34-18632

商品番号 34-18632

通販レコード→英ブラック金文字盤 【SP盤】

〝僕は歌い手じゃない、語り手なんだ。〟 ― と、ビング・クロスビーは自伝の中で綴っている。フランク・シナトラやディーン・マーティンを初めとする白人エンターテナーは、彼をお手本にして成功していった。世代的に新しいシナトラは、ビングの切り拓いた「アメリカン・ポピュラー・ミュージック」の世界を、時代に合わせ、より「個人主義的」に磨き上げたともいえる。ところが、当のクロスビーは楽譜をほとんど読めなかったということです。彼は黒人ジャズ・ミュージシャンの歌を聞き、そして盗み取ることでその歌唱法を獲得して行きました。テクニシャン・タイプでこそありませんでしたが、優れた耳とそれに自分の表現をのせる歌唱力があったということです。当時は〝クルーナー〟と呼ばれるソフトで甘い歌声のヴォーカリストの時代でした。クルーナー歌手が出現する1920年代半ばまで、オペラ唱法=ベルカント唱法でダイナミックに歌うポピュラー歌手が主流でした。ステージから客席の後ろまで届く、豊かな声量と多少大げさな表現が求められたのは劇場に適していたからです。クルーナーの起源は、イタリアのオペラ歌手がオーケストラをバックに歌っているものに、ジャズやブルースの語り口が加わったものと挙げられます。おさえた低い声でささやき、つぶやくように、しゃべるように歌うという唱法は微妙で繊細な歌詞表現に特徴があり、そうしたロマンティックで情緒をこめ、Classy(上質)な唱法で歌うCrooner歌手に育ったクロスビーが、ラジオから唄いかけてくれば、耳元で愛の言葉を囁かれているようで女性リスナーが魅了されてしまったのは当然のこと。銀幕で観るクロスビーの姿からは、歌って踊れて、コミカルなお笑いもこなせて、シリアスな演技では泣かせる。どれもが世界一といっていいくらいハイグレードなのに、気負った様子を感じることがなく、親しみやすく、人柄の良い、のんびりした田舎紳士の趣をもったアメリカ人。全盛期には、〝最もアメリカ人があこがれる、アメリカ人の中のアメリカ人〟と言われていたのです。本盤は白人のジャズ・ヴォーカリストとしては珍しくスウィング感のある歌唱力を武器に人気を獲得したクロスビーの人気の弾みになった、名曲「デイ・バイ・デイ」。名アレンジャー・指揮者としても知られる2人、アクセル・ストーダルとポール・ウエストンがメロディーを作り、サミー・カーンが詩をつけて共作した。まず、1945年に最初に歌ったのはポール・ウェストン夫人のジョー・スタッフォード。1946年1月16日にもレス・ブラウン楽団とコロンビアに吹き込んでいるが、そちらはまだエラ・フィッツジェラルドの気配が感じられる。1946年にストーダルのオーケストラをバックにしたシナトラのレコードや、クロスビーとメル・トーメ&メルトーンズ盤がヒットした。〝毎日毎日、あなたが好きになり、毎日毎日、私の恋が深まってゆく…〟というロマンティックな内容で、バラードで歌っても良し、アップ・テンポのスインギーなジャズ・ナンバーとして歌っても良しという、名歌である。ストーダルの親友シナトラ自身もこの曲を大いに気に入っていたようで、1940年代のコロンビア録音の他、1961年にキャピトルにもこの曲を再吹込している。→コンディション、詳細を確認する
ビング・クロスビー ― (Bing Crosby, 1903年5月3日〜1977年10月14日)は、20世紀最大のポピュラー・シンガー。サッチモ ― ルイ・アームストロングと共にジャズ・ヴォーカル確率の功労者。ある統計によれば、生涯に2,700曲を超える録音を行い、売れたレコードは2億数千万枚に上るという。クルーニングと呼ばれる彼の唱法は、フランク・シナトラをはじめ多くの歌手に影響を与えた。1903年ワシントン州タコマ生まれ。法律家を目指したがジャズに熱中、ミルドレッド・ベイリーの兄アル・リンカー(Al Rinker, 1907年12月20日~1982年6月11日)とのデュオがポール・ホワイトマン(Paul Whiteman, 1890年3月28日~1967年12月29日)に認められ、1926年末にホワイトマンがスカウトしたピアニスト兼ヴォーカリストのハリー・バリス(Harry Barris, 1905年11月24日~1962年12月13日)が加わりリズム・ボーイズを結成、ヴォーカル・トリオとして本格的な活動に入る。1927年「Victor Records」から「ミシシッピー・マッド(Mississippi Mud, ミシシッピーの泥)」をリリース。後に世界的な大成功を収める〝ビング・クロスビー〟にとって初のレコーディングで、ホワイトマンのバンドも録音に参加。同曲は映画「キング・オブ・ジャズ(1930年、King Of Jazz)」でも挿入曲として使用され、メンバーも映画出演しています。1931年5月からはソロとして次々にヒットを飛ばし、一躍大人気スターとなった。以後、ミリオン・セラー22枚。歌手としては全米No.1ヒットが41曲。ザ・ビートルズですら20曲なので、恐らく歴代最多も記録を持っている。「ホワイト・クリスマス」(1942年)、「星にスイング」(1944年)、「黄金の雨」(1936年)、「僕は気ままに」(1944年)の4曲がグラミー賞の殿堂入りを果たしている。1962年、グラミー賞の生涯功労賞(Grammy Lifetime Achievement Award)を受賞。同賞の最初の受賞者である。TV、映画にも数多く出演し、1953年にはアカデミー賞も受賞している。オスカー受賞曲は4曲。「スイート・レイラニ」(1937年、ワイキキの結婚)、「ホワイト・クリスマス」(スイング・ホテル)、「星にスイング」(我が道を往く)、「冷たき宵に」(1951年、花婿来たる)。1977年スペイン・マドリッドにあるゴルフ場にて、プロゴルファーのマヌエル・ピエロらとコースを回った直後に心臓麻痺により倒れ、近くの病院で死去。
Bing Crosby, Mel Torme and his Mel-Tones ‎– DAY BY DAY ‎– Sammy Cahn

Day by day, I wake up for you, I do
And I rise to who knows who
Well if I can say, some other day

Day by day, I reach out to you I do
And I pretend, there's something to it
And if I can say, I've had better days

Day by day, I resort to you, I do
And I wash up after you're through
If I can say, that's okay

You're in my head again
You're in my bed again
You're in my mirror again

And if you don't mind me
I don't mind you

Day by day, I reflect on you, I do
I reflect on you, I do

黒人ジャズ歌手の歌を聴き、盗み取ることで歌唱を磨いていったビング・クロスビーに訪れた好機は、1931年のこと。視点を日本に向けると、昭和6年、コロムビア商標を英国コロムビアから譲り受けた日本コロムビアは、すべての国産レコードのマークを現在の音符のコロムビア・マークに統一。東洋一のコロムビア・マークのネオン塔を川崎工場屋上に完成させた頃。舞踊や教材として蓄音器は普及していったが、マイクロフォンを使って電気録音されたポピュラーソング・歌謡曲のレコードが人気を得始めていた。わが国のラジオ放送は1925(大正14)年、東京と大阪で始まりました。続いて名古屋でも始まり、放送開始以来わずか1年半で、聴取者数30万という爆発的な普及をみました。昭和3年11月10日の昭和天皇即位式のラジオ放送計画を機に、新規加入者数に応じて取扱者に仲介手数料のほかに奨励金を払うことで加入者増大を図っていますが、1931(昭和6)年の岡山・小倉放送局の開局、受信機の低価格化と品質の向上、さらに9月の満州事変の勃発で戦況や国内状況の迅速な情報取得が必要となったことから、同年から加入者が急増しました。また、戦時下にあって、政府は、国防強化の面からラジオ放送を聴取することを奨励し、一層ラジオの普及に拍車がかかりました。閑話休題。この年、28歳になったクロスビーはCBSラジオ放送で、自分の名前が冠に付いた15分番組『ビング・クロスビー・ショー』を持つチャンスを掴む。毎週放送される、その甘い歌声はたちまちラジオを通してアメリカ中に広がり、彼は一躍アイドル的存在となってゆく。クロスビーの歌唱は、テクニシャン・タイプではなく、持って生まれた好ましい声質を上手に使って、〝好ましい気分・雰囲気〟を漂わせる高等技術に、その魅力的に聴かせる本質があると考えています。加えて、それこそ〝古きよき時代のアメリカ〟を思い起こさせる声質と同時に彼は、音楽史上においていち早くマイクロフォンを用いることで、新しい時代の歌い方を確立してしまう。
  • Record Karte
  • 1948年9月発売。
  • 【SP盤】GB BRUNSWICK 03731 BING CROSB…