FR VSM FALP381-2 フルトヴェングラー ベートーベン・交響曲9番「合唱付き」
通販レコード→仏ラージドッグ銀文字・初期フラット盤

FR VSM FALP381-2 フルトヴェングラー ベートーベン・交響曲9番「合唱付き」

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商品名FR VSM FALP381-2 フルトヴェングラー ベートーベン・交響曲9番「合唱付き」

《“バイロイトの第九”は、演奏の記録ではなく、記録のための演奏でもなかった。》 世界一有名なバイロイトの第九です。宇宙のずっと遠くへ放たれた観測衛星ヴォイジャーに載せられたディスクに人類の音楽芸術の最高の演奏として選ばれた録音。1951年7月29日、バイロイト祝祭劇場でのライヴ録音。通称「バイロイトの第九」この録音に関しては賛否ありますが、個人的には大好きな演奏です。フルトヴェングラーが振ったから…、大戦後初のバイロイト音楽祭だから…、いろいろを考えさせられる演奏ですが、どうであれ芸術ってこういう事を言うんではないでしょうか?
まるで、夏空の花火の様 ― 大輪の花を咲かせて一瞬にして消えてしまう ― この時代の、この演奏者の、この会場がそういう素晴らしい演奏を花開かせ一瞬にして消える。これが、この第九の素晴らしだと考え至りつつあります。夏空の花火が大輪の花を咲かせて、一瞬にして消えてしまう。聴き手も息を詰めて、そのタイミングを見つめている。バイロイトの第九はそういうものに思う。リハーサルを含めて三回の録音が残っているというから、それでも崩壊寸前のクライマックスを選んだのは、ライヴの緊迫を際立たせる演出だったのではないだろうか。
先輩格のニキッシュから習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったフルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。全く機械的ではない指揮振りからも推測されるように、楽曲のテンポの緩急が他の指揮者に比べて非常に多いと感じます。しかし移り変わりがスムーズなため我々聴き手は否応なくその音楽の波に揺さぶられてしまうのである。フルトヴェングラーはブラームスを評して「非常に客観的な音楽家」といい、「音楽における客観とは、音楽と精神、精神と音楽が結び付いてひとつになった時に起こるのである」といっています。この偉大な指揮者はブラームスの音楽は彼の哲学そのものであると喝破したのです。それは、そのままベートーヴェンにも当てはまり。それがドイツの交響曲に対する彼の表現方法なのだろう。フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とバレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。
録音こそ誰もが知っている1951年のバイロイト音楽祭の前夜祭でのライヴですが、発売されるまで何年も後です。本来はカラヤン指揮のワルキューレのライヴ録音プロジェクトでマイクセッティングのテストにテープを回していたものでした。それが結果、地球の宝になったのは、発売予定だったカラヤン指揮のワルキューレが第3幕だけの発売で終わったことで実現したものです。レコードは最初、演奏後の拍手もそのままに発売。擬似ステレオ盤が発売された時には最後の拍手はなかった。その後、日本での発売では《足音付き》のコピーが踊った。フルトヴェングラーが指揮台に立つ時の音だと言われた。が、演奏前の挨拶の後の音であるらしい。録音セッションは正式に行われたものでなかったし、実際本番の録音でなく、観客を入れてのリハーサルの演奏も使われている。その音は彫りが深く、各楽器の詳細な音の動きも聞き取れ、独唱は輪郭のしっかりした明瞭さで合唱も歪み感を感じません。レコード発売を目的に録音されるために演奏されたものだったらば、その時点で整音がされていたでしょう。スタジオで録音された演奏で有名なものに同じ英EMIからリリースされている晩年のトリスタンとイゾルデ が有りますが、録音を目的に行われた演奏であるから、演奏の記録ではなく、記録のための演奏だと思いますが、このバイロイト盤は違う。“バイロイトの第九”は、演奏の記録ではなく、記録のための演奏でもなかった。フルトヴェングラーは《バイロイトの第九》の録音を聞くことはなかった。マイクが立っていたことはわかっていただろう。翌日以降に行われる憎々しいあいつのためだと。フルトヴェングラーは演奏後、カラヤンと顔を合わせることになると嫌だからとさっさとバイロイトを後にしています。だから録音は、演奏の記録以上のものにはなり得ないのである。そのことは恐らく、フルトヴェングラー自身が一番良く分かっていたではなかろうか。しかし、万全のレコーディングが準備されていたとしてもカラヤンのシベリウスのような物事も起こるし、このレコードでもリハーサルを録音したもので補っている部分がどういう判断でなされたのはレッグに尋ねる以外にないでしょう。
でも演奏家の芸術作品は、記録以上のもので後世に伝えられることは絶対にないのです。録音は貧しい音でも、単なる記録に過ぎないものですら、多くの人々を感動させることの出来るフルトヴェングラーという芸術家は、真に偉大な巨人であろうと思います。であるから、この録音にも無限の価値があるのです。鶴屋で行った鑑賞会で第一楽章が終わったあとで、参加者から感嘆のため息が漏れた。みんなが息を詰めて聞き入っていたのだが、どんな人でも感動させる力がこの演奏にはある。編集の違いがあることが長年取り沙汰され、後年、当日のライブ音源がバイロイト音楽祭のライブラリから発売されるに至って、本盤はリハーサルでの録音がほとんどだと判明した。それで初版では最後に拍手がないのが納得できる。しかし、それなら無難なテイクを使うだろうが、クライマックスは崩壊寸前になっている。そこが歴史的演奏会のドキュメンタリーだ。名演、名録音ではないけど、聴きこむほどに感じられて来る。これは大名盤だ。
録音は、演奏の記録以上のものにはなり得ないのである。でも演奏家の芸術作品は、記録以上のもので後世に伝えられることは絶対にないのです。フルトヴェングラーは「音楽における客観とは、音楽と精神、精神と音楽が結び付いてひとつになった時に起こるのである」といっています。それ故に、崩壊寸前のクライマックスを選んだのは、ライヴの緊迫を際立たせる演出だったのではないだろうか。仏製松明カバー、初期フラット盤。
FR VSM FALP381-2 フルトヴェングラー ベートーベン・…
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