GB BRUNSWICK SXA4528 マージョリー・ミッチェル ブゾーニ・インディアン幻想曲
通販レコード→英ライト・パープル銀文字 Decca プレス盤[オリジナル]

GB BRUNSWICK SXA4528 マージョリー・ミッチェル ブゾーニ・インディアン幻想曲

商品番号 34-6714

この盤の録音はDECCAだが、MCAというクラシックジャンルでは馴染み薄いレーベルからの発売だったので流通が少ない。 ― レア盤でオーディオファイルに知られている。》ピアノ音楽を愛するもの、ピアノを習うもの、ピアノを公で奏でる者にとっては、バッハやリストの編曲でブゾーニの存在は重要だ。フェルッチョ・ブゾーニ( Ferruccio Busoni 1866~1924)はリストの晩年、チャイコフスキーが評判を得ている時代に生まれ、第一次世界大戦が終わり産業や技術が大衆を巻き込んで変化を迎える直前の力をためていた時代に世を去った。クラシック音楽の風潮は、新古典主義音楽の理念を「新音楽」として提示するイーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽《プルチネルラ》が1920年に成功している。1900年代にブゾーニがロマン派音楽の終焉を予見し、そのうえで「モーツァルトへの回帰」「バッハへの回帰」を呼びかける ― ブゾーニは、歴史主義的立場に立ってロマンティックに過去を回顧したのではなく、19世紀末のロマン派音楽は動脈硬化を起こしかけてもはや袋小路に入っており、それを脱するには若返りが必要だとの認識に立っていた。したがって古典派音楽以前に倣って感情から超然とした、どちらかといえば形式主義的な音楽づくりにとりくむこと、苦悩や絶望の表現ではなく愉悦感の表現を取り戻すことが重要であると ― 自説を開陳したときは、夢物語と一蹴された。20世紀における「新古典主義音楽」を準備した作曲家は、3人いる。その一人、ドビュッシーは印象派主義の旗手に祀り上げられているが、ドビュッシーは、意識的な、あるいは理論的な新古典主義者ではなかった。しかし、しばしばラモーやクープランを称揚し、またモーツァルトへの愛情を語るなど音楽家として古典的なものへの憧れを持っており、詩的な題名に頼らずに抽象的に作品を構成しようとしている姿勢は戦後の新たな動向を十分に予告するものとなっている。そしてもう一人はマックス・レーガー。重厚で入り組んだテクスチュアは、後期ロマン派音楽の典型とさえ言いうる基本的にはロマン主義者だが、情感過多を排除した超然とした表現や、機械的・形式主義的な楽曲構成はブゾーニの主張を別の側面から実現するものでブラームスからヒンデミットに橋渡しする。我々は今日ブゾーニを音楽の革新者と考えるが、しかし彼が革新者の域に達するためには長い時間が必要であった。初期の曲は確かに念入りに作られたものではあったが、演奏者が技量を誇示するための部分が多すぎて息苦しいものであった。一旦は否定された新古典主義の理念は第一次世界大戦が終わり事情が変わった。有力な演奏家が徴兵され、ある者は落命し、ある者は障害者として戻ってきたため、以前のような演奏者数が確保できなかった。また、ヴァイマル共和国やオーストリア共和国では、物価の異常な高騰によって、大オーケストラのために新作を書いても、特例がない限り実演が困難であったという事情もあった。さらに、フランスを経由してジャズがヨーロッパを席巻した。このような状況が音楽の変化を促した。以前の風潮や時代の趣味への嫌悪感が刷新される。レコードが登場した。街角やカフェーでの演奏はレコード再生で代用され一般にレコード音楽が享受されていく。ブゾーニの死後、同じイタリアを郷里に持つレスピーギが蓄音器で再生するレコードをステージ上の楽器の一つにし、第2次大戦を挟んで電子音響への関心が高まり、メシアンが電子楽器をオーケストラに加えた。バッハのフーガをブラックホールにするブゾーニの魔法は、冨田勲から初音ミクに表現手段として息づいている。一方で新古典主義音楽は、戦間期にこの芸術運動を指導した主要な作曲家が第二次世界大戦後に転向したり沈黙したりすることにより人材を失って衰えていった。ラヴェルとレスピーギは戦時中に物故し、コープランドは戦後に十二音技法を取り入れながら寡作に転じた。ヒンデミットは室内楽において表現主義音楽に、一方で一連の交響曲において新ロマン主義に接近している。またロドリーゴやフランセのように、あまりに通俗的な音楽語法をとった場合はワンパターンと見なされ評価されないこともしばしばだった。政治を含めてあらゆるジャンルに関して言えることかもしれないが、日本では特にクラシック音楽の「歴史」というものをひとつの教養として捉え、後世の価値観を背景に単純化して語りたがる傾向が強まっている。そして様々な重要な事柄であっても現代のクラシック音楽業界にとって即効性のあるメリットが無いものであるなら、「マニアックな話題」ということで本質的な議論から排除される傾向も顕著だ。そしてこうした「マニアック」という烙印を押された形で戦後、新しい音楽が議論されるようになると、十二音技法以前の作曲家はすでに過去のものと断じられている。未来の音楽を生み出そうとしたブゾーニ。初音ミクを夢想したが生まれたのが100年早すぎたデジタル音楽の発想者・ブゾーニも、その中で忘れられていくのだろう。フェルッチョ・ブゾーニはイタリア生れのピアノ奏者・作曲家。クラリネット奏者の父、ドイツ系ピアノ奏者の母の手ほどきを受け、7歳で楽壇にデビューして、アントン・ルビンシテインを驚かせ、ウィーンでの演奏会でハンスリックの絶賛を浴びた。1876年に一家でグラーツに移住しウィルヘルム・マイヤーに作曲を師事。12歳のときには自作のスタバト・マーテルを指揮、発表している。このころの作品はすでに卓越した形式感を示しているが、ウィーンに移りブラームスと知り合うことでさらに磨かれた。1886年ブラームスの勧めでライプツィヒに移った彼は、チャイコフスキー、マーラーらを知り、しだいに作曲活動に専念。それと並行して1888年にはブゾーニ版として知られることになるバッハのクラヴィア作品の校訂・編曲を始めている。また教職を求めてヘルシンキ(1889)、モスクワ(1890)、ボストン(1891~94)へ赴く。その間に1890年ピアノと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(Op.31a)でルビンシテイン賞を受賞。なおこのころ、独自な作風を自覚しはじめた彼は以前の曲を破棄、新しい作品番号を用いはじめる。1890年には早くもピアニストとしての名声が確立した。ピアニストとしてのスタイルはロマン主義的情感といったものよりは壮大な構成の感覚、装飾の感覚により特徴づけられる。1894年ヨーロッパに戻り、ベルリンに居を定め、以後、第1次世界大戦中のチューリヒ滞在の時期を除いて同地を中心におもに作曲者、指揮者として活躍。1902年からはベルリンで現代的な管弦楽曲のための演奏会を開き、バルトーク、ディリアス、シベリウスおよび自作の初演を行うなど「新音楽」の旗手と目されるようになる。1902年から1909年までの間に12回にわたり同世代の作曲家を取り上げた演奏会を催し、ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》のドイツにおける初演を行なったりもした。1911年には6回の演奏会で、リストの主な作品をすべて演奏した。ブゾーニにとってリストは鍵盤楽器の究極であり、バッハがその出発点であった。この少し後、今度は当時あまり顧みられなかったモーツァルトの協奏曲を聴衆に知らしめた。彼はモーツァルトの協奏曲を興味深く、また冒険的でもあるカデンツァで装飾して聴かせたのである。しかしピアノ協奏曲 Op.39(1903~04)等に見られる彼自身の作風は、いまだ後期ロマン派、とくにリストの影響を色濃く残していた。またウィーン音楽院ピアノ科マイスター・クラス教授(1907~08)、ボローニャ音楽学校校長(1913~14)を務め、のち20年にベルリン芸術アカデミー作曲科マイスター・クラス教授に就任。ブゾーニ自身認めているが、1907年に一大転機が訪れる。とくに同年に作曲されたピアノ作品〈エレジー集 Elesien〉のように、印象主義や表現主義などの19世紀末から20世紀初頭の革新的な様式をも採り入れた独自の音響世界が形成されていく。本盤の《インディアン幻想曲 Indianische Fantasie》Op.44(1913)はピアノのためのソナチネ第2番(1912)における半音階的旋律、拡大された調性、拍節構造を廃棄したリズムに見られる大胆な試みと、同第4番(1917)のバッハ作品を想起させるポリフォニーの古典性などが錯綜している間に位置する。古典的作曲家たちの活動に範をとった「新しい古典性」「若々しい古典性」 junge Klassizität という精神的態度に基づき、確固とした美しい形式の実現、ポリフォニー的な旋律の再確立などが主張されている。「若々しい古典性」、すなわち「過去のすべての経験と現代のすべての実験」を援用する様式である。このような考えにのっとってブゾーニは、《インディアン幻想曲 Indianische Fantasie》Op.44(1913)、《ロマンツァとスケルツォ Romanza e schezoso》Op.54(1921)、ピアノのための6つのソナチネ(1910~20)を作曲した。。1910年から死に至るまでブゾーニはドビュッシーにもワーグナーにも負うところがない探究をしている、ただ一人の現代主義的作曲家であった。彼は当初、晩年のベートーヴェンの作風に近いところから出発し、ベルリオーズを経てリストに近づくことでイタリア化した。誰とも分かつことのないこの伝統に常に貪欲な好奇心に満ちた精神に由来する探究や気まぐれが付け加わる。彼の弟子たちのうちに互いに非常に異なる音楽家の姿が認められることは意味深い。クルト・ヴァイル、エドガー・ヴァレーズ、また音楽史の主流からはずれたが注目すべき音楽家であるアーサー・ルリエ、フィリップ・ヤルナッハがいるが彼らの音楽は目指しているところは類似性を感じるが不思議と交わらない。フェルッチョ・ブゾーニは20世紀前半における末期的ロマン主義と近代主義が交錯する時代のピアノのヴィルトゥオーゾであり、教育者であり、イタリアに生まれながらもドイツ的指向を求め、その延長線上に音楽の父、バッハの存在があり、古典を研究し、擬古典主義を試み、一方で電子音楽にも微分音にも興味を示し、誰よりも過去をリスペクトしながら、誰よりも未来を見据えた希有な存在だ。
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