスは長かったが、1930年から50年までのボールトから、アンドルー・デイヴィスの間にマルコム・サージェント(1950年〜1957年)、アンタル・ドラティ(1962年〜1966年)、コリン・デイヴィス(1967年〜1971年)、ピエール・ブーレーズ(1971年〜1975年)、ルドルフ・ケンペ(1975年〜1978年、ただし1976年に急逝)、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(1978年〜1981年)と、EMIやPHILIPSで評判だった頃の指揮者が目白押しだ。客演指揮者もアルトゥーロ・トスカニーニ以来の指揮者の個性がオーケストラの響きに反映するのが伝統でしょう。ブーレーズの指揮のもとでは、もの凄く官能的、良い音で鳴っています。指揮者ブーレーズの名を一躍高めたのは何といってもフランス国立管弦楽団との「春の祭典」(1963年、コンサートホール)で、明晰な表現で作品の隅々まで新たな光を当て端的に曲の核心をついた演奏は、まことに新鮮かつ鮮烈だった。現代音楽の作曲家ブーレーズの指揮者としてのイメージを広く知らしめる上で大きな役割を果たした因縁の作品で、これはブーレーズが通常の交響楽団との最初の録音でした。余剰を排し作品そのものの音響や構造の特徴を露わにする明晰な音づくりは革命的で、20世紀を代表する音楽的知性であるブーレーズならではの仕事といってよいだろう。そして醒めた眼で作品を細部まで見据えて、その一音一音にまで透徹した表現を行き渡らせたブーレーズの演奏はドビュッシーやラヴェルの管弦楽曲集をはじめ、バルトークや新ヴィーン楽派の作品でも、これまで聴くことの出来なかったような精緻で、しかも確かな構成力と研ぎ澄まされた活力を持つ透徹した演奏を聴かせてくれた。いかにも「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」の民族的な旋律、個性あるリズムは細部まで明快、正確、感情移入少なく、切迫感と緊張は、その結果として厳しい官能が溢れ出る演奏になっている。
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このレコードが発売された当時レコード芸術で諸井誠氏が書いていた「ぼくのBBB」という連載で、当時レコード好きの話題の中心だったバーンスタイン、ブーレーズ、バレンボイムの3人が共通して録音している曲が、この「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」で少しツメは甘いけれど大らかなバーンスタイン、若さ漲り踏み外さんばかりのバレンボイム、完璧なブーレーズと紹介され興味を大いに刺激した。同好の友たちがそれぞれに購入して、回し聞きしていた。バルトークが1937年に完成させた斬新かつ民族色の濃い作品は、フルトヴェングラーも初演後すぐに演奏している。このブーレーズの演奏は精確無比、怜悧で切れ味鋭い、青白い炎のようにメラメラと燃えるような押さえた情熱を感じさせるクールな雰囲気がバルトークならでは。4つの楽章からなるが、全編厳しく、緊張感たっぷり、ある意味無愛想なくらいだ。これが、「火の鳥」だといっそうわかりやすい。1911年版での録音が珍しさ一興だけれど正確なリズム、アンサンブル、クールで明晰な官能が希有な成果を上げています。この「火の鳥」も、ブーレーズのトレードマークの一つ。ストラヴィンスキーの3大バレエで一番最初に書かれた、この作品は「春の祭典」とは異なり、1910年に初演されて以来、オリジナルのバレエ全曲盤のほか、年代の異なる3つの組曲が存在する「火の鳥」では、どの楽譜を選ぶかによって指揮者の選択眼が問われます。作曲家自身の手による、この数度にわたるバージョン違いにストラヴィンスキーの意図が感じられる。1911年、19年という戦前と、戦後の1945年という時期を背景にストラヴィンスキーの思いが強すぎるのかもしれない。1910年の全曲版と、1919年の組曲版のレコードがほとんどだが、1911年版は4管編成になっている。ブーレーズは「火の鳥」をストラヴィンスキーが最初に構想した4管編成で演奏すべきものと考えており、2管編成になっている他の組曲版と違い本盤はバレエ全曲版から、そのまま編まれた1911年版の組曲という非常に珍しい版を使い、通常の倍ある編成のスコアから序奏から非常に速いテンポで突っ走り、音符を長めに取る事で流線型のフォルムを作り出す。ブーレーズのストラヴィンスキーは、実に面白い。バレエのシーンがオーヴァーラップしていく音楽の並列的な構成が、スリルいっぱいの音響空間へと見事にまとめられている。オーケストラの各パートの明晰さを保ちながらトゥッティでのスケール感の豊かさを感じさせ、これぞオーケストラを聴く醍醐味を堪能することが出来ます。
ブーレーズの音楽は最初の音から最後の音、いや休符に至るまで全く曖昧さを残さない。ステレオのステージを左右いっぱいに展開しオーケストラの各パートを鮮明に収録したコロンビアのサウンドは、ブーレーズの明晰・明快な音楽作りとこれ以上ないほどにマッチしコンサートとは離れたところで音楽を味わう録音芸術としての各アルバムの価値を高め、録音アーティストとしてのブーレーズの魅力を際立たせました。「導入部」「カスチェイの魔法の庭園」「イワンに追われた火の鳥の出現」「火の鳥の踊り」「火の鳥の嘆願」「金のリンゴと戯れる王女たち」「王女たちのロンド」までが長く採られている代わり、人気のある「子守唄」と「フィナーレ」は外され、「カスチェイの踊り」で終了します。1967年当時のブーレーズの演奏録音が、なぜ、革新的で驚きをもって迎えられたのか今では分かりにくくなってしまいました。しかし、当時を知るものが共通して持つ青春そのものとも言える演奏録音に込められた暗闇、ギラギラというより、渋くキラキラした色彩感、冷たいようでいて不思議な暖かみをも感じる情感などなど思い出します。ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)は1925年3月26日、フランスのモンブリゾンに誕生。リオンで数学などを学んだ後、パリ音楽院に進んでオネゲル夫人に対位法をメシアンに和声を師事し、その後レイボヴィッツに12音技法を学びます。1945年ブーレーズは『ノタシオン」を作曲、翌1946年には『ピアノ・ソナタ第1番』、『ソナチネ』、『婚礼の顔』も書き上げています。この年ブーレーズは、プロとしての最初の本格的な仕事となるジャン=ルイ・バロー&マドレーヌ・ルノー劇団の音楽監督に就任します。仕事の内容は舞台演劇に音楽をつけるというものでブーレーズ自身、オンド・マルトノ演奏を行ったりギリシャ悲劇『オレスティア』のための音楽を作曲・演奏するなどして、1956年までの10年間に渡って活躍します。その間、『ピアノ・ソナタ第2番』、『水の太陽』、『弦楽四重奏のための書』などの他、代表作となる『ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)」を作曲。この頃のブーレーズは過激な言動でも知られていた時期で、「オペラ座を爆破せよ」、「シェーンベルクは死んだ」、「ジョリヴェは蕪」、「ベリオはチェルニー」といった数々の暴言が現在のブーレーズからは信じられない刺激的なイメージを伝えてくれます。そして1954年10月、過激な時期のブーレーズによって創設されたのが室内アンサンブル「マリニー小劇場音楽会」で、この団体は翌年には「ドメーヌ・ミュージカル」と名前を変え、以後大活躍をすることとなります。
「ドメーヌ・ミュージカル」は当時のブーレーズが音楽監督を務めていた劇団の舞台でもあるパリのマリニー劇場を本拠地とし、件のジャン=ルイ・バローと、その夫人のマドレーヌ・ルノーがパトロンになって発足したもので創立者にはブーレーズと、この両名が名を連ねています。彼らは最初から現代音楽に特化したアンサンブルだったわけではなく、1954年のシーズンにはマショーやデュファイ、バッハといった古楽プログラム、ドビュッシー、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ストラヴィンスキー、バルトーク、ヴァレーズといった近代プログラム、シュトックハウゼン、ノーノ、マデルナなどの現代プログラムが3つの柱として存在しており、年を経るに従って現代プログラムの占有率が高くなっていきました。さらに、この団体の活動は演奏会の開催だけにとどまらず機関紙や研究書の発行にまで至り、ヨーロッパのみならず世界の現代音楽シーンに多大な影響を与えることとなります。作曲も順調で、『プリ・スロン・プリ』、『ストローフ』、『ピアノ・ソナタ第3番』、『エクラ』、『ストリクチュールⅡ』なども手がけています。その間、注目されることになったブーレーズは1960年から1963年にかけてバーゼル音楽アカデミーの教授を務めたりしましたが1967年には、フランス政府の音楽政策に抗議してフランス国内での演奏活動の中止を宣言、「ドメーヌ・ミュージカル」をジルベール・アミに託し(1973年に解散)、自らは指揮者としての活動に本腰を入れBBC交響楽団やニューヨーク・フィル、クリーヴランド管弦楽団を指揮して国際的に活動するようになります。ちなみに「ドメーヌ・ミュージカル」。ブーレーズ時代13年間の公演数は約80、登場する作曲家は約50名、作品数は約150曲といいますから、当時からブーレーズのレパートリーの広さにはかなりのものがあったことが窺われます。1967年以降のブーレーズは英米の他、バイロイトにも登場して指揮者としての名声を高めていますが、その間にも作曲は行っており、『ドメーヌ』や『即興曲 ― カルマス博士のための』、『カミングス、詩人』、『典礼 ― ブルーノ・マデルナの追憶』といった作品が書かれています。そうした声望を受け1976年にはフランスに設立されたIRCAMの所長に就任、同時に創設された現代音楽専門のアンサンブル「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」の音楽監督も兼任し、1990年代まで現代音楽に集中的に取り組むようになり、『レポン』、『デリーヴ』、『ノタシオン管弦楽版』、『固定/爆発』といった自身の作品の発表を行います。1990年代初頭、国際的な指揮の舞台に復帰したブーレーズは1995年からはシカゴ交響楽団の首席客演指揮者となり、以後、欧米各国のオーケストラを指揮して数々のコンサートやレコーディングも実施。そのため作曲の方は少なくなりましたが、それでも『アンシーズ』、『シュル・アンシーズ』、『アンテーム1』、『アンテーム2』の他、80歳となった2005年には『天体暦の1ページ」を書くなど、継続的に作品発表を行っているのは流石です。
1967年、ステレオ録音。Producer – Thomas Z. Shepard.
GB CBS 72652 ピエール・ブーレーズ ストラヴィンスキー・…
GB CBS 72652 ピエール・ブーレーズ ストラヴィンスキー・…