34-20497
商品番号 34-20497

通販レコード→仏フレッシュ黒文字盤
不滅のアレグレット ― この楽章でフルトヴェングラーは、音楽の内容的意味を探っている。レコードでは、ちょっと類のないことだ。抒情的な主要主題に続く、第1、第2、第3変奏の高揚感はフルトヴェングラーの他の演奏のみならず全ての演奏の頂点に位置するもので、特に第2変奏、第3変奏の深みと厚み、テンポの絶妙さは神秘的で神業というより他はない。チェロのレガートが美しい。このフレージングは、まさしく心に染みるものがあり、その密度の高さは、直ちに感動を呼び起こす。1943年演奏と比べて流れ重視のスタイル。彼のアレグレットは巨大な波のように広がってみごとな形を作り、ゆっくりとしたクレッシェンドは展開する旋律と完全にマッチしている。そしてオーケストラは傑れて美しい演奏を以って、フルトヴェングラーの霊感に答えるのだ。「第7はある意味では最もフルトヴェングラー向きの作品ではないだろうか。たとえばフィナーレだが、この踏み外し寸前の情熱、そのアッチェレランド効果の凄まじさ、オーケストラの生々しい鳴らし方はドラマチックな解釈の最高峰で、かのクレンペラーと両極を成し、立派さにおいてはクレンペラーを、音のドラマにおいてはフルトヴェングラーを採るべきであろう。 第2楽章はことによるとクレンペラーを凌ぐかもしれない。心の通いきったヴィオラ、チェロはこれこそ本当の精神の音で、曲が盛上るにつれて感動の波が高まり、クライマックスにおける昇華された涙の表現はフルトヴェングラーの独壇場である。 その他、第1楽章のものものしい序奏部、スケルツォの前進してやまない運動性も抜群で、緩急自在であり、とくに速い部分のスピード感は圧倒的だ。これに対し、中間部では思い切ってテンポを落とし、ウィンナ・ホルンのフォルテピアノやその後の酔いしれたリタルダンドも強い印象を与える。」と音楽評論家の宇野功芳氏は解説する。
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フルトヴェングラーの《第7》が発売された時の音楽ファンの興奮は大変なものだった。録音も当時のHi-Fiであり、あたかも電気に打たれたようなショックを受けたのだった。冒頭のすさまじい音、これこそ電気に触れるようなショックである。指揮棒をぶるぶる震わせて特別な合図をせず、楽員が「今だ」と感じ取って弾き始める。そのために貯められたエネルギーが一時に爆発し、各自の感じ取り方に微妙な差があるのでアインザッツがずれ、これらの要素が重なり合って、こんなに見事な音が生まれたのだ。冒頭のポコ・ソステヌートは指揮者の配慮でモルト・ソステヌートに近くなっており、最初の和音群は音価いっぱいに鳴らされ、時に落雷のような激しささえある。和音をたっぷり共鳴させているので、オーボエのソロはまるで、その和音が引き起こした結果として極自然に沸き起こってくる。アレグロのリズムは生き生きと力強く操られ、それがまた音楽の前進駆動を抑えがたく表出する。序奏部全体が素晴らしい高揚感にあふれているのを誰しも身にしみて感じることだろう。主部はかなりテンポが速く、流れに張りがあり、オーケストラの気迫に満ちた鳴らし方が見事だ。絶えず魂が燃えており、クレッシェンドが内部から湧き上がってくる衝動のように行われる。戦後のスタジオ録音はフルトヴェングラーの録音の中では音が良い。 ― 一概にフルトヴェングラーの音が悪いというのは、演奏された響きに対して録音の響きが浅いのだ。 ― フルトヴェングラーの EMI 録音のなかではLP盤での音質は抱えている問題が知られている。当盤のオリジナル録音はラッカー盤にカッティングしたものではなく、SPの盤面に合わせた4分ほどのテイクをテープ録音したものだった。これを編集してSP用の金属原盤が作られた。テープ録音でしたが市場的にSPレコードが標準だったためSP盤プレス用の原盤が完成した段階でオリジナルテープは処分されている。磁気録音テープは貴重で次のセッションに使われたと思われる。発売されるまでは大ヒットする録音かは、わからないから仕方ない。その後LPの発売に伴い、SP用の金属原盤からLP用のマスターが1952年に作られた。こうした反省が1960年代後半になって、ようやく商品として認められたLPレコード時代になって英DECCAが、セッションの録音エンジニアやプロデューサーが原盤のカッティングまで責任を持つ動きになったのでしょう。フルトヴェングラーの録音はSP盤で聴く音が一番素晴らしい圧倒的な力感を持った素晴らしい演奏である。生き物のように踊るリズム、奔流のような音の流れ、すべてのものを焼きつくすかのような精神的燃焼、とにかくこれほどディオニソス的な面を強烈に打ち出した演奏というのは、他にない。音質は決して良いとはいえないが充実した内容が、それを十分補っている。LP初版があるのは独エレクトローラのWALPや仏パテのFALPくらいで、本家英EMIからALPでの販売がありませんでした。
第2次世界大戦時中もドイツに残り、ひとり指揮をし続けたという大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1986〜1954年)。べートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章をさして、その圧倒的な音の説得力に大作曲家ワーグナーが敬愛して「不滅のアレグレット」と称した。「不滅のアレグレット」である第2楽章は歩くようなゆっくりとした揺るぎのないテンポで、一分の隙も無く静かに歩を進める。まるで葬送行進曲のようだ。そこへ、木管楽器クラリネットの調べが天からの声のように聴こえてくる。軽さがまったくみられない音楽に心が揺さぶられるようだ。一転して最後の第4楽章は、まさに疾風怒濤。凄まじいばかりの嵐が風を運び、波が激しく打ち寄せるような圧巻の演奏のうちにフィナーレを迎える。戦時中の1943年10月演奏会場がベルリン・フィルの当時の本拠地だった旧ベルリン・フィルハーモニーでのものだった。 ― しかし、その後、1944年1月のベルリン大空襲の際、ホールは炎上し焼け落ちてしまった。 ― この43年の第7番は 76cm/s で磁気テープ録音された素晴らしい「不滅のアレグレット」だ。ドイツが敗戦し第2次世界大戦は終結。戦後、戦犯の疑いをかけられたフルトヴェングラーが非ナチ化裁判の末、晴れて無罪放免。1947年、手兵ベルリンフィルとともに再び活動を開始し、その3年後の1950年1月にウィーン・フィルと挑んだベートーヴェンの交響曲第7番のスタジオ・セッション録音です。ここでは弦楽器の美しいウィーン・フィルの特質が活き、十分に歌わせ柔らかく艶やかな音色が音楽に寄り添って、第1楽章から明るい響きでウィーン・フィルの魅力一杯。 序奏、響きは柔らかい。木管、ホルンと穏やかに歌いこまれる。ヴァイオリンの静謐な弱音。勢いと音量を増し、ヴァイオリンとコントラバスの高音と低音が明瞭に奏でられる。コントラバスからヴァイオリンへの低音から高音への推移も明瞭。 第1主題、「無からの生成」の間とエレガントな「生成」のすばらしさ。コントラバスのソフトな太さからヴァイオリンの高貴な高音まで、美しいサウンドが過不足なく奏でられてくる。 第1、第2ヴァイオリンの掛合いの鮮明さ。第2楽章のチェロのレガートが美しい。1943年演奏と比べて流れを重視した音楽運び。チェロ、コントラバス共に明晰、明瞭。チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの音色も素晴らしい。チェロの音色が圧巻。生々しく艶がある。 第1、第2ヴァイオリン、コントラバスの高音と低音のコントラストのバランス。 第2部「不滅のアレグレット」は、木管群とホルンがソフトにまろやかに歌われる。第3楽章での緩やかに、時にシャープに刻まれるリズム。自然な流れの良さ。トリオ、通奏のヴァイオリンが清々しい。ソフトに堂々と構築されるフォルテシモ。終楽章は速いテンポでも各楽器が瑞々しく細部に至るまで鳴りきっている。 ダイナミックレンジ、ワイドレンジは自然な範囲での最大限。ソフトで厚みのある、そして、ここぞというところで唸りと、うねりを聴かせる低弦。浮揚する伸びのある高域。音色と分離が明瞭で豊かな音。演奏を堪能できフルトヴェングラーが1音1音に込めた意図が余すところなく再現されていく。
先輩格のアルトゥール・ニキッシュ(Nikisch Artúr)から習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったフルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。戦前、ベルリン・フィルハーモニーやウィーン・フィルハーモニーをヨーロッパの主要都市で演奏させたのは、ナチスの政策の悪いイメージをカモフラージュするためであった。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任しナチス政権が始まった。25歳のヘルベルト・フォン・カラヤンは、この年の4月8日、オーストリアのザルツブルクでナチスに入党した。カラヤンはそれからすぐにドイツのケルンにおもむき、同年5月1日、党員番号3430914としてケルン―アーヘン大管区であらためて入党した。オットー・クレンペラー、フリッツ・ブッシュ、アドルフ・ブッシュ、アルトゥール・シュナーベル、ブロニスラフ・フーベルマン、 マックス・ラインハルトなどが、次つぎと亡命し、ついにゲヴァントハウス管弦楽団の主席指揮者であったブルーノ・ワルターがドイツを去ることになった。世界はフルトヴェングラーがどのような態度をとるか興味ぶかく見守っていた。アルトゥーロ・トスカニーニやトーマス・マンなどは、フルトヴェングラーはドイツに留まることによってナチスに協力し、それを積極的に支持したと非難した。しかし、フルトヴェングラーは1928年に、「音楽のなかにナショナリズムを持ち込もうとする試みが今日いたるところに見られるが、そのような試みは衰微しなければならない。」と厳しく警鐘を鳴らしていた。1933年7月、フルトヴェングラーはプロイセン首相のゲーリングから枢密顧問官の称号を与えられた。この称号は、総理大臣(ゲーリング)、国務大臣、総理が任命する50名の高官、学者、芸術家によって構成された。枢密顧問官は名誉職であり、たとえば鉄道が無料となるなどの特権があった。ほかに総理から必要な費用の支払を受けることができ、この費用の受け取りを拒否できないとあった。
フルトヴェングラーはこの称号をなにかで利用することはなかったし、1938年11月の「水晶の夜」が起こってからは、この称号をけっして使うことはなかった。しかしフルトヴェングラーをナチスの一員として非難する人たちは、この称号を受けたことを立派な証拠とみなしていた。フルトヴェングラーはドイツにおいて高額所得者であったが、仮にイギリス、アメリカに移住しても金銭的に不自由することはなかったであろう。それどころか反対に、より豊かになったことは間違いない。フルトヴェングラーがなぜ、ナチスと妥協したりせずに外国に移住しなかったのだろうか。フルトヴェングラーのきわめて、おそらくは過渡に発達した、使命感だった。つまり、彼がひきつづきドイツに留まり音楽を創造していくことが、彼と同じ気持ちを懐いているすべての『真正なる』ドイツ人に慰めを与えるのだという確信だった。フルトヴェングラーはたしかに国外にいるよりは国内にいることによって、迫害された人たちをより多く助けることができたのだった。 … トスカニーニはムッソリーニにどれほどの打撃を与えたか。マンはヒトラーにどれほどの打撃を与えたか。やはりドイツの伝統を維持していたウィルヘルム・ケンプと対比してユーディ・メニューインは推察した。「もしも現代においてウィルヘルム・ケンプが、どこにいようとも、ドイツの伝統を守ることができるのであれば、フルトヴェングラーはかくも深く過去に根ざしていたので、彼は国外移住が独自性を危険にさらすこと、山や平原と同様に国にも属している種族や国民の魂が存在すること、彼の音楽的ヴィジョンがドイツにおいてドイツの公衆を前にしたドイツのオーケストラにより、最良の状態で存在が可能となることを信じていたのかもしれない」フルトヴェングラーがベルリン・フィル、つまりドイツのオーケストラの演奏を維持し続けることに大義があった。1947年5月1日、ついに非ナチ化委員会はフルトヴェングラーに対して全面無罪を宣告した。フルトヴェングラーが戦後、2年ぶりにベルリンに復帰した演奏会は1947年5月25日、フルトヴェングラーは満員の聴衆の興奮と熱狂のるつぼと化したティタニア・パラスト館で、ベルリン・フィルハーモニーとオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏した。この復帰コンサートのチケットはまたたく間に完売となった。ベルリンの市民は、空襲の恐怖の中でも、彼の指揮するベルリン・フィルの演奏会が唯一の心の慰めであり支えであったことを忘れていなかったのである。戦後の混乱した経済の中で貨幣なみに流通していたコーヒーやタバコ、靴、陶器などを窓口に差し出してチケットをもとめようとするものも多かった、という。コンサートは同じプログラム ― エグモント序曲、「田園」「運命」の3曲 ― で5月25、26、27、29日の4日間行なわれた。62歳のフルトヴェングラーはけっして老いていなかった。しかし重ねた年輪はベートーヴェンの悲劇的な力をこれまで以上に刻印を深くし、聴衆との再会はフルトヴェングラーが心から願った共同体の理念をふたたび呼び覚ました。
フルトヴェングラーは自身の著書「音と言葉」のなかで、ベートーヴェンの音楽についてこのように語っています。『ベートーヴェンは古典形式の作曲家ですが、恐るべき内容の緊迫が形式的な構造の厳しさを要求しています。その生命にあふれた内心の経過が、もし演奏家によって、その演奏の度ごとに新しく体験され、情感によって感動されなかったならば、そこに杓子定規的な「演奏ずれ」のした印象が出てきて「弾き疲れ」のしたものみたいになります。形式そのものが最も重要であるかのような印象を与え、ベートーヴェンはただの「古典の作曲家」になってしまいます。』その思いを伝えようとしている。伝え方がフルトヴェングラーは演奏会場の聴衆であり、ラジオ放送の向こうにある聴き手や、レコードを通して聴かせることを念頭に置いたカラヤンとの違いでしょう。その音楽を探求するためには、ナチスドイツから自身の音楽を実体化させるに必要な楽団を守ることに全力を取られた。そういう遠回りの中でベートーヴェンだけが残った。やはりフルトヴェングラーに最も適しているのはベートーヴェンの音楽だと思います。カラヤンとは異世界感のシロモノで、抗わずに全身全霊を込めて暖かい弦楽器が歌心一杯に歌い上げた演奏で感動的である。フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とバレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。
オリジナルレコーディング78rpm。1950年1月25日、30日、31日(7番)、1947年11月25日(コリオラン序曲)、ムジークフェラインザール(7番)、ブラームスザール(コリオラン序曲)での録音。ウォルター・レッグのプロデュース。
FR VSM C051-03089 フルトヴェングラー ベートーヴェ…
FR VSM C051-03089 フルトヴェングラー ベートーヴェ…