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ビングの歌が喚起する〝国民的気分〟 ― 私はクリスマスの時節になると必ず思い出す映画がいくつかありますが、そこで唄われるビング・クロスビーのソフトだけれど張りのある歌声を思い出します。これを聴くと、外は寒くても暖房のきいた室内で、くつろいでいるような気分になります。1954年の映画『ホワイト・クリスマス』(White Christmas)は、テクニカラーによるミュージカル映画で、クロスビーとダニー・ケイが主演し、主題歌「ホワイト・クリスマス」をはじめアーヴィング・バーリン(Irving Berlin)作品の歌がフィーチャーされた。そもそもは1942年に初演されたミュージカル映画、『スイング・ホテル』(Holiday Inn)の挿入歌だったものです。以降、約80年間に渡って〝音楽史上最大のヒット曲〟として世界中で愛され続けている。〝ビング・クロスビーのホワイト・クリスマス〟は今もありとあらゆる場所で流れており、ありとあらゆるアーティストとソングライターが〝ビング・クロスビー〟よりもいいものを作り出そうと頑張ってきた歴史に残る大ヒット・シングルとなった。現在までの総売り上げ枚数は5,000万枚にも及んでいる。作詞者はロシア系のアメリカ人、バーリン。彼は、クリスマスに雪が降ることはほとんどないアリゾナで、燦々と陽が降り注ぐプールでくつろいでいるときに、「ホワイト・クリスマス」を書きました。さらに驚くべきことに、この曲を作ったのはユダヤ人のウェイター兼歌手、つまりキリスト教の行事であるクリスマスを祝う習慣などない人物だった。この曲の冒頭はこんな風に歌われている。〝I’m dreaming of a white Christmas, just like the ones we used to know…(夢見ているのは雪に包まれたクリスマス、みんなが覚えているクリスマス…)〟クリスマス用の飾りを付けられたモミの木、その他のクリスマス用の飾りは真っ白な雪に映えますね。そんな景色を思い浮かべると、華やいだ気持ちになります。そして、その甘美な調べを毎年、初めて耳にする度に、人はこの世が平穏であることを実感するのでしょう。けっして派手ではないけれども、ゆったりと心安らぐ、いかにもピューリタンたちが築いた国らしいシンプルで好ましい生活風景ではないでしょうか。さて、耳慣れの要素もあるのは拒みませんが、〝曲の良さ〟だけで〝好感情〟が生まれたわけでもないと、長年多彩な歌手を聴いてくると、同曲を様々に聴くに連れて、歌唱テクニックや声質、そしてアレンジの仕方などが要因となって重なり合った結果だと気がついてきます。そうなるとクロスビーの歌が魅力的に聴こえる理由の大半が、彼のまろやかで穏やかな声質に負っていることを改めて思い知るのです。クロスビーはアメリカのマルチエンターテイナーのひとりですが、マイクロフォンの特徴を生かしたジャズ・ヴォーカルを確立した存在です。その功労が松田聖子ブームにまで繋がると断じても、突飛な考えではないでしょう。→コンディション、詳細を確認する
ビング・クロスビー ― (Bing Crosby, 1903年5月3日〜1977年10月14日)は、20世紀最大のポピュラー・シンガー。サッチモ ― ルイ・アームストロングと共にジャズ・ヴォーカル確率の功労者。ある統計によれば、生涯に2,700曲を超える録音を行い、売れたレコードは2億数千万枚に上るという。クルーニングと呼ばれる彼の唱法は、フランク・シナトラをはじめ多くの歌手に影響を与えた。1903年ワシントン州タコマ生まれ。法律家を目指したがジャズに熱中、ミルドレッド・ベイリーの兄アル・リンカー(Al Rinker, 1907年12月20日~1982年6月11日)とのデュオがポール・ホワイトマン(Paul Whiteman, 1890年3月28日~1967年12月29日)に認められ、1926年末にホワイトマンがスカウトしたピアニスト兼ヴォーカリストのハリー・バリス(Harry Barris, 1905年11月24日~1962年12月13日)が加わりリズム・ボーイズを結成、ヴォーカル・トリオとして本格的な活動に入る。1927年「Victor Records」から「ミシシッピー・マッド(Mississippi Mud, ミシシッピーの泥)」をリリース。後に世界的な大成功を収める〝ビング・クロスビー〟にとって初のレコーディングで、ホワイトマンのバンドも録音に参加。同曲は映画「キング・オブ・ジャズ(1930年、King Of Jazz)」でも挿入曲として使用され、メンバーも映画出演しています。1931年5月からはソロとして次々にヒットを飛ばし、一躍大人気スターとなった。以後、ミリオン・セラー22枚。歌手としては全米No.1ヒットが41曲。ザ・ビートルズですら20曲なので、恐らく歴代最多も記録を持っている。「ホワイト・クリスマス」、「星にスイング」、「黄金の雨」(1936年)、「僕は気ままに」(1944年)の4曲がグラミー賞の殿堂入りを果たしている。1962年、グラミー賞の生涯功労賞(Grammy Lifetime Achievement Award)を受賞。同賞の最初の受賞者である。TV、映画にも数多く出演し、1953年にはアカデミー賞も受賞している。オスカー受賞曲は4曲。「スイート・レイラニ」(1937年、ワイキキの結婚)、「ホワイト・クリスマス」(1942年、スイング・ホテル)、「星にスイング」(1944年、我が道を往く)、「冷たき宵に」(1951年、花婿来たる)。1977年スペイン・マドリッドにあるゴルフ場にて、プロゴルファーのマヌエル・ピエロらとコースを回った直後に心臓麻痺により倒れ、近くの病院で死去。
Bing Crosby ‎– AH! SWEET MYSTERY OF LIFE ‎– Rida Johnson Young
  1. Ah! Sweet mystery of life, at last I've found thee,
    Ah! I know at last the secret of it all;
    All the longing, seeking, striving, waiting, yearning,
    The burning hopes, the joy and idle tears that fall!
  2. For 'tis love, and love alone, the world is seeking;
    And 'tis love, and love alone, that can repay!
    'Tis the answer, 'tis the end and all of living,
    For it is love alone that rules for aye!
  3. For 'tis love, and love alone, the world is seeking;
    For 'tis love, and love alone, that can repay!
    'Tis the answer, 'tis the end and all of living,
    For it is love alone that rules for aye!
黒人ジャズ歌手の歌を聴き、盗み取ることで歌唱を磨いていったビング・クロスビーに訪れた好機は、1931年のこと。視点を日本に向けると、昭和6年、コロムビア商標を英国コロムビアから譲り受けた日本コロムビアは、すべての国産レコードのマークを現在の音符のコロムビア・マークに統一。東洋一のコロムビア・マークのネオン塔を川崎工場屋上に完成させた頃。舞踊や教材として蓄音器は普及していったが、マイクロフォンを使って電気録音されたポピュラーソング・歌謡曲のレコードが人気を得始めていた。わが国のラジオ放送は1925(大正14)年、東京と大阪で始まりました。続いて名古屋でも始まり、放送開始以来わずか1年半で、聴取者数30万という爆発的な普及をみました。昭和3年11月10日の昭和天皇即位式のラジオ放送計画を機に、新規加入者数に応じて取扱者に仲介手数料のほかに奨励金を払うことで加入者増大を図っていますが、1931(昭和6)年の岡山・小倉放送局の開局、受信機の低価格化と品質の向上、さらに9月の満州事変の勃発で戦況や国内状況の迅速な情報取得が必要となったことから、同年から加入者が急増しました。また、戦時下にあって、政府は、国防強化の面からラジオ放送を聴取することを奨励し、一層ラジオの普及に拍車がかかりました。閑話休題。この年、28歳になったクロスビーはCBSラジオ放送で、自分の名前が冠に付いた15分番組『ビング・クロスビー・ショー』を持つチャンスを掴む。毎週放送される、その甘い歌声はたちまちラジオを通してアメリカ中に広がり、彼は一躍アイドル的存在となってゆく。クロスビーの歌唱は、テクニシャン・タイプではなく、持って生まれた好ましい声質を上手に使って、〝好ましい気分・雰囲気〟を漂わせる高等技術に、その魅力的に聴かせる本質があると考えています。加えて、それこそ〝古きよき時代のアメリカ〟を思い起こさせる声質と同時に彼は、音楽史上においていち早くマイクロフォンを用いることで、新しい時代の歌い方を確立してしまう。
また、彼はラジオと共に普及し始めたマイクロフォンの増幅機能を活かして、声を張り上げず滑らかに発声する歌唱法〝クルーナー・スタイル〟を最初に確立した歌手でもある。〝クルーナー・スタイル〟とは、マイクロフォンとスピーカーを介することで発声の制約が生じることを逆手にとって編み出された歌唱法だ。オペラなどと同様に肉声で大声を力強く出さなければならない歌唱法を大きく革新したもので、そのスマートで洗練された歌い方は、1930年代以降のポピュラーソングの曲作りにも大きな影響を与えたと言われている。「ホワイト・クリスマス」が初めて電波に乗ったのは、1941年のクリスマス・イブのこと。クロスビーのラジオ番組の中で放送されたのが最初だった。それは、ハワイの真珠湾が日本の奇襲攻撃を受けてからほんの数週間という時期だった。おそらくそれが理由で、「ホワイト・クリスマス」はアメリカ国外にいるアメリカ軍兵士にとって非常に大切な曲になったのだろう。この曲は兵士たちや彼らが祖国に残してきた人たちの心に語りかけ、もっと安全で平穏だった時代のことを思い出させてくれたのである。ラジオ普及が進んだ時代を背景に、彼は番組を媒体として人気を得た〝新時代のスター〟だった。
AH! SWEET MYSTERY OF LIFE ― このヴィクター・ハーバートの最高傑作が出来たきっかけは、オペラ界の大興行主オスカー・ハマースタイン(二世の祖父)が赤字を抱えていたため、商業的なミュージカルへの進出を図ったことにある。ハーバートの死後に歌詞がつけられてヒットした「Indian Summer」のような例もあるが、ハーバートの歌曲としては最も知られた曲で、1910年にオペレッタ「Naughty Marietta」(浮かれ姫君)のための曲として作曲された。そうした背景もあって、オペラ調で唱われることや、ジャズ・スタイルで唄われる。1935年全米ヒット・チャート年間第19位にネルソン・エディ盤がランキングしている。この年の第1位はフレッド・アステアの「チーク・トゥー・チーク」。ビング・クロスビーは「聖夜(きよしこの夜, Silent Night, Holy Night)」が第5位に、ヴィクター・ヤングとの「夕陽に赤い帆(Red Sails In The Sunset)」が第8位に、ジョージ・ストールとの「It's Easy To Remember」が第27位に入っている。
  • Record Karte
  • 初録音。1935年発売。1935年全米ヒット・チャート年間第19位にランキングしている曲。
  • 【SP盤】GB BRUNSWICK 02761 BING CROSB…